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柄目木庵

良寛さまに思いをよせながら。

道草その2

2005年12月15日 | 旅行など
 この記事は12/12(月曜日)のことなのです。

 この日、水戸のユースホステルを出発、常陸太田市を目指しました。
実は、水戸黄門の「西山荘」は、月曜休館日だったのです。西山荘には入れなかったので、入り口付近の写真を撮ってあきらめました。

 この写真の竹林の後ろにかすかに移っているのが西山荘の屋根なのです。

 さいわい、西山荘を中心にゆかりの建物や公園は見ることができました。
なかでも茶室「晏如庵(あんじょあん)」は気に入りました。茶券を求めて一服のお茶をいただきました。眼下に見える池には薄氷が張っていました。

 次にかなり北上して、訪ねたのは「竜神大吊橋」でした。
歩道橋としては日本一だそうです。なんとも壮大な吊り橋です。375mの長さで、下のダムからの高さが100mもあります。
生活道路でもなく、渡るのに300円を徴収するとはいうものの、観光のための橋だとするなら、「なんで?」と素朴な疑問もわきました。

 さらに北上、有名な「袋田の滝」に到着。


 滝を見るためのトンネルをくぐり観瀑台へ。あまりの壮観さというか美しさに圧倒された。よく見えないかもしれないが、落下している水の一部が凍っていた。
季節ごとにはTVなどでも紹介されることのある滝である。一度は見ておきたかった。名瀑に違いなかった。

 さて、本日の見所は一応終わったようである。
明日の帰りを考えて、今宵の宿を探してみる。このようなことには我が女房殿は特異な才能があるようである。携帯電話が大活躍。猪苗代近くのホテルで、開業12周年というイベントで破格の料金で泊まれることになった。
 
 さあ、日の暮れぬ間に急ごう!
白河から東北道へそして、磐越道に入る。磐梯熱海あたりから雪景色に変わってきた。猪苗代磐梯高原ICで降りる。屏風のような形のホテル目指して走る。道路に一部圧雪が残っていた。三叉路で右折、我が車チャレンジャーの後輪が発進と同時にスリップして後部が大きく左に振れた。
あわてて4輪駆動に切り替える。うっかりして切り替えておくことを忘れていたのである。これでばっちり、走りが安定した。

 チェックイン。すぐに温泉に飛び込んだ。

道草その1

2005年12月15日 | 旅行など
 「オーロラグループ忘年会」の翌日(12/10 日曜日)のことです。
「たいらビューホテル」での朝食時、グループのコーディネーターXXHさん、相談役EUYさんと一緒になった。お二人とも市内在住なのに、わざわざ泊まっていただいたのである。ホスピタリティーに感謝!
 私たちの今日からの「道草道中」の相談に乗ってもらった。
いつも、帰り道はあちこち道草をしながら帰ることを楽しみにしているのである。
結果として、いわきから一路海岸線を南下して、水戸のユースホステル泊まりのコースとした。

 EUYさんとSCYさんの乗る車に先導していただき小名浜に向かう。観光物産センター「ら・ら・ミュウ」で、たくさんの干物(いわき特産めひかり)などをおみやげにいただいてしまった。
私たちも、お正月用やおみやげ用にたっぷりと買い込んだ。ここのお魚類はとにかくおいしいのである。宅急便で発送していただいた。

 EUY、SCYさんたちとは6号線にでるまで車で案内をいただき、僕たちの車は一路茨城へと向かった。この間、私たちの無線のやりとりを聞きつけて、いわきの皆さんが次々と声をかけてくださった。その情の厚さに、思わずほろりとなってしまった。やっぱり来年も来よう!

 うっかり、勿来の関を通り過ぎてしまった。6号線も内陸部に入ってきた。
そこで、ぐいと左へハンドルを切り海岸線にでるべく走行していたら、突如予期せぬ場所に到着していた。
 なんと「岡倉天心記念館」ではないか。天心ゆかりの記念館や施設を一回り。
改めて天心のスケールの大きな人柄や活躍に目を奪われた。
写真は、天心が心の癒しを求めた空間「六角堂」である。彼は和魂洋才をもって、新しき日本画を目指し、横山大観はじめ多くの画家を育てたのである。
彼は「アジアはひとつなり」として東洋に軸足を置き、ボストン美術館でも活躍している。このようなことは、どこぞの国の首相も学ぶべきである。

 実は、天心堂は新潟県妙高市にもあり、天心のことはそれとなしに知ってはいた。今回は彼の著書「東洋の理想」と「茶の本」の2冊を求めてきた。
このような思いがけない出会いほど感激するものはない。

 次に、しばらく走ると「野口雨情記念館」があった。
ああ、この詩(童謡)も彼の作詞だったのか、というくらいたくさんのなつかしい童謡の数々。茨城にはすてきな方が輩出されて、今でも大切にされているんだなあ、と感じた。

