kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

徒然なるままに・・・3

2020-03-21 | 陸上競技

思うことを。

 

日々いろいろなことを感じながら。それが世界にどのような影響を与えるわけでもなく。「今」の自分にとって何が大切なのか。何をしようとしているのか。そこだけを見つめながら生活をしている感じがある。

 

ネット上で「100日後に死ぬワニ」に関しての話が出ている。イラストレーターの方が100日前から毎日1話ずつ更新していく。読んでいくと「何気ない毎日」が書いてある。アルバイトをしている。そこで気になっている異性がいてその人に対してアプローチをかけようとするが微妙な感じでできなくなる。それでアルバイトをやめる。また、友人と「行こうか」という声掛けで「ラーメン」を食べに行く。毎日1話ずつ4コマ漫画で「何気ない毎日」が描かれていく。4コマ目の下には「死まであと〇〇日」と書かれていてカウントダウンされていく。

 

本当に何気ない毎日。友人は「目標」を持ち始めてアルバイトをやめて正社員を目指す。映画を見て「来春公開」という宣伝があれば「楽しみだな」と感じる。最初のころに命を救った「ひよこ」が時間が経過して「ニワトリ」になっている。何気ない日々を過ごしている中で「何か」が少しずつ変わっていく。が、人はその「平凡な毎日」が「明日も続く」と感じている。いや、そこまで考えていないのかもしれない。なんとなく過ごしていたら一日が終わっているということのほうが多い。

 

たった4コマ。その中に「日常」が書かれている。そして100日目、ワニは命を落とす。直接的な表現はないが「デジャブ」のように「ひよこ」が歩いている。正義感が強く「もどかしさ」を感じながら生きている。そして突然迎える「死」。多くの示唆が含まれていると思う。

 

我々の周りには「そこにあるのが当たり前」と感じるものが多い。学校に行けば生徒がいて授業がある。放課後は特別なことではなく「練習」が始まる。それは「日常」であって普段考えれなければ「特別」なことではない。毎日は「平凡」の積み重ねでしかない。ドラマのように「盛り上がる場面」が毎日のように起きることなんて絶対にない。

 

3学期最後の日、ある生徒が「先生に来年も担任をして欲しい」と言った。全員が座っているときに。これは我々としては幸せなことなのかもしれない。全員がそう思っているとは思わないが一人でも「また来年も一緒に」と言葉にしてくれるのは嬉しい。

 

その時に私は「どうやろうね」と答えた。「来年度転勤してるかもしれんよ」「ひょっとしたら明日死んでるかもしれんよ」という投げかけをした。天邪鬼といわれるかもしれない。それでもその時は本当にそう思った。「来年度も私がその場にいる」というのは誰も保証してくれない。今まで「当たり前」と思っていたことは実は「特別」なのかもしれない。私が明日も生きている保証はどこにもないのだから。素直にそう思ってそれを伝えた。教員としてどうなのか・・・という話になるのかもしれないが。

 

私は「部活動」ができなくなっても生活のリズムを崩したくないと思ってこれまでと同じ時間帯に職場に行くようにしている。普段朝練をする時間は「清掃活動」をする。これまで感じなかったことを日々感じるようになる。今までやっていたことが「日常」であれば今やっていることが「特別」なのか。それも違う。生きている時間をどのように使うのかは人それぞれ。何も考えずに生きている人のほうが圧倒的に多い。それが「普通」だから。

 

ある日突然、「明日から部活動禁止」となった。これまで「当たり前」だったことができなくなる。「卒業式」を迎える。これは「3月1日に高校を卒業する」という明確な期日が示されている。だから前もってそこに向けての「準備」をする。悲しみもあるがある程度の「覚悟」がある。だから受け入れることができる。

 

私的な話。私が高校時代。「日韓交流」で韓国に試合にいった。大きな話ではなく「市」レベルの話。「行ってくるね」と挨拶をして数日後に戻ってきたら同じクラスの友人が亡くなっていた。突然すぎて受け入れることができなかった。彼が亡くなった時に私は何も知らずに試合に出場していた。その後も何も感じずに日本に戻ってきた。今の時代であれば電話等で連絡があるのかもしれない。当時はそんなものはなかった。帰ってきたらそこに「当たり前」はなかった。

 

阪神淡路大震災、東日本大震災。豪雨災害や土砂崩れ。それにより多くの人が命を失い、日常と思われていた生活が送れなくなった。そう考えると「あるのが当たり前」というものは存在しない。そこに関しては私たちは考えておかなければいけない。「余命〇年」と宣告される。そうなると「覚悟」ができるのかもしれない。本人も周囲も。しかし、「終わり」は突然やってくる。そのことを分かっておかなければいけない。

 

世の中に「あって当たり前」のものはない。「毎日」が本当は「特別」なのだと。でも、そのことには絶対に気づかない。「終わり」を迎えたときに初めて気づくものがある。それが「生きる」ということの辛さなんだと思っている。

 

まとまりはない。思うことをつらつら書いているだけ。私が死んだらこのblogは何となく「記録」として残っていくんだろうなと思う。いつ来るか分からない終わりに向けて・・・考えさせられます。

