今日、書斎の段ボール資料を少し整理した。
金沢の小中学校時代の資料が少し出てきた。昔、私が50歳代の時、金沢市や新聞社(北國新聞社)、放送局(NHK,JOJK)等に問い合わせて送ってもらった資料や、私自身が昔から辛うじて残していた資料だ。
もう50年、半世紀以上前の資料なので、歴史資料として記録しておきたい。(私の小中時代は1948年4月から1957年年3月の9年間である)
私が小学校を卒業したのは、1954年(昭和29年)3月である。その時の『昭和二十八年度 卒業式の栞』があるので、紹介する。先ず小学校名であるが、1947年4月から1959年3月まで「金沢市立十一屋町小学校」になっており、以後「金沢市立十一屋小学校」となって現在に至っている。だから、私の在校期間(1948年~1954年)は表記の通りなのである。
1954年卒業生は、7組420名で1組平均60名である。私は6年2組で60名、宮林明次先生が担任だった。校長は、藤田清正先生、教頭は佐藤重友先生だった。当時、卒業受賞として、市長賞・学校長賞、学校長賞、皆出席賞、ロータリー賞があった。市長賞・学校長賞を貰ったのは、各組4名で全部で28名だった。不肖私も貰っている。児童会の副会長をしたせいでもあろう。但し、印刷の名前が「西村一郎」と誤記されている。2組の受賞者は、他に金子輝二君に井上瀬津子さん、松崎以津子さんである。他のクラスの受賞者も殆ど思い出す。松崎以津子さん、石井敦子さん(7組)は、金沢大学付属中学に進学するが、私は野田中を経由して金沢大学付属高校で彼女らと再び同期生となった。松崎さんはお茶の水女子大、石井さんは金沢大に進学した。川島靖宏君(4組)は、中学、高校と同期で彼は北大に進学している。児童会会長だった横山誓一君(7組)も受賞している。横山君は旧制一中の県立泉が丘高校経由で金沢大に進んでいる。現在の大体の動静も分かっている。
担任の宮林先生も校長の藤田先生も鬼籍である。藤田清正先生からいただいた長い手紙(1980年3月22日消印)があるが、何時か、同期生にも披露したい。
野田中学時代、NHK金沢放送局の企画で「少年スポーツアナウンサー募集」があり、私も応募して当選、1956年7月15日付「北國新聞」6面に私の放送中の顔写真が載っている。(この記事でも西村一郎と誤記されている)他に野田中から寺本雄二君、額中から宮川 清君、御祓中から広目 暁君、国府中から中山賢一君、月津中から池田節雄君(池田君のみ二年、他は三年)の計6人が選ばれた。石川県中学野球の決勝戦(鳴和中学-片山津中学)を当時の「兼六園球場」からラジオで実況したのだが、中学野球は7回まで、一人1回として、1回余る。それで、何故か私が1回と7回の実況をやった。
当時は、NHKの志村正順アナに憧れ、スポーツアナウンサー志望だったのだ。
懐かしい50年以上前の思い出である。
(金沢・兼六園球場は、その後、石川厚生年金会館になった。設計したのは、京大・建築学科先輩の建築家・黒川紀章さんである。写真は、外野のカーブをそのまま利用の石川厚生年金会館)
金沢の小中学校時代の資料が少し出てきた。昔、私が50歳代の時、金沢市や新聞社(北國新聞社)、放送局(NHK,JOJK)等に問い合わせて送ってもらった資料や、私自身が昔から辛うじて残していた資料だ。
もう50年、半世紀以上前の資料なので、歴史資料として記録しておきたい。(私の小中時代は1948年4月から1957年年3月の9年間である)
私が小学校を卒業したのは、1954年(昭和29年)3月である。その時の『昭和二十八年度 卒業式の栞』があるので、紹介する。先ず小学校名であるが、1947年4月から1959年3月まで「金沢市立十一屋町小学校」になっており、以後「金沢市立十一屋小学校」となって現在に至っている。だから、私の在校期間(1948年~1954年)は表記の通りなのである。
