西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

私の考え出した言葉(6)半顧半望(はんこはんぼう)(再掲)

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
7月5日のブログを見て欲しい。時間の面で言って私の創った造語に「半顧半望(はんこ・はんぼう)」というのがある。半分は過去を反芻して顧み、半分は将来を展望するという態度である。空間のことを考える時に、時間的に伸縮する歴史ー地球史、生物史、人類史、古代、中世、近世、近代、現代、家族史、世代史、自分史等ーを良く組み込むことが要諦、と最近考えている。言わば「半空半時」である。
この半顧半望(はんこはんぼう)はYahooの検索で1件あり、私が西山記念文庫で発言したのが、引っかかったのだ。

私の考え出した言葉(5)commuvacyとprivunity(再掲)

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
7月5日のブログで既に述べた。私は「CommunityにPrivacyを引き込むのがCommuvacy、逆にPrivacyにCommunityを引き込むのがPrivunity」と言ってみている。
英語のCommunityとPrivacyを各々半分に割って、各々別の「頭」と「尾」をくっつけた「造語英語」である。これらはCommunityとPrivacyの半々を各々の面からみたものである。共同の空間への個人の「臭い付け」、個人空間への共同の気配の導入等が具体的イメージ例である。

私の考え出した言葉(4)兼六タウン構想(再掲)

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
7月6日のブログを参照してほしい。既にこのことを簡略に述べている。(1)町内が20戸位のコミュニティ、(2)何処に行くにも選択できる二つの道(例:表通り、裏通り)、(3)道は曲がりくねって狭いが大人の歩行や子供の遊びに安全、(4)何処にいくにも歩行、自転車そして電車で用がたりる、(5)近くに泳いだり魚とりの出来る清流がある、(6)遠くに緑の山並みが眺められる。以上の六つは金沢での町づくりだけでなく他でも適用してみても良いと思う。

私が考え出した言葉(3)ひょうたんからいこま!

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
これは「瓢箪から駒」のもじりである。「瓢箪から生駒」と書くと分りやすいかもしれない。これは、2,3年前に生駒市の駅前商店街活性化事業に県下の五大学が参加した時、奈良女子大学の院生や学生が担当した「ミニコミ誌」のタイトルである。院生達にタイトルのアイデアを聞かれて私がひねりだしたものだ。その第一号の「い」号(2003年9月15日発行)に、そのいわれを書いた。この生駒商店街の活性化事業で思いもかけない新しい生きのいいことが生まれることを期待した名前だ。編集の中心の院生のⅠさんや協力イラストレーターのKさんのアイデアで生きのいい「いこまる」号という駒のキャラクターも誕生した。この事業は、五大学事業が終わった後も、私が奈良女子大学を退職した後も続き、「いこまるがいく!ぶろぐ編」も生まれた。是非そちらも覗いてやって欲しい。そして応援して下さい。
http://blog.goo.ne.jp/ikomaru001/

北村 君先生の思い出

2005-07-14 | 名古屋・豊田の思い出
北村 君先生は、私が奈良女子大に赴任した1974年の次の年に奈良女子大学を定年退官された先生だから、「カテゴリー」としては、奈良女子大時代に入れるべきかもしれないが、ここでは名古屋・豊田時代としておく。というのは、私と妻とが、というか妻に私がついて、名古屋で結婚する前に北村先生をたづねたことがあるからだ。妻は、扇田先生のゼミだったが、北村先生も恩師の一人である。どういうことで、北村先生のところにだけ行ったのか良くわからない。その時が私としては北村先生に初めてお目にかかった時だ。北村先生は、家政学部住居学科では、最初の奈良女子大学出身の教授だった。そして、もちろん、その頃には、後に私が奈良女子大学に勤めるとは夢にも思わなかった。北村先生は教え子の旦那にもうすぐなる私に、与謝野晶子の次の歌を贈られた。
「柔肌の熱き血潮に触れもみでさみしからずや道を説く君」
その意味は、すぐに分った。あれから、もう38年にもなる。その北村先生は、もういない。