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3学期最後の日

2020-03-20 | 陸上競技

木曜日。この日は一応「登校日」となっていました。突然休業となりほとんど生徒と話をする機会がないまま終わり。これでこの学年の「活動」は終わりになってしまいます。

 

新型コロナへの対応で登校時間をずらして実施。生徒の話によると電車に乗っている人の大半はマスクをしていないということでした。マスク不足なのか。それとも「大丈夫だろう」という感覚なのか。わかりません。「大丈夫」であれば今のような「休業」にはなっていない気がします。そのあたりの「感覚の差」は大きいなと感じます。

 

体育館に集まって終業式はしませんでした。一応放送で「校長からのあいさつ」と卒業式の「答辞」のコメントが本人の声で流れました。本当は直接話が聞けるとよかったのではないかなと思います。その時の雰囲気、表情を感じ取りながら聞くと全く違う話になるのかなと。それでも「想いを感じ取る」時間にはなったかなと思います。

 

最後なので少しだけ話をしました。基本的に「節目」には話をするようにしています。何かあれば本気で怒る。ほめる部分があればしっかりと認める。何かをやるときにはお互いに精いっぱいやる。こういうスタンスで担任をしています。私のスタンスが生徒に伝わっているかどうかはわかりません。基本的に生徒に好かれようとは思っていません。嫌われるよりは好かれるほうがいいのかもしれませんが。「今」だけではない。そこに関しては譲れない部分です。

 

今回、気づいたことがあります。うちのクラスの生徒は「欠席」「遅刻」「早退」が7回以上ある生徒が一人もいません。これは「普通」なのかもしれませんが。ほかのクラスは何人かいました。うちのクラスは0。テストの平均点ではちょっと負けています(笑)。しかし、「学校に来る」という部分ではどこよりもきちんとしている。これは誇らしいなと。

 

「学校が楽しい」と言ってくれる生徒が多い。それだけでも「担任をした意味があるのかなと。距離感が近いのかもしれません。前は私自身も若く「ちょっと年の離れたお兄ちゃん」くらいの感じで生徒に思われていた部分があります。20代の時は「金P」と普通に呼ばれていました。今考えると恐ろしい話ですが。30代になったころからそのあたりはなくなりましたが。今は「お父さん」のような感じなのかもしれません。

 

年齢によって「関わり方」は明らかに変わってきています。今担任している生徒は息子と同じ年。この年代は「父親との距離」ができます。もちろん保護者とも少し距離を置く時期なのかもしれません。しかし、私の性格的なものもあるのかもしれませんが気軽に話しかけてきます。クラスの生徒だけかもしれませんが・・・。こういう距離感を保ちながら関わってきた1年間。

 

最後に何を話すかなと思いましたが、いつも通りほぼ雑談。「示唆に富んだ話」なんてことはありません。もちろん、それぞれ思うことは会って話しているのですが。すべてが伝わるとは思っていません。そこに大きな期待はしません。少しずつ「何か」が伝わっていけばいいなと考えています。

 

話が終わって「写真撮りたかった」と何人も言いに来ました。一人欠席だったので始業式の日にという返答をしておきました。クラス替えがあります。「今のままがいい」という生徒も何人かいました。1年間というのは自分たちで思うよりも意味があり、深い時間だったのだと思います。今のクラスで感じたことをほかのクラスでもきちんと伝えていってほしいなと。そういう部分がどれだけ「本当の力」となっているか。ここだと思います。

 

成長はしてくれたかなと思います。「親は無くとも子は育つ」という部分だと思います。私が「すべてやる」という気は最初からありませんでした。下準備をこちらがやって「生徒がやったように見せる」というのは好きではありません。失敗してもいい。そこから何かを学べるかどうか。重要なことだと思っています。

 

何度も書いていますが私の中では「クラスの生徒」と「選手」は特別です。いろいろな思いがあります。これだけはずっと変わらないだろうなと。

 

久々に生徒と話をしました。いろいろと話をしたかったですがそれはかなわず。長時間話をするのは避けるようにと言われていたので。やはり「生徒はいるから今の仕事の意味がある」と痛感しました。清掃活動をひたすらやっても生徒は育ちません。今自分が本当にやるべきことは何か。その部分を確認できる時間でした。1時間程度でしたが。

 

まとまりませんが・・・。記録しておきます・・・。良いクラスだったと思います。誇れます。

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心穏やかに

2020-03-19 | 陸上競技
少しイライラすることが減っている気がします。ひたすら清掃活動をしたり散歩をしたりする影響が多少なりともあるのかもしれません。元々「誰かの力になりたい」という気持ちが私自身を動かす感覚があります。生徒が不在なので自分のエネルギーをどこに使うのかというのを考えさせられます。

そんなタイミングで師匠から画像が送られてきました。



ここにある性格が当てはまる人は「心筋梗塞になりやすい」ということでした。笑えません。色々な意味で笑えません。

私的には「一つも当てはまらないのではないか?」と思っていたのですが120%ストライクという感じのようです。うーん。こういう性格の人は「ストレスを溜めやすい」とのこと。

