西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

何故、低いマンションなのか。

2005-08-04 | 時論、雑感
久しぶりにNHKTVで「ご近所の底力」を見た。「解決マンション建設紛争」をやっていた。高層マンションを低くする様々な方法を紹介していた。
それに関して、昨日、平安女学院の1回生に「何故、高層住宅は駄目なのですか」と聞かれた。1回生にして、最初からそんな質問をするのは・・と思い聞くと、N先生と話をしていたら「住宅は4階以下と決まっているだろう・・」と言われて、「どうして?」と聞き返せなかったと言う。そこで、私は(ブログの最初の方で1回言っているが)いくつか理由を上げて説明した。(1)階段で歩いて上がれる範囲だ。それを歩いて上下するのは健康にも良い。階段の上がり下りで近所のコミュニティ形成も促進される。(2)子供も簡単に上がり下り出来、地表での遊びも保障される。(3)エレベーターの利用が少ないと省エネとなる。(4階でも高齢者・身障者用、病気等の特別時等に使うエレベーターは必要だろうが・・)(4)地表の状況を五感で察知できる。例えば、子供の顔や声がはっきり分かる。花の姿や香りがはっきり分かる。(5)仮にベランダから転落しても、住棟周りの状況にもよるが、普通は怪我はするが死なない。(高層からは死ぬ確率高い)(6)高層マンションは近所の町並み景観にそぐわない場合が殆どだ。(歴史的に人類が高層に住み出したのは、ここ1世紀位である)(これは住棟の例ではないが、あの9.11の時、私はプサンにいてテレビで目撃した。当初、極めてリアルに人間が超高層の上の方から落下する姿がテレビに映っていた。一番下で地面に叩きつけられるであろうところまで映していなかったが、それは想像できた・・・以後、「残酷」ということで、その場面は放映されなくなった。人間落下のあの姿は私の目に焼きつき、居住空間としての超高層×の気持ちを増幅させた。)
1回生は、そういう風に言ってもらえればよく分かったのに・・と言っていた。

奈良女子大構内で汗だくだくのFさん奮闘

2005-08-04 | 生活描写と読書・観劇等の文化
奈良女子大構内で研究協力課のFさんに会った。デジカメ片手に汗だくだくの体だった。奈良女子大のメールマガジンの取材と言う。今度のメルマガには私のリクエストの構内の粘り強い花・百日紅の紅い花が飾られることだろう。
彼女の額の大粒の汗一粒一粒に彼女のメルマガ、そして母校への思いがキラッと光っているようだった。

奈良漬

2005-08-04 | 生活描写と読書・観劇等の文化
ある人に、御礼に奈良漬を贈ろうと思ったが、何処の奈良漬にするか迷った。もちろん、奈良漬は奈良が本場だが漬け方や味は様々だ。私が奈良女子大に勤めていた時、大学院生の課題に「奈良町の課題と将来」といったものを出していた。1998年度の院生が4人(順不同でⅠmさん、Mさん、Tさん、Ikさん)、協同で「奈良漬」というパンフレットを作った。(1999年3月発行?)これは秀逸で職員等にも好評だった。広い意味で奈良町にある奈良漬屋さん10軒を取り上げ、歴史や製法の聞き取り調査を行い、実物を買い込んで友人の奈良女子大院生や学生、更に先生にも何処の奈良漬とは明かさずに無作為に味わってもらい、酒の「つまみ」として適当かどうか、30人について飲酒度別に判定してもらっている。私もこれに参加した。
この結果、幅広く支持されたのが三条通りの「A屋本家」だった。そこで、今回は、これを贈ることに決めたのである。(このパンフは残部少々あり。欲しい人は適当に連絡されたし。先着順、なくなればおしまい。)
三条通りとは、JR奈良駅から春日大社への参道である。自動車が走りにくい道路構造になっており、歩行者優先で歩道は広い。だが今日は暑く、蔭がないので汗だくだくで「惨状」だった。

奈良市建築審査会に出る、藤原昭新市長初登庁

2005-08-04 | 時論、雑感
久しぶりに奈良市の建築審査会へ出た。弁護士のTさんが会長、私が副会長だ、委員でBさん(元県庁)、Kさん(大学教授)、Oさん(建築士、女性)、Mさん(大学教授)が出席。審議事項は京阪奈新線の現在の終点・学研奈良登美ケ丘駅前のバス停屋根の可否だ。特に交通上支障がないので可とする。ただ意見として、奈良らしいデザインを希望、と言っておく。
本日、藤原 昭・新市長が初登庁だ。私は建築指導課の職員に藤原君の選挙マニフェストを貰う。婦人、子供対策は載っているが高齢者対策が見当たらない。高齢者票を鍵田忠兵衛氏にもっていかれたのでは、と思う。差が7千票位だった。少なくとも高齢者対策を含め、二期やらないと、2010年の平城遷都1300年に至らない。
今後、我々のNPO「地域支援研究フォーラムなら」も出来る限り協力していこう。

疎開

2005-08-04 | 金沢の思い出
「今日は何の日」というのをNHKラジオが毎日やっていて面白いが、今日は、1944年(昭和19年)に東京で学童の集団疎開が始まった日だとのことだ。疎開(そかい)と言っても今の若い人たちは分からないかもしれない。『大辞泉』では「空襲・火災などによる損害を少なくするため、都市などに集中している住民や建物を地方に分散すること」とある。
私も子供の頃、多分、昭和20年に金沢の寺町台から荷車に一定の家財道具を載せて母方祖父母と田上という所に疎開した。田上は、小立野台地の奥の方で、現在、金沢大学の大部分が金沢城跡から移転した所である。また、小学校の時の恩師の吉村不二子先生(現姓・瀬川)が住んでおられる所でもある。当時、父は軍人で満州(現・中国東北部、瀋陽、当時は奉天)に派遣されていた。母も一緒に満州だった。妹が昭和18年(1943年)に満州で生まれている。私は、万一のことを考え、母方祖父母の所に残されたのだ。
この疎開で思い出すのは、4歳の私が寺町台地から田上まで荷車に乗らず歩き通したことである。荷車を引く祖父が「乗ったら」と言った時に、近所の悪がき達が私達を見守っていたので、乗ったら「弱虫」と見られるのが嫌で歩き通したのだった。1里以上で、子供の私には「長征」とでもいえ、記憶に残るものだった。田上に着いたら祖父母も向こうの親戚も「一朗ちゃん偉いわね、さすが男の子」などと褒めてくれた。