西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

石岡繁雄先生の思い出

2006-09-25 | 諸先生・諸先輩・同輩・諸後輩の思い出
今日『朝日新聞』夕刊の「惜別」を見ていたら、佐久総合病院の若月俊一さん(享年96歳)と共に、小説「氷壁」のモデル 石岡繁雄先生(享年88歳)が載っていたのでびっくりした。8月15日、正に終戦の日に「大動脈瘤破裂」で亡くなられたようだ。石岡先生と私の接点は豊田高専であり、私が1966年に京大大学院を出て助手で就職した時、既に47歳位で物理学の教授であったと思う。私が京大助手で京都に戻るまでの4年間ご一緒したのではないか。先生は戦前の旧制八高、名古屋帝国大学工学部電気工学科のご出身、当時、豊田高専の校長が須賀太郎先生で名古屋大学工学部教授(電気工学科)を経てなられたので、恐らく石岡先生は、須賀先生の教え子ではなかろうか。石岡先生は、根っからの山男で後に名古屋大学山岳会の会長も勤めている。私が赴任した当時、既に井上靖さんの小説『氷壁』は刊行されており、その小説は、自分が贈ったナイロンザイルが岩壁で切れて石岡先生の弟さんが滑落し亡くなった事件について、不審に思った石岡先生のレポートをベースにしたものである。石岡先生が「確かにナイロンは真っ直ぐに引っ張ると麻よりも強いが、鋭角的に岩壁を越えて引っ張ると麻より弱いんだよ」と言っておられたことを思いだす。これは後に政府にも認められ「製造物製造者責任法(PL法)」の嚆矢となった。ところで、当時、全国では大学紛争の嵐が吹き荒れており、それは高専にも及んで豊田高専でもバリストがあった。石岡先生は確か学生主事(大学の学生部長に当たる)をやっておられ、教官会議では「軟弱」と言われながら学生の心情を思って処分も寛大に提案されたと思う。ためもあって後に鈴鹿高専に移らざるをえなくなったのではなかろうか。奥さんや子供思い、人情味溢れる石岡先生を静かに想いたい。ホームページに娘さんの思い出等が載っている。http://www.geocities.jp/shigeoishioka/ (写真は80歳代の石岡繁雄先生)

ムンクの「叫び」とモネの「睡蓮」

2006-09-25 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
http://homepage2.nifty.com/lite/hard_column/no_nippon905.html
時々、安達正興さんのハードコラム(世界政治、最近はタイ・クーデターの評論)をみているが、先のhttpにあげたように盗まれていたムンクの「叫び」が見つかったことを話題にしている。安達さんはノルウエーのベルゲンに住んでいるのでムンクを話題にするのは当然だろう。私達夫婦も昨年お世話になった。で、この記事を読むと、ムンクは「叫び」を何枚も描いたらしくムンクなら2枚や3枚盗まれても意に介さないだろう、とのことだ。ところで、この絵は「叫び」と言っているが、良く見ると耳をふさいでいるのでは、「聞かざる」姿勢では、との意見も聞いたことがあり面白い。で、ムンクが同一テーマ多作なら、フランスのモネも「睡蓮」多作だな、と思い出した。パリのオランジェリで大作を沢山見たので「満腹」した。

郊外戸建て住宅の将来

2006-09-25 | 地域居住学
昨日、奈良の建築家・武市義雄さんと喋っていて、きちんと考えないといけないと再度思ったのは、郊外戸建て住宅の将来だ。私の家もそれに入る。武市さんの家はどうなのだろう。彼は言った。「子ども達4人を育ててきたが、末っ子も二十歳になって独立の風、そうなると夫婦二人だけ、先が思いやられる」と。私は言った。「そうするとどちらかが先に逝くと一人だけ、最後はゼロになって家は空になってしまう・・」だが、と付け加えた。「そうならない方策を遅くとも二人の時に考えて手を打つべし」と。私の家は娘一人が出て行ったが孫が二人、しょちゅう来ている。将来、学生時代や就職して関西に来るなら「いてやるよ」と言わないとも限らない。武市さんは4人も子どもがいるなら、より可能性は高い。そんなことを言っていたら武市さんは「イギリスなんかでは、空いた家には学生が下宿したりしているんでしょう?」と言った。咄嗟で私の頭にある情報を急速に「検索」したが具体的例が出てこない。確かに理屈ではありうるし、聞いたこともあるようだ。考えてみると、私の金沢の家も他人を下宿させることを考えていたし、昔の町家でもそうだったのではないか。イギリスのB&Bも「自宅利用」の面もあるし、パリのアパルトマンも空いている場合、貸している。まあ私の場合、今の戸建て住宅は勿論、「つなね」の一室住宅だって、そのうち例えば近くの奈良女子大の学生・院生に貸すことも考えられる。外国からの留学生に貸すのも有意義だろう。だが、まだそういう雰囲気、「需要をまとめるソフト」がないなあ、という話になった。

