西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

車窓からの風景ー西山卯三先生の思い出(1)-

2005-07-04 | 地域居住学
昔、西山卯三先生は、一緒にゼミ旅行で列車に乗った時「学生達が居眠りをしているのを見て、叩き起こそうか、と思ったことがある」と言っておられた。西山先生にとって車窓からの風景を眺めるのも立派な研究ないし学習活動なのであった。だから居眠りするのは、もったいないと思われたのである。ただ、では、その研究ないし学習活動は、どのような方法論で行なえば良いのか。これがきっちり分かっていれば、のべつまくなしに(よほど疲れている時以外)居眠りしないにちがいない。西山先生に、その方法論をきちんと体系的に伺ったことはない。ただ先生の行動を観察していると、のべつまくなしに写真のシャッターを押しておられたし、スケッチをしたり、メモに走り書きをしておられ、感じは分った。西山記念文庫(積水ハウス・・京都府木津町)の先生の残された資料で車窓の風景についてどう思っておられたのか、検証することが出来るかもしれない。私自身も、車窓からの風景は、大変大切な「勉強資料」と思うが、視覚は4次元で多様な方向を取るので、「自由に」見ると情報が多すぎて、一定の分析枠(見方)を設定しないと、頭が混乱してくると感じている。その枠組みを今考えている最中である。

梅雨時のことー雨と太陽ー

2005-07-04 | 色々な仮説や疑問
今年は、7月に入って本格的梅雨になったようだ。05年7月4日の今日も関西は雨だった。皆さん、雨の日は、どういう気分ですか。私の想像では、雨の日は太陽が照っている晴れの日よりも気分は晴れていなくて、うっとおしいのではないか。しかし、梅雨の雨は、理性的に考えると、田圃のためにも結構なことだし、夏のひでりを考えるとダムなどに溜めて水道水の「予備」ともなり悪いことではない。でも気分はメランコリーなのはどうしてだろうか。私の仮説では、先に言った理性的分析は、いわば稲作が始まった弥生時代以降のこと、その前の長い「猿時代」や「旧人」時代、縄文時代等を考えると、やはり雨は「良くない」ものだったのではないか。何故なら、「外」を歩けば雨にあたって体は冷えるし、晴れている時は見つけやすい食物になるべき動物も雨の日は隠れてしまって捕まえられず餌にもありつけない場合が多かったからではなかろうか。そういう状況が、長年の間に我々のDNAに書き込まれたのではないか。だから理性的には大切な雨と思うが、本能的には「嫌だな」と思い、一般に晴れて太陽が照っている日を好むのではないか、というのが私の仮説である。皆さんは、どう思いますか。

ライトアップ

2005-07-04 | 色々な仮説や疑問
夏が来ると、昔は夕涼みで川端などに出かけた。私は金沢の生まれ育ちで、よく犀川に行った。薄暗い中を瀬音を聞きつつ散策、ぽっと光る蛍の光に心躍らせていた。時々、花火が上がり空中、大きな光となった。しかし、夜というものは基本的に暗かったのである。
最近は、夏の夜は、ライトアップということが盛んに行なわれている。神戸などでは「ルミナリエ」と称して、すごい照明が町中で行なわれる。これは新宮先生ではないが、エネルギーのむだ使いではないか。(欲望満足と引き換えに!)
ライトアップは確かに目を引く手法である。何故なら、昼間の「ライトダウン」の逆を行って、普通は暗い所を明るく目立つようにするからである。私は興福寺五重塔のライトアップを見て、最初面白いと思ったが、段々「気分が悪くなってきた。」何故か、考えてみると、昼間薄暗く意味ありげだった屋根の裏側が明るくさらけ出されているからではないか、と思った。やはり、それは不自然なのである。日本人にとっては谷崎潤一郎ではないが「陰翳礼賛」なのである。
ライトアップを続けてエネルギー問題はもちろん、人間の自然の感性もアップアップにならないようにしたいものである。