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柄目木庵

良寛さまに思いをよせながら。

いい旅でした。

2005年06月02日 | 旅行など
 私はJARL会員、家内は家族会員、JARL総会が近くのときは出席してきた。またその機会を利用してのちょっとした旅も楽しんできていました。
今年は、「杜の都・仙台総会」ということで車で出かけました。

 今回は、CQ誌4月号などでも紹介された「いわき市のオーロラグループ」のみなさんと一緒に旅をしました。
 初日(28日)は「喜多方市」に集合。ひさしぶりの再会をラーメンで乾杯。
オーロラの皆さんは、今晩は蔵王泊まり。ひとまずお別れして、私ら夫婦は仙台に向かい「サンプラザホテル」に落ち着く。
 前夜祭に参加、大勢の懐かしいOMさんたちにお会いする。これがすばらしいのである。さらに2次会に誘われて「牛タン」で仙台の味を堪能した。

 二日目(29日)は、午前中は会場となる「サンプラザホール」前の広場でのジャンク市や総会を覗いたりしていました。
お昼近く、オーロラの皆さんと「松島海岸」に移動、遊覧船で島巡り。後は「北上町」の「追分温泉」泊まり。食べきれないほどの「海の幸」にびっくり、満足。夜遅い温泉に首までつかりながら、ぽつりぽつりと語り合ったりして。

 三日目(30日)は、北上川に沿って北上、岩手県一関より「栗駒高原」をめざす。
須川温泉の駐車場は雲の中であった。それでも所々の雪渓を踏みながら「名残ヶ原湿原」までを往復する。たくさんの「猩猩ばかま」の花が歓迎してくれた。
乳白色の温泉は露天も室内風呂もたっぷりのかけ流し。あったまった!
 ここで、オーロラの皆さんは帰路につく。僕らと富山のOMさん、二組の夫婦は今晩の宿、山形の「東根市」に向かう。宿はユースホステル「ベアーフット」である。
ペアレントの食事や「紅花温泉・ひなの湯」への案内など、数々のおもてなしにうれしくなり、私たち夫婦も会員の登録をした。

 翌日(31日)は、いよいよ最後の日である。
月山を眺めながら112号線を走る。途中「即身仏」の「注連寺」に寄ったりしながら羽黒町に到着。
本日のメインである「羽黒山神社の石段」に挑戦。約2500段はさすがにきつかった。途中「力餅茶屋」でお餅でエネルギー補給。おかげで無事登頂、町長の認定証をいただいた。

 この後は、一路新潟目指して走行、さらに富山まで無事に帰り着いていただいた。
数え切れないくらい多くの同好の方々にお会いして、趣味のこと(アマチュア無線)をはじめいろいろな話題で語り合ったことこそ、何にも代えがたいものだったと思っている。

 ほんとに、いい旅でした。

八重山諸島への旅(8)

2005年05月10日 | 旅行など
 竹富島から石垣島に戻り、鍾乳洞などを見学。ここ石垣島に戻ったので、団体としてはここで解散。あわただしくもお互いに名残を惜しむ。添乗員もここまで。

 残った人たちとともに沖縄・那覇空港まで飛ぶ。
ほとんどの方は那覇空港から、その日のうちに帰途についた。私たち二人には、那覇での一泊がセットされていた。

 よく日は、午前中はセットされていた観光タクシーをフルに利用した。
前回の沖縄旅行で時間不足で十分見学できなかった那覇市内や南部戦跡の資料館などの見学に、十分時間を使った。

 市内では、「玉王稜」「識名館」などの琉球王朝ゆかりの施設、南部では平和祈念公園内の資料館でたっぷり時間をとった。
改めて、沖縄がもつ重い重い歴史の事実をかみ締めたのであった。
 写真に写っているのは那覇市内である。複雑な思いを持ちながらも、私はエーゲ海の町にも負けないくらい美しい町だと思っている。