イラッとすることが減っているので何とか保てているのかなという気はしています。が、よくよく考えてみると清掃活動中も「イライラ」することがあります。歩いていると至る所に「タバコの吸殻」と「タバコの空箱」が落ちています。いやいや、これくらい自分でゴミ箱に捨てればいいのにというは気持ちがあります。

歩きながら吸殻を拾う。そんな時に「なぜ捨てるのか」を考える。間違いなく邪魔になるというのはあると思います。「歩きタバコはやめよう」と言われていても多くの人がしているんだろうなと。吸い終わったらその辺りに落としていく。

自分は嗜好品で満足をしているかもしれない。タバコを吸うことが悪いとは思いません。人それぞれなので。我々がビールを飲むことと大差ないのではないかなと。副流煙云々はあるかもしれませんが、屋外で吸うなどの場合は大した影響はないのではないかと。

が、それを捨てるというのはどうなのか。空き缶が捨ててあったりコンビニで食べたものが捨ててあったりする。これってどうなのかな?と感じました。普段は歩かないのでそういう部分に気づきません。車で移動していたら見ないものです。

結局、「自分さえ良ければいい」という考えが根本にあるのかなと。タバコを吸わないので知らなかったのですがタバコには「フィルタ」みたいなものが付いています。他のものはひょっとしたら自然に還るのかもしれません。が、このフィルタの種類が幾つかあるようです。「綿」みたいなフィルタもあるのですがプラスチック?みたいなフィルタがあります。これは間違いなく自然に還らない。これは結局ゴミとして永遠と残り続ける。

これを考えたらきちんとゴミを捨てればいいだけなのになぜそれをしないのだろうか?という感情が湧いてくる。「少し」のことの積み重ね。タバコ1本捨てたところで大きなことにはならないという感覚はあると思います。が、それが何本もになるとどうなるのか。

環境破壊云々を正義感を振りかざして言うつもりはありません。我々が生活していること自体が環境破壊につながる部分があるので。しかし、「気をつければ出来ること」があるならやはりそれはやっていかなければいけないのではないか。そう考えています。だって「やろうと思えば誰にでも出来ること」だから。

ここの部分は自分の中に強くあります。こだわりというか。やろうと思えば出来ることをやらないのが一番嫌いです。練習に対しても同じ。だからねここに対してはかなりイラッとします。結局、イライラする事は減らない。それはどうなのか。

こういう性格なので扱いにくいタイプなんだろうなとは思います。自覚症状あり。挑戦されたら真っ向から戦いたくなる。そういうのも精神衛生上良くはないんだろうなと。

普段考えない事を時間があるので考えます。歩きながら景色を見ながら様々なことを考える。無駄に思い悩むこともありますが。それでもこれまでに経験していない時間なのかなと思います。

自分と向き合う貴重な時間なのかなと。心を穏やかに落ち着かせながら。今の自分にとってこういう時間が必要なのかなと。分かりませんが。

グダグダ書いています。はい、中身的にはまったくありません(笑)それでもなんとなく書いておきたいなと思ったので。元々このblog自体はこんな感じで私が感じたことを適当に書いているだけです。過度な期待は困ります(笑)
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徒然なるままに2

2020-03-18 | 陸上競技

なんとなく書いておきます。思った以上に時間がない。というか自分で時間を使いまくっているという感じがあるのですが。

 

前の記事にも書きましたが「清掃活動」をすることで毎日かなりの距離と歩数を歩くようになりました。練習があるときは比較的一カ所にとどまって見ているので運動量としては少ない。これはある意味健康に向かって進んでいるのかもしれません。毎日1万歩歩く。簡単なようですが結構時間がかかります。

 

今朝は「ひたすら歩いてみる」と決めて清掃活動をしないで歩き続けました。どうしてもゴミが気になるのはあるのですが。1時間でどれくらい歩けるのかというのを試してみようと。基本的に止まらず歩く。時間的に50分程度になってしまいましたが。この時間で5300歩程度。いや、1万歩歩こうと思ったら2時間は歩かないと行けないのか・・・。恐ろしい話です。普段の生活の中ではそれが難しい。

 

都市部の方が歩く歩数が多くなると思います。車での移動ではなく電車や地下鉄を利用して移動するので「強制的に歩く」ことになります。田舎では車がないと困る。それが運動不足を生み出している原因なのではないか。毎日2時間歩く時間を確保できるのか。これは本当に難しいと思います。今だからできることなのかもしれません。

 

月曜日に選手がSDをやりました。親切にその動画を送ってきてくれました。これを見ながら「どこを修正するのか」を考えたいなと。が、私が考えても意味がない。選手自身に分かるようにしたい。送ってもらった動画を「アプリ」でスローモーションで見ていく。感覚だけではなく「視覚的に理解させる」必要があるなと思いました。

 

