柄目木庵

良寛さまに思いをよせながら。

ある愛の詩

2005年09月29日 | 日々これ好日
 「ある愛の詩」とうテーマに惹かれて、お訪ねいただいたとすると申し訳ない気がします。
 気が付いてみると9月ももう終わりでした。
なにか書いておこうかな、という軽い気持ちです。

 先週末の連休には、孫を連れて上越市金谷山のマウンテンバイク「MBXコース」に行って来ました。孫は試走を許可されてコースを走ることができて、大いに満足したようでした。本格的なコースが整っているのにはびっくりでした。すばらしい施設だと思いました。
ご存知とは思いますが、金谷山というのは日本でのスキー発祥の地なのです。

 昨日は、毎年恒例の「新米(こしひかり)の発送」をしました。
この時期、女房の実家から一年分のお米を玄米の形で購入しておきます。そして保管してもらっていて、ときどき必要な分を精米してもらっています。
いつも、お世話になっている方には、新米10kgずつですが、日ごろの感謝の気持ちをこのような形でお送りしています。
とてもおいしいと大変喜ばれています。

 我が家は、ある面でとても贅沢です。
 私はHF帯の無線機を3台も持っています。いずれも日本を代表するメーカーの代表機種です。
 女房は、電子オルガン、クラビノーバ、スタンドピアノとやはり3台も持っています。
お互いに趣味のための贅沢は、ある程度いいんじゃあない、と言う暗黙の了解があります。

 その女房が、何年も前に練習していた「Love Story」を新たなアレンジで練習を始めました。
この曲は知らない人とてないほどヒットしました。いつ聴いてもすばらしい曲ですよね。
私はその昔「尾崎紀世彦カスタム20」というLP盤で、その曲をいつも聴いていました。
 ひょっと思いついてレンタルビデオ屋さんに走りました。DVD版「Love Story」がありました。
「ある愛の詩」とはよくぞネーミングしていただいたと改めて感激しています。
すばらしい音楽、美しい風景やその映像、愛し合う若い二人の真剣な姿、「愛とは、決して後悔しないことなのよ」と言う彼女。そしてやがて訪れる「愛する人との永遠の別れ」。残された彼も「愛とは、決して後悔しないことなんだ」と父親に言い切るのである。

 いよいよ秋も本番。
出かけるもよし、音楽よし、読書よし、電波もよく飛んでくれる。
さあ、どんな10月となるのであろうか。

戦いの後(ARDF)

2005年09月21日 | アマチュア無線
 今日は「Reg.3 ARDF大会」の競技(3.5MHz)がいよいよ始まる。

 私はゴール地点の担当である。
朝7時前に家を出た。本部のある阿賀野市の旅館には、すでにTX班のスタッフが勢ぞろいして出発するところであった。
私たちゴール班も、本部を出発してスタート地点に寄ってからゴール地点に到着。
いやはや、選手などにならなくてよかった。車で走ってもかなりの距離である。
非常にハードな競技だといつも思う。

 ビーコンの設営、ゴール地点の導入路づくり、ゴールの横断幕、テント張り、テーブル・イスの準備、コンピュータと選手の到着時刻を正確に計測する「SI」のセットなど、かなりの仕事がある。班長さんの指示でてきぱきと作業を進めた。

 9時を過ぎる頃には、各TXからのID電波が聞こえ出した。準備OKだ。
9時35分には「スタートしました」という知らせが流れる。正確な時間間隔で次々とグループでスタートする。
私の担当は、データ取得の不具合の場合のバックアップである。いざと言う場合に備えたもので、手書きでゼッケン番号とタイムを記録することである。
普通はSIシステムにより自動的に選手のデータが読み込まれるのである。

 いよいよ緊張が増してきた。2時間前後から選手がゴールするようになった。
多くの応援者から、歓声や拍手、檄の声が飛んだりしている。
2時間あまりも道もない山野を駆け巡って、電波の発信源を幾つも探してゴールするのである。それでも勢いよく飛び込んでくる選手、また、よろよろと歩いてゴールするものとさまざまである。

 オーストラリア、中国、カザフスタン、韓国、モンゴル、ロシア、タイ、USA、日本と飛び込んでくる選手の国籍はいろいろである。国際大会ならではの光景である。中でも、若い人を中心にした「カザフスタン」の選手の元気がよかったように思われた。午後も3時を過ぎるとタイムオーバーで失格になる選手も出てきていた。