 すこし、時間がかかったが一部常磐道も利用して、「大洗海岸」を目指した。
息子家族がよく出かけることもある海水浴場なので見てみたいと思っていた。
ホテルなども完備されていて、きれいな浜辺を見て安心する。

 ナビを水戸市の「偕楽園ユースホステル」にセット。暗くならないうちにと急いだ。水戸の中心部大通りを通過して、ようやく千波湖も近いYHに到着。
このYHは茨城県立青少年会館の4階部分の宿泊施設がYHになっていた。
 宿泊は私たち夫婦のほかに男女一人ずつの計4人であった。
ツインの部屋が利用できて、ぐっすり休むことができた。

紅葉をもとめて

2005年10月23日 | 旅行など
 20日木曜日の晩、明日はお天気がよさそうだ、と天気予報。

 紅葉が見たいね、と言うことになった。さてどこあたりがいいかな、できれば「ユースホステルYH」が利用できる所がいいのでは、ということになった。

 すぐにプランができた。
 磐越道を走り紅葉が見ごろならすぐに49号線に降りよう。でなければ、磐梯河東から「ゴールドライン」を超えて裏磐梯へ。そして「レイクライン」を通り「吾妻スカイライン」で浄土平を目指そう。その先、福島市郊外の「ユースゲストハウス・ATOMA」に宿を予約。

 21日金曜日は、予定通り快晴。朝7時半には磐越道を走っていた。
阿賀町や西会津の山なみは、まだまだぜんぜん色づいていない。
会津坂下の「みやま茶屋」の「あんこもち」をぜひ食べたかったが、何しろまだお腹も減っていない。

 結局、磐梯河東ICで49号線に下りた。
裏磐梯へのゴールドライン、その入り口に福島を代表する酒蔵元があり「栄川」一本をお土産に用に買った。
 ぐんぐん登り、所々の見晴らし用のパーキングからは猪苗代湖と周辺の山が展望できる。さすがに磐梯山の上の方は紅葉真っ盛りのようである。
 峠の「八方台」では、見事な紅葉である。ここは磐梯山や猫魔岳への登山道が始まる。私もかつてここから磐梯山に登ったことがあった。
できればもう一度頂上に立ってみたいものである。

 裏磐梯はたくさんの人たちで賑わっていた。
ここでは、磐梯山は噴火と火山活動のすさまじい形相を見せてくれている。
私たちも、「五色沼」散策をした。時間の許すところまで行って引き返した。
いくつかの湖沼の中でも「青沼」の美しさと色は格別である。

 レイクラインを走ったが、残念ながらまだ紅葉は始まっていなかった。
いよいよ、「吾妻スカイライン」に車が入った。ぐんぐん標高をあげていく。あっという間に紅葉帯を過ぎて、葉を落とした樹木帯となった。
 このあたりからしきりにガスが沸いてくるようになって、視界が利かなくなることしばしばと言う状態となった。

 「浄土平」に到着するも、あたりは霧で真っ白。それでも1707mの「吾妻小富士」の火口壁目指して登る。火口では一瞬の晴れ間で、火口の中や向こう側の「一切経山」が見れた。
 そして、なんと私の後ろから日が指して来て、私の影が火口の中の霧に投影されているではないか。頭を中心に日輪のように「虹の輪」も見えた。
なんとも不思議な体験であった。「ブロッケン現象」とか言うものであろうか。
まるで私が「仏様」か「神様」になったかのようである。貴重な映像をデジカメに納めたが、かすかに写ってはいた。しかし、虹の輪までは写ってはいなかった。

 いよいよ今晩の宿を目指して、スカイラインを福島に向けて出発。しかしすぐに「火山性ガスに注意」などという看板と共にかなり強いガスの匂いが車内にも入り込んできた。霧の中、視界も悪く慎重にエンジンブレーキで下る。

 やがて「高湯温泉」を通過して、目指す「ユースゲストハウス・ATOMA」に到着。柴犬「大吉」に迎えられて、チェックイン。

 実は「ユースホステル会員」としては、前回黒部のOMさん夫妻と共に泊まった「山形東根のベアフットYH」で会員にしていただいたのであり、今回が私たち夫婦としては始めての利用となっている。
 ちょっと不安な気持ちもあったが、ペアレントのやさしいおもてなしに、すっかりリラックスして過ごせた。
他のお客も少なかったので、お風呂には朝晩3回も入ったりできた。地酒を3種類利き酒をしたり、手作りのジャムや数々のご馳走に大満足。
お部屋もツインのベッドでぐっすりでした。

 翌朝22日は、すでに小雨模様。やはり昨日の内に走り回ったのは正解のようでした。「大吉」とペアレントに見送られて「ATOMA」を後にしました。

 ATOMAというのは、アイヌのことばなのだそうです。意味はよくわからないが、語呂のよさで使わせていただいています、とのこと。ペアレントはスキーのインストラクターであり、大の天文フアンで自作反射望遠鏡(移動用としては県下2番目の大きさ)でお撮りになった天体写真の数々がすばらしかったです。

