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鉱物の部屋へのいざない

金沢博物館 続報3

2017-01-20 13:45:21 | 日記・エッセイ・コラム
金沢博物館の事を調べている内にある事に気付いてしまいました。「金沢博物館 続報2」で十年略記から二十年略記の十年間に標本数が大きく減少した事を書きましたが、この時期に大きく減少していたのはそれだけではなかったのです。

実はこの時期に金沢市の人口も大きく減少しておりました。それは明治維新による廃藩置県で多くの旧藩士が金沢を離れたためです。明治中期、金沢は急激な人口減少と経済の崩壊に直面していたのです。

人口減少と標本数減少とには何らかの相関性があったような気がしております。

幕末期には江戸、京都、大阪の三都を除くと日本最大の人口を誇った金沢でしたが、明治初期・中期には極端な人口減少が続きました。この都市衰退が止まらない金沢はその後、明治後期から「軍都」として復活していったようです。

思うに、明治時代は富国強兵の時代でした。金沢博物館も石川県勧業博物館という名前に改称し、その展示も殖産興業的な内容に変化していったのだろうと思います。

そもそも、金沢博物館は明治初期の博覧会ブームに乗って常設の博覧会会場つまり博物館として出発しました。その時代の博覧会の出品目録を見る限り、主に雑多で珍奇なものを陳列していた催事だったようです。それはまるで現在の骨董市のようなもので、石で言えば、鉱物標本というよりも江戸時代の香りのする奇石のようなものが多かったようです。(明治7年の金沢博覧場列品之図という錦絵には目玉の名古屋城の金鯱の他、じしゃく石?と言う名で磁鉄鉱らしきものが描かれております。)それらは鉱物趣味的な標本というよりも弄石趣味的な奇石が多かったのだろうと思います。

ただ、明治政府は欧米の先進技術や学問を輸入する為、多くのお雇い外国人を招聘し、金沢ではエミル・フォン・デル・デッケンという鉱山技師がプロシャ(旧ドイツ)から着任しました。金沢博物館の外国産鉱物標本も恐らく彼が持ち込んだものだろうと推測されます。デッケンの事は「金沢藩鉱山教師エミル・フォン・デル・デッケン」(日本鉱業史研究会 吉田國夫 平成9年3月)の文献に詳しく書かれています。金平や遊泉寺鉱山の開発指導にも当たったらしいです。

彼らのお陰で近代的な鉱物学が立ち上がり、鉱山開発も近代化していったようです。

金沢博物館(石川県勧業博物館)は、おちこんだ金沢の復興をめざすという、切実な地域的課題から出発して、その後、変遷しながらも32年間続き、最後は一部門だけが石川県物産陳列館(明治42年石川県商品陳列所)に継承されました。他には、分散して石川県立図書館や石川県工業試験所やその他の施設にも継承されたようですが、肝心の鉱物標本の行方はわかっておりません。

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