「かんこうは、ごかんこう」との音の面白みと五感を全て楽しませる、そして考えさせる、ということだ。実は、これは只今本日のとれとれの「思いつき」である。というのは、高槻は、35万人あまりの中核都市で歴史的には城下町で有名な高山右近も一時ここにいた。でも、現在、観光宣伝が下手と思う。平安女学院大学の人間社会学部では「観光学」も講じているので、高槻市と協力して「売り出したらどうか」と思う。先日も、生活環境学部では、寒天コンテストを商工会議所等と協力してやっていた。高槻は寒天の本場のようだ。健康食品である。でも全国的に知られていない。今までは、観光というと、国の光を観る、と言うことで視覚が中心、更にグルメで味覚や嗅覚、参加型で触覚へと進展しているが、高槻で五感全体を楽しませ、衰えを直すとしたら、正にRe-creationではなかろうか。具体的に取り組んでいきたい。
ブログは連想を刺激すると言った。ここでは、家の窓から列車の窓に飛んだ。すると前に西山先生が、居眠り学生を叩き起こして列車の窓から眺めさせようという話も思い起こした。色々な情報が、飛んで結びつくのは面白い脳の動きで脳科学のテーマになるかもしれない。
列車からの風景と言うと、聞いた話で体験していないがシベリア鉄道の場合のように延々何日も同じ風景が続くという場合もあるが、逆に一瞬の風景で見逃せばおしまい、というものもあろう。
今回は、後者の話。私達がイギリスに約10ヶ月いた1982年から1983年にBritish Railwayでスコットランドへ行った。私は、恐らくイングランドとスコットランドの境には何か標識があるに違いない、と睨んだ。なら、それを写真に写そうと思うのも自然である。そして一瞬のことなので、大分前、30分ほど前から狙って、見事にシャッターは押せた。だけど後で見るとぼけている。今度行ったらちゃんとしたものを撮ってきて披露したいと思っている。
列車からの風景と言うと、聞いた話で体験していないがシベリア鉄道の場合のように延々何日も同じ風景が続くという場合もあるが、逆に一瞬の風景で見逃せばおしまい、というものもあろう。
今回は、後者の話。私達がイギリスに約10ヶ月いた1982年から1983年にBritish Railwayでスコットランドへ行った。私は、恐らくイングランドとスコットランドの境には何か標識があるに違いない、と睨んだ。なら、それを写真に写そうと思うのも自然である。そして一瞬のことなので、大分前、30分ほど前から狙って、見事にシャッターは押せた。だけど後で見るとぼけている。今度行ったらちゃんとしたものを撮ってきて披露したいと思っている。
私の書斎は、2階の北側にあって、北、西、東側に三つ窓がある。実は、先輩の三宅醇さんのお宅を訪問した時、三宅さんの書斎は、普通の床の部分と一寸上がった畳の部分があった。藤井厚二さんの「聴竹居」にもそういう部分があったので印象に残った。三宅さんの話では、洋間部分で一つ、畳間で机を置いて両方から使うと、合計三つの仕事が一時(いっとき)に出来るとのことだった。感心した私は、自分の書斎を作るとき「応用」して、自分流に三つの窓の前に三つの机をつくった。窓からの風景が、当然、皆違う。住みだして「ハッと」気付いた。北の窓からは、前に言ったように近くの竹薮が見えている。西側の窓からはニュータウンのフリンジ・グリーン(縁緑)が見えている。東側の窓からは、と言うと遠い三重県方面の山並みが見えている。そこで、窓から緑が見えるべし、と前から言っていたことも踏まえて、北の窓を「近緑(きんりょく)の窓」西の窓を「中緑(ちゅうりょく)の窓」東の窓を「遠緑(えんりょく)の窓」と名づけた。この家は阪神・淡路大震災の一寸前に出来たが、後の恐らく震災後の西山記念文庫の「オープン」の時にやってきた角橋徹也さんが私の説明に「へー」と言っていたのを思い出す。
梅が出たついでに海だ。というと直ぐ言いたいことが分かるだろう。海にも「母」が入っている。「産み」ということかもしれない。生命は海から生まれたのだ。関連して、うろ覚えだが三好達治の次の詩が好きだ。
「海よ 私達の言葉では お前の中に 母がいる 母よ フランス人の言葉では 貴女の中に 海がある」
フランス語では、母はLa mere、海はLa mer である。三好達治は仏文専攻だった。