 なお、このページの写真は「磐梯ゴールドライン八方台」の紅葉です。

アメリカの思い出(11)

2005年09月11日 | 旅行など
 「さようなら!New York」

 いよいよニューヨーク滞在の最後の日となった。
この日は、セントラルパークでしばしの時間をとり、再び夕方、予約してある「イタリアン・レストラン」に集まって、そろってのディナーにしようと言うことになっていて特別のスケジュールは無しと言うことにした。

 セントラルパークは広大で静かで豊かな樹木があり、とても大ニューヨークのど真ん中とは思えない。憩うにはもってこいの場所である。
孫たちは、りすと戯れたり、「アンデルセン」の像や「不思議の国のアリス」の像に登ったりして余念なく遊んでいた。

 長男家族は、セントラルパーク内でのサイクリングを楽しんでから、「MoMA:近代美術館」を訪れたいと言う。
 次男家族は「メトロポリタン美術館」を見て、その後「ポケモンセンター」の予定だそうである。
 私たち夫婦は、午前中は次男家族と一緒にメトロポリタン美術館に行くことにした。

 セントラルパークに隣接する「メトロポリタン美術館」は、世界の4大美術館のひとつに数えられる規模である。日本からの所蔵品も多く、案内書は日本語版も用意されていた。大急ぎで見て回っても、一日ではとても無理である。
ヨーロッパ中世の全身を覆う「甲冑」を見て、まるでロボットだと思った。
少し早めに館内の「アメリカン・ウィングのカフェ」で昼食とした。

 私たち二人は、休養するために次男家族と別れてタクシーでホテルにひとまず引き上げることにした。
 実は、二人だけでタクシーに乗るのは始めてであった。
ホテルの住所と名前を告げた。幸い、アヴェニューとストリート番号が交差点ごとに示されていて、どこを通っているかがわかる。しかし、ホテルの少し手前でタクシーから降ろされた。何かを言われたのだが、残念ながら意味不明。発音が悪かったのか、一方通行などによるものかは判然としなかった。意思疎通が思うに任せないのは、なんとも無念であった。

 約束していた時刻に再び全家族が、予約済みの「イタリアン・レストラン」に集合。お互いに今日の成果を語り合った。このディナーの様子はBLOGの前のところで紹介したことがあります。

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 よく日(8月17日)、早朝にニューヨークPenn駅へ。
ここで私たちと長男家族は帰国のため電車で「ニューアーク空港」へ。
次男家族はアムトラックでワシントンDCへと戻ることとなった。
10日間近く一緒に過ごして、ここでお別れというのは、さすがにつらい。幸い、あわただしさに紛れて、あっという間の別れとなってしまった。
 日付線を越えて、8月18日の午後、無事に成田空港に着陸できたのでした。

 このたびのアメリカへの旅は、
長男家族により、日程の調整から往復の飛行機搭乗関係の手続きを、次男家族により、現地アメリカでのいろんな予約などをしてもらった。
 今回の和気あいあいの旅が事故もなく楽しくできたことに、とても満足し、子供たち家族に感謝したいと思っている。

 また、「アメリカの思い出」としては、書ききれなかった事も多く、ワシントンDCとニューヨークを垣間見ただけです。したがって独断と偏見を承知しているつもりです。

 最後になりましたが、この「柄目木庵」にお立ち寄りくださり、お読みいただいたとするなら、ほんとにありがたいことだと思っています。
ありがとうございました。

アメリカの思い出(10)

2005年09月11日 | 旅行など
 「グラウンド・ゼロ」 

 今日は、9月11日である。衆議院議員選挙の日でもあるが、2001年に「グラウンド・ゼロ」ができた日でもある。

 8月15日、私たちはニューヨークの「ヒルトンホテル」に集合。JTBの市内観光バスを予約しておいた。かなりの日本人観光客が集まってきた。

 バスは定刻に日本人ガイドの方を乗せて出発。
まずは「ブロードウェイ」から「タイムズスクエア」などを通過。この辺は昨日の散策で楽しんだところである。
 ほどなく、「エンパイアステートビル」に到着。エレベータを乗り継いで86階の展望台に登る。マンハッタンの東西南北が非常によく見渡せた。地上の車がおもちゃのように見える。

 今度はマンハッタン南端のバッテリパークから観光船で、ハドソン川に出て「自由の女神」を近くで見ることができた。思っていたより大きかった。
船はやがて美しい「ブルックリン橋」の下で、ユーターンして戻るコースとなった。改めてニューヨークのビル群の美しさを見ることができた。
あの辺に「貿易センタービル」があったはず、などと複雑な思いがする。

 サウスストリートシーボートの「フードコート」では各種料理のレストランが集まっている。それぞれが思い思いの料理を注文した。私は中国人の店で「特製の生寿司」をGetしてきた。特大のマグロが乗ったお寿司は、残念ながら大味でした。なんで中国の人がお寿司作ってんの、なんて詮索してもしょうがないですね。

