西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

扇田 信先生の思い出(1)安曇野の別荘

2005-07-13 | 奈良の思い出(助教授時代)
『日経夕刊』を見ていたら、「田園に癒しの美術館」という記事があり、「長野・安曇野の主な美術館」を紹介する地図もあって懐かしく眺めた。というのは私の奈良女子大の助教授時代、教授の扇田 信先生の安曇野の別荘を何度となく訪問させて貰い「禄山美術館」にも連れて行って貰ったからである。JR大糸線の穂高で降りてアプローチする。ただ、我々は扇田先生のマイカー等に乗って行った。我々と言うのは扇田ゼミ(私や今井範子さんもいたが・・)の構成員である。院生や学生(4回生)もいた。思い出す逸話は色々あるが、今回は「山葵田」(わさびだ)に行った話だ。安曇野は、山葵の名産地で、静岡より「本場」と言う。静岡の「山葵漬け」は、新幹線沿線なので普及しているが、本当は長野だ、とのことだ。確かに買って食べてみると、そうかなと思う。
さて、扇田先生と、山葵田に行ったとき、先生は、皆に「山葵田の前に大きな樹木があるが、あれは山葵が大きくなったものだ」と真顔で言われた。私は「えっ」と思ったが、院生・学生は信用したようで、着いたら「すごいわねえ、何年したらこうなるのかしら」などと喋っていた。扇田先生は、それを見て、聞いて、パイプをくゆらせながら嬉しそうな顔をされていたのを懐かしく思い出す。

好きな言葉(2)深海の魚は自ら光らなければ何処にも光はない

2005-07-13 | 言語・字・言語遊戯
これは上田 篤先生(先輩、阪大・京都精華大学名誉教授)から私の名古屋で行なった結婚式の時に頂いた言葉である。1968年3月27日のことである。当時、上田先生は京大助教授であり、我々の「指導教官」の一人であった。色々な事情で、他に同じく京大助教授であった巽 和夫先生、三村浩史先生も「指導教官」で、私はこの三人を京都からお招きした。西山卯三教授は学術会議等の所用で来られなかった。我々の結婚式は東海銀行(現UFJ)の主税町クラブで行なった。いわゆる「人前結婚」で司婚者は服部千之(ちゆき)名工大助教授夫妻だった。その時に、寄せ書き帳に書かれたのが上田先生の表記言葉である。上田先生は、当時既に全国に向け光っておられた。1970年大阪開催の万博の実質推進者として「お祭り広場」のことであれこれ活躍しておられたのである。そこで後輩の私に、豊田あたりでくすんでいてはいけない、との気持ちで、私を「深海の魚」に見立てて、大いに自ら光れ!と言われたのである。私は、これを暗い気持ちになっている全ての若者に「バトンタッチ」で言い伝えたいと思っている。

学習・・顰(ひそみ)に倣(なら)って

2005-07-13 | 言語・字・言語遊戯
自分が書いた著書『つながりの豊かな地域居住』(私家版、2005年2月刊)の「あとがき」の最後に、私は自分が住んでいる地域で「つながり」をずっと追求していきたい、ということを、イギリスのハムステッド田園郊外で、同じように住みながら自ら計画した当地を良くする活動に死ぬまで携わった都市計画家レイモンド・アンウィンのひそみにならって・・、という具合に表現したが、その「ひそみにならって」というのが言葉の使い方として正しいかどうか気になっていた。そこで辞書を引いてみた。「西施(せいし)の顰(ひそみ)に倣(なら)う」よりとして「〔西施が胸を病み、胸をかかえて顔をしかめるのを見た醜女が、自分もそのしぐさを真似れば美しく見えると思って顔をしかめたところ、人が気味悪がったという「荘子(天運)」の寓話から〕むやみに人の真似をして物笑いとなること。また、人の真似をしたものであることを謙遜していう場合に使う。西施捧心(ほうしん)。」(大辞林)とある。西施(せいし)とは、春秋時代の越の美女である。彼女は呉に敗れた越王勾践(こうせん)から呉王夫差に献上され、寵愛(ちようあい)を受けた。夫差が彼女の美しさにおぼれている間に呉は越に滅ぼされた。歴史上のドラマだ。まあ、私の場合「人の真似をしたものであることを謙遜していう場合に使う」ことになるであろう。それにしても「顰(ひそみ)」が「顔をしかめること」とは知らなかった、勉強になった。

