西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

スペースシャトル・ディスカバリーのタイル剥がれと・・と

2005-08-06 | 時論、雑感
いよいよ明後日ディスカバリーが地球に戻ってくる。発射時に剥がれたタイル部分について、帰還時には問題がないとNASAは発表した。もし、そこに問題があり大気摩擦にさらされると以前起こったように本体がばらばらになる恐れがあったのだ。
ところで、スペースシャトルほどハイテクでなくても、高層建築の場合もタイル剥がれが外部の安全性の上で最大の問題と認識されつつある。老朽化によりある日自然に、また地震時の揺れにより突然に大量の外壁タイルが剥がれると外部を歩く人々の頭に降り注がれ大事故になる恐れが大きいのだ。(大地震の時には外壁部材の他に窓ガラスの破片も雨と降り注ぐだろう!)
現在ある高層建築について早急に点検しなければならない。
また、こういう危険性からも私は高層建築に疑問を抱いている。

墓地と墓(10)中国、秦の始皇帝の兵馬俑

2005-08-06 | 生活描写と読書・観劇等の文化
1990年10月14日から23日にかけての中国旅行で、西安近くの秦の始皇帝の墓近くの兵馬俑(へいばよう)に行った。奈良女子大学と西安の西北紡織工学院(現在は総合大学に昇格)の交流のための科研費研究「生活環境学ー衣・食・住の今日と未来ーに関する日中大学間協力研究」の研究発表訪問の時に訪れたのだ。
それは、西安のほぼ東に走ったところにある。説明書には「今までは、北京へ行き万里の長城に登らずに中国に来たと言うな、という言い方があったが、この秦の始皇帝の兵馬俑が1974年に発見されてからは、西安に行きこの兵馬俑を見ずに中国に来たと言うな、という言い方に変わった」とあった。だから確かに我々は中国に来たことになると思った。兵馬俑とは、皇帝に従った兵や馬の土人形で、皇帝の墓近くに陪葬されるものである。この兵馬俑および始皇帝の墓そのものは、始皇帝即位の時から権力と金を集中して造り始め亡くなってから何年も経て完成したという大変なものだ。
秦の始皇帝の御陵自体も兵馬俑の近くにあったが、まるで「山」がある感じだった。「人は死して名を残す」と言うが、秦の始皇帝は、名前だけでも十分と思うが、それでは不十分と思ったのか、権力と金を集中して永遠に残るような墓地も作ったのだ。
奈良女子大の訪問チーム:団長は長谷川喜代三教授、団員は、丹羽雅子教授、相川佳代子教授、今岡春樹助教授、梁瀬度子教授と私である。随員に長谷川夫人(医師)がいた。この旅行の私的記録は、「中国・生活・空間・五感・考」としてまとめ全員に配った。この記事は、その記録による。

買い物風景

2005-08-06 | 言語・字・言語遊戯
夏で上着は暑いので、旅行に行くためにベストを買いに行った。
私「ベストなベストを探しています」
店員「べストねえ、ここにベージュのと紺とがありますが、どうですか?」
私「米州に行くわけではないし・・、面白い方が良いな」
店員「えっ、面白い?」
私「コント!」
しかし、実際にはベージュぽいのを買ってしまった。

服部千之先生との出会いと付き合い(6)星ヶ丘住宅

2005-08-06 | 名古屋・豊田の思い出
1966年頃は名古屋市営地下鉄の東山線は、今のように藤が丘までではなく、星ヶ丘までではなかったか。服部先生のお宅は、当時、日本住宅公団の星ヶ丘の賃貸住宅で正に2DKではなかったか。学会の都市計画委員会が終った後、1軒飲みに行き、遅くなると豊田までタクシーで帰ったこともあったが、次の日が日曜日の時など服部先生は「家に泊まっていったら・・」と言っていただき、2,3回泊まらせてもらった。
帰りに「ヒマラヤ」のショートケーキを買われたり、花屋で花を買われたりしていた。奥さん、お嬢さんへのお土産だが、そういう家族への心遣いも学んだ。お宅で風呂にも入らせて貰ったが、脱衣室が一番「片付きにくい」ということも分かった。奥さんとの馴れ初めやお嬢さんの名前の由来等もお聞きした。下のお嬢さんは「栄ちゃん」と言ったが、当時、服部先生が取り組んでおられた「栄東再開発」問題に由来していると伺った。もうあれから40年近く経ってしまった。

扇田 信先生の思い出(9)ホット・ポイント

2005-08-06 | 奈良の思い出(助教授時代)
ホット・ポイントと言っても、hot point ではない。扇田先生独特の言葉遣いで、職場など外から家に帰ってくるとき、どこまで来たら「ほっとするか」の地点のことを言う。ある人は最寄のバス停でバスを下りた所、またある人は家が見えてくる角を曲がった所、さらに別の人は家の門口等々と言うだろう。そのポイントの性格を、感じる人の属性との絡みで分析し、なんらか「ほっとポイント」を計画的に形成できないか、ということである。私が奈良に赴任する前に、千里ニュータウンで調査もされていた。学会の懇親会か何かで東大の鈴木成文先生(前神戸芸工大学長)に話したら面白がっておられたが、やがて鈴木研での「領域論の研究」にもなっていくのだよ、とのお話も聞いた。ホットな話はほっとせずに緊張して話すべし(話さざるべし)ということかもしれない。

暑熱順化(しょねつじゅんか)

2005-08-06 | 時論、雑感
今日の「朝日新聞」で「クールビズ」について、中村泰人さん(熊本県立大教授)が、「暑熱順化」があれば28℃でも過ごしやすい、と言っている。もっと涼しいクーラーが効いた所で突然28℃にしても駄目で、むしろもっと暑いところで慣れさせておけば、28℃も気持ちよい。サラリーマンは昼休みは暑い外で過ごそう・・とのことだ。たしかに、昔は、クーラーもなく扇風機があれば良いほうだったので、暑いところで自然に「順化」して、扇風機も心地よかったのだ。
ところで中村さんは私が京大で院生の時、前田敏男教授のところの助手だった。京大教授を経て熊本に行かれた。助手時代、暑い夏に暑い中庭で、暑苦しそうな黒い板を組み立てた手作り実験器具を汗を拭き拭き作っておられたことを思い出す。

70%、35%

2005-08-06 | 時論、雑感
広島に原爆が落とされてから60年が経った。最近NHKTVで聞いたのだが、広島に原爆が落とされた日が8月6日と正確に答えられる人は、広島地方で約70%、他の地方(全国)で約35%とのことだ。「8月6日」が風化していく危惧を感じる。
初めて被爆を体験した国民としては、永久に「8月6日」は忘れてはならないと思う。私達は新婚旅行に中国地方を選んだが、当然、広島の原爆ドームや丹下健三設計の平和記念館にも行った。私は1941年生まれで、太平洋戦争勃発の年に生まれ、記憶が発生する4歳に広島、長崎に原爆が落とされ終戦となった。幸い、住んでいた金沢は爆撃されなかったが、私はB29を確かに見たことを記憶する最後の世代であろう。心して後続世代にも伝えていきたい。
注:B29 米軍爆撃機(Bomber)の29番目、沖縄から飛び立ちベトナムを爆撃したのがB51、ついでに攻撃機がA(Attacker),輸送機がC(Cargo)である。