で、動画を「コマ送り」して「スクリーンショット」で静止画にする。それを3歩目くらいまで行って送り返す。これだけで「視覚的理解」につながります。トップ選手の連続写真を見ることは勉強になりますが、見るだけでは「本当の意識」は分かりません。そこで私自身が「連続写真」を作ってそれを選手に送り返して説明をすることに。

 

絶対にもっと楽な方法があると思うのですがよく分からなかったのでひたすら「word」でトリミングしながら作成。これはなかなか労力を要します。1人の3歩目までの動きを連続写真にするのに1時間程度か。いや、これはやばい。そして最高に楽しい(笑)。一コマずつ抜き出していく中で「動き」饒辺かが分かります。この動きはもっとこうした方が良いなとか、これは良いなとか。

 

ひょっとしたらアプリで一気に連続写真を作って書き出して貼り付けることができるのかもしれません。しかし、これだと自分自身で「動きの変化」を見続けることができない。今やりたい動きがあってそれが練習をすることでどのように修正できているのか。その瞬間に対する本人と意識と実際の動きはどう関係しているのか。

 

時間があるというのは「やりたいことができる」ということです。こうやって「基本的な勉強」を自分自身ができることが最高に楽しい。

 

ysn先生から連絡がありました。「月間陸上の動画に映り込んでいましたよ」と(笑)。1月末に訪問させていただいたkytbn高校の「練習紹介」です。数ページに渡って特集がされていました。今回書いてある記事の内容は直接3人から聞くことができています。そしてよりマニアックな話も。

 

その話をysn先生が練習見学に来たときに延々と話をしていました。だから私が必死に動画を撮っている姿がそこにあることを知っている。「全国でkaneko先生が映っているのに気がついたのは一人だけですね」と言われていました。何の話か分からなくなりますが(笑)。

 

もう一度記事を見直しました。いや、楽しい。あのときに2日間が思い出されます。3月にこんな状態になるとは全く思えなかったですが。「考えてやる」という話がありましたが、結果強制的にそのような状態になりました。ある意味大きなことかもしれません。練習に対する理解なども含めてしっかりとこの時期が過ごせたらと思っています。

 

徒然なるままに、ひぐらしPCにむかひて、心にうつりゆく、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

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徒然なるままに

2020-03-17 | 陸上競技
更新できていませんでした。若干体調を崩していました。新型コロナではないと思います。単純に風邪を引いただけかなと。

日曜日、思うことがあって職場の周りの清掃活動を。ここ最近は毎日のように清掃活動をしています。2時間程度でしょうか。職場の周りだけではなくかなり離れたところまで行っています。




とりあえず毎日1万歩くらいは歩いているかなと。普通の散歩であればもっと歩くのだと思いますが清掃活動をしながら歩いているのでそこまで歩数は増えません。一箇所に留まって吸殻を拾うこともあるので。動き続けているのは間違いないのですが。

日曜日は更にグランドの周りの除草作業。ネットの外側にかなり草が生えているのでそれを2時間以上かけてきれいにしていきました。これは思った以上にダメージがありました。不安定な場所での除草。それも全て手作業です。抜いては一輪車に運ぶという流れを繰り返していたので思った以上に歩いていました。

普段やらないことをやる。それによりダメージが蓄積していたようです。辛い。

ある朝、清掃活動中に小銭入れを払いました。これまで朝練をしていた時間帯にも清掃活動をしています。私自身の生活リズムを変えたくないので。これまで通りに出勤してこれまで通りに活動する。そこを変えてしまうと結局ダラけてしまうのではないかなという気がしています。まー目の前に生徒がいないので我々がやるべき事はなくなっています。

先行き不透明な日々が続いています。色々な所で話をすると「土日が完全に休みだからこれに慣れてしまう」という内容になります。当然だと思います。生徒も同様。選手も同様。これが「働き方改革」と言われたらそうなのかもしれません。ひょっとするとこれを機に「高校スポーツ」はアウトソーシングするようになるのかもしれません。教員ではない他の誰かが指導するようになる。それならそれで良いのかもしれないなと感じてはいます。

「外部指導員」の導入。ここも以前から言われています。「専門性の高い人の指導を受ける」という表現をして「教員よりも専門的な指導を受けられる」みたいな感じで持ち上げられました。まーそれならそれで良いんじゃないかなという気はします。

頭を使って考えてもらいたい。自分が選手としてやっていたから指導ができる。そんな勘違いをしている人がこの世の中にどれだけいるのか。自分がやることとコーチングは全くの別物です。あえて書いていますが。

ある程度勉強しなければ現場での指導は不可能だと思っています。私自身、現役の頃にやっていた事はすでに陳腐化しています。恥ずかしくて今はできない。無駄に量を追ってやっていました。技術的なことも自分がやっていた時とは全く違います。そこの路線変更ができるかどうかは指導する中で大きな「分岐点」だと思っています。

世の中は「全国大会に出た」という肩書に弱い。そういう指導者がいたら間違いなく「すごい人だ」と思う。私がこれまで接してきて「素晴らしい方だな」という人達は実績云々ではなく「指導する視点」が優れている。そこが大事ではないか?「過去」に頼りながら生きていく生き方はしたくない。指導は「選手のため」でなければいけない。

