西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

空間価値論の再構築を

2006-09-18 | 色々な仮説や疑問
『空間価値論』という本を書かれたのは早川和男先輩である。マンションが高く立ち上がって、高い部分では、周りが低いと景観を独占してしまう、みたいな説明図を覚えている。今回、ロンドン、パリを短期間歩いてみて、現時点で、空間価値論を考え直さないと、と思った。「高い住戸だと景観を独占するから、値段は高くて良い」と単純にしてしまうと、超高層マンションの最上階が見晴らしが最も良い(?)からと、最も値段が高くなってしまう。実際、日本ではそうなっているのではないか。一寸おかしいのではないか、とパリのアパルトマンを見ていて思った。パリのアパルトマンの例えば8階建てでは、1階の商店部を除いて2階以上の住居部では、3階、4階が高くて次が5階、(6階または2階)、そして「屋根裏」の7、8階が一番安いとのことである。階高も当然変えている。日本では階高は、ほぼ均一である。(まあ、シュミレーションして超高層が林立して互いに囲まれた状態を想定すれば、上階は見晴らしが「悪く」なって価格も下落、となるだろうが・・、超高層ではないがアパルトマンの屋根裏部屋はそういう状況かもしれない。)
集合住宅の階数、階高、値段の考え方は考え直したほうが良い。
もう一つは、最近漸く古い住宅も価値を見出されつつあるが、今までは殆ど既存住宅の価値はゼロに近かった。これでは戸建て木造などを熱心に維持管理し、価値を高める改修をしよう、とのインセンティブが働かない。「どうせ土地の価値だけなのだから・・」となる。しかも、その土地価格も下落傾向が一般に止まらない。
どういう状況で住めば、満足するのか、これは歴史的に変化するものだが、このあたりで立ち止まって再考したらどうだろうか

ロンドンーパリ Eurostarに乗る-2列車に乗る

2006-09-18 | 訪問場所・調査地
私達の乗ったEurostarは18両編成だった。私達は何も条件を付けずに座席指定をしたが実際に乗ってみて、これなら当初から言っておくべきと思った。次回は絶対に「条件」を出すぞ、と思ったのである。それは、一つには、前向きに座るか、後ろ向きに座るか、だ。まあ前方に展開していく風景を迎えるように、進行方向に向かって座る方が良いだろう。今回は、逆で後ろ向きだった。第二は、窓がちゃんと見えるかどうか、だ。私達の所は「壁」になっていて前後でわずかしか見えなかった。「しまった!」と思った。次回は、窓から景色がちゃんと見える席、と指定すべきである。どうも列車の設計と座席配置の設計がばらばらで行われたようだ。日本だと、例えば新幹線をみてもこういうことは起こらない。第三は、二人席か四人席か、だ。四人席の場合は前にテーブルがついている。まあ、3人か4人でいく場合は、四人席を申し込んだ方が良いだろう。6号車と13号車はBAR-BUFFETになっていた。英仏共同運営の国際列車なので、英仏二ヶ国語で放送があったが、英国側では英語が最初、フランス側に入ると、フランス語が最初だった。では、海峡トンネルに入って真中辺で何か言わないといけなくなったらどうなのだろう、といらないことを思った。見えにくい窓から、外の風景を伺っていて、イギリス農業は牧畜中心、フランス農業は、遥かにヴァラエティがあるようだった。2時間40分ほどの旅だが、海底が20分ほどで後は半々くらいである。パリ北駅に着く10分まえ位まで市街地が現れず、農地の中を走っており、そこからもパリ市街地は、人口のなどの良く似た大阪市などよりも面積が狭いのでは、と感じた。(写真は、パリ北駅、ジプシーに絡まれそうになった)

