西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

木造校舎

2005-07-12 | 時論、雑感
今日の『日経夕刊』の見出しによると、「内装が木材なら学校に落ち着き(埼玉・長野両県調べ)」とある。経験にてらしてもそうだろうな、と思う。私は、生まれ育った住宅はもちろん、幼稚園はお寺で木造、金沢市立十一屋町小学校は下見板張りの木造、金沢市立野田中学校は2年生からモルタル塗り木造、金大付属高校は旧兵舎を転用した木造、京大宇治分校も旧兵舎で多くは木造、吉田分校は旧制三高で多くは木造、ようやく大学の3回生になって鉄筋コンクリートの校舎になった。現在の京大建築学科の本館だ。だから体験にてらして、仮に構造が鉄筋コンクリートでも、この記事のように、内装は木材が良いと思っていたのである。問題は、高くなっている内地材をどのように使うのか、である。知恵を絞っていきたいものだ。

思い出す先生方ー大学編(1)藤岡謙二郎先生(人文地理)

2005-07-12 | 京都の思い出(学生時代)
思い出す先生方については、大学だけでなく高校、中学、小学校と語っていきたい。でも最初は、京大の1回生(関西では1年生を1回生と言う)の時の担任・藤岡謙二郎先生から始める。藤岡先生は人文地理(京大では地理は人文地理と称して文学部、だから学位は文学博士、一方、東大では地理は自然地理で理学部にあり、学位は理学博士だ)がご専門だった。先生は何かに、自分は文科系なので理科系のクラスを担任したい、と書いておられる。その頃(1960年)から「文理融合」を目指されていたのかもしれない。我々は、1960年入学、T3だった。第二外国語ドイツ語のクラスで、建築専攻が一番多かったが、他に土木、鉱山、原子力、電子の友人もいた。1回生は宇治分校だった。京大本部構内の前(南)にあった吉田分校(旧制三高)だけでは、増えた学生を受け入れられないので1回生だけ宇治の旧陸軍弾薬庫跡の半分を京大宇治分校として、そこに収容していた。それも我々が最後で次の年から教養部(1、2回生)は吉田分校に統合された。
さて、藤岡先生は小柄だがエネルギッシュな先生だった。又、豪快、磊落の人だった。クラスコンパを京都市内で先生を交えてした時に、給料袋を我々の幹事に渡されて「これで払っておけ」と言われたこともある。奈良女子大学の非常勤もされていたので、その「お姉さん達」と共に法隆寺に連れて行って貰ったこともある。大和郡山市の環濠集落にも連れて行って貰い、初めて「環濠集落」なるものが何かが分かった。人文地理学者だから当然かもしれないが旅行が大好きで「とにかく旅行しろ」との教えで春休みに中川君と四国旅行をした。後に、私は就職してから「近畿都市学会」に入るが、そこでも先生が中心で色々と教えを乞うのである。退官後『回想と自己批判』のタイトルの著書をつくられ、私も読ませてもらい誠に真摯な先生と再認識したのである。