 バスはやがて、連続テロで消滅した貿易センタービルの跡地に到着。多くの観光客が鉄格子越しに中を覗き込んでいる。燃え残った鉄材で作られたと言う十字架が異様である。

 ほんとにほんとにすばらしい一言のアメリカである。しかし、この十字架の現場といたるところでの「セキュリティ・チェック」は異常である。セキュリティ・チェックなどでは、とうてい「テロ」などは防げない、という実感がしている。それは何度もチェックを受けてみている体験からも、そのように思っている。

 「自由と平等」を旗印に世界に推し進める「アメリカのやり方」が、アメリカなどよりは何倍もの歴史を積み重ねた地域や国に、そのまま当てはまるはずがない。
相手を尊重しながらの支援でなくては、感謝や尊敬は得られないだろう。
しばしの黙とうの後に、重い気持ちでバスに乗り込んだ。

 バスは、私が2度も訪れることになるリンカーンセンターで小休止して、やがて「セントラルパーク」を抜けて、あした訪れるはずの「メトロポリタン美術館」前を通過。
出発点のヒルトンホテルに帰りついた。

 この後夜には、私は女房と長男と共に「リンカーンセンター」で2回目のコンサートを楽しんだことはすでに紹介した。
 他の6人は、改めて「ニューヨーク夜景ツアー・バス」で存分に美しい夜景を堪能してきたようであった。

 いよいよ、明日はニューヨーク(アメリカ)滞在最後の日となる。

アメリカの思い出(9)

2005年09月10日 | 旅行など
 「ニューヨーク散策」

 ニューヨークでの一夜があけて、今日は、徒歩でのニューヨーク散策となった。大事をとって、ちょっと風邪気味の孫Yとその母親Hさんをホテルに残し、7人でホテルから徒歩でのニューヨーク散策となった。
幸い、ホテルがミッドタウンということで、歩いても多くの観光ができそうである。
しかし、一歩街を歩き始めたら、なんと部分的ではあるが道路にごみが散らかっていて、しかも、ごみ臭いのにはびっくりだった。大都会特有の臭いであった。
 
 ホテルから西へ少しで美しい二つの尖塔をもつ「セント・パトリック教会」があり、中に入ると日曜日なのでミサが行われていて、やがて賛美歌が流れてきた。
 ごみひとつなく磨き上げられている「ロックフェラービル」とその広場、見上げるばかりの「クライスラービル」、とにかく高層ビルが林立している。

 ニューヨークの「吉野家」でお昼の牛丼を食べて、タイムズスクイアー近くの「トイザラス」で長男の嫁Hさんと孫Yと落ち合った。風邪の具合もよくなっているようだ。

 午後から、ブロードウェイー・ミュージカル「美女と野獣」をみんなで鑑賞する。館内では、お母さんに連れられた子供たちで満席である。我々はもちろんチケットは前もって確保しておいた。
 英語ではあるが、言葉は十分な理解はできないものの、ストーリーは十分に追っかけることができるもののようである。ハッピーエンドには思わず感激の涙も出てしまった。

 さて、予定では和食のレストランをガイドブックで探して、そこでの夕食を考えていた。しかし、現場に行ってみると、つぶれたのかなかった。
そのころから、にわかに雲行きも怪しく暗くなり、稲妻と雷鳴も激しくなってきた。ついに大粒の「サンダー・ストーム」となった。ビルのひさし部分で雨宿りすること小一時間。タクシーは止まってはくれない。
 ちょっとの小降ぶりで飛び出してみたが、再び大粒の激しい雨となった。
「Bank of America」のビルで雨宿り。
道路は河のようになり、その道路をタクシーが水しぶきを上げながら疾走していた。見ると、あの散らかっていたごみが、見事に雨水に乗って吸水口のところに集まってきている。
 なんと、このようなサンダーストームがニューヨークの街の清掃をしてくれているのだ、と納得!

 なんとか、雨足も小さくなり孫たちをせかして、ホテルまで駆けたのであった。

アメリカの思い出(8)

2005年09月10日 | 旅行など
 「 Mostly Mozart Festival」

 夏場はクラシック音楽のオフシーズンらしい。そしてこのシーズンを利用して、ここ「リンカーンセンター」のいくつかのホールを会場にした、特別なプログラムによる演奏会が行われていた。モーツアルトの曲を中心にしたシリーズであった。

 ニューヨーク到着の最初の夜(8/13)、ノーネクタイながらも服装を整えて「リンカーンホール」に出かけた。孫たちは長男の嫁Hさんにお願いしてホテルで留守番である。
私たち二人、長男、次男夫婦の5人である。センターの中の「Avery Fisher Hall」での演奏会である。
7:00pmからの「プレコンサート」でちょっとしたピアノリサイタルを楽しむことができた。
8:00pmから本番のコンサートとなった。
J.C.BACH Symphony in G miner
BEETHOVEN Piano Cocerto No.1
MOZART Va,dal,furor portata
HAYDN Symphony No.104
 演奏はこのFestival Orchestraでテノールはラッセル・トーマス。

