西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

樹木(2)櫻

2005-07-15 | 生活描写と読書・観劇等の文化
私が生まれて18歳まで育ったのは「櫻畠(さくらばたけ)」であり、現在11年間ほど住んでいるのは「桜が丘」である。櫻に縁があるのかもしれない。櫻は、日本の木とも言える。全国的には、櫻は吉野、となろうが、私にとって、櫻と言えば兼六園の櫻見物だ。子供の頃から家族で毎年のように行った。当時は入場料などなかったし、今でも櫻見物の時期は冬の雪見のときと共に市民のため無料になるようだ。家に残っている小さい頃(3歳位までか)の写真を何処で撮っているか見ると、家の玄関や庭が多いが、外では殆ど兼六園の櫻が背景だ。
ところで、櫻畠にも殆ど櫻はなかったし、現在の桜が丘にも殆ど見当たらない。櫻畠は江戸時代には実際に櫻も多く金沢城からも遠く眺められたようだ。それで「櫻畠」という地名になったのだ。ところが、下級武士(足軽)が多く住むようになって、家計の足しに実のなる梅、柿、栗、ざくろなどが植えられて櫻は大幅に減少となったのだ。現在の桜が丘は地名の「綺麗さ」だけでついた町名である。私は、これを逆手にとって各戸1本づつ櫻を植えれば、庭に桜並木が出来て春は素晴らしくなるのに、と言っている。櫻は、又、例の西行はもちろん、文人にも色々影響を与えている。奈良女子大学講堂の緞帳は今は亡き小倉遊亀画伯の描いたもので「爛漫」と題し、櫻が中心だ。
そこで、最後に一句: 「爛漫」や切に西行招きたし  市路

昔は良く見かけたが今は殆どない物(昔=1960年以前)

2005-07-15 | 金沢の思い出
金沢でなくなった空間は、一応上げたが、そのころあって今はない物についても思い出しておきたい。例えば「五球スーパー」といっても今の若者は知るまい。ラジオである。といった具合に昔の毎日の生活を振り返り、昔の町を頭の中で歩いてみると色々あることに気づく。
・蝿取り紙・ネズミ捕り・蚊帳・かまど(へっつい)・こしきだ(雪をよける木の道具)・洗濯板・防空頭巾・マント・高下駄・ふんどし・氷冷蔵庫・・
・氷屋・ブリキ屋・
又、ゆっくり考えよう。

豊田、名古屋の思い出(序論)

2005-07-15 | 名古屋・豊田の思い出
京大の大学院修士課程を出て、豊田高専助手になったのは、1966年4月である。それから4年間豊田高専でお世話になり、京大助手で戻った。だから、この4年間は、最初の「社会大学」だったと何処かに書いた記憶がある。ここで出会ったのは、建築学会の関係で、名工大の服部千之先生(助教授)、桜井大吾さん(助手)、高橋博久先生(講師)、名古屋大学の早川文夫先生(教授)、佐藤圭二さん(助手)、室野さん(助手、金大附属高校先輩)、日本住宅公団名古屋支所の玉置伸吾さん(京大先輩)、長峰晴夫さん(学生時代から著書を通じて知っていた。東大建築出身)、名古屋市の松尾博雄さん(名工大出身)たちだった。また、豊田高専では、藤谷幸久さん(京都工芸繊維大学卒、同年)、中谷さん(名城大卒)の助手仲間、教授の山本和夫先生、橋本先生(以上京大先輩)、助教授の杉浦昭三先生、手塚二郎先生、課長の平野常一さん等である。
又、何よりも、この時期に名古屋で現在の妻に「出会い」、名古屋で結婚した。これらの「名古屋・豊田社会大学」の様子をしっかり思い出し、位置づけを試みたいと思う。

西山卯三先生の思い出(4)初めての教授室訪問

2005-07-15 | 京都の思い出(学生時代)
それは、私が京大3回生の時だった。(1962~1963年)西山先生の「住居論」か何かの講義は既に受けていた。別に、岩波新書で西山先生の書かれた『日本の建築』といった近代建築に焦点を合わせた本を読んで、特にソ連のモスクワ大学についての西山先生の解釈・評価に違和感を感じたので質問に行こうと思った。それが西山教授室に入った最初である。本館の、入って左手の大きな部屋だった。その横に小さな助教授室があり、絹谷祐規(すけのり)先生は、そこにおられた。入ろうか入るまいか廊下で行きつ戻りつし、意を決してドアをノックした。返事があり、中に入ったが、一瞬、西山先生が何処におられるのか分らなかった。言わば本に埋もれている感じだが、教授デスクではなく、前の低いテーブルと椅子の所で書類を読んで作業しておられた。私は手短に趣旨を言って質問したのだが、答えは今後ゆっくり、となった。私は、又将来、西山ゼミに行きたいと言うようなことを言ったと思う。西山先生は、「研究室に行って助手の三村君に会いなさい」と言われた。それは中庭に建っていた建物の2階だった。そして三村浩史先生(当時助手)にも初めて会うことになり、京都国際会議場のコンペの手伝いをすることになった。

シャッターチャンス(1)富山和子さん

2005-07-15 | 生活描写と読書・観劇等の文化
富山和子さんと言えば、検索すると無数にでてくる有名な水問題の評論家だ。私は1974年の夏に彼女とヨーロッパに行った。と言っても二人で行ったわけではない。国土研の「崩壊ダム調査」で行ったのだ。団長は木村春彦さん(京都教育大学名誉教授)で、マルパッセダム、バイヨントダム等に行ったが、ついでにパリやニースにも行った。花のパリも33歳にして初めてだ。デパートのプランタンも初めてだ。その時にネクタイを買ったのだが、「これがいいわよ」とみつくろってくれたのが富山和子さんだった。ネクタイを一寸かざした時がシャッターチャンスだ。あれ以来、会っていない。テレビや本では良く見ている。

近鉄電車(6)JRとの競争

2005-07-15 | 生活描写と読書・観劇等の文化
 近鉄電車は、大阪と奈良、京都と奈良の路線で長らく安泰だった。というのは、近鉄に佐伯某という実力会長がいて国の交通政策審議会の委員を長らく勤め、以上の路線に並行する国鉄が複線化の計画を出したり、ダイヤの改正をする時などには、ことごとく近鉄の立場から「国は民業を圧迫してはならない」という議論を展開して近鉄を守ってきたのだ。しかし、その佐伯さんもいなくなり、国鉄もJRとなって事情が変わり、今は両路線で競争が激化していると言ってよい。

私の考え出した言葉(7)小宇宙としての住居

2005-07-15 | 私の考え出した言葉
これは、水俣病患者の住宅調査をしたまとめの頃からの言葉である。(『公害都市の再生・水俣』宮本憲一編、筑摩書房、1977年12月)特に、その後、水俣病患者の佐々木つた子さんの家を山川元司さんと設計した頃から強く意識した。佐々木さんは言わば「寝たきり」で、住宅というより自分の部屋が小宇宙ともいえた。そこから不知火海が見たい、小さい頃遊んでお父さんも働いていた赤碕港の方を見たい、道を行く昔からの友達や近所の人と言葉を交わしたい、という要望を窓とバルコニーで解決した。その後、住居は、ハイハイし、立っちしたての幼児までは「小宇宙」だし、一方、高齢者の「居たきり」にもそうだと考えるようになった。内部だけでなく、特に外との関係を良く考えないといけないのである。特に幼児の場合、物言わないので良く観察し、良く考えて計画する必要があるだろう。