ロンドンーパリ Eurostarに乗る-1Waterloo

2006-09-18 | 訪問場所・調査地
起こった出来事を逆に書いていくのはかなり難しい。印象が新鮮だったパリから話を始めたので、ロンドンは後回しになったが、最初に行ったのはロンドンだった。
そしてロンドンからパリへは飛行機でも行けるが、ドーバー海峡を地下トンネルで抜けるEurostar(ユーロスター)に乗ってみようと思った。初めてである。
同じ西洋資本主義の大都会、首都のロンドンとパリと言っても都市のあり方が結構違っている。又、国土のあり方も違っている。まあそれが文化だ、と言ってしまえば簡単だが、実際どうなのか、ゆっくり実感し考えていくことにして、まずEurostarに乗ってみよう。この鉄道については、小森星児先生率いる調査団でイギリスに行った時には建設中で「是非皆さんも投資して下さい」と言われたが、後で何だか赤字と聞いて、どうなってるの、と感じたことを覚えている。今はどうなのか。それはともかく、現在ロンドンでの乗降口はWaterloo駅でパリのそれはNord(北)駅である。私達の今回の旅行はJALPACKのフリーツアー(日程は本人がきめる)だったので、送り迎えだけはしてくれた。これで大分助かった。HOTELは、Hammersmith駅から歩いて5分位の所で、便利は便利だったが、パリに発つ朝は車で迎えに来てくれてWaterloo駅まで送ってくれ、パスポートコントロールのことや荷物チェックのこと等を車中で聞いた。どうも飛行機より簡単なようだ。(写真は、Waterloo駅のEurostar乗り口)
関連写真はmixiフォトアルバムにアップしています。

空間計画の歴史的「つながり」

2006-09-18 | 色々な仮説や疑問
パリ及び周辺で数日間だったが色々な空間を見て、今まで抱いていた仮説に合致する事例がいくつかあったので報告したい。空間計画における歴史的「つながり」の実例である。
(1)コンコルド広場のオベリスクとルーブル美術館の「ピラミッド」
オベリスクも「ピラミッド」も元々はエジプトのものである。コンコルド広場のオベリスクはエジプトから寄贈された本物だ。ルーブルの「ピラミッド」は形の原型はエジプトのものだが、材料やデザインは現代のものである。これが現れたとき、やはり賛否両論があったのだろう。パリでは何時もそうだ。エッフェル塔の時も、ポンピドウセンターの時も。私は、この「ピラミッド」には思い入れがこもっているとみる。背景のルネッサンス様式の宮殿に前面の現代のガラスと金属のピラミッド。これは、エジプトに発する西洋文明、文化をルネッサンスの時もそうだったが、我々(フランス)は現代から将来に向けて新しく乗り越えつつ伝統は引き継いでいくぞ、という決意表明ではないか、ということだ。これはオベリスクが近くにあるからこそ発せられうるメッセージである。
実は、このルーブル、コンコルド広場を延長する都市軸に新旧の「凱旋門」も配して、世界に向かっての「つながり」発信力を高めていると思う。
(2)ローマの凱旋門とパリの凱旋門(アンヴァリッドのナポレオンのお棺)
ナポレオン・ボナパルトは、自ら皇帝になってから昔のローマ皇帝に擬して色々なことをやった。現在のパリの凱旋門はナポレオンのローマの凱旋門にならって作るように、の命による。パリの方がローマより大きいと思う。アンヴァリッドのナポレオンのお棺もローマ皇帝のお棺にならって斑岩でつくられたという。アンヴァリッドのイヤホン音声解説(日本語)によると、当時(1840年)、斑岩を探すのが大変で、こともあろうにロシア(ナポレオンが攻め込んだ。トルストイの『戦争と平和』参照)で見つかったとて大金出して買い取ったが、実はそれは斑岩ではなくケイガンだったといっていたが・・。このようにローマの伝統が「つながって」いる。
(3)イタリアルネッサンスとルーブル宮殿、フォンテンブロウ宮殿
ルーブル宮殿、フォンテンブロウ宮殿を抜本的に変えたフランソア一世は、自らイタリアに攻め込んだ体験も持ち、イタリアのルネッサンスに入れ込んで、両宮殿はルネッサンス様式になった。イタリアからレオナルド・ダ・ヴィンチもフォンテンブロウに招いた。これらも歴史的「つながり」といえる。
(4)ゴチック建築のノートルダム大聖堂の飛び梁と現代のポンピドウセンターのむきだし設備
これは宇田英男さんの『誰がパリを作ったか』に示唆された「つながり」である。「ゴシック様式のノートルダム大聖堂は、後ろから見ると、恐竜の骸骨ののように飛び梁が並び、その裸の表現は、今日のポンピドー・センターのように大胆で革新的である」(要約24頁)ノートルダム大聖堂とポンピドウセンターの共通点をこのように把握するのは面白いと思う。とにかく贅肉をそぎ落としていくと、ゴシック時代には、飛び梁となり、現代は設備をそのまま見せることになるのである。これもコンセプトレベルの歴史的「つながり」ではなかろうか。
こういうわけなので、(5)として、「町づくり歴史資料館」の意味、重要性を把握できたのではと思っている。今まで長く読んで頂いた一つの結論である。