見もの・読みもの日記

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鈴木庫三という軍人/言論統制

2005-01-24 00:30:26 | 読んだもの(書籍)
○佐藤卓己『言論統制:情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)中央公論社 2004.8

 昨年の夏、上梓されたばかりのこの本を見つけて「あ、佐藤卓己さんの新刊だ」といったんは手に取った。しかし、テーマが重いし、本も厚いし、引用文も漢字カタカナ混じりの文語体が多くて読みにくそうだし、気が引けて、また戻してしまった。以来、書店で見かけるたびに気になりながら、読み始める決心がつかなかった。

 土曜日、ふと手に取ってオビの裏を読んでみた。いわく。言論界で「小ヒムラー」と怖れられた軍人がいた。情報局情報官・鈴木庫三少佐である。この「日本思想界の独裁者(清沢洌)」が行った厳しい言論統制は、戦時下の伝説として語りつがれてきた。だが、鈴木少佐とはいったい何者なのか。(後略)

 そうか。これは人物評伝なんだ、と思ったとき、ようやく読み始める決心がついた。そして、最初の10ページを読んだところで、私は本書のとりことなっていた。

 私は鈴木庫三という名前を知らなかったが、メディア史研究では、言論弾圧の代名詞のように扱われているらしい。だが、著者の検証によれば、そもそも鈴木庫三だけを標的とした著作はほとんどなかった。ところが、1949年、軍部の言論弾圧に抗するインテリ群像を描いた石川達三の新聞小説『風にそよぐ葦』が大好評を博す。この小説で、言論弾圧のシンボル的な役割を与えられているのが、鈴木庫三をモデルとする「佐々木少佐」である。若く、無学・無教養で、軍部の権威をかさに着て「サーベルと日本精神を振りまわしながら」(美作太郎)蛮勇と恫喝を繰り返し、良識ある知識人を屈服させる悪の権化として描かれている。

 この小説は映画化され、「世間一般の戦時言論統制イメージ」の大衆化に寄与するとともに、学術出版界においても、これ以降、鈴木庫三に批判の狙いを定めた回想録が、籍を切ったように公刊され始める。まず、こうしたシニカルな見取り図を受け止めたうえで、我々は、著者ともに、鈴木庫三とは何者か?という探究に踏み出すことになる。

 彼は茨城県の貧農の家に生まれ、刻苦勉励で身を興した。「五年の間は養父の為に年月を差し上げ、其代り僕は五ヶ年遅れて生れた者と同じ歩調で歩む」と決め、養家の農業を手伝いつつ、同輩より遅れて士官学校に入学するが、年齢制限の壁によって、陸軍大学受験を諦める。陸軍内務班では、横行する盗みやリンチ、上等兵の横暴、事なかれ主義の老人などに憤激し、「摩擦係数の高い生き方」を続ける。

 有閑階級の堕落と個人主義を嫌い、農民と労働者の幸福を心にかけ続けた彼の思想は、共産主義にかなり近い。軍務のかたわら、生活費と時間を極限まで切り詰めて、日本大学・同大学院で倫理学を学び、さらに東京帝国大学で教育学を学ぶ。要約してしまえば絵に描いたような「立志伝」であるが、この息の詰まるような真剣な人生の記録を前に、私は鈴木庫三という人物の魅力にのめり込んでしまった。

 著者は問う。強い軍部が弱い知識人をいじめたというのが常識のようになっているが、はたして編集者や文化人は弱者だったのか? 軍人と知識人は、いずれの地位が高かったのか? その設問のクライマックスは、鈴木庫三と和辻哲郎の「対決」である。この対決を直接目撃したという勝部真長氏の証言には、なまじな論評を受け付けない迫力がある。

 「物質は僕には不用だ。幾千代の後迄も残るものは名誉である」と名誉を希求した鈴木庫三は、「国防国家」の提唱者、情報部のスペシャリストとして脚光を浴び、著作に講演に引っ張りまわされながら、戦後は悪罵を浴びて、忘れられた。

 著者は不思議な直感に導かれて、この人物の研究に手を染め、紆余曲折の末、ついに遺族を捜しあて、鈴木庫三が遺した膨大な一次資料(日記、蔵書、手帳、大学院時代の演習ノート)に接する。この経緯は「あとがき」に詳しく述べられているが、歴史研究に携わる者の幸福を追体験できて感動的である。そして、本書の上梓を、遺族の方々はどのように受けとめられたであろう。

 「何かを言い残そうとしながらも沈黙した、その人の声を聞きたい。」と著者は記す。私たちが研究者(歴史家)に望むのは、そういう人々の声を掘り起こしてくれることである。そして、彼らの瑞々しい肉声に接すること、それは読者の喜びである。この本、私にとっては今年のベスト1になってしまうかも知れない。そのくらい、感動の1冊であった。私の文章に目を留めてくれた方には、声を大にしておすすめしたい。

 最後に著者の佐藤卓己さんのホームページを。書評リンクあり。

 http://www12.plala.or.jp/stakumi/
コメント
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