1954年卒業生は、7組420名で1組平均60名である。私は6年2組で60名、宮林明次先生が担任だった。校長は、藤田清正先生、教頭は佐藤重友先生だった。当時、卒業受賞として、市長賞・学校長賞、学校長賞、皆出席賞、ロータリー賞があった。市長賞・学校長賞を貰ったのは、各組4名で全部で28名だった。不肖私も貰っている。児童会の副会長をしたせいでもあろう。但し、印刷の名前が「西村一郎」と誤記されている。2組の受賞者は、他に金子輝二君に井上瀬津子さん、松崎以津子さんである。他のクラスの受賞者も殆ど思い出す。松崎以津子さん、石井敦子さん(7組)は、金沢大学付属中学に進学するが、私は野田中を経由して金沢大学付属高校で彼女らと再び同期生となった。松崎さんはお茶の水女子大、石井さんは金沢大に進学した。川島靖宏君(4組)は、中学、高校と同期で彼は北大に進学している。児童会会長だった横山誓一君(7組)も受賞している。横山君は旧制一中の県立泉が丘高校経由で金沢大に進んでいる。現在の大体の動静も分かっている。
担任の宮林先生も校長の藤田先生も鬼籍である。藤田清正先生からいただいた長い手紙(1980年3月22日消印)があるが、何時か、同期生にも披露したい。
野田中学時代、NHK金沢放送局の企画で「少年スポーツアナウンサー募集」があり、私も応募して当選、1956年7月15日付「北國新聞」6面に私の放送中の顔写真が載っている。(この記事でも西村一郎と誤記されている)他に野田中から寺本雄二君、額中から宮川 清君、御祓中から広目 暁君、国府中から中山賢一君、月津中から池田節雄君(池田君のみ二年、他は三年)の計6人が選ばれた。石川県中学野球の決勝戦(鳴和中学-片山津中学)を当時の「兼六園球場」からラジオで実況したのだが、中学野球は7回まで、一人1回として、1回余る。それで、何故か私が1回と7回の実況をやった。
当時は、NHKの志村正順アナに憧れ、スポーツアナウンサー志望だったのだ。
懐かしい50年以上前の思い出である。
(金沢・兼六園球場は、その後、石川厚生年金会館になった。設計したのは、京大・建築学科先輩の建築家・黒川紀章さんである。写真は、外野のカーブをそのまま利用の石川厚生年金会館)
附高24回生の林です。
当然ですが、私の父・母、伯父、伯母も十一屋小学校の出身です。
「町」がついていたかは知りませんでした。
母は今でも、その小学校の同窓生と会合を持っているようです。
私の思い出を紹介します。
①夏休みの町内でのラジオ体操の始まる初日は、十一屋小学校に各町内が集まって合同ラジオ体操がありました。
首から出席カードをぶら下げて、ハンコをもらったような・・。
②小学校3年の夏休みに、運動神経の鈍い私は、母に連れられて毎朝、十一屋小学校のグランドで自転車に乗る練習をしてもらいました。
母に後ろを支えてもらい、ふと後ろを見ると手が離されていたという、よくある光景ですが、今でも鮮明に覚えています。
私は、幼稚園から附属だったので、近所に友達はいませんでした。一応、校下は「泉野小学校」でした。
金沢のことは、いづれまとめたいと思っていて、その備忘録の意味もあり「金沢の思い出」は書いています。
事実を書いておくと、貴方のように「金沢つながりの読者」がコメントいただけて張り合いありますね。
そうですね、寺町三丁目から桜木通りに入っていく辺りの校下は私の頃は「十一屋町小」でしたが、貴方の頃や今は「泉野小」ですね。
「十一屋町小」の藤田清正校長は、偉い先生で、戦後の不安定な昭和20年代に「若竹の歌」という校歌の作詞もされましたし、当時の校下から輩出の偉人・天文学者でZ項を発見し文化勲章も受章した木村 榮博士を「発掘され」我々に示され(現在は木村博士の生家のあった地域の「泉野小学校」に銅像など移管)、欠食児童が出ないよう主食を含む給食を確立され、今で言う「学童保育」も「子供の家」で実行され、今から考えると進んだ行政手腕を発揮されました。
藤田先生は、亡くなられましたが、「私の小学校時代」に担任の先生とともに藤田校長の一項をもうけて紹介したい、と思っています。
ラジオ体操や自転車の初乗り体験も似ているところがあります。そのことも書く積りです。