西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ミラボウ橋からの夜景

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
9月7日のテラス・ミラボウのディナーを9時過ぎに終えて、地図を検討して「腹ごなし」にホテルまで歩いて帰ることにした。セーヌ河に架かるミラボウ橋からの夜景は素晴らしい(?)、上流にエッフェル塔がライトアップで浮き上がっている。そのすぐ前に、フランスがアメリカに贈った「自由の女神」の元が立っている。左岸(右手)に高層、超高層の住棟がそびえている。下流の左右岸にも高層、超高層の住棟が立ち上がっているので、ここいらに来ると、世界遺産に指定されている「セーヌの景観」から外れているのではないか。まあルーブルとオルセーをつなぐ「ロワイヤル橋」からの「セーヌの景観」とえらい違うな、これは「メリハリかな」と思いつつミラボウ橋を渡った。この日は行く手に低く満月がかかっていた。(写真はミラボウ橋からセーヌ上流を見る景観・夜景・・Google検索による)

フレンチレストランに行く

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
折角パリに来たのだからとフレンチレストランにも二度行った。JALPACKのミールクーポンを利用した。各50ユーロ(手数料含む、日本円7500円/人)だった。一度は初日にルーブル美術館に行った後、同じ一区の「PINXO(ピンチョ)」という店で、この店で7時半に予約して行ったが「一番乗り」だった。私はワイン赤を結局1本飲んでしまい、少し酔っ払ってしまった。二度目は、二日目、オプションで「フォンテヌブロー」に行った後の夕食で、十六区のミラボー橋近くの「TERRASSE MIRABEAU(テラス・ミラボウ)」という店で、前菜(Entreesアントレー)に季節の野菜のヴィネガー和え、パルメザンチーズ仕立て、メイン(Plats)にサーロインステーキの胡椒風味、マッシュポテト添え、そしてデザート(Desserts)にバニラのミルフィーユ、ウイスキー風味を食べた。グラスで赤ワインを飲んだ。この店でも7時半予約で一番だった。まあ、ゆくっり1時間半から2時間かけて料理が出てくるので、ゆっくり食べ、会話も盛り上げつつ持たせる必要がある。これでフランス人は洒脱な会話が出来るようになるのかな。(写真はテラス・ミラボウの内部・・Google検索より)

パリの日本食堂

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
私が家族で初めてパリに短期滞在したのは1983年(昭和58年)夏で、42歳、娘が中学生だった。泊まったホテルは、オペラ座前の「オペラ大通り(Avenue de l'opera)」の途中のメトロ・ピラミッド駅から少し更に行って左手の道(サンタンヌ通り)を「遡った」右手にあったと思うが、今度行ったらなくなっていた。近くにあった「東京銀行」は、「三菱UFJ東京銀行」として残っている。この道を更に行って四辻に行くが、左右の通りが「テレーゼ通り」で、この四辻周辺に日本食堂がワッと出来ている。20数年前は、オペラ大通りの突き当たりに「ラーメン屋」が一軒あったに過ぎない。その店は今もある。その時、食べに行ったが、日本のラーメンの味がしなかったので今回は行くのをやめた。今回は、先に述べた四辻にある「サッポロ一番」に行って中華風の食事(+納豆)をした。まあ味は少し濃いが食べられる。これらの日本食堂の良いのは、フランスレストランと違って夕食は5時からでも食べられることだ。フランスレストランにも行ったが、予約は最低7時半からで普通は8時からである。せっかちな日本人は待てない。日本人以外でも待てない人達は6時頃から日本食堂に来ていた。日本食も健康食としてアメリカ以外でも徐々に普及しているな、と思った。ただ日本より少し高いのはやむをえない。しかし、フランス食を大枚はたいて食べるのより「リーズナブル」で、満足感が外人でも「高い」と思った。(写真は「サッポロ一番」外観)