西山卯三先生の思い出(3)駅ホームの柱の陰

2005-07-14 | 京都の思い出(助手時代)
私が、小学生の時、恩師の吉村不二子先生を見送りに金沢駅に行き、駅ホームの柱の陰で泣いた話をしていて、西山先生のことを思い出した。どうもブログ書きは芋づる式に記憶を励起するのかもしれない。それは私の京大助手時代と思うが、国鉄に勤めておられた上原某先輩(後に名前を確かめる・・)の「鉄道駅に関する」学位論文の公聴会の時のことだ。先輩は、駅舎内で人々をスムーズに流すためには、なるべく柱のような「流れに対する抵抗物」は排した計画を立てるべきだ、みたいに人間を水の流れの水に見立てたような発表をされた。西山先生が、やおら質問された。「それでは、柱の陰で泣くような人間ドラマはどうなりますか?」という風に。先輩は「うー」と詰まってしまった。やはり、「効率性」を犠牲にしても「人間性」が必要な場合があることが分った。工学は大体「効率性」を大事にする学問だが、その工学部にあって西山先生が何故「生活学派」などと言われるのかも分ったのである。

私の好きな言葉(3)広く、深く

2005-07-14 | 言語・字・言語遊戯
何時ごろまでか、「広く」と言えば「浅く」、「狭く」と言えば「深く」が対応するものと思っていた。ところが、そうではなく「広く深く」が目標として大事だと何時ごろからか思うようになった。建築一般構造の講義でも言っているが、建物の基礎をつくるための「根切り」でも「狭く深く」しようとすると無理に山止めなどの工事をしなければならない。「広く深く」掘れば「山が崩れる」こともないのである。そのためには建物が建つより遥かに広い「敷地」が必要となる。
これが即ち「広い教養の上に深い専門が構築できる」ということだろう。

金沢でなくなった空間ー泉野の旧金沢市立工業高校

2005-07-14 | 金沢の思い出
金沢で私が京都に出てきた1960年以後になくなった空間を思い出すままに前にあげたが、一つずつ思い出し紹介する。泉野の旧金沢市立工業高校(以下略して市立工高)は、私の住んでいた桜畠から一番近い学校で、高校だから運動場も小学校や中学校より広く、中学校位まで最も良く遊ばせてもらった空間だ。私の家から電車道を渡り、桜木通りを進めば歩いて10分以内で行ける。小学校の時、夏休みに朝6時半からの桜畠8番丁の奥の広場でのラジオ体操に参加したあと、8時過ぎまで、場合によっては9時頃まで市立工高グランドで皆とソフトボールに興じていて、妹が「兄さん、朝ごはんも食べずに何しとるがや」と呼びに来るのも度々だった。このグランドを通常は野球、サッカー、陸上などのクラブがうまく使い分けていた。高校野球の練習試合や予選なども行われ、新しくつくられたバックネット裏から観戦した。何もない時など運動場の真ん中のクローバーの草に沈んで仰向けになり空を仰ぐと白い雲がせめぎあいながら通り過ぎた。その時の草いきれは今でも覚えている。文化祭の時、工業高校だから機械工場の開放もあり見に行った。その時、工具が私の足に落ちて大分血を出した。その傷の跡は右足小指上に「思い出(重いで)」として微かに残っている。その跡地は、市営住宅か何か、住宅地となっている。

比較文化-西洋のこぎりと日本のこぎり

2005-07-14 | 生活描写と読書・観劇等の文化
周知のように西洋のこぎりでは、向こうに押す時に力を入れ、日本のこぎりでは逆にこちらに引く時に力を入れる。この違いは何故だろうか。
これは、私が前に言った西洋茶(紅茶、珈琲)に対する茶器(コップ)に取っ手があり、日本茶(煎茶、抹茶)の茶器(茶碗)には取っ手がないこととほぼ同じ解釈で良いのではないか。即ち、西洋では切る木材(自然)に対して「あっちへ行け」ということだし、日本の場合は「こっちへおいで」ということなのである。

私の考え出した言葉(2)顕居(けんきょ)

2005-07-14 | 私の考え出した言葉
「居住地人間」であるためには、隠居ではなく「顕居」でなくてはならない、という具合に使う。これは、何時ごろから使い出したであろうか。高齢者は、引きこもるのではなく、社会や地域との接点(接線、接面)を持っていて元気が保てるのではないか。
今度、たまたま4月から縁あって高槻の南平台という「山路」にある花の平安女学院大学に来ている。そこでの感慨俳句。・ 山路来て 花咲きわれは 顕居(けんきょ)かな  市路
(芭蕉の「山路きてなにやらゆかしすみれ草」とえらい違いやなあ・・)

