西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

我々は殆ど地表に生きているのだよ。

2006-09-17 | 色々な仮説や疑問
ロンドンやパリで地下鉄を乗り回していて、つくづく思った。
私は今何処にいるんだろ?。深さはどれ位でどちらの方向に向かって歩いているのだろう?壁に書いてある指示通り乗り換えているが、本当にそれでよいのだろうか?結局、地下では本当の位置が明確には分からないのだ。人間の感覚、自然能力では。我々はモグラではないのである。
梶浦恒男さんに聞いたら、アメリカでニューヨークの地下鉄からワシントンの地下鉄に移って、自分の位置が比較的分かるようになってホッとしたと語っておられた。私は未だアメリカに行っていないので分からないのだが、ワシントンの地下鉄には何か「シー・スルー」になっている部分があって見通せて良いらしい。アメリカに行ったら一度体験してみよう。mixiメイトのアトムさんがサンフランシスコののBART(Bay Area Rapid Transit)をフォトアルバムで紹介しているが、ああいう地表を、少し上であっても走るほうが良い。パリでも一部ブールバール(環状大通り)に「市電」を導入するようで好ましい。

同じように超高層に登ると気分が悪くなる。地表が確かに見えているが、手に取るように確実ではない。我々は鳥ではないのである。

結局、人間は地表の動物だ。感覚もそれに対応するように出来ているのだ。
我々は何とか皆で仲良く地表中心で生きていくことは出来ないのだろうか。

パリのアパルトマン等生活空間観察

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
いよいよパリの最後の報告で、パリの住宅であるアパルトマン等の生活空間について観察したことを、一部聞いたことを交えて報告しておきたい。前から疑問に思っていたことが一部解消した感じである。パリ20区に210万人住んでいるが、戸建てに住んでいる人は一人もいない。皆、集合住宅のアパルトマンに住んでいる。半分冗談に「パリでの住まいの理想はコンコルド広場に面して戸建て住宅に住むことだ」というのがあるようだ。昔、フランスに行っておられた今は亡き足達富士夫先生も何かに引用しておられた。まあ言ってみれば宮殿の王様は「戸建て」に住んでいることになったかもしれないが・・。パリ中心部例えばオペラ大通りに面するアパルトマンは7、8階建てと言えよう。7ないし8階が屋根裏部屋になっている。それで昔、私は「ロンドンの住宅の価値は近所に並木や公園があるかないか、で決まり、パリの住宅の価値は天井高で決まる」と言ったまでは良かったが、きちんと観察せずに、「パリでは1階の天井高が一番高く上に行くほど低くなる」と書いたことがある。これは訂正しなければならない。今回の観察と聞き取りで1階の天井高が一番高いのはほぼ間違いないが、2階は一旦低くなって又3階が高くなり、4階も同じくらいのこともある。そして5階以降は低くなるのは間違いないと思う。これはどうしてなのであろうか。パリの人達は昔からこういう環境に住んでいるので常識的で当り前なことも我々にとっては不思議な訳だ。これを解くヒントは、長年パリに住んで観光案内人をやっておられる婦人の口から出てきた。フォンテンブロウの帰り道、パリの町中に入ってきた時「アパルトマンの3階のヴェランダの手すりが特に立派なのはどうしてか分かりますか」と言われた。そう言われて良く見ると、確かに3階のヴェランダの手すりは立派で他の階が鉄製でも3階だけ石製のアパルトマンもあった。同じ鉄製でも3階が立派だった。答えもその婦人から聞いた。この話は、馬車時代に遡る。中心部のアパルトマンは殆ど150年近い歴史を持ち馬車時代の建築だ。それでよく観察すると、1階に馬車で中庭に入るための背の高いドアがあり、そこから馬車が中庭に入ってから下りて階段を上がって上階に行く。その馬車の馬の臭いが中庭にこもって特に2階に立ち上がる。3階になると和らぐため、上がりやすさのとの兼ね合いで3階が一番良い階となった、と言われた。そのこと以外のことを考えても、そういうことは言える。つまり1階で商売をする場合が多いので2階は比較的うるさい、町の雑踏からもそう言える。そう言われて再度良く見ると、手すりは3階にあって4階にない場合も多い。これは推測すると、3,4階は比較的裕福層のメゾネット(両階を使う住宅)になっていたのではないか、ということだが確かめてはいない。オペラ大通りのアパルトマンの写真を上げておくので見てほしい。
次に現在は自動車時代だから、馬車時代の町づくりでは、駐車は大変だということになる。事実、路上駐車はオーケーだ。オスマンさんなどが馬車時代に比較的広い道をつくっておいたお陰で片隅に自動車を止めてもなお自動車が走れるのだ。もちろん、この駐車は有料だ。ところで、その駐車形態だが縦にほとんど隙間なくずらりと駐車しているのだ。これでは、どうして駐車したり発車したり出来るのだろうか。これも聞いて「なあるほど」と目からうろこである。つまり発車の時、エンジンかけて前後の車のバンパーを押して隙間を作っても良いことになっている、と言う。ためにバンパーがあるんだよ、と言うわけだ。まあ新車で1週間バンパーに傷がつかなければ、ゴルフのホール・イン・ワンの時のように親戚、友人で祝杯をあげるのだと言う。フランス人は日本人が自動車を洗ったり磨いたりすることを「あんな道具を何故そんなに大事にするか分からない」と言っているそうだ。それからバンパーを観察すると確かに傷ついたものが多い。それでも走れれば無頓着のようだ。
日常の買い物はどこでするのか。表通りにカフェやパン屋はあるにはあるが肉、魚、野菜、果物等はどこで買うのか。一つは、レアールのような最近の大きな商店街で買うが、伝統的なパッサージュで買うというのもあるのではなかろうか。しかし、これは宿題にしておく。
これらの写真はmixiのフォトアルバムにアップします。