MITSUKOSHIパリ店

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
MITSUKOSHIパリ店は、「オペラ座」のすぐ近くの便利な所にある。まあ三越は「Euro MITSUKOSHI network」を作っていてパリの他、ロンドン、ローマ、デュッセルドルフ、フランクフルト、ミュンヘン、マドリッドにあるようだ。私はパリとロンドンのは知っているし行ったこともある。パリのは4階建てでロンドンよりやや大きい。ここでは、第一、日本語が通じ日本円が通じるのが良い。まあ「郷に入れば郷に従え」とフランスではフランス風、イギリスではイギリス風を押し通すのも良いが、この歳になると一寸疲れてくる。40歳代の初めにロンドンLSEにResearch Scholar(研究員)でいた時は、なるべく日本人グループに近づかないようにしていた。すぐ日本語で事を済まそうとするので英語の言い回しが中々覚えられなかったためである。今は「日本人が日本語喋って何が悪い」と開き直っている。それと外人とトラブルの時、日本語でまくし立てれば大概は向こうが「引っ込む」、昔パリでジプシーに囲まれたとき、日本語で「こりゃ、何するねん!」と関西弁でまくし立てて追っ払ったこともあった。パリで歩きつかれたら、この「三越パリ店」の4階休憩所で休んだ。冷たい水が只で飲めるし、一日遅れの『朝日』『讀賣』『日経』が只で読める。靴を脱いで一時ソファでくつろぐ。家内は、流石に女性で店内を物色していた。その他、一寸金を出してスーツケースや重い荷物を一時預けることも出来るようだ。(写真は三越パリ店、メトロ・OPERA駅からオペラ座を背に地上に上がると右手に○越のマークが見える。写真は逆の方向から撮っている。)

レ・アールの地下商店街

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
ポンピドーセンターは街の一ブロックを再開発した周りの建物高さより少し高い建物である。空地としての広場も南側にある。ここから少し南に歩くと、これまた一ブロックを再開発したレ・アールの地下商店街にぶつかる。これは地表には1階分位しか出ていない。地下には広大な商店街が広がっている。パリ・メトロの第一の「交差点」に当たり、人が寄り付きやすい「CHATELE(シャトレ)」駅に接続しているためだろう。パリは表通りの「アパルトマン」の一階は個人商店のようになっていて、大きな商店街や「スーパー」は伝統的な「パッサージュ」(英語のPassageパッセージにあたる。日本人研究者の「好きな」路地である)のほか建物の中や裏、地下に展開している。パリはまあ地震がないから商店街は地下でも良いかもしれないが、セーヌ河が万一氾濫したら困るだろう、とふと考えた。他に歩いてみて地下はやはり空気が悪くて気分も悪い。まあワンブロック再開発するなら中層商店街ビルも開発できたのでは、と思ってしまう。勿論、「ラファイエット」とか「プランタン」のようなデパートは一つの中高層建物である。(私は教授になりたての1987年の夏に家族でここに来て、「感心」している。『朝日新聞』奈良版1987年10月6日に私の書いた記事が載っている。)(写真は、レ・アール地下商店街の地上部、真ん中にsunkun広場がある)

ポンピドー・センターに一寸寄る

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
9月9日に時間がなくてポンピドー・センター(ポンピドー大統領に因んだ文化・イベント施設、美術館、映画館等も入っている。)に一寸寄った。昼食時で中でサンドイッチを食べた。ここにも過去二度ほど来ている。その時は上まで上がってピカソなどの近代絵画を見た記憶がある。この北側広場は、人々のパフォーマンスの場となっていて,ロンドンのコヴェント・ガーデンの広場とある意味で似ている。今回は、中国人のグループがパフォーマンスしていた。一弦琴を片隅で弾いている中国人もいた。今回のパリ訪問(ロンドンでも感じたが)で感じた一つは、中国人観光客が日本人より多いのではないか、ということだ。大抵の観光場所に日本語とともに中国語のパンフレットも置いてあった。今回、ポンピドーセンターの裏側にもぐるりと回ってみた。そして宇田英男さんの言う、ノートルダム大聖堂の飛び梁との「相似」の指摘を思い出した。