まー、そんなことを考えながらやっています。歩きながら清掃活動をすると思っている以上に自分自身で考える時間が生まれます。向き合うというか。こうなったらお寺で坐禅を組むのもありなんじゃないかなと考えています。

アウトソーシングする。そこに負けないだけの自信はあります。「勉強している」という部分ではしっかりとやってきてます。経験論で物事を語るのだけは絶対にやりたくないなと。あとは過去の栄光をあれこれ主張するのも絶対嫌。そこだけは譲れないなと。

あー。まとまらず。訳の分からない内容ですね。

徒然なるままに...。
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書き続ける

2020-03-15 | 陸上競技
思うことを。

この時期にblogを書くというのは色々なリスクがあるなと感じてはいます。「練習をしている」というのは批判の対象となりやすい。屋外でやっているのでコロナの感染のリスクは低いと思います。色々なところで話を聞きます。「みんなが自主的に集まってきた」「そこなら偶然顧問がいた」「部活動ではない」というのがあるとかないとか。

集まって全員が同じ練習をしていたらそれは「部活動」とみなされる可能性が高いなと思っています。人数の問題ではなく「一律の練習をする」というのは「部活動」でしょうし。クラブチームだったらそれは良いのか?と言われると微妙です。そこに「差」があると周囲は捉え難いからです。正直、屋外の競技で「集まって練習をしてはいけない」というのはナンセンスだと思います。

が、屋外でやる種目だけ「活動していい」ということにはなり難いと思います。世の中というのはそんなモノです。室内種目もあるし、文化部もある。屋外で離れて身体を動かすのは良くて室内はダメだと言い出すと結局不満が大きくなる。こういう状況であれば「集まって同じ練習をする」ということに対しての批判が生まれやすい。「新型コロナの感染」とは別の問題がここに存在している気がします。

また、「自主練習」をする。これに対して「怪我をしたらどうするのか」という意見が出てくる。もっともな意見だと思います。「部活動」であれば学校の管理下で行う活動です。その際、怪我をしたら「日本スポーツ振興センター」の保険から治療費が支払われます。これはクラブチームであればスポーツ保険に加入しているはずです。その活動中に何かあった場合にはそこから治療費が支払われる。

が、「自主練習」をしている時はどうなるのか。それに対して「誰が責任を取るのか」と言われる可能性は十分にある。ここに関しては保護者の理解を得なければいけないのだと思います。一番安全なのは「家に居る」ことなのかもしれません。しかし、それでは体力も落ちますし運動能力自体の低下が見られます。それに対して「身体を動かす」という選択肢を取る。我々が「身体を動かした方がいい」と伝えたことで怪我をしたことになって責任問題を問われるのかもしれません。

誰かと遊ぶ約束をする。その辺りも途中で事故に遭う。その時に「友達と約束したから事故に遭った」という話になるのか。その時に相手に責任を問うのか。この部分は分かりません。そういう感覚の人もいるのかもしれない。

誰のためなのか。選手が練習をしたいと思って身体を動かすことは「悪」でしょうか。本当にやりたいと思っている子供たちが「身体を動かすチャンス」を奪われるのは如何なものか。それを批判する権利は周りの人にあるのか。そこに関しては大いなる疑問を感じています。

「自主練習」しかできない状態が生まれています。学校管理下ではない活動を子供たちに求めなければいけない状態が生まれている。「部活動」に所属するということで「練習をする」というのは必須条件だと思います。別に「部活動」ではなくても社会人選手が身体を動かす、競技力を上げるために練習をするというのも「同等」だと考えています。

クラブチームに入って競技をやるというのも選択肢の一つだと思います。本当にクラブチームだけで指導者が生計を立てようと思えば月謝としてかなりの金額を集めなければいけなくなります。スポ少のように「ボランティア」のような形であればできるかもしれませんが。そうであれば「学校における部活動」も「クラブチームにおける活動」も同じではないか。ほとんどのクラブチームは「ボランティア」の延長で「好きだから選手のサポートをする」という位置付けなのではないかなと。

今のシステムでは「自主練習」は保険の対象外になると思います。これはクラブチームであっても同様のはずです。「部活動」「クラブチーム」として集まって活動をしている場合は問題がないのかもしれませんが「自主練習」というカテゴリーであればどのような活動でも対象外になる。こうなると本当に「何もできない」という感じになるのでしょうか。

そう感じたので選手には「1ヶ月だけでも自分たちでスポーツ保険に入って欲しい」と伝えました。自分が怪我をするだけではなく相手に怪我をさせる危険性があるからです。練習中に他の誰かに接触してしまった時に子供たちが「責任を問われる」というのは避けたい。これは学生だけではなく社会人も同じだと思いますが。大学の時、こんな事は一切考えずに練習をしていました。今の時代であれば「リスク」なのだと思います。

任意保険に入るかどうか。これも保護者の判断だと思います。何かがあるかどうかは分かりません。が、こちらは提案するしかない。本来であればこんな提案をする必要性もないのだと思っています。誰のためにやっているのか。学校教育は誰のために存在するのか。ここを本当に考えているのか。今の現象を打破する方法はあるのか。