パリのラ・デファンス散歩

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
私自身は過去二度ほどラ・デファンスに行ったが、家内が初めてというので、「パリ都市軸」の「終点」であるラ・デファンスに出かけた。行きは1番線のメトロ、帰りは鉄道郊外線のRERだった。私は今までは、1989年に完成した新凱旋門とも言うべき「アルシェ」の前の広場、そして「アルシェ」の下まで行ったが、周りの建物に入ってみたり、「アルシェ」に登ったりは出来なかった。今回も「アルシェ」に登ることは出来なかったが、建物には幾つか入ってみた。家内が「お手洗い」と「キャッシング機械」を探すというので、これぞと思う建物に入って探した。上手く「一発で」見つかった。少し時間があったので広場のベンチで休んで「水」を飲んだ。evianである。広場を小型の電気自動車に車両をつけて引っ張っているのがあった。人も車両に乗っていたが、あれは何なのであろうか。別の建物はショッピングの建物だ。へー、こういう「スーパーマーケット」のようなのはパリでは大体表通りに面していなくて建物内部、地下空間(レアールの例)に隠れているのだ。ラ・デファンスはオフィスビル中心だが2万人の居住人口を抱えるニュータウンである。商店がないとおかしいわけだ。そういう目で配置図を見ると広場に面する建物の裏に厚くビル群が出来ていて居住区もあると思われる。最後にインフォメーションに行ったのが、思わぬ「収穫」となった。今まで、どこの町に行ってもインフォメーションに必ず行くという原則を、やや面倒で忘れていた。帰る間際に時間があったせいで思い出して行った。一階は普通の地図や簡単な解説を書いたリーフレットの置き場、イベント紹介、宿泊斡旋等だが、地下が「ミュジアム」になっているようでおりてみた。過去のラ・デファンス地区の歴史や開発のプロセス、最近の大規模新開発と都市軸のストップが「アルシェ」に決まるまでのコンペや経緯、コンペ作品の模型や図面の展示等々、「町づくり歴史資料館(博物館)」のようで、町づくりはこうでなくっちゃ、と確信みたいなものがむらむらとわき上がった。そういえばロンドンの歴史を展示しているロンドン博物館に小学生が勉強に来ていた姿が即座に頭に浮かんだ。(是非、関西学研都市でも近い将来「学研都市歴史資料館」をつくるよう提案したい・・)
(写真は、見なれた「アルシェ」)
他の写真は、mixiフォトアルバムにアップします)

パリのシャンゼリゼー大通りから凱旋門へ散歩

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
パリの第一の大通りは、やはりシャンゼリゼー大通りであろう。凱旋門からコンコルド広場まで伸びる通りだ。前にルーブルのところで書いたパリ都市軸の中にある。オスマン男爵が最も力を入れて広げた通りだ。両側の歩道も広く並木も二列に植えられている。建物の中の店のほか、歩道に張り出した店の続きがある感じだ。ルイヴィトンの本社もある。まあパリに来たら一度は一寸歩いてみる。今回はメトロの「フランクリン・ルーズベルト駅」で降りて右側歩道を凱旋門まで歩いた。一寸した変化もある。マクドナルドが出来たようだが目立たない「広告」だ。スターバックスもパリに10箇所位出来たようだが一箇所見かけただけ、これも目立たない。ロンドンの「垂れ流し」のような「洪水」に比べると、やはり米仏の関係か、と思ってしまう。車椅子で散歩している人も見かけた。向こう側のルイヴィトン本社の社旗は、フランス三色旗の真ん中の白部分をⅤにして「フランスを背負っている会社だよ」と言っているようだ。凱旋門まで来ると流石に「おのぼりさん」が多く色々な言葉が飛び交っている。中国人の団体もいる。中国もフランスもある意味でアメリカに対抗意識を燃やす「中華思想」の国で似ているとも言えるかもしれない。凱旋門はナポレオン一世がローマ帝国の凱旋門に見習って作らせたものだ。(写真は、シャンゼリゼー大通り歩道から凱旋門を望む)
他の写真は、mixiフォトアルバムに公開。

