私が生まれて18歳まで育ったのは「櫻畠(さくらばたけ)」であり、現在11年間ほど住んでいるのは「桜が丘」である。櫻に縁があるのかもしれない。櫻は、日本の木とも言える。全国的には、櫻は吉野、となろうが、私にとって、櫻と言えば兼六園の櫻見物だ。子供の頃から家族で毎年のように行った。当時は入場料などなかったし、今でも櫻見物の時期は冬の雪見のときと共に市民のため無料になるようだ。家に残っている小さい頃(3歳位までか)の写真を何処で撮っているか見ると、家の玄関や庭が多いが、外では殆ど兼六園の櫻が背景だ。
ところで、櫻畠にも殆ど櫻はなかったし、現在の桜が丘にも殆ど見当たらない。櫻畠は江戸時代には実際に櫻も多く金沢城からも遠く眺められたようだ。それで「櫻畠」という地名になったのだ。ところが、下級武士(足軽)が多く住むようになって、家計の足しに実のなる梅、柿、栗、ざくろなどが植えられて櫻は大幅に減少となったのだ。現在の桜が丘は地名の「綺麗さ」だけでついた町名である。私は、これを逆手にとって各戸1本づつ櫻を植えれば、庭に桜並木が出来て春は素晴らしくなるのに、と言っている。櫻は、又、例の西行はもちろん、文人にも色々影響を与えている。奈良女子大学講堂の緞帳は今は亡き小倉遊亀画伯の描いたもので「爛漫」と題し、櫻が中心だ。
そこで、最後に一句: 「爛漫」や切に西行招きたし 市路
ところで、櫻畠にも殆ど櫻はなかったし、現在の桜が丘にも殆ど見当たらない。櫻畠は江戸時代には実際に櫻も多く金沢城からも遠く眺められたようだ。それで「櫻畠」という地名になったのだ。ところが、下級武士(足軽)が多く住むようになって、家計の足しに実のなる梅、柿、栗、ざくろなどが植えられて櫻は大幅に減少となったのだ。現在の桜が丘は地名の「綺麗さ」だけでついた町名である。私は、これを逆手にとって各戸1本づつ櫻を植えれば、庭に桜並木が出来て春は素晴らしくなるのに、と言っている。櫻は、又、例の西行はもちろん、文人にも色々影響を与えている。奈良女子大学講堂の緞帳は今は亡き小倉遊亀画伯の描いたもので「爛漫」と題し、櫻が中心だ。
そこで、最後に一句: 「爛漫」や切に西行招きたし 市路