西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

超高層住宅は、何故おかしいのか

2006-10-07 | 住まい・建築と庭
『建築とまちづくり』2006年6月号に載った私の小論をコピーしておきます。ご笑覧、ご批評下さい。さきほど載せた『CEL』論考にコメントありました。有難うございます。今回は、超高層住宅が蔓延しているのに警鐘を鳴らすもので、自分で言うのも何ですが、読み応えあると思っています。

「建築とまちづくり」6月号原稿
超高層住宅は、何故おかしいのか。     西村 一朗(平安女学院大学)

はじめに
 私が、大学の建築学科に進もうとした一つのモメントにニューヨークの超高層建築エンパイヤ・ステート・ビルディングの存在があったと思う。1931年竣工、102階、381mの高さで長らく世界一のノッポビルだった。私が高校生であった1950年代の北陸の金沢では一番高い建物が片町の旧の「大和百貨店ビル」(現在の「ラブロ・ビル」)で確か7階建て位だった。だから当時エンパイヤ・ステート・ビルディングは憧れの的だったのである。単純に日本でもああいう建物が建てられたらいいな、と考えたのである。その後、大学に入って以後、日本でも最初の超高層ビルとも言える東京・虎ノ門の霞ヶ関ビルが1968年に竣工、地上36階、地下3階、147mの高さであった。いよいよ日本でも超高層時代到来か、と思った。
 しかし、その後、色々体験したり、勉強したりする過程で、超高層建築、とりわけ超高層住宅は、何かおかしいのではないか、人間的な空間ではないのではないか、と考えるようになった。そう考える理由をいくつかにまとめて述べてみたい。

1.超高層住宅は、歴史的に成熟したものではない
 超高層建築は、上述したように、世界的には、ほぼ100年以内のものである。日本では40年以内のものである。それ以前にも超高層ともいえる建造物(例えばエジプトのピラミッド、日本の出雲大社等)もあったが、人類がそこで生活するものでは、人類の歴史から言えば、ごく最近のもので、それ以前は、殆ど地表か地表近くで生活していたのである。更に遡れば「猿時代」には地上30m位まで(「高層」ではある)の森林の樹木の上に永く棲息していた。だから、生物の人間として、「超高層」には殆ど馴染んでいないし、この1世紀ほどでは「超高層」に適応するように進化したとも思えないのである。

2.超高層住宅は、地表環境との「つながり」を切断する
 超高層住宅の特に超高層部から地表への距離は遠くなり、地表環境との「つながり」が切れてしまうのである。幾つかの例をあげよう。一つは、地表自然の四季の移り変わりが感じられなくなるのである。地表の草花の香りが到達するのは、どの程度までか。地表の草花が良く見えるのは、どの程度までか。樹木の樹冠が良く見えるのは、どの程度までか。実際に調査してみれば良いが、それらが感じられ楽しめられるには、低ければ低いほど良い、となるのではなかろうか。視覚だけによる確認ならガラス越しでも良いかもしれないが(それでも超高層部からは、はっきり見えないだろう)、特に嗅覚などは空気伝播なので窓が開けられない超高層部ではそれだけでも無理と言えよう。
私の感慨俳句:超高層 春の香りも 知らざりき
もう一つに、多くの人々がその下で暮らす地表の気候環境が超高層部には直接伝わらない。これは良いのかどうか。地表が雨であっても低い雲の上の超高層部が晴なら良いではないか、と考えるとしたら一寸変ではなかろうか。一つのエピソードを紹介する。長らく「日本設計」の社長をされていた池田武邦さんにお聞きした話である。池田武邦さんは、霞ヶ関ビルにも関係し、以後、京王プラザホテル、新宿三井ビルへと続く日本の「超高層建築」設計を推し進めてきた建築家である。その事務所「日本設計」は、新宿三井ビルの50階にあった。池田さんは、冬のある日、夕方、エレベーターで地表に降り立って玄関に出てみて驚いた。50階の事務所では太陽が輝いていたのに、地表は吹雪なのであった。これで池田さんは愕然として、以後「超高層」は「止めた」となったのだと言われた。以後「ハウステンボス」の経営にも携われたが、私は、そこに伺ったこともある。その他、池田さんは東北で伝統的な農村空間の意義も追及、池田塾なども運営しておられる。
私から池田武邦さんに贈った俳句:超高層 降り立ち吹雪に 驚きぬ  
さらに、超高層の窓は、一般に固く閉じられていて外部の空気、風が通らないのである。英語の窓はWindow即ちWind(風)とOw(目)であり、元々風通しが良く、眺望も良くないといけないのである。眺望も遠望のみが際だっているのが超高層である。近場の緑の樹木が良く見えることが「眺望が良い」ベースではなかろうか。緑の樹木が健在ということは、足元に大地があり、水の恵みがあり、空気が流れ、空には太陽が輝き、鳥や虫も飛んでくることを意味しているのである。
私の感慨俳句:超高層 エアコン効いて 夏はなし
もちろん、こういう地表の自然環境との「つながり」の切断に対してル・コルビュジェもかって提案した「立体田園都市」のように立体的に草花、樹木等を組み込めば良いとの考え方もあるが、私は、長期的には本物の地表環境との「つながり」に勝るものはないと考えている。
 