パリの下水道

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
前からパリに「下水道博物館」が地下の下水道を取り込んだ形である、と聞いていたので以前にも行こうと試みたが、木曜、金曜とメインテナンスで休みなので、それにぶつかったりで行けなかった。今回は確かめて土曜日(9月9日)に行った。一人4ユーロの入場料である。場所はオルセー美術館から少しセーヌ下流のアルマ橋の近くに出入り口があった。切符を買って地下に降りていくと入り口に若い女性の案内人がいて我々を見て英語の説明リーフレットをくれた。まだここでは日本語のものはないようだ。日本の観光案内書に載っているものもあるが大きく扱われていない。私達がここに滞留した1時間ほど日本人には会わなかった。若いフランス人カップルが見て回っているのに「へー」と思った。簡単な歴史展示:1200年頃に道が舗装され真ん中に下水のドレインが作られた。1370年Hugues AUBRIOTが石造りの下水ドレインを作り出したが、未だ地表にあった。ルイ十四世の頃、右岸にリング状の下水道を設置、左岸の下水道にはBievre川が使われた。ナポレオン一世の時、覆われた(地下の)下水道ネットワークが30kmにわたってつくられた。1850年にオスマン男爵と技術者のEugine BELGRANDが上下水道システムをつくった。そして一世紀以上前に上水道と中水道が作られ、上、中、下水道の総延長は1878年に600kmに達した。それでBELGRANDが「上下水道の父」と目されている。現在、2100kmのトンネルを持ち、正に世界一の上下水道ともいえよう。その下水道は、ヴィクトル・ユーゴー作の『レ・ミゼラブル(ああ無情)』でジャンバルジャンが逃げ回るほど背の高いもののようだ。実際に中に入ってみて実感した。下水特有の臭い臭いもして家内は早々に最後の「休憩空間」まで早足で行ってしまったが、私は少し丁寧に見た。下水の掃除、管理のため舟があったり、歩道がついていたりする。その「歩道」をジャンバルジャンは逃げたのだ。セーヌ川の水位が高くなったり、洪水になる時、逆流を防ぐやりかたもわかった。ジャンバルジャンも説明に使われていた。(写真は、下水道博物館の「ジャンバルジャン」展示)
mixiのフォトアルバムに全体の写真アップ

パリのふとん屋

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
凱旋門に行った時、地下道の壁に「FUTONS」という広告が貼っているのが目に入った。良く見ると、ベッドやソファに「布団風」のものを被せている写真がある。座布団もある。畳を敷くのをフランス語で「タタミゼ」というのだ、というのを聞いたことがある。フランスに日本文化が食文化にとどまらず住文化まで受け入れられているとしたら興味がある。まあ実際に見ていないが、暇があったら、この蒲団屋に行って(場所や電話番号が書いてある)色々聞いてみたい気がしたが、帰国時間が迫っていて駄目だった。(写真は、「FUTONS」の広告、凱旋門の地下道付近)

パリのホームレス等

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
セーヌ川というと、綺麗、パリの象徴と思うが、川岸にホームレスも見られた。昔の日本の言い方では「橋の下」である。先を急いでいて十分観察出来なかったが、一人や二人でないことはわかった。他にあちこちで黙って手を出して座っている物乞いにも何度か出会った。これは倫敦でも経験した。ストリート・ミュジシャンは「働いている」ので何がしか貰って当然と思うけれど・・。

パリのトイレ(男性)

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
次はトイレだが、困ったことが二つあった。一つは、高さが「高すぎる」ことだ。日本では子供用の低いのと大人用の高いのがあるが、大人と言っても色々の背丈だから低めに設定している。「大は小を兼ねる」というより「低は高を兼ねる」と言えよう。ところがパリではあまり「子供用」は見当たらない上、そもそも「高すぎる」のだ。子供や小柄の大人はどうしているのか心配になった。もう一つは、便器の前に、日本だと鞄を載せる台のようなスペースを取っているが、パリでは先ずなかった。重い鞄をショルダーにして何とか切り抜けた。ここからパリに行って公衆トイレに入るには、ショルダーバックが必要、と言えるかな。それと、昔は、掃除のおばさんが入り口で頑張っているので小銭のコインをおいて入ったこともあったが、どうやらそういうシステムは廃れたようだ。ノートルダム大聖堂の裏側に綺麗な公衆トイレがあり、おばさんがいたので「すわ小銭」と思ったが、単に人数整理をしているに過ぎなかった。(写真はアンヴァリッドのトイレ、軍隊管理の施設なので入り口で鞄を開けさせられた)