分かりません。が、考えている事、感じている事だけは書き続けたいと思います。全ての人に理解してもらえるとは全く思いません。共感してくれる人もいるかもしれない。全面的に批判される人もいるかもしれない。何が正しくて何が間違っているか。そんな事はそれぞれの価値観でしかない。

まとまりがありませんが。記録しておきます。
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考える必要性

2020-03-14 | 陸上競技

自分たちで練習をするようになってはや2週間が経過しています。これはなかなかのことです。他の県の対応がどうなっているのかよく分かりませんが。山口県では例外なく「部活動停止」の状況が続いています。

 

今回の期間、私的には「直接指導をしない」という部分は徹底しようと思っています。「勝負する」というところを考えたら「集まって指導する」というのも選択肢の中に入るのかもしれません。が、今回に限っては「直接指導はしない」という部分は外さないようにする。深い意味があるわけではありません。こういうご時世です。アンチkanekoがどこで私の姿を見ているか分かりません。私が選手に直接指導している姿を見たら「kanekoが指導している」というのを拡散することでしょう。

 

そうなると今選手達が「自分たちで練習をしている」ことさえ邪魔される可能性が出てきます。私の目の前でやっているのではなくそれぞれの場所でそれぞれが活動をしている。そこまで「制約」をかけられるのは絶対に避けたい。屋外での活動なのでそこまで言われる話ではないと思っています。それでも「重箱の隅をつつく」という批判は間違いなく存在します。こうやってblogを書いている時点で「行動を公表」しているのですから文字でも揚げ足をとられる可能性は高いと思っているからです。

 

その代わり、選手には「練習計画」を提供しています。それぞれに対してです。これはかなりの労力だと思っています。他の指導者がどこまでやっているのか分かりませんが。私は完全に「個別計画」にしています。そのためこの練習計画を作るのにかなりの時間を要します。全員分作るのに3時間は要していると思います。

 

「結局指導している」といわれるかもしれません。OneDriveを利用してのやりとりで「コロナウイルスの感染」と言われることはないと思います。直接指導はしませんがこういう部分のサポートをすることは必要だと思っています。これも前にも書いていますが今回の期間を上手く利用して「考える」ことをさせたいなと思っているからです。

 

「練習計画」を作成します。しかし、ここには条件をつけています。私が作るのではなく「ベース」は選手自身が作るようにしています。これを作らない場合は私は一切作りません。そこに「目的」と「課題」を明確にして「なぜそのような練習計画を立てたのか」という「理由」を示すようにしています。単純に「これまでの繰り返し」というメニューを作るのであればこちらがサポートする必要性がないなと思っているからです。本来的に私がメニューを作る「義務」はない。それでも「きちんとした練習計画」を立てておかなければ「身体を動かすだけ」になってしまいます。

 

2週間経過してある程度の成長が見られるようになりました。週末に「○○をやっておきたい」というのを数日前に示しました。それに対して選手が自分の練習計画を考えます。週末に明確にやっておきたいことがある。そこに向けてのアプローチは人それぞれです。

 

例えば「SDをやる」という課題を提示する。それに対して「SDをするのであれば加速段階の準備をしてSDにつながる練習をしておく」と練習を計画する選手が出ます。「SDをやるのであればそこまでに中間での切り替えとスピード維持を作っておいてSDからの流れを大事にしたい」という計画を立てる選手も出てくる。これはどちらも正解だと思っています。

 

自分で考えて「~だからそこまでに✕✕をしておく」という結論を出す。普段の練習ではそれをこちらが考えて提示します。しかし、今回は条件として「自分で考える」というのがあります。考えることで見えてくることがある。もちろん、練習の組み立てなどがあるのでそれに関してはこちらで修正します。ベースは自分が考えたもの。私は「順番の入れ替え」やそのメニューで意識することを文章化します。OneDriveの良いところはこちらが作ったものがそのまま表示できることです。ポイントになる部分を「」で書いておくとスマホで示したときに分かりやすい。こういう部分も普段とは違います。

 

雨が降る。その時にどのように対応するか。これも面白いなと思います。私的には「できるんじゃないか」という気がするので半ば強引にやるかもしれません。練習計画を大きく変えたくないので(マクロ的に)、午前中ができないなら午後からやれば良いのではないかと感じる。しかし、選手が判断して「翌日にする」という提案をした。どうかな?という気はしたが「考えてやるように」と返答をする。

 

なんとなく「計画通り」にいかないと面白くない。が、もっと根本的なことを考えると「この1ヶ月、計画通りなんてない」という結論に達する。私が考える「枠」の中からはすでに飛び出しているのです。そうであれば「今日」やるはずの練習が「明日」になったところで大勢に影響はないすでに計画通りお出はないんだから。

 

こうやって「考える」「判断する」「行動する」というのをこの期間にしっかりとやらせたいと思う。人によっては「グランドが緩いので午後からやる」という選択をしてもいい。自分で判断して行動できるかどうか。考えないのであれば意味がないが「考えた結果」であれば何かを生み出す可能性がある。