 初めての外国でのコンサートはホールの雰囲気から演奏など、新鮮な体験となった。

 このことに味を占めて、8/15の夜、再びリンカーンホールに出かけた。
この日は、昼間「一日ツアーバス」でニューヨーク市内を見学した、その夜ということになる。私たち二人と長男だけである。
後の人たちは、「ニューヨークの夜景ツアー」に出かかけたのである。

 今夜のホールは「Alice Tully Hall」で、有名な「ジュリアード音楽院のホール」である。
プレコンサートは「Fortepiano」の演奏でチェンバロのような楽器でした。
この楽器も加わり、本番のコンサートはオール・モーツアルト」となりました。
Fantasy in C minor,K.475
Rondo in A minor,K.511
Fantasy in C minor,K.396

 日本では聴くこともなかった、このようなモーツアルトの作品を鑑賞できたのは幸いであった。休憩時には和やかな談笑があちこちに見られ、私たちも年配のご婦人との会話をもてたのはうれしいことであった。
 しかし、どこを見回しても黒人の方は、とても少なくてほんの数人だけであった。
 もしこれが、ニューオーリンズなどのジャズ喫茶やホールであれば、ほとんどが黒人と言うことになるのだろうか。文化の違いだけなのであろうか。
 

アメリカの思い出(7)

2005年09月10日 | 旅行など
 「DC.からニューヨークへ」

 いよいよワシントンDCからニューヨクへの移動となった。
移動には飛行機もあるし、アムトラック(長距離電車)もある。セキュリティーがうるさく、早くから飛行場に行く必要のある飛行機よりは、地上の風景を楽しみながらの3時間、アムトラックを選んだ。
ワシントンDCのユニオン駅から2時間遅れでようやくアムトラックに乗れた。遅れは日常茶飯事のようである。

 車窓から移り変わっていく風景は、さすがにすばらしい。海岸、湖、貧民街、工場跡の廃墟などさまざまである。

 やがて、ニューヨークはPenn駅に到着。マンハッタンはミドルタウンのマジソンスクエアであった。地上に出るととたんに、そこは灼熱地獄のような暑さであった。まさにヒートアイランドである。ひしめく「イエローキャブ(タクシー)」、そして人人である。目がくらみ、頭がくらくらするような感じであった。
これがニューヨークなのか。

 イエローキャブ2台に分乗。「レキシントン・アベニュ、51stストリート、プリーズ」と告げるやいなや脱兎のごとく走り出した。
なんとか、無事に「ダブルツリー・メトロポリタンホテル」に着くことができた。

 イエローキャブはニューヨークに17000台ほどが走り回っているそうですが、そのドライバーはほとんどが移民などの黒人の方である。

アメリカの思い出(6)

2005年09月10日 | 旅行など
 「ワシントンDC.近郊」 

 いよいよロックビル滞在も最後の日となった。

 我がファミリー9人が全員、2台の車に乗って近郊にあるジャーマンタウンにある農場を訪れた。
 農園の受付を通り、農場に入る。小高い丘があちこちに散在した広大な農地である。
まず、「ブルーベリー」の収穫をする。いとも簡単にバケツが一杯になる。
続いて、バギーで現れた農場の方に案内されて「ブラックベリー農場」に到着。
黒くなったものはとても甘くておいしい。じゃんじゃん収穫する。 
 ロックビルに戻り、昼食にはさっそく新鮮なブルーベリーやブラックベリーをいただいた。孫たちには、この上ない思い出となったことであろう。

 午後からは、嫁TKさんに留守と子守を頼み、大人5人でロックビルとDCの中間に位置する「ベセスダ」の町に行った。
 ここには「国立衛生研究所(NIH)」がある。多くの研究機関と医療センターなどから構成されている。医療に関する研究や研究者の育成、調査研究への支援などをしている。米国はもちろん世界中からの研究者を受け入れている。ノーベル賞受賞者を多く輩出しているようである。
 構内では無料バスが運行されていて、いろいろと移動の便宜を図っている。
私たちは、とても厳しいチェック(パスポート、持ち物検査)を通り、胸に許可証を貼り付けて、研究棟の一部や医療センターの内部などをすこし見学できた。
諸外国からも多くの研究者を受け入れていたりして、この辺にアメリカのすばらしさを感じたのであった。

 一度、ロックビルに帰り再び全員、車でジョージタウンにある「ワシントン大聖堂」に向かった。このところは「アメリカの思い出(2)」に書いた。
 この大聖堂には「ヘレンケラーとサリバン先生」なども眠っているそうです。
日本語のパンフレットなども用意されていて、とても強い印象が残っています。

アメリカの思い出(5)

2005年09月09日 | 旅行など
[ I have a dream! ]

今日は、ワシントンDC見学の二日目である。
今日は昨日の暑さに懲りて、「ユニオン駅構内」で「ツアーモービル」のチケットを買った。乗り降り自由な連結バス・窓無しである。