 競技も終わり、各国の選手は思い思いに昼食をとりながら休息をしていた。
私には、どの国の選手にも親しみを覚えたが、特に「CQ WW」などのコンテストでサービスいただくアジアの西の端「ウズベキスタン」の人たちに声をかけたかった。そしてついに一緒に写真を撮らせていただいたのである。

 各国の選手の皆さんには、23日(144MHz)での競技が残っている。健闘してほしい。
それに明日は休息日で、「日本を楽しむ一日」となっている。大学生など多くのボランティアがお供することになっている。多くのスタッフやボランティアに支えられたこの大会が盛会に無事終了できることを心から念じています。 
 
 残念ながら、私のボランティアでの参加は今日で終わりである。
私は、前々からの孫との約束で、週末の連休は「孫と過ごす」予定となっていました。申し訳ない。

Reg.3ARDF大会始まる

2005年09月19日 | アマチュア無線
 この春先から地元スタッフを中心に準備されてきた「Reg.3ARDF」大会がいよいよ始まる。

 今日は阿賀野市において、役員、ボランティアが集合して、最後の顔合わせとミーティングが行われた。
 私もゴール地点での要員として参加することになった。

 日本で初めての国際的な大会ということで、関係されているスタッフの方々のご苦労は並大抵ではなかったであろう。頭の下がる思いである。
大会が無事に盛大に終了することを願っている。

 午後からは、諸外国からの選手団を迎えて、その受付なども始まった。
また、全国各地からのボランティアの人たちも集まってきている。
平行して、記念局「8N03ARDF」を本部(阿賀野市)に設置して、そのアンテナ設営が行われて、少しお手伝いした。設営はさすがに手馴れたOM諸子により、あっという間に組みあがった。

 明日20日は、144,3.5MHzでの練習会があり、夕方に開会式となる。
21日は、いよいよ3.5MHzでの競技大会となる。
22日は、休息日ということで、選手の皆さんは観光やショッピングを楽しむことでしょう。
23日は、144MHzでの競技大会と表彰式が予定されている。

 主だったスタッフの皆さんは大会終了まで連日泊り込みで業務に専念される。
ほんとにご苦労様である。
競技もさることながら、諸外国の選手とのコミュニケーションを大いに楽しみ、国際親善にも役立ちたいものである。

あれっ!アスベストだ!

2005年09月14日 | 日々これ好日
 暑くなったり、涼しくなったり、でも気づいてみると9月も半ばですね。

 遊びすぎて、ぜんぜん手入れを怠けていた家の周りの草刈や掃除をしました。
やっぱり汗ビッショリとなりました。

 私は「蚊やぶと」などに弱く、ハムの移動運用などの時には気を使っています。
今日も、有名な「なんとか鳥」の「渦巻き蚊取り線香」に火をつけて、腰にぶら下げる容器に納めようとして、はっと気づきました。
なんと、目下話題の「石綿」が線香を支える部分にも、ふたの部分には網状になって、使用されているではありませんか。

 どうしようと、ちょっと考えましたが、今日のところは、とにかく腰にぶら下げて作業に取り掛かりました。おかげで、伸び放題の草むらでしたが、蚊に刺されることもなく作業を終えることができました。
 来シーズンには、もちろん使用しません。
優れた素材ながら、とんでもない面を持っていたとは、恐ろしいことです。
特に電気器具などには、いろいろと使用されているのではないでしょうか。

 やはり問題なのは、このアスベストの危険性を十分に把握しながら、使用の禁止や使用上の注意のために十分な対応をとらなかった行政のあり方でしょうね。

 小泉さんが、このたび2/3の勢力を獲得したとか。健全野党のない状態で、政府は行政の各省庁の役人たちのやっていることを、きちんと把握できるのでしょうか。とても心もとないと思っています。

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 この記事について、コメントを見ていただくとわかりますが、私が指摘した製品に使用されているのは「アスベスト」ではなく「ロックウール」というもののようです。訂正とお詫びです。de JA0AAQ

アメリカの思い出(11)