チッキ

2005-07-14 | 京都の思い出(学生時代)
チッキといっても今の若い人は知らないのではないか。辞書(大辞泉)によると「《checkから》鉄道などが旅客から手荷物を預かって輸送するときの引換券。手荷物預り証。転じて、手荷物として輸送すること。また、その手荷物。」とある。今は、宅配便等で簡単に送れるので、まだあるかもしれないが、殆ど使われていないのではないか。私が大学に入った1960年には、大いに使われていたと言える。私は京大に入ったが、大学キャンパスが京都と思いきや、1回生(1年生)だけは、宇治だった。黄檗山万福寺のある黄檗にあった京大宇治分校である。昔の陸軍弾薬庫は戦後廃止されて半分が自衛隊宇治駐屯地、半分が京大宇治分校になったのだ。私は最初の1ヶ月だけ京阪電車宇治終点のすぐ先の「橋寺放生院」に同じ金大付属高校から京大工学部に進学の中村武君や小原邦夫君と入ったが、やがて私は京大宇治寮に転じた。その時に金沢から布団や何やを送ったが、多分5月の連休の時に私が一旦金沢に帰って「チッキ」で送ったのだ。そして国鉄の木幡駅まで宇治寮からリヤカーを借りて荷物を取りに行ったのだ。その宇治寮も宇治分校も今はない。宇治分校は我々の時代が最後で、次の年から吉田分校(旧制三高)に統合された。宇治分校は、研究所ゾーンになり現在に至っている。

思い出す先生方ー小学校編(1)吉村不二子先生

2005-07-14 | 金沢の思い出
昨日、地域居住学Ⅰの講義で、千里ニュータウンの小学校計画の話で、当初、東大の吉武研究室(吉武泰水先生の研究室、吉武先生は西山先生と共に日本の建築計画学の確立に尽力された。故人)で考えられた「低学年校と高学年校のセット」の話をした時、「君達、小学校の先生で思い出す影響を一番受けた先生は、何年生の時の先生か?」という挙手アンケートをとった。すると予想はしていたが、5・6年生、3・4年生、1・2年生の順で多かった。私は、どうかと言うと、先ず金沢市立十一屋町小学校3・4年生の時の担任・吉村不二子先生だった。先生の思い出を少し話そう。もう55年程前のことで、先生は、まだ大学を出たばかりで溌剌として髪を短く揃えボーイッシュな感じだった。「六とう林」の先生のお宅にも遊びに行った。先生の教え方で印象に残っているのは、毎日、朝、新聞を読んできて「どういうことがあり、それについてどう思うか?」ということを短時間やられたことだ。恐らく今で言う(昔も言ったのかもしれないが・・)NIE(Newspaper In Education)を実践しておられたのだ。未だ漢字もそう多く読めない年代だったが、何とか先生の期待に応えようと毎朝早く起きて玄関で一番で新聞を読んだ。朝鮮戦争が起こったり、スターリンが死んだりした時代で、それらのニュースも、この教育で頭に残っているのではないか。先生は、数年勤められて結婚され、京都の綾部(ご主人はグンゼ勤務)に行かれることになり、我々は6年生頃に金沢駅に見送りに行った。私はホームの柱の陰で涙が止まらなかった。その後、年賀状のやりとりはずっと続き今も続いている。私が学位論文をまとめた時、ネクタイピンをお祝いに頂いた。先生はご主人の定年の後、一家は金沢に戻られ、田上(現在の金沢大学がある所近く)に住んでおられる。

近鉄電車(5)特急と停車駅

2005-07-14 | 生活描写と読書・観劇等の文化
関西の私鉄では近鉄だけ特急料金を取っている。京都から奈良まで500円である。私が京都から奈良に通いだした1974年頃には100円ではなかったか。(200円だったかもしれない)他の私鉄は、並行して私鉄あるいはJRが走っているので競争のため特急料金が取れないでいるのだ。近鉄線も奈良までJR線と並行しているとも言えるが、時間的には近鉄がかなり有利で取れているとも言える。これは近鉄の「ドル箱」である。昔は、京都を出ると西大寺まで止まらず次が奈良だった。ところが最近は、丹波橋に止まり、時間帯によっては高の原に止まる。丹波橋に止まるのは京阪線との乗換駅のためであり、京阪特急が丹波橋に止まるのにあわせて近鉄特急も止まるようになった。高の原に止まるのは午後7時以降で、例えば、出張から新幹線で帰るサラリーマン達が結構、高の原まで特急で行く需要がある、とみたのである。こういう私もその一人で、新幹線からの帰りはもちろん、高槻からの帰りにもちょくちょく乗っているのである。
言語遊戯・・近鉄特急の禁煙車に、朝青龍が乗り込もうとしたら、車掌に「貴方は駄目です、この車両には乗れません」と言われた。何故でしょうか?
答え・・NO SMO-KING およよ、近鉄でなくても良いのに・・