 午後からのフライトで3時間後には、半そでの国から長袖の国・越後に降り立つことができた。

 思いがけずも、長くなってしまいました。「思い」のほんの一部ですがお読みいただき感謝しています。ありがとうございました。

八重山諸島への旅(7)

2005年05月10日 | 旅行など
 3日目に入った旅は、小浜島から「竹富島」へと船で移動。

 竹富島は、まるで「おとぎの国」に来たかのようであった。

 島の中心部の集落はきちんと昔ながらの様子が保存されている。
黒く変色した石灰岩で積み上げられた風除けの塀が続く。その細い路地から路地を私たちを乗せた水牛車は塀にぶつかりもせず、ゆっくりゆっくり歩を進めていく。

 強風に見舞われることの多い生活と身近な素材である石灰岩の利用がとてもよくマッチしていると思う。

 また、海の色は言い表せないほど、すてきな青であった。砂浜の中には星型の小さな小さな貝殻などを成分にした「星砂浜」があった。手のひらを砂浜につくと、手のひらに小さな星がたくさん残ってくれる。砂は孫たちへのお土産になった。


八重山諸島への旅(6)

2005年05月10日 | 旅行など
 テレビの「ちゅらさん」ですっかりお馴染みになった「小浜島」である。
見渡す限りサトウキビなどの畑がなだらかな丘状に広がっている。とても小さな島である。

 その島の突き出た一端に、不釣合いなぐらいのリゾート施設「はいむるぶし」があった。
そこが今日の宿である。広大な敷地に、宿泊施設や温泉棟などが散在している。

 夕食後、ホテルのロビーを利用してのコンサートがあった。
中央からここ小浜島に移り、すっかり根付いたと言う方の「弾き語り」は、その人柄とトークで聴き入る人を魅了した。
 
 ふっと、そうか、こんな島で生きることも選択肢の一つだよな、などとも思った。そして、好きな無線でもできたら言うことなしかな、でも満足できるかな、などと思いは巡った。

 「はいむるぶし」とは聞き慣れない言葉だが、と思ってお聞きすると、なんと「南十字星」のことだとか。そういえば、ここに来るのに乗った船の名前が「サザンクロス」であったっけ。
この地は、すでに南十字星が見えるということか。
別棟のお風呂に行く途中、真剣に空を見上げるが、曇り空のようでひとつも星は見えなかった。残念だった。

八重山諸島への旅(5)

2005年05月10日 | 旅行など
 西表島は八重山諸島のなかでも大きくて、山あり、川あり、ジャングルありである。

 立派なホテル「ニラカナイ」で、この地方のご馳走をいただく。どうも名前を忘れたが、お雑炊のようなものも出た。これが結構おいしかった。

 港とは正反対の側にバスで回り、浦内川(うらうちかわ)を遊覧船でさかのぼる。両岸は鬱蒼と茂るジャングルである。はじめて見る「マングローブの木々」が元気に生育している。
船を下りて、ジャングルの中を30分ほどのトレッキングで「マリュドゥの滝」の見晴台に到着。さすがに一汗も二汗もかいた。ジャングルの中はさすがに蒸し暑い。

 ジャングル探検をおわり、日本最南端の温泉「西表島温泉」につかり汗を流す。

 今晩の宿のある「小浜島」に船で移動。船の名前が「サザンクロス」であった。

八重山諸島への旅(4)

2005年05月10日 | 旅行など
 由布島は、小さな島全体が「熱帯植物園」そのものでした。

 沖縄ではどこも鮮やかな原色の花々をたくさん見ることができましたが、ここ由布島の咲き乱れる花々は、特に見事なものでした。

 写真では、「ブーゲンビレア」のほかに「タイワンレンギョウ」などが見れます。

八重山諸島への旅(3)

2005年05月10日 | 旅行など
 西表島(いりおもてじま)に上陸、島を3分の一ほどバスで移動。由布島入り口到着。

 由布島というのは、ほんとに潮の満ち干で陸続きになるといってもいいくらいの状態で西表島につながっていました。

 よく」訓練された水牛に引かれた乗り物(水牛車)に乗って、「サンシン」の演奏を聴きながら、のんびりのんびりと由布島をめざします。
まるで、時間が止まったかのようなひと時でした。