2005年09月11日 | 旅行など
 「さようなら!New York」

 いよいよニューヨーク滞在の最後の日となった。
この日は、セントラルパークでしばしの時間をとり、再び夕方、予約してある「イタリアン・レストラン」に集まって、そろってのディナーにしようと言うことになっていて特別のスケジュールは無しと言うことにした。

 セントラルパークは広大で静かで豊かな樹木があり、とても大ニューヨークのど真ん中とは思えない。憩うにはもってこいの場所である。
孫たちは、りすと戯れたり、「アンデルセン」の像や「不思議の国のアリス」の像に登ったりして余念なく遊んでいた。

 長男家族は、セントラルパーク内でのサイクリングを楽しんでから、「MoMA:近代美術館」を訪れたいと言う。
 次男家族は「メトロポリタン美術館」を見て、その後「ポケモンセンター」の予定だそうである。
 私たち夫婦は、午前中は次男家族と一緒にメトロポリタン美術館に行くことにした。

 セントラルパークに隣接する「メトロポリタン美術館」は、世界の4大美術館のひとつに数えられる規模である。日本からの所蔵品も多く、案内書は日本語版も用意されていた。大急ぎで見て回っても、一日ではとても無理である。
ヨーロッパ中世の全身を覆う「甲冑」を見て、まるでロボットだと思った。
少し早めに館内の「アメリカン・ウィングのカフェ」で昼食とした。

 私たち二人は、休養するために次男家族と別れてタクシーでホテルにひとまず引き上げることにした。
 実は、二人だけでタクシーに乗るのは始めてであった。
ホテルの住所と名前を告げた。幸い、アヴェニューとストリート番号が交差点ごとに示されていて、どこを通っているかがわかる。しかし、ホテルの少し手前でタクシーから降ろされた。何かを言われたのだが、残念ながら意味不明。発音が悪かったのか、一方通行などによるものかは判然としなかった。意思疎通が思うに任せないのは、なんとも無念であった。

 約束していた時刻に再び全家族が、予約済みの「イタリアン・レストラン」に集合。お互いに今日の成果を語り合った。このディナーの様子はBLOGの前のところで紹介したことがあります。

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 よく日(8月17日)、早朝にニューヨークPenn駅へ。
ここで私たちと長男家族は帰国のため電車で「ニューアーク空港」へ。
次男家族はアムトラックでワシントンDCへと戻ることとなった。
10日間近く一緒に過ごして、ここでお別れというのは、さすがにつらい。幸い、あわただしさに紛れて、あっという間の別れとなってしまった。
 日付線を越えて、8月18日の午後、無事に成田空港に着陸できたのでした。

 このたびのアメリカへの旅は、
長男家族により、日程の調整から往復の飛行機搭乗関係の手続きを、次男家族により、現地アメリカでのいろんな予約などをしてもらった。
 今回の和気あいあいの旅が事故もなく楽しくできたことに、とても満足し、子供たち家族に感謝したいと思っている。

 また、「アメリカの思い出」としては、書ききれなかった事も多く、ワシントンDCとニューヨークを垣間見ただけです。したがって独断と偏見を承知しているつもりです。

 最後になりましたが、この「柄目木庵」にお立ち寄りくださり、お読みいただいたとするなら、ほんとにありがたいことだと思っています。
ありがとうございました。

アメリカの思い出(10)

2005年09月11日 | 旅行など
 「グラウンド・ゼロ」 

 今日は、9月11日である。衆議院議員選挙の日でもあるが、2001年に「グラウンド・ゼロ」ができた日でもある。

 8月15日、私たちはニューヨークの「ヒルトンホテル」に集合。JTBの市内観光バスを予約しておいた。かなりの日本人観光客が集まってきた。

 バスは定刻に日本人ガイドの方を乗せて出発。
まずは「ブロードウェイ」から「タイムズスクエア」などを通過。この辺は昨日の散策で楽しんだところである。
 ほどなく、「エンパイアステートビル」に到着。エレベータを乗り継いで86階の展望台に登る。マンハッタンの東西南北が非常によく見渡せた。地上の車がおもちゃのように見える。

 今度はマンハッタン南端のバッテリパークから観光船で、ハドソン川に出て「自由の女神」を近くで見ることができた。思っていたより大きかった。
船はやがて美しい「ブルックリン橋」の下で、ユーターンして戻るコースとなった。改めてニューヨークのビル群の美しさを見ることができた。
あの辺に「貿易センタービル」があったはず、などと複雑な思いがする。

