○五味文彦『源義経』(岩波新書)岩波書店 2004.10
確実な史料によってたどれる「史実としての義経」と、物語類に現れる「創作された義経」を、注意深く切り分け、両面から描いたもの。著者は「史実としての義経」が武勇一辺倒の将でなく、文武の人材を集め、時には御家人の訴状を裁いたり、平家の没官領を分配したり、京洛の治安維持に努めたりするなど、政治的手腕があったことを認めている。まあ、こういう面も皆無ではなかっただろう(私は、徹底して戦争の―しかも奇襲の―上手とする角田文衛さんの義経像が好きなんですが)。
興味深かったのは、平家滅亡の知らせが初めて鎌倉の頼朝のもとに届いたときの史料。これは当然、『吾妻鑑』なんだろうな。義経の右筆・中原信康の作成した記録を、使者が頼朝に届ける。そこには具体的な戦果とともに「内侍所、神璽おはすと雖も宝剣紛失す」とあった。頼朝はこの記録が読み上げられるのを聞いたあと、黙ってこれを取って巻き、鶴岡八幡の方に向かってすわったまま言葉も発しなかった(五味先生、見てきたような書きぶり)。
このあと、義経と頼朝の間の軋轢が露わになっていくことを、我々は、もっぱら兄・頼朝の嫉妬と疑り深い陰険な性格で説明しようとするけれど、実は「頼朝の冷たい仕打ち」の第一の理由は、著者の指摘するように「三種の神器のうちの宝剣を取り戻せなかったことへの責任追及」なのではないか。
この「失策」がどれほど重大であるか、今の我々にはとても理解できないし、もしかすると「辺土・遠国を住みかとなし、土民・百姓に服士せられて」(腰越状)育った義経にも、さっぱり分からなかったかもしれない。しかし、後鳥羽院にとって宝剣の紛失は、終世のコンプレックスとなる大事件だったし、これによって頼朝は、皇室を警護する武家の統領としての面子を丸つぶれにされたのではないかしら。だとすれば、頼朝がついに義経を許さなかったわけも、少し分かる。まあ、今年の大河ドラマでは、こんな描き方はしないでしょうけどねえ。
確実な史料によってたどれる「史実としての義経」と、物語類に現れる「創作された義経」を、注意深く切り分け、両面から描いたもの。著者は「史実としての義経」が武勇一辺倒の将でなく、文武の人材を集め、時には御家人の訴状を裁いたり、平家の没官領を分配したり、京洛の治安維持に努めたりするなど、政治的手腕があったことを認めている。まあ、こういう面も皆無ではなかっただろう(私は、徹底して戦争の―しかも奇襲の―上手とする角田文衛さんの義経像が好きなんですが)。
興味深かったのは、平家滅亡の知らせが初めて鎌倉の頼朝のもとに届いたときの史料。これは当然、『吾妻鑑』なんだろうな。義経の右筆・中原信康の作成した記録を、使者が頼朝に届ける。そこには具体的な戦果とともに「内侍所、神璽おはすと雖も宝剣紛失す」とあった。頼朝はこの記録が読み上げられるのを聞いたあと、黙ってこれを取って巻き、鶴岡八幡の方に向かってすわったまま言葉も発しなかった(五味先生、見てきたような書きぶり)。
このあと、義経と頼朝の間の軋轢が露わになっていくことを、我々は、もっぱら兄・頼朝の嫉妬と疑り深い陰険な性格で説明しようとするけれど、実は「頼朝の冷たい仕打ち」の第一の理由は、著者の指摘するように「三種の神器のうちの宝剣を取り戻せなかったことへの責任追及」なのではないか。
この「失策」がどれほど重大であるか、今の我々にはとても理解できないし、もしかすると「辺土・遠国を住みかとなし、土民・百姓に服士せられて」(腰越状)育った義経にも、さっぱり分からなかったかもしれない。しかし、後鳥羽院にとって宝剣の紛失は、終世のコンプレックスとなる大事件だったし、これによって頼朝は、皇室を警護する武家の統領としての面子を丸つぶれにされたのではないかしら。だとすれば、頼朝がついに義経を許さなかったわけも、少し分かる。まあ、今年の大河ドラマでは、こんな描き方はしないでしょうけどねえ。