西山卯三先生の思い出(2)カレーライスと「大」の方

2005-07-12 | 京都の思い出(助手時代)
表題は少し柔らかく表現した。前半は私の体験したことだが、後半は扇田信先生に聞いた話だ。私が京大の助手で戻り西山先生が退官される最後の助手を勤めたのは、1972年から1974年の2年間だ。広原盛明先輩は助手・講師から京都府立大学助教授に転出された。(やがて後に学長になられる)恐らく、それは1972年の夏のことではないか。ゼミで琵琶湖かどこかに行った。広原さんは府立大に出られたが続きでゼミに時々来ておられ一緒に琵琶湖辺りに行った。昼食でレストランに入ったのだが広原さんと私は学生に対する「見栄」もあってエビフライ定食とした。それでふと振り返って西山先生は、と見るとカレーライスだった。我々は先生より「高い」ものを注文したのだ。西山先生は大阪の「始末屋」という感じだが、カレーライスは元々好きなメニューのようだ。ここで、扇田先生のお話に接続する。扇田先生は、西山ゼミの大先輩で奈良女子大での私の前任者である。扇田先生達が何時か西山先生と旅行をして一緒に昼食した時も西山先生はカレーライスだった。その時、「下の話」の好きな扇田先生と石原先生(当時、京都工芸繊維大学、環境工学)とが西山先生が食事しているのをそっちのけで楽しく「宇宙旅行では○○(仮名二文字)も処理してリサイクルで食べるらしい」などという話を夢中でしていたら、西山先生の「雷」が落ちたと言う。「君達、僕が○○を食べているのにカレーの話などするな!」と大声で言われたのである。扇田先生と石原先生は「ポカーン」、一時(いっとき)あって大笑いになったと言う。確かに○○とカレーは雰囲気が似ている。この三人の先生方は既に鬼籍だ。向こうで、この話を聞いて「西村君、それは違うよ!」と言いながら又笑われているかもしれない。

私の考え出した言葉(1)居住地人間

2005-07-12 | 私の考え出した言葉
40年近く色々考え書いてくると、後から「あれはヒットかな」という造語も出てくる。それらも追い追い紹介して皆さんの感想を伺いたい。最初に出した「居住地人間」は、15年ほど前に初めて言ったのではないか。未だ50歳になっていなかったと思うが、京大建築の同窓会誌に「会社人間から居住地人間へ」といったタイトルで書いたと思う。会社定年まで後10年位と考えると、その後は、一般的には年金生活で「居住地人間」とならざるをえない。しかし会社しか知らない仕事人間から突然「居住地人間」になると、前後左右が分らず、それこそ居住地に激突してしまう。軟着陸するには、10年ほどかけて居住地に親しみ溶け込み居住地人間にならないと・・、といった趣旨だった。思い出したが、これを金大附属高校の同期誌にも「転載」した。だから、京大建築、金大附属のクラスメートは覚えていてくれるのではないか。雑誌『群居』の20号(1989年4月)に「居住地人間の住まい」として「あじろぎ横丁」と「Uコート」を紹介している。その後、専門的な論文にも援用したことがある。今や私も気分は居住地人間だが、ここ10年の準備が十分だったかと聞かれると、ノンである。
ただ、Yahoo検索でも「会社人間」は無数に出てくるのに、「居住地人間」は3件しか出てこないし、きちんと続きで「居住地人間」というのはない。辞書では皆無だ。これも又「広辞苑」に言ってみようかな・・。そして実質化していこう!

マタイ効果

2005-07-12 | 生活描写と読書・観劇等の文化
前の記事で、突然「マタイ効果」という言葉を出したが、Yahooで検索すると結構出てくる。私が、この言葉を初めて聞いた(見た)のは大分前で、京大の教育社会学の先生が書いた学歴か何かに関する本でである。先生の名前がすぐ出てこない。ポイントは、私の記憶では、科学研究費などが、ある程度当たって、その分野で有名になると(ある域値を越えると)、以後、ほぼ当たるようになり、これ以下だと中々当たらないということである。これをキリスト教の『マタイ伝』にあるらしい「富めるものがますます富み,貧しいものがますます貧しくなる」といった文句から「マタイ効果」と名づける、みたいなことが書いてあった。まあ「又いい」効果である。『マタイ伝』のその部分は、マルクスの資本蓄積の「剰余価値説」とほぼ同じである。
これを、あちこちで応用して使っているようだ。ブログのアクセス状況にも使ってみたのだ。

