見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

そろそろ終盤《人生幾度秋涼》

2005-01-19 13:16:22 | 見たもの(Webサイト・TV)
○連続電視劇 『人生幾度秋涼』31集

 今週は仕事が忙しくて読書が進まない。毎週日曜の夜に放映されているこのドラマも、休日出勤で見られなかったので、録画しておいた分をようやく見た。全31集の連続ドラマも第26集まで来たので、そろそろ終盤である。

 派手な展開はないのだが、じわじわと味わいが深まりつつあるので、ネット上で関連記事を探して読んでいる(ただし中国のサイトは、不用意なリンクを開くと危ない。昨夜はウィルスに当たって、Windowsの再インストールをする羽目になった。くぅ~)。

■《人生几度秋凉》曲終話未完 陳燕民要拍続集?(中国語)
 http://ent.tom.com/1030/1565/200473-86435.html

 本国でも、終盤は盛り上がって、視聴率が「8点(パーセント?)を越えた」らしい。一部の熱心な視聴者は、制作者の陳燕民に、なぜ「善人はよい報いを受けず、悪人は悠々と生き続ける」という結末を選んだのか、という質問を寄せている。陳燕民は、用意した複数の結末の中から、最終的に1つを選んだ。「この時代(ドラマの舞台となっている民国初年)、善人と悪人を比べたとき、善人の運命は、より悲惨だった」という結論を導き出したためだという。

 どうやらそういうことらしい。既に悲劇の予感は高まり、その不安と緊張が、見る者を引きつけてやまない。富嗣隆は、家宝の古詩帖と引き換えに市長の座を手に入れようとする野心家で、善人とは言い切れないが、侠気と人情に富む人物として描かれている。しかし、西洋人と軍部を敵にまわした結果、逃れがたい窮地に陥る。人品正しい骨董商の周彜貴は、余旺財の奸計によって店を乗っ取られ、一使用人の境涯に落ちる。余旺財は我が世の春を迎えるが、金銭に執着するあまり、妓楼から身請けして妻にした女性に逃げられる。富嗣隆の屋敷に寄宿していた京劇の一座、牡丹班の人々は、流浪の生活に戻る決意を固める。

 ネット上の別の記事に、これは「典型的な”男性ドラマ”である(是一部典型的男人劇)」という評語があった。実は私も画面を見ながら、なんだか、どう場面が切り替わっても、おじさんばかりのドラマだなあ、と感じていた(きれいな女性や若者も多少は出てくるが、これは刺身のツマみたいなものだ)。しかし、このおじさんたちが、なかなかカッコいいのである。

 ”男人劇”といっても、派手なアクションが飛び交う、マッチョなドラマを指す言葉ではない。登場人物はいずれも市井の人々であり、等身大の野心と挫折、反骨と矜持の人生が描かれている。ここまで書いて、ふと思い出したのは、私の母が好きだと言っていた山本周五郎の小説だ。私自身はあまり読んでいないのだが、母の感想を思い返すと、通じるものがありそうな気がする(母も私と同じで、おじさん趣味のところがあった)。

 私が日本のTVドラマをあまり見ないのは、こういう、”男人劇”がないせいかもしれない。あと、韓流ドラマにハマらないのも。
コメント
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