樹木(1)松

2005-07-13 | 生活描写と読書・観劇等の文化
「つなね」の庭木の話をした時、いくつか話題を提供した。しかし、その後、人事のことや人工のことばかりでは面白くないので「山川草木」や人間以外の動物のことも語りたい。今日は、松の話だ。私の生家・金沢の寺町台、桜畠(今はこういう町名はない)の家にも「見越しの松」があって祖父は自慢していた。松は「松竹梅」と言われるように庶民にとって樹木の代表である。松は、実際に生命力もあり、何時だったか桜島(鹿児島)の付近に行った時、溶岩で植物が根絶やしになった後にたくましく松が成長していた。葉がとがっていて正に針葉樹の代表選手だ。春日八郎さんが唄ってヒットした「お富さん」という演歌の歌詞の出だしは「いきなくろべい みこしのまつに・・」というものだが、若い時、耳で聞いて「粋な黒兵衛 神輿の松に・・」と思っていた。粋と松はあっているが、他は間違っていた。「粋な黒塀と見越しの松」が正解で、路地のしもた屋の風情である。庶民の一つの憧れで、私の祖父もそうだった。松にまつ(?)わる話は色々あるが、最後に橋本大二郎さんから聞いた話を一つ。私は奈良市建築審査会の岩崎弘会長のお供で高知で開かれた全国会議に行った事がある。その時、知事の橋本さんが歓迎の挨拶で披露した話だ。橋本さんは、16,7年前はNHKの宮内庁番記者(アナウンサー?)だった。例の昭和天皇最後の状況を毎晩テレビで報告していた。その橋本さんが宮内庁で聞いた話、皇居が江戸城の頃である。8代将軍・吉宗の時に江戸で大火事があり、江戸城の周りも焼けて樹木もなくなってしまった。それで家来が吉宗公にお伺いを立てて「どのような樹木にしましょうか?」と聞いたら、吉宗公は「今しばらくは、まつが良かろう」と言ったので、松が植えられ現在に至っているようだ。しかし、この「まつ」が曲者で「松」か「待つ」か真偽は不明とのことだった。言語遊戯の好きな私の頭に残っている話の一つだ。

朝食定番

2005-07-13 | 生活描写と読書・観劇等の文化
最近、朝食は自ら作って食べている。和食である。一時、妻や娘と一緒に食事していた時には、パン食が主だったが、娘はとっくに出て行って、残った二人の生活時間の「自由」を尊重すると、出勤もあり私が大体早いので私が作っているのである。北陸の金沢で1941年に生まれた私としては、当然、和食である。尤も味噌汁の具などは前夜に妻が準備する場合が多い。又、ご飯も妻が前夜に炊飯器にセットしているので、何のことはない、味噌汁の出汁を取り、味噌を入れることと、納豆を冷蔵庫から出して、これも妻が切ってある葱をかけ、時々大根おろしをして混ぜるに過ぎない。つまり、準備の大半は妻がやっていることになる。それでも「居住地人間」にならんとしている自分としては、一二歩前進と「手前味噌」に考えているこの頃である。

近鉄電車(4)急行の止まる駅

2005-07-13 | 奈良・精華町の思い出(教授時代)関連続き
現在、近鉄電車で京都から奈良に行くとすると、急行の止まる駅は、東寺、竹田、丹波橋、桃山御陵前、大久保、新田辺、新祝園、高の原、大和西大寺、新大宮そして奈良である。ところで、私が奈良に京都から通いだした1974年頃に急行が止まった駅は、東寺、丹波橋、桃山御陵前、大久保、新田辺、高の原、西大寺そして奈良であった。これらから、1974年以後、現在までに急行が止まるようになった駅は、竹田、新祝園、新大宮であることがわかる。竹田は、その後建設された京都地下鉄との乗換駅で急行が止まるのはうなずかれる。「竹田の子守唄」の地区にある。新大宮は、旧市内から奈良市役所が移ってきた地区であり、他の事務所も増えたので通勤客乗降駅として奈良の隣の駅だが急行が止まっても当然だろう。問題は、最近決まった新祝園駅である。確かにJRとの乗り換駅なのは有利な条件だが、乗降客が近鉄急行が止まる駅の条件に少し満たなかったようだ。この新祝園駅は、精華町の町役場がある駅であり、関西学研都市への主な出入り口とみなされていた。しかし、学研都市には大阪から通ってくる人も多く、この地域の住宅に住む人たちも大阪に通勤している場合が多い。そこで、新祝園に出るよりも学園前に出たほうが便利なのである。それを、無理にバス路線も学園前につながずに新祝園につなぐなどの意図的努力をしてようやく急行が止まるようになったのである。