西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

蕪村あゆみ芭蕉を眺め一茶飲む

2005-08-20 | 生活・空間・芸術と俳句・川柳・短歌・詩
昨日8月19日は語呂あわせで「俳句(819)の日」だったようだ。今日、高校野球の甲子園大会は駒大苫小牧の二連勝で終ったが、同じ日、松山では高校生の「俳句甲子園」が始まった。松山は、命短しと死期を悟った正岡子規が長い小説は無理と考えて短詩型の四季折々の俳句に集中した地だ。子規は、また与謝蕪村の良さを再評価したことでも知られる。
まあ、しかし俳句の世界では「一に芭蕉、二に蕪村、三四がなくて五に一茶」という言い方があるようだ。何はともあれ、この三人(松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶)が歴史的「三巨匠」であることは多くの人が認めていると言える。
私も俳句を趣味の一つでボチボチやっているし、「三巨匠」の句を全て承知しているわけでもない。けれど、気分として「何するものぞ」の意気が大切とも考え、上記のような句をつくってみたのである。市路。

西山卯三先生の思い出(13)家ーその3 生垣

2005-08-20 | 京都の思い出(助手時代)
西山先生は、特に庭のあり方について一般的に「ああだ、こうだ」とは述べられていないと思う。ただ、御自分の家の庭については『住み方の記』に書かれている。縁側の先にテラスを設けたこと、小さな池があること、そして何よりも低い生垣で前面が道路と隔てられていることに満足しておられたようだった。その緑自身、外部が何となく分かること、そして空気が行き来すること等に価値を認めておられたのだ。その剪定も、あるいは先生自身がやられていたかもしれない。前の奥さんが亡くなられたとき自宅で葬儀をされたが、弔問客の動線にあたる樹木で邪魔になる枝葉を自ら涙を流しながらカットされたことを自ら述べておられる。
私も西山先生のライフスタイルを真似たところがあるが、この生垣もその一つと言ってよい。

基礎に居ながらいびられる

2005-08-20 | 言語・字・言語遊戯
これは何かと言うと、「大事な基礎医学(基礎科学)を専攻しているのに(臨床医学或いは応用科学から)いびられる」ということではなくて、木曾三川(きそさんせん)の覚え方である。
私は、何度も新幹線で東海地方を通るが、木曾三川の並んでいる順番が中々覚えられなかった。だから、上記のようにして覚えたのだ。つまり、これは「私の考え出した言葉」ではあるが、言語遊戯の範疇に入れておこう。
これは、つまり東側から「基礎(木曾)に居ながら(長良)いび(揖斐)られる」、木曽川、長良川、揖斐川なのである。覚えましたか。

早明浦(さめうら)ダム貯水率ゼロ

2005-08-20 | 時論、雑感
今朝の新聞に早明浦ダム(高知県土佐町)の貯水率がゼロになった、とあった。香川県側には発電用の水を供給と言う。私は、前にブログで「ダムはムダ(無駄)では」と無駄口的なことを言った。(7月1日)大局的にはそうだが、瀬戸内など雨水の少ない所では、昔から空海修築の満濃池(香川県)があるようにダムは必要であろう。
ただ、こうなったら、徹底的節水をはかるしかない。また、パトリック・ゲデスは、将来の都市の規模は水供給が左右すると『進化する都市』(我々が翻訳、鹿島出版)で言っているが、正にそのようになってきた。
今年の東京はどうだろうか。関西の水がめ「琵琶湖」の状態は?と心配しつつ都市をもう少し「コンパクトに!」と思う今日この頃である。

蝶のように舞い、蜂のように刺す

2005-08-20 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
これはボクサーのムハメド・アリが全盛期の時に言った言葉だ。アリがどうして蝶や蜂のことを言うのか、と野暮なことは言うまい。
ところで、今日は、高槻の平安女学院大学でオープンキャンパスだ。食堂で、学部・学科の説明や平安女学院の職員でシンクロナイズド・スイミングでアテネオリンピックで活躍した(銀メダリスト)、今も活躍している北尾佳奈子さんとの対話等があるが、窓に沢山の大小の蝶が舞っている。それらは、先生方や学生諸姉が、受験生達にメッセージを書き込んだ紙片である。私は、四つの羽に一つずつ「学問力」「拡張力」「ブレンド力」そして「コミュニケーション力」と書いた。我々の大学で、これらの基礎をつけて欲しい、そのためにいくらでも応援するよ、とのメッセージである。これらが付いてくると集中的な「ブレーク・スルー力(課題を解決する力)」がついてくるだろう。それが一つの「針」である。正に本学で学んで四つの羽と一つの針で「蝶のように舞い、蜂のように刺す」有意義な人生を歩んで欲しい、ということだ。
この他にも沢山の蝶が舞っていた。これら一つ一つを大事にしていきたいものだ。

百聞は一見に如かず、同じく一臭、一味、一触、しかし・・

2005-08-20 | 私の考え出した言葉
「百聞は一見に如かず」とは誰もが知っている言い方だが、同じように「百聞は一臭に・・」「百聞は一味に・・」「百聞は一触に・・」とも言いうるだろう。臭いや味や触り具合も、いくら説明しても、それらの一回の実践にかなわないということだ。
確かに、それはそうなのだが、では五感の中で特に言葉を聴覚で受け取ることが、一番「劣っているか」というと、そういうことはあるまい。言葉自体は人間が発明したもので、ある意味で細かい描写(説明)や全体的・概念的把握の伝達に優れていると言える。だから、いくら見ていても、臭っていても、味わっていても、触っていても動物的レベルの認識(納得)を超えるのは、(自分も含め)誰かの一言によるとも言えるわけで、そうなると、「百見は一聞に如かず」等と逆転するのである。

赤橙黄緑青藍紫、VIBGYOR colour

2005-08-20 | 言語・字・言語遊戯
孫9歳と4歳に絵本を読んでいて、虹が出てきたので、その七色は、外から内に向かって「赤橙黄緑青藍紫(せきとうおうりょくせいらんし)」だ、と教えた。こういうのは、呪文のように覚えれば良いのである。
ついでに、これは彼等には言わなかったが、大人の皆さんには、ご存知の方もあると思うが、英語で虹の七色は何と言うか、だ。上記のように「ヴィブギイヨール カラー」と言う。V:violet, I:indigo, B:blue, G:green, Y:yellow, O:orange, R:red であって、日本語と逆の順になっている。