西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ルーブル美術館(5)今回の見学鑑賞-3

2006-09-13 | 訪問場所・調査地
ルーブルの第一の宝はレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナリザ」である。この絵画のみガラスでガードされている。フランス王フランソワ一世はイタリアルネッサンスに惹かれてダ・ヴィンチをフォンテンブローに招いた。ダ・ヴィンチは「モナリザ」を持ってイタリアから移り、そこで亡くなる前にその「モナリザ」をフランソワ一世に手渡したので、現在それがルーブルにある訳だ。この絵については、謎が多いが確かに「奥深い」絵だと感じる。そこには人々が群がっていたが、ふと対面を見ると巨大な壁面一杯に圧倒的に多数の格好の違う人物を描きこんだ絵があり圧倒された。それは、やはりイタリアのヴェロネーゼの「カナの婚宴」であった。小さく一人で微笑む「モナリザ」、逆に大きく多数の人物像を描きこんだ「カナの婚宴」を対面に配したのも一つの演出と思った。

ルーブル美術館(4)今回の見学鑑賞-2

2006-09-13 | 訪問場所・調査地
ミロのヴィーナスも古代ギリシャ彫刻である。肉体美をリアルに表現するのは後にルネッサンスにも影響を与えた。体操や古代オリンピックが盛んになったことが背景にあるだろう。前にも書いたが、以前は、この像は半地下におかれていたのではなかろうか。この前で記念写真を撮っている人は多い。私達も「おのぼりさん」で撮っておいた。プライヴァシーもあるので「後姿」の分を紹介する。

ルーブル美術館(3)今回の見学鑑賞-1

2006-09-13 | 訪問場所・調査地
今回は、時間が余りなかったので1時間ほどで何を見るかが問題だった。家内の見たいものを優先した。一つは、モナリザ、ミロのヴィーナスというビッグな対象、聞けば1千万にも及ぶ年間鑑賞者の7割はモナリザ目当てと言う。ついでフェルメールの「レースを編む女」とのことだった。前二者は2階のデウノン翼、フェルメールは3階のリシュリュ翼にあった。日本語の「見取り図と館内の案内」を手に進んでいった。半地階、1階はフランスの彫刻を除くと殆ど古代エジプト、メソポタミア、古代ギリシャ、ローマ等の芸術展示だ。一度はゆっくり見たいものだ。今回、大英博物館でエジプトを一寸見たので比較もしてみたい。2階のミロのヴィーナスに進む途中に「サモトラケのニケ」という古代ギリシャ彫刻が見えた。これは見覚えがある、と思った。奈良のJR奈良駅構内にレプリカがあったからだ。JR奈良駅は一応「保存」となり少し移動されたが、あの彫刻はどうなったであろうか。「勝利を擬人化したニケは翼を広げ、船のへさきにつけられる」とのことだ。それを少し鑑賞してミロのヴィーナスに向かった。(写真は「サモトラケのニケ」)

