goo

ウチダさん

 内田樹の「態度が悪くてすみません」(角川ONEテーマ21)を読んだ。内田樹と言えば現在「下流志向」がベストセラーになっており、東大内の書店で売り上げが一位となっているのを先日新聞で読んだ。私も鋭意読書中であるが、教育問題と深くかかわっているテーマを扱っている書物だけに私としては熟読玩味しなければならず、読了するにはまだしばらくかかるだろう。「下流志向」を読み始める前からこの「態度が悪くてすみません」を読み続けてきて、やっと読み終えることができたので、先に少しばかり印象を書き留めたいと思う。
 この本は、内田自身も初出を忘れてしまったものが多い全37編のエッセイからなっている。これは、内田の「寝ながら学べる構造主義」を書店で探していたところ、偶然見つけた書物であるが、最初の数ページを読んでその知的に見事な文章に圧倒されてしまい、「寝ながら学べる構造主義」のことはとんと忘れてしまって、買い求めた書物である。冒頭の一編に次のような一節がある。
 
 文章を読む場合、私たちは一つのセンテンスを読みながら、その前のセンテンスを記憶にとどめ、今読んでいるセンテンスに論脈上あるいは語調上連接しうるセンテンスをいくつかあらかじめ期待している。「文脈を読む」というのはそういうことである。直前のセンテンスをすぐ忘れてしまう読み手も、続くセンテンスを予知しえない読み手も、ともに今読みつつあるセンテンスの意味を理解することができない。私たちが今眼前にあるものが何であるかを知りうるのは、過去と未来に拡がる「地平」の上にそれを置く限りにおいてである。「過ぎ去ったもの」と「未だ来たらざるもの」はいずれも今ここにはない。だが、にもかかわらずそれを勘定に入れないと、私たちは「今ここにあるもの」が何であるかを言うことができない。「文脈を読む」というのは、いわば「もう聞こえない音」の残響がまだ聞こえ、「まだ聞こえない音」の予兆がもう聞こえるということである。それは「もうないもの」と「まだないもの」を現在の知覚野に隣接させておくことである。私は「どこ」から、どういう経路をたどって「ここ」にたどりついたのか。このまま進むと私は「どこ」にたどりつくことになるのか。そういう、ある程度の時間的スパンの中で、運動しつつあるものとして自己を認識すること。私はこれを「時間的マッピング」と呼んでいる。

 などと書かれているのを読んだらなぜか恍惚としてしまった。こんな文章が書けるなんてすごいと思う気持ちと、羨ましく思う気持ち、少しばかり妬む気持ちが入り混じり、しばし呆然としてしまった。それは、「『先達』(メンター)に導かれて思考するというのは、そんなふうにして、自分一人では達することのできないような思考の高度に達することである」と内田自身が語っている(P.182)ような気持ちを私が内田に抱いたということであろう。37編は様々なテーマについて語られている。その一編一編が読む者を高みへ導いてくれるであろう、内田の深い教養・知識とぶれることのない思考力に裏打ちされていることは言うまでもない。
 
 内田はフランス現代思想を専門とする大学教授であるが、同じように大学でフランス文学を専門とした(はずの)私とはどうしてこれほどまでの懸隔が生じてしまったのか?勿論、その能力に雲泥の差があったためだろうが、本書を読みながら、己の来し方を少しばかり反省してしまった。内田は大学時代に翻訳のアルバイトを始め、片っ端から翻訳をし、とうとう翻訳の極意とでも言うべきものをつかんだと言う。それに引き換え、私は昼夜を問わずただひたすら麻雀卓を囲んでいたくせになんらの極意もつかむことができなかった。(そんなものつかんだところで大した役には立たないだろうが)。思えば、この瞬間に勝負あったということなんだろうが、それにしても何とまあ早い時点で学問の道からドロップアウトしてしまったものだろう、愚かにも情けない話ではある。
 
 とは言っても、反省するくらいならサルにもできる。それに大して間違った人生を歩んできたつもりはないから、別にどうってことはない、と強弁するだけの気概は持っておこう。最近少々おとなしめの己を鼓舞するためにも。
 
 
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする