西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

豊田高専独身三羽烏

2005-08-08 | 名古屋・豊田の思い出
豊田高専に4年間いたが前半2年は最後の独身時代だった。構内にあった独身官舎で隣り合ったのは、同僚・助手の藤谷幸弘さん、事務官の庶務係長・平野常一さんであった。平野さんが一番年上、藤谷さんと私は同期だった。
毎晩どこかの家で語り合ったりレコードを聴いたりした。名古屋で服部千之先生や長峰晴夫さん、玉置伸吾さん等との「語り」も大いに教養を豊かにしたが、平野、藤谷さんとの「語り」もそれに劣らず教養となった。今までは京大西山研究室というある意味で「狭い」世界での付き合いが中心だったが、特に平野さんは異分野、異地域の人だけに話していて面白かった。年齢も一寸上の「兄貴」で名大法学部出のインテリという感じだった。クラシック音楽でも平野さんがバッハ、藤谷さんがモーツアルトというものだから私は「ベートーベン」といわざるをえなかった。給料日になると豊田の町に下りていって、レコード屋でお目当てのレコードを買い帰ってレコード大会だった。平野邸でする時など、いい香りがしているので聞くと床の間で香を焚いて掛け軸もかけられていた。こういうライフスタイルの人物に会ったのも生まれて初めてだった。又、平野さんは歌人でもあり歌集もあり貰ったことがある。平野さんは定年を前に退官し郷里の桑名に奥さんと住んでおられるが、一度又三人でレコード大会をしたい気分である。

進々堂

2005-08-08 | 京都の思い出(学生時代)
学生時代、絹谷先生と昼食後に「進々堂」に行ってミックスジュースを飲んだ話はした。この「進々堂」は、横にパン屋がついていてフランスパンなどを売っていた。喫茶店はライトも薄暗いが、歩道に面しては大きなガラスの窓があって、その近くは明るい。室内を通り抜けて裏庭に出ると、「藤棚」のようなテラスがあり、そちらで「ミニゼミ」をしたこともあった。設計製図の課題で徹夜をした朝、今出川通りの東、大文字山の上からさす朝日の中を電車通りを横切って、8時に開く進々堂に一番に来て、パンと珈琲で息を継いだこともあった。テーブルは人間国宝・黒田辰秋の手による樫材の長く分厚いもので黒田辰秋作とは後から知った。
この喫茶店は、フランス・パリのカルチェラタンのカフェの雰囲気に感心したオーナーが1930年にオープンさせたもので、75年の歴史を持つ。京大と共に歩んできた面があり、京大の有名教授も、ここではざらにお目にかかった。湯川秀樹先生が珈琲を飲まれていると、「後光」がさしている気がした。今はどういう先生が出入りしておられるのだろうか。

新婚旅行の行き先

2005-08-08 | 名古屋・豊田の思い出
現在は新婚旅行というと大抵海外となる。逆に私の父母の場合は、そういう習慣が始まったところで、近場の温泉地だったようだ。私達の場合は、その中間となる。
私達が何処で結婚し、新婚旅行に大略何処に行ったかは、このブログを丹念に読んで頂いている方には既に判明している。二人で相談し、中国地方とした。行くならば瀬渡内海側だけでなく日本海側にも行こうとなった。
私達が結婚したのは1968年3月27日であるが、そこから1週間の当時としては「長旅」だった。名古屋ー京都(学生時代の付き合い地、二条城前の国際ホテル)-竜野(学生サークルで行った所、醤油、三木清、三木露風、赤トンボ荘)-姫路城ー倉敷(浦辺鎮太郎先生の設計活動地、倉敷国際ホテル)-広島(原爆ドーム、丹下健三設計のコルビュジェ風ピロティ式の平和記念館、市電)-秋吉台ー萩(吉田松陰の松下村塾、高杉晋作邸等の維新旧跡、萩焼、伝統旅館、日本海の幸)-出雲(出雲大社、菊竹清訓設計の稲のはさかけ風の宝物館、伝統旅館)-鳥取砂丘ー城之崎温泉(城之崎にて、西山卯三先生設計の「ゆとう屋」泊)-若狭湾(原発銀座)-金沢(兼六園、金沢城、私の実家)

キーワード:学生時代共に行った所少々、建築、歴史、自然・環境
当時は真面目に「学習旅行」的側面も追求していたことが分かる。