 サウスストリートシーボートの「フードコート」では各種料理のレストランが集まっている。それぞれが思い思いの料理を注文した。私は中国人の店で「特製の生寿司」をGetしてきた。特大のマグロが乗ったお寿司は、残念ながら大味でした。なんで中国の人がお寿司作ってんの、なんて詮索してもしょうがないですね。

 バスはやがて、連続テロで消滅した貿易センタービルの跡地に到着。多くの観光客が鉄格子越しに中を覗き込んでいる。燃え残った鉄材で作られたと言う十字架が異様である。

 ほんとにほんとにすばらしい一言のアメリカである。しかし、この十字架の現場といたるところでの「セキュリティ・チェック」は異常である。セキュリティ・チェックなどでは、とうてい「テロ」などは防げない、という実感がしている。それは何度もチェックを受けてみている体験からも、そのように思っている。

 「自由と平等」を旗印に世界に推し進める「アメリカのやり方」が、アメリカなどよりは何倍もの歴史を積み重ねた地域や国に、そのまま当てはまるはずがない。
相手を尊重しながらの支援でなくては、感謝や尊敬は得られないだろう。
しばしの黙とうの後に、重い気持ちでバスに乗り込んだ。

 バスは、私が2度も訪れることになるリンカーンセンターで小休止して、やがて「セントラルパーク」を抜けて、あした訪れるはずの「メトロポリタン美術館」前を通過。
出発点のヒルトンホテルに帰りついた。

 この後夜には、私は女房と長男と共に「リンカーンセンター」で2回目のコンサートを楽しんだことはすでに紹介した。
 他の6人は、改めて「ニューヨーク夜景ツアー・バス」で存分に美しい夜景を堪能してきたようであった。

 いよいよ、明日はニューヨーク(アメリカ)滞在最後の日となる。

アメリカの思い出(9)

2005年09月10日 | 旅行など
 「ニューヨーク散策」

 ニューヨークでの一夜があけて、今日は、徒歩でのニューヨーク散策となった。大事をとって、ちょっと風邪気味の孫Yとその母親Hさんをホテルに残し、7人でホテルから徒歩でのニューヨーク散策となった。
幸い、ホテルがミッドタウンということで、歩いても多くの観光ができそうである。
しかし、一歩街を歩き始めたら、なんと部分的ではあるが道路にごみが散らかっていて、しかも、ごみ臭いのにはびっくりだった。大都会特有の臭いであった。
 
 ホテルから西へ少しで美しい二つの尖塔をもつ「セント・パトリック教会」があり、中に入ると日曜日なのでミサが行われていて、やがて賛美歌が流れてきた。
 ごみひとつなく磨き上げられている「ロックフェラービル」とその広場、見上げるばかりの「クライスラービル」、とにかく高層ビルが林立している。

 ニューヨークの「吉野家」でお昼の牛丼を食べて、タイムズスクイアー近くの「トイザラス」で長男の嫁Hさんと孫Yと落ち合った。風邪の具合もよくなっているようだ。

 午後から、ブロードウェイー・ミュージカル「美女と野獣」をみんなで鑑賞する。館内では、お母さんに連れられた子供たちで満席である。我々はもちろんチケットは前もって確保しておいた。
 英語ではあるが、言葉は十分な理解はできないものの、ストーリーは十分に追っかけることができるもののようである。ハッピーエンドには思わず感激の涙も出てしまった。

 さて、予定では和食のレストランをガイドブックで探して、そこでの夕食を考えていた。しかし、現場に行ってみると、つぶれたのかなかった。
そのころから、にわかに雲行きも怪しく暗くなり、稲妻と雷鳴も激しくなってきた。ついに大粒の「サンダー・ストーム」となった。ビルのひさし部分で雨宿りすること小一時間。タクシーは止まってはくれない。
 ちょっとの小降ぶりで飛び出してみたが、再び大粒の激しい雨となった。
「Bank of America」のビルで雨宿り。
道路は河のようになり、その道路をタクシーが水しぶきを上げながら疾走していた。見ると、あの散らかっていたごみが、見事に雨水に乗って吸水口のところに集まってきている。
 なんと、このようなサンダーストームがニューヨークの街の清掃をしてくれているのだ、と納得!