八重山諸島への旅(2)

2005年05月10日 | 旅行など
 二日目は石垣島を出発して、「西表島」に行き、水牛車で「由布島」に渡ることになっている。
再び、西表島に戻り、最後は「小浜島」に移り宿泊の予定である。

 沖縄県の県木は写真にある「デイゴの木」である。
この時期、花が咲き始め、やがて葉が出てくるのだそうです。
ホテル前の立派な大木「デイゴ」の木に見送られて、石垣港から高速艇「サザンクイーン」に乗船。40分ほどの船旅は快調であった。

八重山諸島への旅(1)

2005年05月10日 | 旅行など
 八重山諸島への旅は、4月18日から21日までの間のことであった。
紆余曲折があり、それでも念願かなったのであった。感謝しつつ思い出に残したいと思っている。
 ようやく落ち着いたこの時がチャンスと書き出してみている。

 新潟空港から那覇で乗り換え、石垣島到着。ホテルについて、全国からの旅人で43人の団体であることがわかった。
しかし、全くの個人の寄せ集めなので、団体としての「宴会」など一度も無かったのがとてもありがたかった。

 ホテルでの食事も好きなときに、時間をたっぷりかけて楽しめたのはうれしかった。

 夜には、ホテル近くの「民謡スナック・芭蕉布」に出かけた。おなじみ「カチャーシ」の踊りに飛び込んでホットな夜を楽しんだ。

めんそーれ沖縄(南部)

2005年03月08日 | 旅行など
 沖縄の旅も3日目、最後の日である。快晴しかし風がつよく体感温度は低く寒い。
今日は沖縄南部、いわゆる戦争激戦地の跡を訪れることになる。バスは一路南下。

 まず、平和祈念公園を訪れる。バスガイドさんに引率されて、慰霊碑「平和の礎」に向かう。
「礎」と言う字は沖縄の方言で「いしじ」と言うので、皆さんからも「へいわのいしじ」と読んでいただいているとのこと。いままで、いつも不思議に思っていたことが、パットわかった。そうだったのか。「いしじ」か。
 23万人を超える戦没者(軍人、民間人、外国人を問わず)の名前がきざまれているのだそうです。このような形の慰霊碑であれば、為政者の参拝があっても、世界中の人の尊敬こそあれ、非難されることなど無いのに。ほんとに厳粛な気持ちになり戦争の痛ましさと不条理さを痛感した。

 参拝の道すがら、ある人たちがふざけあって笑った。すぐにガイドさんが「ここは笑うところではございません」と、ぴしゃり。気持ちよかった。ほんとにそうなんだから!

 「ひめゆりの塔」までバスで移動。
小さなひめゆりの塔の碑に思いがけなさを感じながら、多くの乙女たちの悲惨な最期の場となった、ぽっかり口をあけている空豪の説明に、涙を抑えることができなかった。
また、時間の関係で「資料館」への入館ができなかったことは、まことに残念であった。

 いよいよ最後の見学は「おきなわワールド」。
鍾乳洞(玉泉洞)は、いよいよきらびやかに商業化されたという感じであった。幸い、前回訪れたときの経験を生かして「琉球王国城下町」のゾーンに時間をかけた。
「ブクブク茶」を飲んだり、いろんな工房をじっくり見て、咲き乱れるブーゲンビレアやハイビスカスの花の撮影などを存分に楽しんだ。

 このようにして、今回の沖縄の旅は終わりとなった。
 見落としたところ、時間の関係で見れなかったところなど、心残りであった。
また、アマチュア無線家としては、短時間でもいいから「沖縄移動運用」として電波をだしてみたかった。
団体旅行という制約の中では無理だった。いつか夢がかなうであろうか。

めんそーれ沖縄(中部)