 まずは、乗る前に「オールドポストオフイス」に入り、「ベンジャミンフランクリン」の像を見た。孫たちに説明してあげた。

 いよいよバスに乗り込んだが、親子ずれで空席がないほどである。黒人女性によるガイドで、早口の英語でがんがんやられて、さっぱり何を言っているのかわからない。さいわい、昨日はモールを中心に少しは歩いているので、およその地理的な理解があったので助かった。

 まずポトマック河畔で下車した。春には美しい桜の公園となるのであろう。
昔、第27代大統領婦人ヘレン・タフトさんのご希望で、日本から贈られた桜の木々が元祖であるとか。ここに、若き日のジェファソン(独立宣言の起草者)像が記念館の中にある。

 また、バスに乗り込んで「リンカーン記念館」にたどり着く。古代ギリシャの神殿のような記念館の中に、どっしりと大きなリンカーン像がモールを通して国会議事堂やワシントン記念塔を眺めている。
 あまりにも有名な「リンカーンの言葉" that government of the people,by the people,for the people"」が壁面に刻まれていた。
また、この記念館前広場での「マーチン・ルーサー・キング牧師」の「 I have a dream ! 」の演説があまりにも有名である。
ここは、「自由と平等のシンボルの場所であり、原点」なのであろう。
 今回のアメリカ滞在は短いながらも、もっともアメリカ的なこの「自由と平等」が、かならずしも十分には実現されてはいなくて、道半ばであるなあ、と実感することがいくつもあった。

 バスはまるで万代橋(新潟市)にそっくりな橋を渡り、ポトマック河を超えてバージニア州に入った。「アーリントン国立墓地」である。美しく整備された墓地には多くの有名、無名の戦争犠牲者が埋葬されているとか。静かな美しい墓地である。宗派によらないそうである。
独立戦争から湾岸戦争までの兵士たちが、ここに眠っているとか。さらにイラク戦争の兵士もここに眠るのであろうか。

 厳粛な気持ちと同時に、「人間のあさはかさ」を、いやと言うほど感じたのは不遜のそしりを受けようか。

アメリカの思い出(4)

2005年09月09日 | 旅行など
 「ワシントンDC」

 アメリカでの初日の朝を迎えた。朝食も終わりロビーで待っていると、次男夫婦に孫二人が迎えにやってきた。
嫁TKさんと孫二人(SとYU)とはしばらくぶりで、「やーやー、きゃーきゃー」とひとしきりの対面を喜び合う。

 ロックビルからはワシントンDC中心部までは、メトロ(地下鉄)のレッドラインで乗り込める。電車内はとても清潔で、みなさん静かに乗っている。ただ、車内には「不審物やテロ」に注意の張り紙があり、ちょっと緊張した。

 その日、ワシントンDCは、やはり日差しも強く歩いての見学には、いささか厳しかったが、みんな元気で歩いた。そこはDCの中心部「モール」と呼ばれる地域である。さっそく「ホワイトハウス」を見に行く。ニュースなどで見慣れた静かなたたずまいであった。まさにここが政治の中心なのか、という感慨が沸いてきた。
 やがて「ワシントン記念塔」が見えてきた。ワシントン市内は、ビルが非常に多いが落ち着いた美しい街である。このワシントン記念塔より高いビルの建設は許可されないのだそうである。空間のないニューヨークなどとは対照的である。
したがって、市内のどこからもこの「記念塔」を見ることができる。

 DC市内には数多くの「スミソニアン協会」関連の美術館や博物館など、数多く存在する。私たちも孫中心で動いて「自然史博物館」に入った。
入場は無料であるが、入場時にはセキュリティーチェックが厳しく、持ち物はすべて開けて検査された。どこでも検査官は黒人の方であったのが不思議ではあった。
 なにしろ、夏休み最中で、親子連れの入館者でごった返していた。
このような様子は、アメリカでも日本でも同じようであるのがほほえましい。
展示物の豊富なのにはびっくりで、とても見切れるものではない。

 館内の食堂では、並んで次々と欲しい食べ物をトレーに上げてもらって,最後に会計。どれも大きくて、甘みを中心にしたものが多く、どれがメインでどれが副食なのかわからない。とにかくお腹に入れた。おいしいなどとはとてもいえない。

 さいわい、夕食は次男宅でおいしい「かに入りスパゲッティー」などで救われた気持ちであった。

 写真は、リンカーン記念館から望んだモールとワシントン記念塔や国会議事堂である。

アメリカの思い出(3)

2005年09月04日 | 旅行など
 「アメリカでの食事など」

 私どもは、ワシントンDC近郊のロックビルで「RAMADA INN」というホテルに4泊した。とても落ち着いた静かな環境であった。
 ニューヨークでも4泊、ここではミッドタウンの「DoubleTree メトロポリタンホテル」であった。まさにニューヨークの喧騒の中心地にあった。
かつて映画の中で「マリリンモンロー」のスカートがめくれ上がったシーンの撮影場所がホテルのまん前であり、その風を吹き出した地下鉄の換気口目皿が今でも歩道にそのまま残っていた。多くの国からの客がごった返しているホテルでした。