 なんとか、雨足も小さくなり孫たちをせかして、ホテルまで駆けたのであった。

アメリカの思い出(8)

2005年09月10日 | 旅行など
 「 Mostly Mozart Festival」

 夏場はクラシック音楽のオフシーズンらしい。そしてこのシーズンを利用して、ここ「リンカーンセンター」のいくつかのホールを会場にした、特別なプログラムによる演奏会が行われていた。モーツアルトの曲を中心にしたシリーズであった。

 ニューヨーク到着の最初の夜(8/13)、ノーネクタイながらも服装を整えて「リンカーンホール」に出かけた。孫たちは長男の嫁Hさんにお願いしてホテルで留守番である。
私たち二人、長男、次男夫婦の5人である。センターの中の「Avery Fisher Hall」での演奏会である。
7:00pmからの「プレコンサート」でちょっとしたピアノリサイタルを楽しむことができた。
8:00pmから本番のコンサートとなった。
J.C.BACH Symphony in G miner
BEETHOVEN Piano Cocerto No.1
MOZART Va,dal,furor portata
HAYDN Symphony No.104
 演奏はこのFestival Orchestraでテノールはラッセル・トーマス。

 初めての外国でのコンサートはホールの雰囲気から演奏など、新鮮な体験となった。

 このことに味を占めて、8/15の夜、再びリンカーンホールに出かけた。
この日は、昼間「一日ツアーバス」でニューヨーク市内を見学した、その夜ということになる。私たち二人と長男だけである。
後の人たちは、「ニューヨークの夜景ツアー」に出かかけたのである。

 今夜のホールは「Alice Tully Hall」で、有名な「ジュリアード音楽院のホール」である。
プレコンサートは「Fortepiano」の演奏でチェンバロのような楽器でした。
この楽器も加わり、本番のコンサートはオール・モーツアルト」となりました。
Fantasy in C minor,K.475
Rondo in A minor,K.511
Fantasy in C minor,K.396

 日本では聴くこともなかった、このようなモーツアルトの作品を鑑賞できたのは幸いであった。休憩時には和やかな談笑があちこちに見られ、私たちも年配のご婦人との会話をもてたのはうれしいことであった。
 しかし、どこを見回しても黒人の方は、とても少なくてほんの数人だけであった。
 もしこれが、ニューオーリンズなどのジャズ喫茶やホールであれば、ほとんどが黒人と言うことになるのだろうか。文化の違いだけなのであろうか。
 

アメリカの思い出(7)

2005年09月10日 | 旅行など
 「DC.からニューヨークへ」

 いよいよワシントンDCからニューヨクへの移動となった。
移動には飛行機もあるし、アムトラック(長距離電車)もある。セキュリティーがうるさく、早くから飛行場に行く必要のある飛行機よりは、地上の風景を楽しみながらの3時間、アムトラックを選んだ。
ワシントンDCのユニオン駅から2時間遅れでようやくアムトラックに乗れた。遅れは日常茶飯事のようである。

 車窓から移り変わっていく風景は、さすがにすばらしい。海岸、湖、貧民街、工場跡の廃墟などさまざまである。

 やがて、ニューヨークはPenn駅に到着。マンハッタンはミドルタウンのマジソンスクエアであった。地上に出るととたんに、そこは灼熱地獄のような暑さであった。まさにヒートアイランドである。ひしめく「イエローキャブ(タクシー)」、そして人人である。目がくらみ、頭がくらくらするような感じであった。
これがニューヨークなのか。

 イエローキャブ2台に分乗。「レキシントン・アベニュ、51stストリート、プリーズ」と告げるやいなや脱兎のごとく走り出した。
なんとか、無事に「ダブルツリー・メトロポリタンホテル」に着くことができた。

 イエローキャブはニューヨークに17000台ほどが走り回っているそうですが、そのドライバーはほとんどが移民などの黒人の方である。

アメリカの思い出(6)