耳学問「住吉の長屋」

2006-09-25 | 住まい・建築と庭
昨日、建築家・長坂 大さん(奈良女子大助教授)の話を聞いていて、そうなのか、と思った。安藤忠雄さん設計の「住吉の長屋」についてである。あの設計は、じっくり検討したことはない。ぱっと見て「一寸不便では・・」などと思っていた。長坂さんの解説では(一寸私の解釈も加えて言うと)、裏の部屋から前の部屋に移る空間が外部に開かれた中庭のようになっていて、そこを通るとき雨でも降っていれば傘をささないといけない。しかし、その「不便性」をおいても、狭い閉鎖的な長屋では日々外部の環境とつながる空間が必要。日本伝統の「坪庭」もそうだろう。空を流れる雲を見たり、夜には星を見たり、時には風や雨を感じたり・・、だ。そうだな、そういう見方をすれば有意義かなと思った。どんな狭くても「自然とつながる」大切さの表現だ。それと「坪庭」という「歴史」ともつながっている。勿論、伝統的「長屋」とも・・。(昔、都市計画家の石田頼房先生が、あの家は都市計画規定からはどうなのか、と言っておられたことをフト思い出してしまったが・・)

一寸その後、住吉の長屋のファっサードをみて、こりゃ長屋の伝統とは言えないのではないか。小さい穴のような入口があるだけだ。長屋なら、もう少し表に「開いている」面がある。安藤さんは、こういう風にコンクリートで囲ったから、真ん中に「風穴」を開けないと持たなくなってきたのだ、という解釈にもなる。だとすると、「自然とのつながり」というのもやや綺麗ごとになるかもしれない。(後注)

第四回の「建築家と住民のトークの会」(奈良)に出る

2006-09-25 | 住まい・建築と庭
表記の第三回は春にあって出てみた感想は、http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/71c94f270bd0f4207dad7fde01e89305 にある。今回(昨日、日曜日)はテーマを立てていた。「家族とかたち」である。(この会合は正式には「建築家による家づくりフォーラム」と言う)建築家としては「つなね」のお隣さんの阿久津さんはじめ「長老」の武市義雄さん、住宅を百以上設計という竹原義二さん、奈良女子大の長坂 大さん、奈良女出身の小笠原絵里さん(大阪)、同じく名古屋から駆けつけた深谷朋子さん等が参加していた。私は住民側である。最初に武市さんが15分ほど基調演説?をした。家族は古いテーマだが、今どうなっていくのか良く見えない、それと住宅との関係も再考すべし、ということで報告や議論があった。考えてみると、私が学生だった1960年代では、家族といえば「核家族」が中心であって、他に「世代家族」と言ったもの、単身世帯等に分けられ案外単純な整理、理解だったと思う。しかし、聞いていると、今や多様化、百家族様々といった時代なのだな、と感じた。私は1時間45分ほどじっと聞いていて、最後の方で発言した。「人々は種の保存のためにも集まって住む、それを家族と言うかどうかだが、集まりが一定強くないと長続きしない。過去は生業でつながっていて、つまり強い「共同行動」でつながっていた。今はそうでもないので意識的に共同行動が必要。家造りこそ最大の共同行動ではないか。それと戸建ての将来ももう少し明るくみる方法もあるのではないか・・」奈良で、真面目に住民に語りかける建築家グループがあるのは良い、住民の一人として継続応援しよう、と思った。
住民の皆さんも、私の「ブックマーク」の阿久津さん等に相談してね。