清水御代明先生にばったり会う、ブログを勧めるなど

2005-07-12 | 奈良の思い出(助教授時代)
清水御代明先生にばったりJR京都駅ホームで会った。聞くと、吹田の大学に通っているが、来年70歳の定年でお辞めになると言う。先生は心理学の先生で京大名誉教授だと思う。50歳前まで奈良女子大学におられて京大に転出されたのだ。私は40歳過ぎでイギリスに行く頃である。それ以来ではないだろうが、ほぼ20年ぶりの再会ではないか。高槻までの車中色々喋った。私も辞めて次の職場だと話した。先生にもブログを勧めた。今晩でも見ていただけるだろうか。最近、「アクセス状況」を見るのも楽しみになった。学生に見ろ!と言っているのを差しい引いても毎日何十人と見ていただくのは「励み」だ。ランキングトップのブログに日に何万人もアクセスするのはどうしてだろうか。恐らく「マタイ効果」で、域値を超えると自動的に右上がりになると思う。「へーそれだけ見ているならどんなだろう?」との野次馬根性が働くためである。私は、ゴーイング・マイ・ウェイで、ブログをはじめたよ、と知らせた方面の人の顔も一寸思い浮かべながら、あれこれ書いている。脳の片隅をほじくって思い出すのも結構疲れるが、脳の「体操」とも思ってやっている。

金沢の今はない空間(1960年頃まではあった)

2005-07-12 | 金沢の思い出
兼六園球場や兼六園下の金大附属小・中学校(旧制第二高女)は、今はないことを言ったが、他に当時(1960年頃まで)あって、今はない生活空間を一寸上げて後々ぼちぼち思い出を語りたい。

・金沢市電、・金石(かないわ)に行っていた電車、・北陸本線準急「ゆのくに」、
・十一屋町小学校の木造校舎、金大附属高校の兵舎転用校舎、泉野にあった金沢市立工業高校、
・寺町二丁目(一丁目か)にあった金沢市民病院、古い石造りの金沢市役所、
・丸越百貨店(中に民放MROあり)、大和百貨店(片町)、寺町、片町、竪町、新竪町の店も大きく変わった、
・北国第一劇場(浅野川沿い)、シネマパレス(寺町一丁目)、
・南端国道(コンクリートの道)、犀川大橋横の火の見やぐら、
・犀川の土手・蛇かご、法島の「朝鮮」(と当時呼ばれていた集落)、
・本多町の「アメリカ文化センター」、昔の銭湯(私の家から利用可能は、6軒あった、犀川向こうに2軒である)
・私の桜畠の家、

他にも色々あると思うが、金沢におられた人達の助けを借りたい。

王 貞治選手と兼六園球場など

2005-07-12 | 金沢の思い出
王 貞治さんは私より1歳上で、高校は早稲田実業であった。高校時代は投手で4番だった。現在、金沢の兼六園に接して厚生年金会館(?黒川紀章設計)があるが、私が高校の時には、あそこに兼六園球場があった。石川県では一番立派な球場で、高校野球の石川県大会の決勝戦はここで行なわれていた。私は野田中学校の2年生か3年生の時に、ここで行なわれた中学野球の決勝戦を実況放送したことがある。NHK金沢放送局(JOJK)が「中学生スポーツアナウンサー」を募集、応募して通ったのである。野田中からもう一人・寺本君も通った。6人通ったので、7回戦の1回づつ放送して1回余る。そこで私がやらされた。私は1回と7回を担当したのだ。今言うのも変だが、中学生の頃はNHKの志村正順アナウンサーに憧れ、スポーツ・アナになろうかと思っていた。
さて、高校時代のこと、早実が交換試合で兼六園球場に来たのである。投手で4番が王選手で、もちろん後の一本足打法ではなく普通の、しかし豪快な振りだった。私の1歳上だが、こんな素晴らしい高校選手もいるのか、と満員の兼六園球場で背伸びしながら大人の肩越しに見ていた。その兼六園球場も今はない。一寸、坂を下りた所の「21世紀美術館」は、昔、付属小学校・中学校(その前は第二高等女学校ー同窓会は真清水会ー)だったと知る人も段々少なくなるだろう。

