もうずいぶん昔のことになるけれど、田宮虎彦氏がまだ吉祥寺に住まわれている頃に、訪問したことがある。先輩の記者がインタビューに行くというので、臨時のカメラマンのふりをして、随行したのであった。氏のフアンだというわけではなく、むしろあまりいい読者とはいえず、『足摺岬』一作を読んだ程度だったが、生身の作家という人種とその書斎に興味があったからだ。
気取らず、妙に偉ぶるところもない作家だった。ベージュの作業着みたいなジャンバーとそろいのズボン姿だった。まるで商店街の電器屋の主人みたいな格好で執筆の途中だったようだ。別に和服の着流し姿みたいな文士像を期待していたわけではないものの、ちょっと意表をつかれた感じだった。なるほど、小説を書くというのも手仕事の「作業」であるから、こういうスタイルでいいのだと納得したものだ。しきりにタバコをふかしながら、作家はインタビューに丁寧にこたえていた。おだやかというか、茫洋とした風情に、しかしどこか物憂げなところがあった。
帰り際に、玄関で腰をおろして靴紐を結ぼうとしていた私の背中越しに、田宮氏はふいに声をかけた。「あなたも小説を書く人でしょ」
これにはぎくっとするほど驚いた。私はカメラマンということになっているから、氏とは会話をいっさい交わしていない。なぜ、という思いがとっさに胸に来た。ひそかに小説を書きたいという思いを胸に抱いていた二十代前半の青二才が当時の私だ。なぜ、私の野心が見抜かれたのか。なぜ田宮さんは、私にそんな言葉を投げかけたのか。
いまにして思えば、私はたぶん好奇心をあらわに氏の本棚を見つめたり、机上に鋭い視線を送っていたのだと思う。さらに、氏が創作過程の内明け話をするような箇所で敏感すぎる反応を表情に見せたに違いない。
昭和63年4月、氏は港区のマンションから飛び降り自殺した。新聞でそのことを知ったとき、衝撃とともに、あのときの氏の言葉を思い出した。脳梗塞で倒れ、右半身不随だったというけれど、文字を書けなくなったための自殺というような単純なものではないだろう。しかし、「作業着」で小説を書いていた氏には、はがゆい思いだったことは確かだ。
小説『足摺岬』は自殺の名所となっている足摺岬行きをする自殺志望の青年の物語だった。自伝的な要素の多い作品とされてきたが、そうか、「足摺岬」は都内にもあったのか、と口惜しかった。77才だった。死への情念は衰えていなかったのである。
氏は当初は戊辰戦争などに取材した歴史小説を書かれていた事をあとで知ったが、晩年、なぜそのジャンルに回帰されなかったのだろうか。私には亡き奥様との書簡集『愛のかたみ』が空前のベストセラーになったことが、氏の小説の路線を固定化したような気がしてならない。
いまでも田宮氏の言葉が耳元に聞こえるときがある。「あなたも小説を書く人でしょ」そのつど、やるせない気分になる。あれから、いったいどれだけの年月が流れているか。あなたも、と言ってくれたではないか、いったい、私はなにをやっているのか。
気取らず、妙に偉ぶるところもない作家だった。ベージュの作業着みたいなジャンバーとそろいのズボン姿だった。まるで商店街の電器屋の主人みたいな格好で執筆の途中だったようだ。別に和服の着流し姿みたいな文士像を期待していたわけではないものの、ちょっと意表をつかれた感じだった。なるほど、小説を書くというのも手仕事の「作業」であるから、こういうスタイルでいいのだと納得したものだ。しきりにタバコをふかしながら、作家はインタビューに丁寧にこたえていた。おだやかというか、茫洋とした風情に、しかしどこか物憂げなところがあった。
帰り際に、玄関で腰をおろして靴紐を結ぼうとしていた私の背中越しに、田宮氏はふいに声をかけた。「あなたも小説を書く人でしょ」
これにはぎくっとするほど驚いた。私はカメラマンということになっているから、氏とは会話をいっさい交わしていない。なぜ、という思いがとっさに胸に来た。ひそかに小説を書きたいという思いを胸に抱いていた二十代前半の青二才が当時の私だ。なぜ、私の野心が見抜かれたのか。なぜ田宮さんは、私にそんな言葉を投げかけたのか。
いまにして思えば、私はたぶん好奇心をあらわに氏の本棚を見つめたり、机上に鋭い視線を送っていたのだと思う。さらに、氏が創作過程の内明け話をするような箇所で敏感すぎる反応を表情に見せたに違いない。
昭和63年4月、氏は港区のマンションから飛び降り自殺した。新聞でそのことを知ったとき、衝撃とともに、あのときの氏の言葉を思い出した。脳梗塞で倒れ、右半身不随だったというけれど、文字を書けなくなったための自殺というような単純なものではないだろう。しかし、「作業着」で小説を書いていた氏には、はがゆい思いだったことは確かだ。
小説『足摺岬』は自殺の名所となっている足摺岬行きをする自殺志望の青年の物語だった。自伝的な要素の多い作品とされてきたが、そうか、「足摺岬」は都内にもあったのか、と口惜しかった。77才だった。死への情念は衰えていなかったのである。
氏は当初は戊辰戦争などに取材した歴史小説を書かれていた事をあとで知ったが、晩年、なぜそのジャンルに回帰されなかったのだろうか。私には亡き奥様との書簡集『愛のかたみ』が空前のベストセラーになったことが、氏の小説の路線を固定化したような気がしてならない。
いまでも田宮氏の言葉が耳元に聞こえるときがある。「あなたも小説を書く人でしょ」そのつど、やるせない気分になる。あれから、いったいどれだけの年月が流れているか。あなたも、と言ってくれたではないか、いったい、私はなにをやっているのか。
「絵本」が教科書に載っていたので、読んだ程度ですが、
妙に気に入って、その教科書を取っておいてたまに読み返したりしています。
田宮虎彦宅を訪ねたときの思い出を興味深く読みました。
ご健筆を負い載ります。
田宮さんのことをまた切なく思い出しました。