 

見ていないが少しずつ変化しているのかもしれない。この期間は「直接指導はしない」というのを徹底し続けたいと思っている。自分の中でも大きな意味を持つ。

 

また書きます。

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缶バッチを作る

2020-03-13 | 陸上競技
色々と思うことがあり、「他の人のために何かしよう」という気持ちが強くなっています。練習をみる時間自体がないので他のことをやろうかなと。時間が許す限り何かをしようと。2時間程度の地域の清掃活動。それに加えて同僚が引き受けた「缶バッチ1万個作成」の手伝い。
 
その過程の中で「部活の缶バッチを作ろう」という気持ちが最大限に大きくなりました。簡単に作れるので「イラスト」さえあえれいける妥当という気持ちが全開に。こうなったら止まりません。自分で書くのは無理なので「知り合い」の元デザイナーさんにお願いする。以前から「お願い」ということで様々なことを頼んでいます。国体のTシャツデザインも。図々しい・・・。「お礼は出世払い」ということで。
 
連絡をしたら絶妙のタイミングで「仕事が休み」ということでやり取りをしていると「良いですよ~」と前向きな返事を。イメージだけ伝えて原画になるイラストを送る。数分後に下絵が送られてきました。
 


おー。すごい。そしてまたしばらくするとillustratorで作ったデータが送られてきました。いや、本当に仕事が速い。ユニフォームを着て「バトン」「タスキ」を加えてもらう。わがままを言ったのですがすぐに。いや本当に申し訳ない。
 






 
基本デザインもその日のうちに作ってくれました。「陸上競技部」という文字も入れてもらって作成してくれました。色々と相談して背景の色からはこちらで決めていく。いくつかのパターンを考えていきました。それが以下のような感じ。
 
 
 
実際に缶バッチにしてみることに。上のようにフォトマット紙にデータを印刷します。丸い枠の中に入っていればそれが「缶バッチ」になるという感じです。それを次の道具で丸く切り取ります。ガチャンとやって終わり。あっという間です。

 
今度は以下機械を使って缶バッチにしていきます。完全手作業(笑)。

 
パーツは以下の通り。缶バッチの原型になる「アルミ」と「原画」と「フィルム」で。それを機械にセッティングします。

 
こんな感じ。これをガチャンと押し込んでいきます。1つ作成するのに30秒足らず。

 
こんな感じで缶バッチになります。フィルムをかぶせると最初の色イメージから少し変わってしまう。これはやってみないと分からない部分ですね。かなり鮮やかな緑だったのですがフィルムを被せるとちょっと色が落ちる感じがありました。そこで色バリエーションをひたすら増やしてみる。

 
こんな感じです(笑)。後からもう少し作成しましたが。選手に配ろうかなと思っています。試合用のバックなどにつけるといいかなと。こうやって少しでも「チーム愛」を、持たせていけたらいいなと思っています。今はそれぞれ別の場所で練習をしていますが、基本的にはうちのチームメイト。最初は「バトン」「タスキ」で2種類にしようかなと思っていましたが「チーム」ということで1つだけにしました。

 
OBやOGにも渡せたらいいのかなと思っています。欲しがらないかもしれませんが(笑)。
 
計画から実行まで1日半。良いものになりました。デザインしてくれた教え子に感謝。3つほど缶バッチをプレゼントしました(笑)。デザイン料安すぎ(笑)。近いうちに何か送っておきたいと思います。
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与えられている環境は・・・

2020-03-12 | 陸上競技

思うことを。全国的な状況はそれほど改善されていません。スポーツ庁政策課からは「児童生徒の健康維持の観点から、児童生徒の運動する機会を確保するため、学校の校庭や体育館を設置者や各学校等の判断において行うことについては、一律に否定するものではありません」という通達が来ている。

 

「小学生が公園に集まっている」と感情的になる大人がいるというのをニュースが報道してました。それに応えるように文科省が「公園等で身体を動かすことは制限していない」と示していました。過剰に反応する必要性がないというのを公に認めているのだと思っています。

 

3月11日。東日本大震災から9年が経過しました。この年は岩手インターハイ。実施できるかどうかが危ぶまれていたと思います。当時の映像は衝撃的なものでした。今まで当たり前に存在していたモノが一瞬でなくなってしまう。「練習をする」というのが「当たり前」ではなくなっていました。多くの方の命が失われ「笑うこと」さえも「悪」のような雰囲気がありました。「自分たちにできることをやり続ける。そんな話を当時の選手にしていたと思います。

 

私が高校3年生の卒業を前にした1月17日阪神淡路大震災がありました。受験で関西に行く予定になっていたクラスメイトが「受験に行けなくなった」という話をしていたのを覚えています。高速道路が大きく崩れていてあちこちが燃えている。復興できるのか・・・と感じるくらいの風景でした。衝撃でした。この時も「練習をする」というレベルではなく「まずは生きる」という話になる。親しい方々の命が失われて絶望の中で競技をあきらめた選手も少なからずいたのではないかなと思います。

 

