西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

「集積大学」と「散在大学」

2006-09-30 | 地域居住学
マイミクのごろちゃんさんが「今、大学が熱い」と言った日記をmixiに書かれていたのでコメントした。まあ歴史的に見て「散在大学」と「集積大学」があって日本は、後者かな、と述べた。しかし、前者も捨てがたい。昔、亡くなった都市計画コンサルタントの「はしり」の藤田邦昭さんが奈良で「散在カルチャーセンター」を奈良町でつくったらどうか、と言っておられたのを聞いたことがある。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/5769cd4ee64246bdd84331c1cf60dba2
大学は本来、市民に溶けこんでいるべきではないだろうか。東大や京大のように回りが柵で囲まれ、市民を受け入れない異界だみたいなのはどうなのだろうか。私は奈良町で市民に溶けこんだ「散在大学」を形成していったら、と思う。奈良に関する学問分野は広く深いのだから・・。例えば、考古学、古代史学、国文学、歴史地理学、建築史学、仏教美術学、仏教学等々。

ラドバーン(ニューヨーク郊外住宅地)

2006-09-30 | 地域居住学
郊外住宅地のイギリスにおけるモデルがロンドン郊外のハムステッド田園郊外だとしたらアメリカ(USA)のそれはニューヨーク郊外のラドバーンであろう。歩車分離で有名だ。日本では、横浜市の緑園タウン(相模鉄道沿線、泉区)が姉妹都市であるらしい。昔、奈良女のⅠさんがアメリカに行っていて、ラドバーンに行ってきて行く方法を教えてもらったが忘れている。とにかくアメリカに行ったら是非行くべき所の一つである。その他、ボストンのデモクラティック・ウオークも回ってみたいし、ニューヨークとワシントンの地下鉄比較もしてみたい。シカゴは摩天楼の故郷でミース等の設計になる建物もあるらしいので見てみたい。もちろん、ライトの建築もニューヨークのグッゲンハイム美術館のほか、出来ればジョンソン・ワックス社屋も見てみたい。サンフランシスコとロスアンジェルスではサンフランシスコの方がより見てみたい。BARTや市電等公共交通がロスより遥かに良い。フィッシャマンズワーフの「発祥地」にも行ってみたい。ロスも「反面教師」として行ってみよう。自動車重視の矛盾としてドジャース球場の駐車場を見てみよう。去年、ハリケーン・カトリーナの甚大な被害にあったニューオルリンズにも行ってみよう。復興はどうなっているのかな。マイミクのアトムさんの情報や一部案内も期待している。宜しくね。もちろんアトムさんの活躍するシリコンヴァレーにも行きまっせ。(写真は有名な歩車分離のための橋、下が歩行者、上が自動車、グーグル検索)

ライフスタイル、生活時間、ブログ、日記、読書、その他

2006-09-30 | 色々な仮説や疑問
まあ去年の6月末ごろからこのブログを始めて15ヶ月ほどやってきた。コンテンツは、1900を越えている。20のカテゴリーに分けているので、一つのカテゴリーが「枯渇」したら、他のカテゴリーの話題を考えればよいと思って「回してきた」。日に平均4件強のコンテンツ・アップとなる。休んだ日が20日ほどあるので書いた日は5件平均となるかもしれない。で、ここ数日の間に、色々の人から「コメント欄」にはないコメントを貰った。「毎日数件書くなんてギネス級」「毎日覗いているが記事がないと寂しい」「コメント付けたいが、それぞれの記事がまとまりすぎていて、ああそうですね、で終わってしまう」「一寸見ないとずっと行ってしまうので追いつけない」・・・
で、よく考えてみて全体的にペースダウンすることにした。ブログに毎日数時間(2時間位か)かけるのは人生時間から言って「勿体ない」と思いだした。去年の7月から、それまで寝る前に30分位かけて書いていた日記は「手抜き」で、あったことが数行で書いてあるのみだ。まあブログが日記代わりとも言えるが、ブログだと皆が見るので、プライヴァシーに配慮し、紳士的態度で書かないといけないが、日記だと生の感情も主観も入れた文章が書けて自分史としてはよい面もあったのだ。これも寝る更に前の2,3時間の読書が数十分で「十分」とは言えない状況。ゆっくり考察する時間、家内とおしゃべりする時間、その他の時間に圧迫を加えるまでになったブログ書きはペースダウンせざるをえない。「中毒」からどう抜けようかな。

「純情きらり」完

2006-09-30 | 時論、雑感
朝ドラ「純情きらり」は終わった。最近は半年間の朝ドラだ。西三河の岡崎と東京が舞台だった。戦前、ピアノ、音楽に憧れた三人姉妹の末っ子の少女(桜子)が真面目に生きて、戦争を乗り越え、戦後、結婚して子供をつくるが同時に結核が元で亡くなる、という話だ。一言でいうと、味気ないが、東京での「芸術下宿」のこととか、長姉の笛子が「奈良女高師」の出身であるとか、桜子や夫になる達彦が「東京音楽学校」に入るとか、その達彦が戦争に行き音信不通で一時諦めるとか・・笛子の夫の冬吾(とうご)との交流とか色々波乱があった。最後に子供が生まれるが、自分が結核なので会えず、弟が映写してみせる、その後、桜子の長男に対する「遺言」のような桜子自身のナレーションで終わる。「ああ命のバトンタッチだな、この子は将来どうなるのかな。団塊の世代だから、もう定年位かな、」などとの余韻が残る。映画でも小説でも、出だしも大事だが、最後も、どういう余韻を残して終わるか大事である。
(写真は、桜子を演じた宮崎あおい)

駐車場、駐輪場、駐人場 ウン?

2006-09-30 | 地域居住学
一寸前に駐輪場の話題を書いた。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/6bb9acd7b9de737a47dcac7b8a183201
で、自動車より自転車がよいのは、ガソリンを使わない、より健康に良い、そして駐輪場のスペースが駐車場より少なくて良い・・とした。しかし、良く考えてみると、駐車場も駐輪場も行く先々で全て要る。人が自動車や自転車で動けば、何処にでもそういう一時滞留空間をつくる必要があるのだ。そこで、大分前だが「ハッと」思った。人そのものならどうか。「駐人場」なんて要らないよね、まあ玄関先に一寸休むベンチ位あってもよいが・・。人間は、そのまま何処の建築にでも入っていったらしまいである。そういう意味でも、歩いて何でも出来る町づくりが究極の町づくりと言っている訳だ。