パリの中水道

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
歴史的な厚みに圧倒されどおしのパリだが、一寸我々の生活に関係深いことも探ってみたい。先ず「中水道」である。日本では藤野良幸さんが提案しておられたが中々実現しない。まあ「天水」をためて使おうや、は我々の「つなね」コーポラティブでも実現しているが・・。パリの「中水道」は初めて行った1974年(33歳)にも経験し「へー」と思った。当時、セーヌ左岸のホテルにいたが若かったせいもあり時間が勿体ないと早起きしてホテル周りをうろついた。その時に、歩道と車道の境の石の横から猛烈に水が吹き出ていて、「下」に向かって流れているのを目撃した。そして、その水で車道を洗っていた。後で聞くと、これはセーヌ川の水を汲み上げ、路を洗った後又戻しているのだ、と聞いた。ところが今回も同じことを目撃したので聞いてみると、下水処理した水を道洗いに使い、それをもう一回下水に戻して処理してセーヌ川に戻していると言う。前はセーヌ川の水そのものを使って又セーヌ川に戻すと聞いたようだが、やはり下水処理した飲めないまでも「まあまあの水」が中水で流れるのが文字通り「中水道」であろう。水不足の今日だが、パリでは昔からこういうことがやられているのには感心する。

ナポレオン・ボナパルトの眠るアンヴァリッドへ

2006-09-17 | 訪問場所・調査地
今回のフランス(パリ)行きの一つのキーパーソンはナポレオン・ボナパルトではないか・・・と途中で気付いた。ルーブルしかり、凱旋門しかり、フォンテンブロウしかりである。では、とナポレオン・ボナパルトの眠るアンヴァリッドに行ってみようという気になった。というか、今回訪問候補として今まで行っていない中に入っていた。前にパリのカメラマン都筑 清さんのブログからアンヴァリッドを私のブログに引用させてもらったことがある。都筑さんのブログ番地:http://parisparis.exblog.jp/ である。実際にアンヴァリッドが写っている私のブログ:http://blog.goo.ne.jp/in0626/d/20051123 の中から見てほしい。05年11月23日ブログである。これを見た時に、今までのパリ行きで行っていないと気付いて今度行こうと思ったのが今回実現した訳だ。アンヴァリッドのあるのはセーヌ左岸で、アレキサンドル三世橋を渡っていく。アレキサンドル三世橋は、キンキラ金の彫像が橋の上にそびえている「アール・ヌーボー」の橋という。そこからアンヴァリッドの大きなこれ又キンキラ金のドームがそびえて見えている。アンヴァリッドとは「廃兵院」ということで、太陽王ルイ十四世が1674年、軍事医療施設として建てた。当時、戦争が絶えず負傷兵が多く出たからである。しかし、現在は軍事博物館となっており、奥のドーム聖堂はルイ十四世が王家の礼拝堂としてヴェルサイユ宮殿を設計したマンサールに設計させた。正に建築家マンサール、パトロン・ルイ十四世といったところだ。しかし1840年に皇帝派と王家の和解の印としてナポレオンの遺骸はセント・ヘレナ島から持ち帰られ、ここが墓所となった。ナポレオン自身、生前に「セーヌ川の傍に葬って欲しい」と言っていたこともある。良く知られるフランス人のジョークに「アンヴァリッドを訪れる観光客で最も多いのはイギリス人、何故なら彼らは本当にナポレオンが死んだのか、確かめに来るのさ」というのがある。それほど当時イギリスにとってナポレオンは脅威だったのである。結局はワーテルローの戦いでイギリス軍の勝利となりナポレオンはセント・ヘレナに流されることになった。今回、軍事博物館は一部改装中のこともあり殆ど見ず、ナポレオンの墓所だけ見学した。ローマ皇帝と同じように斑岩で出来た立派な棺がドーム真下の中央半地下に置かれていて、上に上がった周りには一族の棺も置かれている。入場したら受付の人が盛んに手招き、「どうぞ」と日本語で言って説明イヤホン器を渡してくれた。これはどうも「ただ」らしい。ゆっくり聞くと時間がかかるので飛び飛びに聞いた。ナポレオンの軍服も飾ってあった。絵とか映画「戦争と平和」位でしかナポレオンのイメージはなかったが、そういえば4時間しか寝なかったとか、手を軍服に突っ込んでいるのは恋人の絵を押さえているのだとか、「私の辞書には不可能という言葉はない」といったとか、を思い出した。