都道府県洒落(2)

2005-07-12 | 言語・字・言語遊戯
アラカルトで・・・。(東京)とうきょうは京都人口の10倍「十京都(とうきょうと)」、(千葉)東京に追いつき追い越せ、目「血走(ちば)」しる県、(岐阜)楽しいな高山線の「ギフ」ト券(県)、(愛知)自動車に指はさまれて「アイチ」県、(富山)遥かなる立山連峰「遠山(とおやま)」県、(福井)羽二重を皆が着ている「服いい」県、(愛媛)マドンナが沢山います「ええひめ」県、(福岡)博多人形、「ふくよか」県、(長崎)外人さんは「名が先」県、(沖縄)南国でみんな仲良し「大きな輪」県・・・(今日はこれまで!)
残りを皆さん考えてくれませんか。

近鉄電車(3)水梨先生の注意

2005-07-12 | 奈良の思い出(助教授時代)
 奈良女子大学に被服生理学担当の水梨サワ子先生という女性の「酒豪」がおられた。私は30歳台で奈良に赴任したが、先生は55歳位であった。親子位の年齢差であった。その頃、奈良女子大・家政学部に早く出勤して来られる先生は水梨先生と造園学の近藤公夫先生だった。だから、水梨先生と近鉄で一緒になるのは夕方の帰りである。水梨先生も京都方面なので同じ急行で帰ることも多かった。先生は「衛生学」も修めておられ、京大医学部の公衆衛生学の西尾雅七先生なども知っておられ、私が京大から移ったので、あれこれ京大の先生方の話もした。奈良駅で水梨先生が先に乗っておられる近鉄車両に入っていくと「こっちこっち」と手招きして頂いた。水梨先生が乗っておられるのはいつも車両の真ん中辺りだった。ある時、そのことについて「近鉄は、未だ運転が「粗い」のよ、車両の端に座ると左右上下に揺れるけれど、真ん中はそれが一番少ないのよ」と言われた。そう言われれば、当たり前のことだが、それ以来、近鉄の車両も運転も改善されたが、私は自然と車両の真ん中に行っていた。水梨先生は、定年前に亡くなられ誠に残念だった。

感動の言葉と一言要約

2005-07-12 | 言語・字・言語遊戯
 7月3日のブログで新宮秀夫先生の幸福論を紹介したが、そこで引用した新宮先生の最後の「結論」の言葉は次の通り。「人間の幸福は、時間が過ぎていく中で、1度しか起こらない物事を経験してゆく中で感じていくものである。幸福は感動のなかにあり、満足の中にないのはこのためである」なるほどと思わせる「一言」ではないか。
さて、新宮先生は、別に「言葉の値段」というエッセイを書いておられるが、古今東西の「巨人」は、自分の思想を、後世に一言で表せるように、残していると言う。例えば、「ソクラテスは“汝自身を知れ・・”という言葉を吹聴した。アダム・スミスは“みえざる手”、カントは“コペルニクス的転回”・・・、などと言えるだろうか。これらは人の考えの中の事柄、つまり形而上の言葉だが、形而下のことすなわち自然科学の歴史上の人物もたとえば、クラウジウスはエントロピー、ケルビンは零度K,ニュートンならリンゴとか万有引力、アインシュタインはE=mc2 だろうか。」(新宮秀夫著『言葉の値段』より)私が、これらに付け加えるとすれば、例えば法然や親鸞の「南無阿弥陀仏」、福沢諭吉の「脱亜入欧」、マルクスの剰余価値説、ダウィーンの進化論などであろうか。我々の分野では、例えばル・コルビュジェの近代建築五原則、西山卯三の食寝分離論などになるであろうか。
ところで、自分は、そして貴方は、どういう一言を感動の言葉として後世に残せるのか。ここに、人は死して名を残すのではなく、本当は、一生を要約した渾身の言葉を残す(べし)、と言うべきであろう。