3. 超高層住宅は、人々との「つながり」を切断する
 低層、中層であれば上階から地表を歩く知り合い、遊んでいる子ども達もはっきりと確認でき、場合によっては声をかけることも出来る。しかし、高層(「消防法」定義では高さ31mを越える)以上からでは、まして100mを越えるような超高層からでは地表の人々は、はっきりと認識できないのではないか。そういう意味では人々との「つながり」は切れていると言えよう。又、住棟内部においては、4、5階までならば、階段室を通じて上がり降りするので顔を合わせれば一寸した挨拶やコミュニケーションが可能であるが、高層、超高層になるとエレベーターによる交通が主となり、コミュニティ形成は難しくなる。階段は、死角となって却って怖くなり、正に「怪談」場になりかねない。ここで、エレベーターについて言うと、大地震の時など機能停止となれば、超高層部の人達は、生活困難となるだろう。(この点は別稿で詳しくふれられるであろう。)

4.超高層住宅からは大人は外出しにくく、子どもも外に遊びに行きにくい。
 これは、エレベーターに比較的長く乗って下に下りるのは、大人にとっても子どもにとっても一種のバリアとなって「外出嫌い」になるのではないか。小さな子どもだと、低層であれば外で遊ぶ姿が、住戸からも十分確認でき、声をかけることも出来るが、超高層だと、それは言わば不可能で、「家で遊びなさい!」ということになりかねないのである。
 そうなると、子どもは住戸内にいる癖がつき、外を見ても下は明確に認識しにくいので遠くの山並み風景等をながめることばかりになり、そういう環境に育つと大きくなって、どういう性格の人間になるのか、今、ようやく研究が始まったばかりと思うが、結果が不安である。超高層のベランダの手すりで逆立ちしても平気なような、言わば「高所平気症」を、果たして「進化」と言えるだろうか。

5.4、5階(中層)で階段を昇り降りするのが、健康に良いし、省エネとなる
 これは中層の良さを積極的に言っているものである。超高層ではエレベーターになるので、ある意味で楽だが健康にはメリットはないし、沢山の電力も使うことになるだろう。
超高層住宅を推進する一つの言い方として、都市への人口集積が必然としたら土地の有効活用からも超高層住宅は必然ではないか、ということがある。私は、何も逆の低層主義一辺倒ではない。魅力的中層もまだまだ構想し開発できると思うし、基本的に中層と低層を上手く織り込んだ都市密度位が住みやすいのではないか、と考えている。あとは、やはり国土配置、国土開発の問題と言えよう。
 恐らく、それでも超高層は、見晴らしが良いし気分が良いという人達の需要がある限りなくなりはしないだろう。高い所を求めるのは人間の本性などと言っている人もいるが、その要求は山登り等で満たせばよいのでは、と私は思う。人間は動物で移動するものなのだから。つまり、比較的静穏に長く居る場所が、地表に近い所が良いのか、鳥の領域にまで上らなければならないのか、ということなのである。