2005年03月07日 | 旅行など
 沖縄での二日目、那覇のホテルを出発。
バスは一路北上、「満座毛」という象の鼻を思わせる断崖絶壁の景勝地にちょっと立ち寄り、さらに北上。
 
 本部町にある「海洋博公園」に到着。多くの花が飾られている道を「美ら海水族館」へ。今日のメインはここだと言っていいだろう。
世界一を誇る巨大アクリルパネル(圧さ60cm)により、黒潮の海が巨大水槽で造られている。すぐ目の前を大きな大きな「ジンベイザメやオニイトマキエイ(マンタ)」などが悠々と泳いでいる。人間がなんと小さく見えることか。圧倒的な迫力であった!

 午後からは、南下になる。途中パイナップル畑と加工工場の見学。パイナップルの試食をするが、すっぱくてぜんぜんおいしくない。今はおいしい時期ではないのだそうだ。

 南下の高速道は「嘉手納基地」などいくつかの米軍基地の脇を通っている。なんとも広大な敷地だ。軍人のための住宅などもよく見える。「東南植物楽園」に入って、とっくり椰子の樹などさまざまな樹木やお花を観賞した。しかし、近くの基地からひっきりなしに離着陸するジェット機の轟音が頭上を横切る。まったく落ち着かない。

 米軍基地の諸経費、したがって頭上を飛ぶジェット機のガソリンも含めて、すべて我々の税金でまかなわれているのではないだろうか。平和を維持するためにも、我々は莫大な経費を負担しているのだろう。

 ホテルの夕食はバイキングで、何種類もの炒め物(チャンプル)がおいしかった。
食後はホールで「琉球の踊りや島唄」を楽しんで、最後に「カチャーシ」という祝い踊りの手ほどきをしていただいた。買った島唄のCDと共にすてきなおみやげとなった。
 特に、バスガイドさんも、今宵の歌い手さんも紹介してくれた
「てんさぐぬ花」という歌に心打たれた。
 「沖縄口」   
 てぃんさぐぬ花や ちみさちにすみてぃ
 うやぬゆしぐとぅや ちむにすみり 

 「大和口」
 ホウセンカの花は 爪の先に染めて
 親の教えは 心に染めなさい

 実は4番まであるのですが、いまどき心に響きませんか。

めんそーれ沖縄(那覇)

2005年03月07日 | 旅行など
 沖縄の旅2泊3日(添乗員付き)では、まさに定番コースそのものであった。
すてきなベテラン・ガイドさん付の中型バスに3グループ、20人ほどであった。

*一日目:那覇空港から首里城、那覇市内ホテル

*二日目:満座毛経由で中部へ。国営沖縄記念公園(美ら海水族館)、名護パイナップルパーク、東南植物園、那覇市内ホテル(2泊目)

*三日目:平和祈念公園、ひめゆりの塔、おきなわワールド、そして那覇空港へ

 今年の2月沖縄では、ほとんど毎日、雨や曇りで晴天の日は一日くらいだったそうです。
南国の陽光を想像していたのに、予想外のことでした。でも、新潟とはいつも気温差が10度ほどもあるようです。
 バスやホテルの中には冷房装置はあっても暖房設備はありません、という紹介にさすが南国と納得しました。すでに、桜(ヒカン桜)の季節は終わっていて、4月海開き、5月には入梅と聞いて、皆さんびっくり。
 しかし、負け惜しみのようですが、あのソメイヨシノの豪華さと散り際の風情は無いようですし、四季のメリハリがないんだな、などと思ったのでした。

 残念ながら、初日雨交じりの曇り、二日目も同じく、三日目にしてようやく快晴、でもとても風が強く体感温度はぐっと下がって寒かった。

 守礼の門、首里城とも工事中で一部シートで覆われていたりして残念ではあった。
「守礼之邦」の門をくぐり、「首里城」正殿に上がり玉座の間などを見学した。
 琉球の民は、礼節を重んじ中国や大和に気を配りながら、平和な貿易立国として栄えてきていたという。時の為政者のご苦労がしのばれた。