 写真は、正面がロックビルで宿泊したホテル、右がアパート(マンションとは言わない!)、左側はショッピングモールとなっている。
 なんとその一部にスポーツ用品のお店があったのだが、アウトドアー用品の一部に新潟県三条市のメーカーのブランド品があった。世界の一流品ブランドになっていたのには感激であった。
 
 毎日、朝起きると朝食の心配をしなければならない。
早い話が、日本人でも日ごろ「パン食やファーストフード」で済んでいる人には、なにも問題はない。私のように「和食」でないと食べた気がしない、パンはおやつである、などという人間にとってはかなり大変である。
 それでも、郷に入れば郷に従いで積極的になじもうと勤めたのである。
 
 ロックビルではホテルのレストランでの朝食がそれでも安く利用できた。注文などは長男Tに頼んでの注文である。ちょっと情けない。
パンかフレーク、それにコーヒーかミルク、果物やジュースなど、まあまあ満腹にはなった。注文したはずの料理がこないのに請求書には付いていたりして、断固ゆずらなかった長男に、逆にウェーターが脱帽と言う場面もあった。僕には到底なせる業ではないことだと思った。

 3日目あたりには、私の「ガス」が、あのアメリカの味(きつい甘さ中心)のものになっていたのにはびっくりでしたHI。
 
 ニューヨークのホテルでは、思い切って女房と二人だけでホテルのレストランの朝食に挑戦してみた。なかなかのサービスに「プリーズ、プリーズ」などと言っていたら、やはりかなりの金額になってしまった。TAXにチップに面倒なことでした。ただ、果肉がたっぷりのオレンジジュースは、さすがにおいしかった。

 朝食は、基本的には近くの「ファーストフード店」で済ませることが多くなった。
 昼食は、それぞれの移動場所でのやはり「ファーストフード」利用が多かった。このようなお店が実にいたるところにある。
ニューヨークには、なんとなつかしい「吉野家の牛丼」のお店があり飛び込んでみた。まあまあ、おいしかった。とても賑わっていた。

 夕食は、ロックビルでは次男家族に招待されては、嫁TKさんの手作り料理にあずかった。「そうめん」などを食べさせていただいたり、「カレーや特性かにパスタ」など、ほんとにほっとしておいしくいただくことができた。
 ニューヨークに移ってからは、やはり簡単に済ますことが多かった。
最後のディナーだけは「イタリア料理」の店で別れの宴としたかった。
しかし、イタリア人の結婚式の二次会が入っていて、花嫁さんを囲んでキャーキャーとうるさいことうるさいこと。陽気にカンツォーネや踊りもはじまり、こちらまでタンバリン演奏の協力要請を受けたり、それは賑やかであった。まあ、これも楽しい旅の思い出ではあった。

 成田到着後、スカイライナーや新幹線を乗り継いで、新潟駅でちょうど夕食時となった。家に帰っても何もないので女房と駅構内の食堂に入る。
女房は「冷やし中華」、僕はカレーセット「カレーライスとラーメンのセット」でした。こんなものでしかなかったけど、とてもおいしくて、これぞ「日本の味」なのだなー、と思いました。

アメリカの思い出(2)

2005年09月04日 | 旅行など
 「ワシントン大聖堂」 

 米ハリケーン「カトリーヌ」は、私たちがヒューストンからワシントンDC.に向かうときに飛行機で通過したルイジアナ州・ニューオーリンズなどに、とんでもない被害を残した。復旧の早からんことを切に願っている。

 実は、今朝ほどの某TV「題名のない音楽会」という番組でピアニスト「ブーニン」さんが出演していてショパンのピアノ曲を何曲か演奏された。
彼が、演奏の自由を求めて、かつての「ソ連」から「ドイツ」に亡命していた頃、彼の支えは「J.S.バッハのJeus,Joy of Man's Desiring(主よ、人の望みの喜びよ)」だったと言う。

 私たちは、最後のDC.滞在の午後のひと時を、Washington National Cathedralの訪問見学に当てた。
次男Oとその嫁TKさんの運転する車2台に分乗してDC.中心部からジョージタウンの方に走ると、やがて巨大なゴシック様式の大聖堂が見えてきた。
 見上げているだけで首が疲れてしまうくらいの高さの建造物である。
内部は静寂そのもので、おのずと厳粛な気持ちになった。その日には特別な儀式などもなく存分に内部の見学ができた。この際、宗教の違いなど気にならず、孫(Y,S,YK)たち3人の健やかな成長を願ってローソクを灯してあげた。
 ステンドグラスには日が差し込み、周囲の壁が虹色に光りだしたり、祭壇の前部の両サイドに堂々たるパイプオルガンが設置されていた。
この空間で堂々とパイプオルガンの音が響き渡ったら、どんなにかすばらしい音がすることであろう、などと思いをめぐらせたのであった。