海を眺めるのが好きだ。日本海で夕陽が沈むのを夏などあかず眺めていた。俳句でも蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」が好きである。
「海よ 私達の言葉では お前の中に 母がいる 母よ フランス人の言葉では 貴女の中に 海がある」
フランス語では、母はLa mere、海はLa mer である。三好達治は仏文専攻だった。
海を眺めるのが好きだ。日本海で夕陽が沈むのを夏などあかず眺めていた。俳句でも蕪村の「春の海ひねもすのたりのたりかな」が好きである。
忘れないうちに梅について言っておく。良く言われるのは「万葉集に多く現れるのは梅、古今集になると桜に逆転される」ということだ。和歌の梅の歌で最も人口に膾炙しているのは菅原道真の「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花主(あるじ)なしとて春な忘れそ」ではないか。梅は大変良い香りを発する。私は、例えば梅の香りが自然に到達する位の階数に集合住宅の高さは抑えるべし、と思っている。香りだけでなく、梅は、梅干などが「うめー」、現在の家にも白梅があるが梅の実が豊作の年とそうでない年がある。今年は駄目のようだ。すぐ接して隣の家には紅梅が植えてある。実は、隣の方が先で、私が呼応して白梅を植えた。ひとつの「つながり」である。
梅という字に「母」が入っている。何か「産めー」と関係があるのだろうか。
梅という字に「母」が入っている。何か「産めー」と関係があるのだろうか。
次は「松竹梅」の竹である。私の竹の原風景は、前に描写した金沢市立工業高校の運動場向こうの竹藪だった。子供の頃に「竹取物語」も読んだり聞いたりしていた。だから、ひょっとしてその竹やぶで竹を切ったら「かぐや姫」が現れるかも・・と子供心に思ったりしていた。又、小さい頃から竹は根を広く張って土が安定しているので地震の時は、竹やぶに逃げ込め、とも言われていたが真偽のほどは分からない。金沢で子供の頃(1955年~1960年頃)、竹で作ったものは色々あった。例えば、竹スキーや竹ぼっくりは、金沢でも今はないのではないか。竹スキーは、竹を割ってスキーのように先端を火であぶって折りあげたものである。途中に長靴を乗せて、先端から紐をつけて、それを手綱のようにしてコントロールした。大乗寺山から滑り降りていた。竹ぼっくりは、竹を半割りにして丸い方を上にした下駄のようなもので、それでも「氷雪」の上を滑れた。私は1941年生まれだが、「本土決戦」の時に使うと言われた竹槍という言葉は知っているが見たことはない。十一屋町小学校の向こうに犀川が見えたが、それを小学校の隣で遮っていたのが竹薮で、我々餓鬼共は、石を投げて「かんかん」と当たる音を楽しんでいたが先生に見つかると大目玉だった。竹の子、竹とんぼ、ひんやりした竹床、竹を切ったような性格・・色々思うが、私の書斎の窓の北の近くに見えるのが竹薮で、冬などピュ-と風が吹くと「風の又三郎」が現れるのでは・・と思ったりする。
ロンドンのハイゲート墓地には2回ほど行った。1983年3月14日にも行った。この日は、カール・マルクスがロンドンで亡くなって丁度没後100周年であり、ハイゲート墓地にはマルクスの墓があるからである。私は、当時、文部省の在外研究員でロンドンのLSEに行っていた。森嶋通夫さんらがおられた所だ。先輩の三宅醇さんも当時ロンドンにおられたので誘って行った。マルクスの墓には、巨大な石造りのマルクスのあのいかつい顔が乗っているが、当初は、これはなく、これはソ連等の寄付で改築されたもののようだった。元々の写真も見たが、ひっそりしたもので、こちらがマルクスに相応しいと思う。マルクスも迷惑そうな表情だと、見た。こういう顔のある墓はあまり良くないと思う。当日は回りに花束が沢山置かれていたが、殆どは当時の「社会主義圏」からのものだった。そのような人たちも沢山いたが、我々のいた11時から12時頃には日本人は我々二人だけだったと思う。この後、近くのパブで三宅さんとラガーを1パイント飲んで、あれこれ駄弁ったのも、もう20年以上前になった。
マルクスを語りて飲むやパブの春
マルクスを語りて飲むやパブの春