『朝日新聞』のシリーズ特集「らうんじ戦後60年」で今日は「東大60年」が書かれていた。小宮山宏学長(工学部より選出)は、「世界に認められたリーディングユニバーシティ」を目指すと表明している。差し当たりはアジアのトップ大学が目標らしい。ただ戦後60年に限るならば、例えば湯川秀樹博士に始まる自然科学系のノーベル賞では京大に差をつけられている。私は京大卒だから言うわけではないが、東大の今までのイメージはやはり役人のトップを担うということだ。私の高校の同期生でも東大を経由して事務次官になった友人もいる。京大に来た同期生は東大に行った人より少ないが、割合としては研究者が多いと言える。私が大学に進学した1960年は同い年で大学進学する人は9%であって、今は50%位なので五分の一位だった。当時は東大でも京大でも金大でも合格すれば誇らしく銀杏のバッチ、葵のバッチ等をつけて歩いたものだ。しかし、実際のところ一度は東大を狙おうかと考えた人が多かったのも事実ではないか。ところが大学紛争の頃になると東大生であることにひけめを感じることになったようだ。そして今また堂々と、ということらしい。話は変わるが、国立の高校、大学、大学院を出て国立の学校につい最近まで勤めて、今、私学に来て思うことは、国立(その中でも総合大学、単科大学、大大学、小大学等)、公立大学、私学(これも色々)で高等教育・研究や社会貢献等の役割分担をしっかり決めて進むことが重要ということだ。戦前は、大学生の規模が違うので参考にならないかもしれないが、帝大、医大、私大、高等専門学校等が互いの役割を認めつつ役割分担していたのである。早急に考えるべし、だ。
前回に話したピラミッドが最も堂々とした「墓」とすると、全くの逆は「墓がない」という状態、その代表が散骨であろう。亡くなった人の火葬後の骨を大自然に「撒き散らしてしまう」というやり方である。「自然に帰る」やりかたは、犬のジョンの項で話した土葬もあるし、ヒマラヤなどで行なわれている鳥に食べさせる鳥葬もある。海に沈める水葬もある。ただ、散骨のイメージは、中国の周恩来首相が遺言で、自分の骨は中国の全土に(飛行機で)撒き散らして欲しい、と言って実際そのようにやられたやり方ではないか。でも、こういうやり方を多くの人がやりだすと、また「汚染」という別の問題も起こりかねない。
この散骨という言葉は『広辞苑』の4版にはなく5版で初めて登場したが、これを載せるべく言った一人が私である。これは、さっぱりしたやり方だなと思う反面、高口和尚の一心寺でやっているねっちりした骨仏のような「集骨」もあるなーと思っている今日この頃である。
この散骨という言葉は『広辞苑』の4版にはなく5版で初めて登場したが、これを載せるべく言った一人が私である。これは、さっぱりしたやり方だなと思う反面、高口和尚の一心寺でやっているねっちりした骨仏のような「集骨」もあるなーと思っている今日この頃である。
Blue Plaque(ブループラーク)とは、青銘板とでも言えるもので、ロンドンで良く見かけた。家の妻壁の辺りに貼り付けてある青色の地に白で説明が書いてある金属板である。散歩がてら、それらを見上げながら進むのも良い。要は歴史上の有名人物とその建物、住宅との関係を示す標識である。先ごろ、夏目漱石が下宿していた家にも、この青銘板が取り付けられたようだ。19世紀は「イギリスの世紀」で、その頃ロンドンには世界中の有名人が来ていたので、イギリス人で「ここで生まれた」という他に住んでいた外人も多い。夏目漱石もそうだが、1983年頃私はSohoで「ここにマルクスが住んでいた」というブルー・プラークもみつけた。
今度ロンドンに行ったら、田園都市論のエベネザー・ハワードの生家と田園郊外を設計したレイモンド・アンウインの生活し亡くなった家をBlue Plaque(ブループラーク)で確認したいと思っている。また、こういうことを日本でもやったらどうだろうか。
今度ロンドンに行ったら、田園都市論のエベネザー・ハワードの生家と田園郊外を設計したレイモンド・アンウインの生活し亡くなった家をBlue Plaque(ブループラーク)で確認したいと思っている。また、こういうことを日本でもやったらどうだろうか。