今。我々が置かれている状態。それは「学校での部活動ができない」というレベルです。命の危機に瀕するのではない。明日の生活がきちんとできるかどうか不安の中で息をひそめておかなければいけないという状況でもない。そう考えれば我々はまだ「幸せ」なのです。命があって「やりたい」と思えば工夫すればできる。周り瓦礫に囲まれていて身動きが取れないわけでもない。

 

近くに走れるスペースがない。練習するための道具が不足している。一人でやらなければいけない。こんなことはある意味些細なことだと思います。「練習をする」ということを考える余裕があるからです。阪神淡路大震災や東日本大震災の際には「今をどうするか」という状況でした。

 

選手には休業になる前に話をしました。沖縄インターハイで400mHで優勝したmiyashoの選手の話です。インターハイ優勝を目指して練習をしようと思っていた。しかし、口蹄疫の影響で公共施設等の使用の制限が入り陸上競技場での練習ができなくなったということでした。今回と同様、不要不急の外出を控えるようにという通達。お模様に練習ができない。専門練習もできない。そんな中で必死に練習をしてインターハイで勝った。そんな話だったと思います。自分でやれることをひたすらやり続けることで「勝利」に近づくことができた。

 

目の前にあることを嘆いたり、不平不満を言うのは簡単。私自身も「足りないもの」をつい口にしてしまう。しかし、今置かれている状況は「最悪の事態」ではない。やろうと思えばいくらでも身体が動かせる、練習ができるのだから。

 

そう考えて行動をしたいなと思います。まず今何ができるか。そこだけです。自分の役割を感じながら前を向きたいと思います。少しずる。心を整えていこうと思います。

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自主的活動

2020-03-10 | 陸上競技

何をもって「活動」という表現をするか。ここは非常に難しいですね。

 

練習に関しては繰り返しになりますが「自主的活動」という感じにしています。選手によっては競技場に行って練習をするということもあるようです。ここも私が「行くように」といっているわけではありません。自分たちで判断して行動する。「やらない」という選手も間違いなくいます。そういう場合は「今後もやらないほうがいい」と思っています。この時期の練習がどのような意味を持つか。ここが考えられない者はこれから先に「競技」をやっても「結果」にはつながらないでしょうから。

 

「所属する」ということに意味があるのか。なぜ部活に所属しているのかという質問をしたときに「せっかく入ったのだから続けるほうがいいかな」という返答を受けたことがあります。それは「自分中心」の考え方だと思います。その集団の活動方針があってそれに合うか合わないかは「選択する材料」としては大きな部分があります。「自分は所属したいのだから」という考えで続ける意味がどれだけあるのか。

 

これも何度か書いています。「甲子園を目指す」という強豪校がある。そこに「時々打ちたい」といって入ってくる選手がいるのかどうか。「参加したいときに参加する」という形だったり「きついことはやりたくないのでそこは見学にする」という考え方が通るのかどうか。練習に参加して「メニューを消化する」という部分があっても「本気でやる」という形ではなく「適度にやる」という参加の仕方になる。

 

これが「活動」という部分になるのかどうか。分かりません。自分で目的をもって取り組む。「身体を動かす」というだけでいいのかどうか。競技をするという意味があるのかどうか。この時期になって改めて考えさせられます。「本気でないならサークルで活動するほうがいい」と真剣に思っています。

 

月曜日。時間があったので朝から学校周辺の清掃活動をしました。別に誰かから強制さえるわけではない。生徒がいない今だから「自分にできることは何か」を考えてみたところ「地域に出てみる」という「自分なりの答え」が出ました。土曜日は学校周辺の草抜きと伐採。時間があるときにはできるだけ外で何かしたいなと。

 

ピンクのベストを着て2時間半。普段歩かない場所をゆっくり歩く。大きなごみは落ちていません。落ちているのは「たばこの吸い殻」と「たばこの空き箱」が多い。それ以外のものも多少落ちていますが。飲食街も歩きました。店の周りにたばこの吸い殻が落ちているところもある。これをみると「うーん」と感じますね。

 

別に誰かから「やれ」といわれているから「清掃活動」をしようと思ったわけではありません。その時の自分に「必要」だと感じたからやっているのです。誰かから強制される行動は自分にとってプラスにはならない。自分の足で職場の周辺を歩くことで普段見えない景色が見える。現状が見える。「今だからできること」だと思って行動をする。「自主的活動」です。

 

練習も同じだろうなと思っています。「やりたくない」者に強制する必要性はない。が、先を見たときに「今のままでいいのか」を考える能力が磨ける。その必要性が分からない者には今後の競技をどのように取り組むかの「答え」がそこに出ているのではないかなと。

 

自分の行動を他者に置き換えながら考える。そこに自分なりの「意味」を見出したいと思います。私が生きていて、その時に何をするのか。「自分らしさ」という話ではなく「その時に何ができるか」です。意味がある行動になっているか。自分のやっていることがどこかで誰かの役に立っているか。それは分かりません。それでもやり続けてみようかなと考えています。


グランドに立っていなくてもできることはある。そう考えています。

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