ノートルダム大聖堂の外壁洗い

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
ノートルダム大聖堂の正面外壁が白く輝いていた、と言ったが、誠にそうで、前は大分くすんでいたのでは、と思う。ユトリロの描いたノートルダムの正面も灰色がかっていた、と思う。横手に回ってみて、正面は「白い」が、側面は「すすけている」ので、順次外壁を洗っているのだろうと推測する。後で述べるパリ市内の石造のアパルトマンでもおなじことで、聞くと2、3十年ごとに洗うようで、洗わないと「罪」になるようだ。それでパリの「綺麗さ」を保っている。建築は継続的管理が必要な所以である。(ノートルダム大聖堂北側側面、右端の正面部は洗って白く、後部側面は薄汚れて洗浄は今後だ)

ノートルダム大聖堂の飛び梁(とポンピドーセンター外観)

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
ノートルダム大聖堂に行ったら、前の広場、内部、上だけでなく外部をぐるりと一周すべきであろう。ノートルダムは「バック・シャン(後ろ美人)」でもあるからだ。私達は大聖堂の高い屋根・天井を支える飛び梁(英語でFlying buttress飛び控え壁)は、「美しい」と思うが、ところが出来た頃は、ロマネスク建築が良いとされた時代だから「何と無骨な、恐竜の骸骨のようなものを外にさらして」と言われたようだ。『誰がパリをつくったか』(朝日選書498)の著者・宇田英男さん(1934年生、私より7歳上、東大建築卒)がその著書で述べている。「ギリシャ、ローマの古典的で完全と考えられた釣り合いを持つ立面意匠と単純な建物の立体形を追求するルネッサンス以後の原則から見て、ゴシック様式は美的に洗練されているとは考えられなかった。実際、ゴシック聖堂を後ろから見ると、恐竜の骸骨のように飛び梁が並び、その構造体の裸の表現は、今日のポンピドー・センターのように大胆で革新的である。」(同上書、24頁)まことにそうで、美的感覚も歴史的なものであろう。

ノートルダム大聖堂の内部見学

2006-09-12 | 訪問場所・調査地
ノートルダム大聖堂の内部見学は「ただ」である。ロンドンの博物館、美術館は原則「ただ」でお帰りに3ポンドほど寄付してよ、というボックスがおいてあるが、パリではルーブルでもオルセーでもしっかり入場料を取っているが(7~8ユーロ、千円から千二百円)、ノートルダムは「ただ」だった。北側から上のほうに登れるが、今回は「キュー(行列)」が長くて次の予定のため今回はあきらめた。そちらは金が要るかもしれない。内陣は、現実のCathedralだからミサにぶつかることもあるが今回は静かに見学した。南側廊が二列になっていて一列目は通路だが外の二列目は柱と柱の間が小さいチャペルになっていていくつも連続している。それぞれの「団体」のチャペルのようだった。真ん中のメインのチャペルは平面が十字になっていて祭壇は奥の東側にある。聖母マリア(フランス語でノートル・ダムNOTRE DAMEという)が後ろの十字架の磔から下ろされたキリストを抱いている像が置かれている。人々は東側に向かってお祈りするが、その方向はエルサレムの方向と言う。日本仏教の「西方浄土」と良く似た考えかな、と思った。昔はパリで朝日が最初に射すのが、このノートルダム大聖堂の祭壇後ろの窓だ、と言われたようだ。真ん中の「十字平面」の中央に立ってみると、南北に有名な「バラ窓」ステンドグラスを見上げることが出来る。ゴシック建築は、尖頭のVault構造を見出したので、細い柱で高く高く屋根を、天井を持ち上げることに成功した。その屋根・天井の荷重を支えるため、垂直下向きの柱と共に横向きの力を巧みに地面に伝えるため柱頭を横から支える「飛び梁」が外側に発明された。内陣の柱の前により細い添え柱が高く天上に伸びていて人々の意識を上へ上へと導く。一寸薄暗いが、荘厳な気分になるのだろうな。