6.危機管理からも中層までが安全だ
 ニューヨークの9.11事件の時、私は韓国に出張していてプサンのホテルのテレビで、あの光景を見た。次の日からのビデオでは、恐らく「残酷」ということで放映しなくなったが、ライブでは超高層から落下する人間を遠くから映しており、私は思わず目をつむった。超高層と言わず、30mを越える「高層」からでも、もし落下すれば恐らく助からないであろう。私の感慨俳句:超高層 ニューヨークの 秋悲し
 4階位からなら、いざという時、飛び降りたり、子供などが仮に誤って落下しても、回りの地表の状態にもよるが、恐らく骨は折れるかもしれないが、命まで失わないのではないか。地表の状態にもよるが・・、と言ったが、柔らかい植栽や芝生のようになっている必要があると考える。

おわりに
 以上述べてきたことをまとめてみると、私が以前から言っているように、「人々とのつながり、環境(特に自然環境)とのつながり、そして歴史的つながり」を切らずに豊かに形成していくことが大切であり、そのためには、残念ながら超高層住宅は不適当であり、低層と中層の組み合わせが適当ではないか、ということである。(2006年3月25日)

関連拙稿:(1)『問題意識、仮説、取り組みの持続―「つながり」の豊かな住環境の研究―』(『日本の科学者』2002年5月号、日本科学者会議)(2)『生活環境のあり方についてー一住環境学徒の視点からー』(『家政学研究(奈良)』2004年3月、奈良女子大学家政学会)
(3)西村一朗編『地域居住とまちづくり』2005年5月6日、せせらぎ出版)

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西村一朗(1941年金沢市生まれ、京大大学院建築学専攻修了(修士)、豊田高専、京大を経て奈良女子大学に長く勤務。工学博士。奈良女子大学名誉教授。現在、平安女学院大学教授。地域居住論、居住地管理論等専攻)

一室住宅ー宮城音弥博士の家ー

2006-10-07 | 住まい・建築と庭
安藤忠雄建築研究所が巨大な一室建築空間であることを書いていたら、「一室住宅」というコンセプトが頭をよぎった。で、何故か宮城音弥(みやぎ・おとや)さんの住宅を思い出した。宮城音弥さんとは、戦後、心理学を広く普及するのに力を尽くした人で、京大文学部卒、色々経歴があるが、現役最後の東工大教授の時、私は京大の学生だった。確か宮城音弥博士の家は清家 清さんの設計ではなかったか。建築関連の雑誌で見て「へー」と思ってみた。当時は2DKなど各部屋の機能をはっきりさせて部屋を分けるのが主流だったのに、宮城博士の家は正に「一室住宅」だったからである。宮城先生の座る書斎の席から娘さんが入るトイレも「丸見え」だった、と思う。まあ家族全体が、何をしているかすぐ分かる空間だ。安藤忠雄さんの事務所では、一階に安藤さんが陣取っており、そこにしか電話がない。所員が外部の現場等と連絡を取り合い進捗状況も課題も手に取るように分かる。昔は住宅でもそうだった。固定電話しかなかったので、例えば娘が彼氏と電話していても親には「筒抜け」だったのである。しかし、今は部屋が細かく分かれている場合が多く、電話も携帯電話なので親は子供の動静がよく分からないのである。
細かく部屋が分かれる傾向を、このへんで転換して、もう一度「一室住宅」を考えてみたらどうだろう。もちろん、むきだしはちょっと修正して・・。