西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

高槻市にある四大学と高槻市の初会合

2005-08-02 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
高槻市には現在、学生を集めている四大学がある。それらは順不同で関西大学、平安女学院大学、大阪医科大学、大阪薬科大学である。他に京大の農場がある。またJTの生命誌館(中村桂子館長)がある。高槻市の文化的インフラとも言えよう。
その四大学(理事長・学長)と高槻市(市長)の初めての会合が行なわれた。関西大学が仕掛けたものだ。関西大学は、今は吹田市に本拠があるが、何年か後に高槻に移ってくる予定。だから戦略的一手として会合を仕掛けたと言える。学部長、事務局長は陪席だが、関大、平女のみ複数学部を持つが、学部長が出たのは平女だけだった。(平女は山岡景一郎理事長以下5人が出席)
関大理事長の森本靖一郎さん(事務上がりの初の理事長という)は、図書館など共同できるのではないか、アイスアリーナを作る予定だが皆さんで使ってもらっても良い、と述べた。大阪薬大の矢内原千鶴子学長は教養科目等は四大学で「相互乗り入れ」したら多くのことを学生が学べ教養豊かになるのではないか、と述べた。確かに空間的に近くにあれば、色々協同出来るだろう。高槻市の奥村 務市長は、四大学や生命誌館を含め、市民とも交流出来るフロアを用意したい、と述べた。今日の一つの成果と言えよう。
私は自己紹介で高槻市民憲章五つを述べ(昔このブログで紹介したことがある)、それらを実現する意味でも、協力して町づくりを前進させたい、と訴えておいた。

ダーク・ブルーとライト・ブルー

2005-08-02 | 言語・字・言語遊戯
大学1回生の時、京都アリーナーにアイスホッケー試合の応援に行った。1960年のことで大分昔だ。相手は東大で、毎年行われる対抗戦だ。その時、私は初めて京大のスクールカラーがダーク・ブルーで東大のそれがライト・ブルーと知った。応援団がその色の旗で応援していたからだ。京大体育会の機関誌も「濃青(のうせい)」と言ったのではなかったか。
1982年にイギリスに行ったとき、OXFORDやCAMBRIDGEにも行ったが、確かオックスフォード大学のスクールカラーがダーク・ブルーでケンブリッジ大学のそれがライト・ブルーではなかったか。イギリスでは古いほうが濃く、新しい方が淡いのである。日本は逆である。
ひょっとして間違っているかも・・。だと御免、ブルーな気分になるよ。

Deer Line(鹿線?!)

2005-08-02 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
奈良にDeer lineというのがあるのをご存知ですか。Deerは鹿なので鹿線という訳だ。つまり、鹿が背伸びして食べられる範囲の草、葉っぱは食べられてしまうので、そこまでの草や葉っぱがなくなり、水平に一定の高さの線が引けるのでは、ということだ。勿論、鹿の嫌いな例えば馬酔木などは食べられないので、それらは残る。
とにかくDeer line以下は見通しが良くなる訳だ。奈良県庁は奈良公園に面してピロティになっているが、向かいの奈良公園もDeer lineで下の方はスカスカになっているので、合い通じている感じもするが、どうだろうか。Oh, dear!

私の好きな言葉(7)三上(さんじょう)

2005-08-02 | 言語・字・言語遊戯
私は勝手に「三上の瞑想」と言っているが、『広辞苑』では「三上(さんじょう)」である。中国の古来からの言い方で「文章を練るのに最もよく考えがまとまるという三つの場所」として、馬上、枕(ちん)上、厠(し)上が上げられている。
中間子を予測する理論でノーベル物理学賞を受賞された湯川秀樹先生は、枕元にメモ帳を置いて、新しいことを思いついたら書き付けておられたようだ。寝入りばなは、日常の緊張から夢の世界への境目で、自由な意識の運動が可能なのかもしれない。馬上は、これも日常とは違う視点から物を見ている訳で、馬の歩くリズムもあるが、ふと変わったことを思いつくのかもしれない。厠上は、ゆっくり薀蓄(うんちく)を傾けられるのかもしれない。私もあちこちにメモを置いて試しにやってみたこともあるが、後から見て何のことやらさっぱり分らず、「目も」当てられない状況だった。

結婚披露宴での祝辞(5)春の日の花と輝く・・

2005-08-02 | 生活描写と読書・観劇等の文化
歌を歌って祝辞としたこともあった。「春の日の花と輝く麗しき姿の 何時しかにあせて移ろう世の冬は来るとも 我が心は変わることなく御身をば慕いて 愛はなお緑色濃く我が胸にいくべし」

今日、朝ドラ「ファイト」で由紀さおりさんが歌っているのを聞いたので思い出した。

服部千之先生との出会いと付き合い(4)シャガール

2005-08-02 | 名古屋・豊田の思い出
私が豊田・名古屋にいたのは24歳から28歳までの4年間で、1966年から1970年までだった。まだ20歳台で若いので元気があったが、まだ教養の上では「粗野」の部類だったと思う。学生時代、絹谷先生にはお宅に招いて頂いてご馳走になったこともあったが、西山先生に関しては研究室でコンパで店に行ったりしたが、個人的に誘われたりしたことはなかった。名古屋に来て服部先生は、そうではなく大学院生も良く飲みに連れ出していた。私もお相伴にあずかり「教養」をつんだのである。
建築学会の都市計画部会の会合の後も皆で飲みに行くのが通例だった。御園座近くの「大甚(だいじん)」などにも行った。そこで、長峰晴夫さんから、奥さん共々ピアノが少し弾けるが、これは「隠し財産」だ、と伺った。そういう言葉を聞いたのも初めてではなかったか。服部先生は、行きつけの地下鉄・池下駅近くの「プランタン」という店に良く連れて行かれた。そこで、色々「教養講義」を聞いた。絵画の話もあったが、実は、その店に服部先生所有のシャガールの版画が飾られていたのである。版画は一つにつき番号をつけて何枚も刷られるので、その一枚だったと記憶する。ふわふわと浮いたようなシャガールの絵の背景はかなり濃いブルーで、シャガーリアンブルーという言葉も覚えた。
服部研の院生・学生達は少し「辟易」していたが、私には楽しい時間だった。

私の考え出した言葉(24)「大根」

2005-08-02 | 私の考え出した言葉
何だ、これは単なる普通名詞ではないか、と思われるだろう。確かにその通りだが、含意が一寸面白い、というものだ。ある時、奈良女子大の事務局長だった森澤良水さんが「ほうれんそうが大事」という話を、部下の歓送会でしていたのを横で聞いた。「ほうれんそう」というのは、音では例の野菜だが、意味としては、事務処理の要諦で「報告のほう、連絡のれん、相談のそう」というのである。つまり「報告、連絡、相談」が大事ということである。
それで、私は、考えて、Nさんの歓送会と、森澤さん自身の歓送会で、「ほうれんそう」に対して「大根」という言葉を贈ったのだ。心は、「真っ白な気持ちで、大志を抱いて根気良く、問題を良くすりおろして消化良く!」ということである。

今日のおまけ:アスベストが問題になっているね。うん、「明日ベスト」というより「今日ワースト」だな。