2005年09月10日 | 旅行など
 「ワシントンDC.近郊」 

 いよいよロックビル滞在も最後の日となった。

 我がファミリー9人が全員、2台の車に乗って近郊にあるジャーマンタウンにある農場を訪れた。
 農園の受付を通り、農場に入る。小高い丘があちこちに散在した広大な農地である。
まず、「ブルーベリー」の収穫をする。いとも簡単にバケツが一杯になる。
続いて、バギーで現れた農場の方に案内されて「ブラックベリー農場」に到着。
黒くなったものはとても甘くておいしい。じゃんじゃん収穫する。 
 ロックビルに戻り、昼食にはさっそく新鮮なブルーベリーやブラックベリーをいただいた。孫たちには、この上ない思い出となったことであろう。

 午後からは、嫁TKさんに留守と子守を頼み、大人5人でロックビルとDCの中間に位置する「ベセスダ」の町に行った。
 ここには「国立衛生研究所(NIH)」がある。多くの研究機関と医療センターなどから構成されている。医療に関する研究や研究者の育成、調査研究への支援などをしている。米国はもちろん世界中からの研究者を受け入れている。ノーベル賞受賞者を多く輩出しているようである。
 構内では無料バスが運行されていて、いろいろと移動の便宜を図っている。
私たちは、とても厳しいチェック(パスポート、持ち物検査)を通り、胸に許可証を貼り付けて、研究棟の一部や医療センターの内部などをすこし見学できた。
諸外国からも多くの研究者を受け入れていたりして、この辺にアメリカのすばらしさを感じたのであった。

 一度、ロックビルに帰り再び全員、車でジョージタウンにある「ワシントン大聖堂」に向かった。このところは「アメリカの思い出(2)」に書いた。
 この大聖堂には「ヘレンケラーとサリバン先生」なども眠っているそうです。
日本語のパンフレットなども用意されていて、とても強い印象が残っています。

アメリカの思い出(5)

2005年09月09日 | 旅行など
[ I have a dream! ]

今日は、ワシントンDC見学の二日目である。
今日は昨日の暑さに懲りて、「ユニオン駅構内」で「ツアーモービル」のチケットを買った。乗り降り自由な連結バス・窓無しである。

 まずは、乗る前に「オールドポストオフイス」に入り、「ベンジャミンフランクリン」の像を見た。孫たちに説明してあげた。

 いよいよバスに乗り込んだが、親子ずれで空席がないほどである。黒人女性によるガイドで、早口の英語でがんがんやられて、さっぱり何を言っているのかわからない。さいわい、昨日はモールを中心に少しは歩いているので、およその地理的な理解があったので助かった。

 まずポトマック河畔で下車した。春には美しい桜の公園となるのであろう。
昔、第27代大統領婦人ヘレン・タフトさんのご希望で、日本から贈られた桜の木々が元祖であるとか。ここに、若き日のジェファソン(独立宣言の起草者)像が記念館の中にある。

 また、バスに乗り込んで「リンカーン記念館」にたどり着く。古代ギリシャの神殿のような記念館の中に、どっしりと大きなリンカーン像がモールを通して国会議事堂やワシントン記念塔を眺めている。
 あまりにも有名な「リンカーンの言葉" that government of the people,by the people,for the people"」が壁面に刻まれていた。
また、この記念館前広場での「マーチン・ルーサー・キング牧師」の「 I have a dream ! 」の演説があまりにも有名である。
ここは、「自由と平等のシンボルの場所であり、原点」なのであろう。
 今回のアメリカ滞在は短いながらも、もっともアメリカ的なこの「自由と平等」が、かならずしも十分には実現されてはいなくて、道半ばであるなあ、と実感することがいくつもあった。

 バスはまるで万代橋(新潟市)にそっくりな橋を渡り、ポトマック河を超えてバージニア州に入った。「アーリントン国立墓地」である。美しく整備された墓地には多くの有名、無名の戦争犠牲者が埋葬されているとか。静かな美しい墓地である。宗派によらないそうである。
独立戦争から湾岸戦争までの兵士たちが、ここに眠っているとか。さらにイラク戦争の兵士もここに眠るのであろうか。

 厳粛な気持ちと同時に、「人間のあさはかさ」を、いやと言うほど感じたのは不遜のそしりを受けようか。

アメリカの思い出(4)

2005年09月09日 | 旅行など
 「ワシントンDC」

 アメリカでの初日の朝を迎えた。朝食も終わりロビーで待っていると、次男夫婦に孫二人が迎えにやってきた。
嫁TKさんと孫二人(SとYU)とはしばらくぶりで、「やーやー、きゃーきゃー」とひとしきりの対面を喜び合う。