 時移り、首里城地下には日本軍司令部があったため、米軍の爆撃で焼失。戦後この地には、琉球大学が建てられていたが、首里城復元のため移転。
復元なった首里城やその城壁ではあったが、沖縄の重い歴史を感じるには十分であった。

 夜の「国際通り」散策は、にぎやかで、その雑踏を楽しんできた。

沖縄から帰ってきました。

2005年03月05日 | 旅行など
 あっと言う間の、沖縄への旅でした。
2泊3日というのは、いかにもあわただしいものでした。しかし、それなりに存分に楽しんできました。

 新潟空港から那覇空港までは、3時間のフライトでした。
中型のジェット(ANA)は横3列の3列、真ん中通路です。座席の前後の窮屈さには閉口しました。文字通りエコノミー症候群にならないように、足腰を動かしたり、トイレに立ったりと気をつけました。
 いくらなんでも、もうちょっとは空間を頂きたいものですね。時代はもはや「猛烈の時代」ではなく、「ゆとりやスローライフ」が提案されているのですから、航空会社にも気づいてほしいですね。量より質の時代なのにね。
もちろん、今までどおり、老人や病人、赤ちゃん連れなどのためにもビジネスクラスの存在は必要でしょう。

 沖縄滞在中の事や経験は、いずれ機会を持ちたいと思います。
 
 さて最後の日(3/4)は、午前中の観光が終わり、お昼過ぎに那覇空港に到着。手荷物や身体チェックでの検査では僕だけが、なぜか引っかかった。
腰のベルトは緩められるし、靴を脱がされて検査。結局ベルトの金具での反応らしい。
ちょっと不愉快ではあったが、考えてみると、やはり厳しい検査が安全な飛行を保障するわけだから、大いにやるべし、という気持ちではあった。
 
 気が付くと、我々のフライトについてのインフォーメーションが何度か流れていた。
注意して聞くと、「関東地区や日本海側にかなりの降雪が予想され、新潟空港に着陸不能の際は、羽田空港か庄内空港に着陸するかもしれません。」とアナウンスしているではないか。
搭乗しても、機内放送でも同様なアナウンスであった。
僕は乗務員に、「それなら羽田に下りて、六本木のホテル全日空に泊めてください。」などとお願いした(笑)。

 帰りのフライトは偏西風が利用できて、30分短く2時間半であった。厚い雲の下に雨にぬれた滑走路がせまった。ぜんぜん降雪など無かったようだ。
沖縄では、2月はじめから毎日雨や曇りだったそうで、帰るこの日はほんとに久しぶりの良いお天気になったのだとか。しかし、新潟についたら雨だった。気温差も10度もある。

 無事元気で戻れたし、寒さを吹っ飛ばす「熱燗」もいいではないか、と途中のレストランで「はんばきぬき」ということで、お互いの武勇伝や失敗などを肴に「旅のなごり」を楽しみました。


ブーゲンビレアとバオバブ

2005年03月01日 | 旅行など
 明日、7年ぶりに沖縄本島を訪れる。

 沖縄というと、もちろん「平和祈念公園やひめゆりの塔」などが強烈なインパクトではあった。
しかし、私はなぜか、「ブーゲンビレアの美しさ」と「のほほんとしたバオバブの樹」がとても印象に残っている。癒されるものを感じ取ったのは私だけであろうか。

 今回の旅は、女房の姉妹とその婿さんたちのグループと一緒である。
このようなメンバーで時々、温泉旅行などを楽しんでいる。
今度の旅は、何年か前にご主人を亡くされている一番上の(義理の)姉を沖縄に連れて行くことが目的のひとつのようである。亡くなられたご主人が,生前とても「沖縄の旅」が気に入っていたのだとか。

 実は、わずか2泊3日の旅である。行ったと思ったら、もう帰ってくることになる。
でも、また違った沖縄を発見してくるかもしれない。ブーゲンビレアとバオバブも私を歓迎してくれることでしょう。