ルーブル美術館(2)パリでの位置づけ

2006-09-13 | 訪問場所・調査地
ルーブルは元々王宮、ルーブル宮殿である。しかし、帝政になってナポレオン・ボナパルトは、このルーブル宮やルイ14世(太陽王)のベルサイユ宮を「過去の強烈な臭いが付いている」と避けて、パリ南部のフォンテンブロー宮を改造して本拠とし、ルーブル宮は、フランソワ一世あたりから始まる王家、国の美の宝を展示する美術館と位置づけて整備に努めたのである。ヨーロッパ遠征で手に入れた美術品も美術館に寄付した。だから、「ピラミッド」から地下の入口の方にエスカレーターで入っていくと広いホールがあるが、そのナポレオンに敬意を表して「ナポレオン・ホール」と名づけられている(のではないか、と思う)。先に紹介した宇田英男さんの『誰がパリをつくったか』(朝日選書498)によると、パリの町づくりの骨格造りは、このルーブルを起点として西の方に延びる都市軸を長年かかって形成してきたことにある、と言う。凱旋門はナポレオンの命による。近くでは、都市計画関連の誰でも知っている百数十年前のオスマン男爵主導のパリ改造があり、シャンゼリゼー大通りを広げ、凱旋門から放射状に大通り(Avenue)を造ってパリの骨格とし、建物の造りや高さも規制してアパルトマンを形成してきた。そして、ごく最近ではフランス革命200周年の1989年のパリ・サミットを期してシャンゼリゼーから凱旋門の延長にセーヌを越えた対岸に高層、超高層も認めるニュータウン「ラ・デファンス」を造り、「新凱旋門」とでも言うべき、「アルシェ」を建設した。昔は、デファンスは文字通り西方のイギリスに対するパリのデファンス(防御の地)であった。凱旋も西から凱旋門を通りシャンゼリゼー大通りを行進し、コンコルド広場を抜け、ルーブル宮に達したのだと思う。営々として築いてきたパリ中心軸(ルーブル、チュルリー公園、オベリスクの建つコンコルド広場、シャンゼリゼー大通り、凱旋門、ラ・デファンスとアルシェ)の起点であり、終点がこのルーブルなのである。ルーブルから眺めても、逆にアルシェから眺めても、この壮大なフランス人の強い意志のこもった都市軸に感動するであろう。新しいルーブルの鉄とガラスのピラミッドも、コンコルド広場中央にそびえるエジプトから贈られたオベリスクに呼応する「我々は古代文明からの継承者である」という意志も示しているのではないか。あれや、これやを考えながら、しかし、時間の制限の中で今回は何を見ようか、悩ましいところであった。(凱旋門からラ・デファンスを望むーGoogleより)

ルーブル美術館(1)

2006-09-13 | 訪問場所・調査地
少し綺麗な美術館の話にしよう。元々今度の旅は、何も考えない、それこそヴァカンス(「空」)の積もりで、ボーと美術館巡りでもしようと考えていた。パリといえば当然、ルーブルである。ロンドンの大英博物館、ナショナル・ギャラリーに勝るとも劣らないものだ。最近、映画「ダビンチ・コード」でも最初と最後の舞台はルーブル美術館であり話題になった。
とにかくルーブル美術館を歩き通すと43kmもあるようだ。マラソン以上の距離だ。何も見ずに休まずにただ歩いても10時間以上かかる。本当にゆっくり一つ一つ見ていくと一ヶ月はかかるだろうと長年パリ周辺で観光案内している人が言っていた。そうだろうな、と思う。過去、パリに来た時には大体一寸でも寄っていて今回3回目である。最初はまだ「ピラミッド」がなかった頃に行った。1982年版のミシュランの英語版パリ案内を持っているが、それには「ピラミッド」はないし、作品の展示位置も変わったようだ。最初行った時(1983年)にはミロのヴィーナス像は「地下」(?)にあって、足元を触っても良かったので私も触ってフラッシュをたいて記念写真を撮ったことを覚えているが・・。足元の辺が薄汚れていた記憶がある。今はフラッシュ禁止だが、原則フラッシュなしで撮って良いのは日本の美術館と一般に違うところだろう。今回は、ミロのヴィーナスは「ジョコンダ」(モナリザ)の近くに移っていた。(写真は、誰もが写す「ピラミッド」)

ミラボウ橋からバラールのホテルまで散歩

2006-09-13 | 訪問場所・調査地
ミラボウ橋からホテルまで一直線、歩いて20分位、薄暗い町を散歩した。それで家内の指摘でも気付いたのだが町にあるゴミ捨て袋が透明のビニールだった。これは、恐らく最近変わったのだろう。中に捨てられたものを外から見えるようにするためだ。爆発物、危険物を捨てにくくする処置に違いない。ロンドンでは前より町のゴミ捨て(litter表示)が極端に少なくなっている感じだった。パリは結構多くてゴミ捨てに余り不便しなかった。それと、夜の町が案外暗いことだ。ネオンはほとんどない。広告灯も規制されているようだ。別にパリで働く観光案内の人に聞いたら、店でも薬屋の緑十字のネオンはあちこちにあるが、他の店はないわけではないが規制されていると言う。街灯も暗い感じだった。もう少し明るくしても、と思ったが・・。(写真は、ビニールのゴミ袋)