 ロックビルからはワシントンDC中心部までは、メトロ(地下鉄)のレッドラインで乗り込める。電車内はとても清潔で、みなさん静かに乗っている。ただ、車内には「不審物やテロ」に注意の張り紙があり、ちょっと緊張した。

 その日、ワシントンDCは、やはり日差しも強く歩いての見学には、いささか厳しかったが、みんな元気で歩いた。そこはDCの中心部「モール」と呼ばれる地域である。さっそく「ホワイトハウス」を見に行く。ニュースなどで見慣れた静かなたたずまいであった。まさにここが政治の中心なのか、という感慨が沸いてきた。
 やがて「ワシントン記念塔」が見えてきた。ワシントン市内は、ビルが非常に多いが落ち着いた美しい街である。このワシントン記念塔より高いビルの建設は許可されないのだそうである。空間のないニューヨークなどとは対照的である。
したがって、市内のどこからもこの「記念塔」を見ることができる。

 DC市内には数多くの「スミソニアン協会」関連の美術館や博物館など、数多く存在する。私たちも孫中心で動いて「自然史博物館」に入った。
入場は無料であるが、入場時にはセキュリティーチェックが厳しく、持ち物はすべて開けて検査された。どこでも検査官は黒人の方であったのが不思議ではあった。
 なにしろ、夏休み最中で、親子連れの入館者でごった返していた。
このような様子は、アメリカでも日本でも同じようであるのがほほえましい。
展示物の豊富なのにはびっくりで、とても見切れるものではない。

 館内の食堂では、並んで次々と欲しい食べ物をトレーに上げてもらって,最後に会計。どれも大きくて、甘みを中心にしたものが多く、どれがメインでどれが副食なのかわからない。とにかくお腹に入れた。おいしいなどとはとてもいえない。

 さいわい、夕食は次男宅でおいしい「かに入りスパゲッティー」などで救われた気持ちであった。

 写真は、リンカーン記念館から望んだモールとワシントン記念塔や国会議事堂である。

アメリカの思い出(3)

2005年09月04日 | 旅行など
 「アメリカでの食事など」

 私どもは、ワシントンDC近郊のロックビルで「RAMADA INN」というホテルに4泊した。とても落ち着いた静かな環境であった。
 ニューヨークでも4泊、ここではミッドタウンの「DoubleTree メトロポリタンホテル」であった。まさにニューヨークの喧騒の中心地にあった。
かつて映画の中で「マリリンモンロー」のスカートがめくれ上がったシーンの撮影場所がホテルのまん前であり、その風を吹き出した地下鉄の換気口目皿が今でも歩道にそのまま残っていた。多くの国からの客がごった返しているホテルでした。

 写真は、正面がロックビルで宿泊したホテル、右がアパート(マンションとは言わない!)、左側はショッピングモールとなっている。
 なんとその一部にスポーツ用品のお店があったのだが、アウトドアー用品の一部に新潟県三条市のメーカーのブランド品があった。世界の一流品ブランドになっていたのには感激であった。
 
 毎日、朝起きると朝食の心配をしなければならない。
早い話が、日本人でも日ごろ「パン食やファーストフード」で済んでいる人には、なにも問題はない。私のように「和食」でないと食べた気がしない、パンはおやつである、などという人間にとってはかなり大変である。
 それでも、郷に入れば郷に従いで積極的になじもうと勤めたのである。
 
 ロックビルではホテルのレストランでの朝食がそれでも安く利用できた。注文などは長男Tに頼んでの注文である。ちょっと情けない。
パンかフレーク、それにコーヒーかミルク、果物やジュースなど、まあまあ満腹にはなった。注文したはずの料理がこないのに請求書には付いていたりして、断固ゆずらなかった長男に、逆にウェーターが脱帽と言う場面もあった。僕には到底なせる業ではないことだと思った。

 3日目あたりには、私の「ガス」が、あのアメリカの味(きつい甘さ中心)のものになっていたのにはびっくりでしたHI。
 
 ニューヨークのホテルでは、思い切って女房と二人だけでホテルのレストランの朝食に挑戦してみた。なかなかのサービスに「プリーズ、プリーズ」などと言っていたら、やはりかなりの金額になってしまった。TAXにチップに面倒なことでした。ただ、果肉がたっぷりのオレンジジュースは、さすがにおいしかった。