 さいわい大聖堂の地下売店で、願ってもないCDを見つけて買ってきた。
「The Great Organ of Washinnton National Cathedral」で、オルガニストはDOUGLAS MAJORという方である。
 バッハの「トッカータとフーガ」や「主よ、人の望みの喜びよ」、それにヘンデルの「水上の音楽」などのオルガン演奏の名曲の数々が収録されていた。

 ブーニンさんのピアノによる演奏で「主よ・・・」を聴いた後、すぐに我がリスニングルーム?に飛び込んで、例のCDでオルガン演奏の「主よ・・・」を聴いた。
 そうか、この曲が、つらい日々のブーニンさんを支えてくれたのか、そんな思いでしみじみと味わうことができた。
もちろん、ピアノ演奏もすばらしかったが、宗教音楽であるこの曲にはやはりオルガン演奏がいいなあ、などとも思った。大聖堂での録音ながらエコーの処理をほどほどに抑えて、それでいながら巨大空間での響きが伝わってきたのである。

アメリカの思い出(1)

2005年08月30日 | 旅行など
 「はるかなるアメリカ!」

 私が、近々一度はアメリカを訪れてみようと思ったのは、次男家族がアメリカにいる間に、ということからであった。
しかし、とても私ども夫婦では心もとなく、長男家族にも同行してもらうことにした。
 3家族でメールのやり取りで、その計画や準備が進んだ。今年の春先からのことであった。

 はじめは、成田空港からコンチネンタル航空でニューヨーク(ニューアーク空港)。乗り継いでワシントンDC.(ダレス空港)の予定であった。

 ついに、出発の日(8/9)が来た。
 新津駅を8時35分、電車で新潟へ。更に新幹線で上野駅へ。
ここで、長男の嫁Hさんが出迎えてくれて、京成上野からスカイライナーで成田空港第2ビルへ向かう。日暮里から乗り込んだ長男Tと孫Y。
長男の携帯にHISから出発便が変更になった旨の電話が入ったとのこと。
 何とはなしに、これからの旅に不安がよぎる。

 なかなか厳しくなった出国検査も無事通過。
変更された出発便はコンチネンタル6便で、なんとヒューストン経由となっている。早めの出発となったはずが、実際の出発は16時20分。
早めの夜を迎えるが眠れない。
高度10,000m、対地速度1000km/h、温度ー45度Cで太平洋上を飛んでいる。
 やがて、北米の陸地内飛行となり、ロッキー山脈や乾いた大地などさまざまな地上風景が見える。

 日付変更線を通過しているので、また8/9である。ヒューストン上空に来たが旋回している。空港近辺はサンダーストームで着陸不能なので近くのオースチン空港に給油をかねて緊急着陸するとアナウンス。1時間半ほどの時間が余計にかかり、ヒューストンに着く。入国手続きが厳しく、指紋採取やらいろいろと時間がかかり、結局乗り継ぎ予定の飛行機は飛んでいってしまった。

 次のワシントンDC.(レーガン空港)行きは18時過ぎに飛び立ち、DCには22時30分に到着した。気持ちの上ではワシントンDCの夜景を見るゆとりがなかった。
ここで、次男Oが出迎えていてくれて、久しぶりの再会を喜び合った。ところが、荷物が出てこない。次男がクレームを入れるが、結局次の便で届くことが多いとのことで空港で時間をつぶす。
この時間になるとメトロ(地下鉄)も走らなくなっているので、バンタイプのタクシーを交渉して確保しておいた。
 さいわい、次の便で、私どもの荷物は無事届いたのであった。

 バンタイプタクシーには、二人の客も同乗していた。
二人の客を、それぞれの場所まで運びばっちり料金をいただいていた。
ようやく、真夜中のワシントンDC郊外を走りぬけ、メリーランド州ロックビルのホテルに着いたのは、8/10となった1時半くらいの真夜中であった。

 まさしく、はるかなアメリカであり、遠かった!
二人の息子たちの語学力に助けられたと言うのが実感であった。

ただいま帰りました!

2005年08月18日 | 旅行など
 夏期休暇ということで、
アメリカのワシントンDCとニューヨークへの旅10日間でした。先ほど無事戻りました。予定通りというか、数々のハプニングを体験できました。
 いずれこのBLOGにも、その様子など紹介できればと思っています。

 今週末は「ハムフェアー」に日帰りですが行って来ようと思っています。
次の週末は、酒田での「KCJ・7エリア地区ミーティング」に参加しようかな、などとも思っています。

 宮城沖の地震はニューヨークのホテルのTVワッチで知りました。あちらでもトップニュースでした。親しくさせていただいている方々が、そちらの方にも多くいます。
ご無事であっただろうかと心配しています。

 何はともあれ「I'm home!」というご挨拶でした。
                  また、よろしくです。