日本が戦後オリンピックに復帰するのは、1952年(昭和27年)のフィンランドのヘルシンキからであった。フジヤマノとびうおと言われた古橋広之進や橋爪が出たオリンピックだ。私は、小学校5年生であった。当時は、今のようにテレビはない。ラジオ放送だった。時差の関係で、深夜から明け方に実況放送があったが、かじりついて聞いた。「遥かに遠い日本の皆様、こちらは、ヘルシンキであります・・」という志村正順アナウンサーの声も短波のせいで大きくなったり小さくなったりウェーブがかかっていた。私は、このヘルシンキの放送で志村ファンになったのだ。中学の時に少年スポーツアナウンサーに応募したのも、淵源は志村さんのヘルシンキからの実況放送だった。今年、野球殿堂入りとのこと、「おめでとう」と言いたい。オールスターの時、テレビで甲子園で皆の前で挨拶される志村さんを久々に見た。
私は、後年、42歳の頃に初めてヘルシンキに行ったが、いの一番にオリンピック競技場に行ったのである。
私は、後年、42歳の頃に初めてヘルシンキに行ったが、いの一番にオリンピック競技場に行ったのである。
前に「道は未知に満ち満ちている」と言ったが、これは歩道に関する提起だ。道路構造令というのがあって歩道については、第11条に規定されており、その幅員は、歩行者の交通量が多い道路にあつては3.5メートル以上、その他の道路にあつては2メートル以上とするものとする、となっている。しかし、実際には、これ以下の所が圧倒的に多いのではないか。車道の片隅に1メートル幅位の白線を引いて「歩道でござい」という所も多く見られる。やはり、少なくとも2メートル、車椅子の人がすれ違える位の幅がほしい。これが「広く」である。次に、人が歩く所はアップダウンが少なくなるべく「水平に」すべきである。人は歩道橋で上下するのではなく、水平に歩けるべきで、馬力のある自動車の方が上下すべきであろう。この場合、特に「上」の場合、景観に配慮は当然である。また道の表面は、けつまずかないよう「滑らかに」仕上げるべきだろう。最後に真っ直ぐ延々と歩道が続くのも疲れるので、ベンチを置いたり、公園や公衆便所に接続したり、眺望点を配置したりして「所々に変化をつけて」おく必要もあろう。
要は「歩道は、ほどうほどうに造るのではなく、しっかり造るべし」ということだ。
要は「歩道は、ほどうほどうに造るのではなく、しっかり造るべし」ということだ。
市電が走っている頃、多分、小学生の頃と思うが、いたずらをして「大目玉」だったことがある。これは、私だけのことではなく近所のガキ共でやったのだ。それは、線路に釘や石を置くことである。別に車両を脱線させてやろうとは、はなから思っていないが、やはり危険な行為だった。子供の我々としては、それらがペチャンコ(と言っていた)になるのが面白くた「宝物」にしていたのだ。で、電車のことも考えて、できるだけ細い釘や小さい石を選んだが、運転手としては目前にそれらを発見すれば急ブレーキであった。運転手や車掌が降りてきて追いかけられ、とっつかまったこともある。こっぴどく絞られたのである。高学年から中学に行く頃は、もうそのいたずらは卒業していた。
西山先生が亡くなられたのは、1994年4月2日であった。その少し前に雑誌『アエラ』に西山先生の記事が出た。日本の景観がどんどん「悪く」なっているのに悲憤慷慨されている「インタビュー」を基にした記事だったと記憶する。その時の写真の一枚に2階の座敷の炬燵で先生が手で顔をぬぐう形のものがあったが、その向こうの窓から前に書いた前庭にある松の樹冠が見えているのだった。
私は、それを見て思った。1階の座敷におられるときは、前庭の池や生垣を見て、2階の座敷におられるときは、この松の樹冠を見て、西山先生は「ホッとされている」に違いないと。ついでに言うと、亡くなられた後、資料の整理で皆と一緒に2階の寝室に入ったとき、その窓からは、丁度、生垣が見下ろされる形になっていた。
窓から身近に緑が見える重要性を、西山先生のお宅でも発見した気分だった。
私は、それを見て思った。1階の座敷におられるときは、前庭の池や生垣を見て、2階の座敷におられるときは、この松の樹冠を見て、西山先生は「ホッとされている」に違いないと。ついでに言うと、亡くなられた後、資料の整理で皆と一緒に2階の寝室に入ったとき、その窓からは、丁度、生垣が見下ろされる形になっていた。
窓から身近に緑が見える重要性を、西山先生のお宅でも発見した気分だった。