 朝食は、基本的には近くの「ファーストフード店」で済ませることが多くなった。
 昼食は、それぞれの移動場所でのやはり「ファーストフード」利用が多かった。このようなお店が実にいたるところにある。
ニューヨークには、なんとなつかしい「吉野家の牛丼」のお店があり飛び込んでみた。まあまあ、おいしかった。とても賑わっていた。

 夕食は、ロックビルでは次男家族に招待されては、嫁TKさんの手作り料理にあずかった。「そうめん」などを食べさせていただいたり、「カレーや特性かにパスタ」など、ほんとにほっとしておいしくいただくことができた。
 ニューヨークに移ってからは、やはり簡単に済ますことが多かった。
最後のディナーだけは「イタリア料理」の店で別れの宴としたかった。
しかし、イタリア人の結婚式の二次会が入っていて、花嫁さんを囲んでキャーキャーとうるさいことうるさいこと。陽気にカンツォーネや踊りもはじまり、こちらまでタンバリン演奏の協力要請を受けたり、それは賑やかであった。まあ、これも楽しい旅の思い出ではあった。

 成田到着後、スカイライナーや新幹線を乗り継いで、新潟駅でちょうど夕食時となった。家に帰っても何もないので女房と駅構内の食堂に入る。
女房は「冷やし中華」、僕はカレーセット「カレーライスとラーメンのセット」でした。こんなものでしかなかったけど、とてもおいしくて、これぞ「日本の味」なのだなー、と思いました。

アメリカの思い出(2)

2005年09月04日 | 旅行など
 「ワシントン大聖堂」 

 米ハリケーン「カトリーヌ」は、私たちがヒューストンからワシントンDC.に向かうときに飛行機で通過したルイジアナ州・ニューオーリンズなどに、とんでもない被害を残した。復旧の早からんことを切に願っている。

 実は、今朝ほどの某TV「題名のない音楽会」という番組でピアニスト「ブーニン」さんが出演していてショパンのピアノ曲を何曲か演奏された。
彼が、演奏の自由を求めて、かつての「ソ連」から「ドイツ」に亡命していた頃、彼の支えは「J.S.バッハのJeus,Joy of Man's Desiring(主よ、人の望みの喜びよ)」だったと言う。

 私たちは、最後のDC.滞在の午後のひと時を、Washington National Cathedralの訪問見学に当てた。
次男Oとその嫁TKさんの運転する車2台に分乗してDC.中心部からジョージタウンの方に走ると、やがて巨大なゴシック様式の大聖堂が見えてきた。
 見上げているだけで首が疲れてしまうくらいの高さの建造物である。
内部は静寂そのもので、おのずと厳粛な気持ちになった。その日には特別な儀式などもなく存分に内部の見学ができた。この際、宗教の違いなど気にならず、孫(Y,S,YK)たち3人の健やかな成長を願ってローソクを灯してあげた。
 ステンドグラスには日が差し込み、周囲の壁が虹色に光りだしたり、祭壇の前部の両サイドに堂々たるパイプオルガンが設置されていた。
この空間で堂々とパイプオルガンの音が響き渡ったら、どんなにかすばらしい音がすることであろう、などと思いをめぐらせたのであった。

 さいわい大聖堂の地下売店で、願ってもないCDを見つけて買ってきた。
「The Great Organ of Washinnton National Cathedral」で、オルガニストはDOUGLAS MAJORという方である。
 バッハの「トッカータとフーガ」や「主よ、人の望みの喜びよ」、それにヘンデルの「水上の音楽」などのオルガン演奏の名曲の数々が収録されていた。

 ブーニンさんのピアノによる演奏で「主よ・・・」を聴いた後、すぐに我がリスニングルーム?に飛び込んで、例のCDでオルガン演奏の「主よ・・・」を聴いた。
 そうか、この曲が、つらい日々のブーニンさんを支えてくれたのか、そんな思いでしみじみと味わうことができた。
もちろん、ピアノ演奏もすばらしかったが、宗教音楽であるこの曲にはやはりオルガン演奏がいいなあ、などとも思った。大聖堂での録音ながらエコーの処理をほどほどに抑えて、それでいながら巨大空間での響きが伝わってきたのである。