水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

貧乏道・7

2005-05-31 20:38:55 | Weblog

金や土地や権利や名声だけでなく、
家族や知識や能力や体力も求める。
そして、手にいれる。
しかし、必ずしも幸せは手に入らない。

何もなくても幸せになる。
04年2月のコラムに書かせていただいた。
(本館のコラム2にあります・・・)
龍村師匠の実姉、和子先生の話。
インドのマザーテレサハウスでのエピソードだ。
「貧して、貧ならず」
鍵は「感謝」のみ。

貧富はこの世の現象。
道は見えない世界。
貧富にとらわれるかぎり、道は観えない。
富して貧す、貧して貧す。
富して貧ならず、貧して貧ならず。

優しくいえば
「貧富に関係なく、貧ならず」
これが道(タオ)だ。
節約道ではない。
自然(じねん)道だ。

「貧乏道」は「富道」と同じだ。
求め続ける者は「富」に届かない。
分かち合う者に「道」が開く。
「富」の意味を誤解されるので、
「貧ならず」と謙虚に表現しただけだ。

「もっと欲しい」
富者も貧者も貧している現代。
皆が同じ固定概念に縛られている。
縛っているのは自分。
縛られている限り、自由は少ない。
それが、貧。

アーユルヴェーダの教えがある。
「真の健康(幸せ)の哲学」だ。
(生命の科学とか寿命科学と訳されるが、
一生を幸せに生きるための実践哲学なので、
ワシは真の健康哲学と訳している)

いろいろな人生を過ごし、最後の章の教えだ。
「手に入れた、あらゆるモノを捨てて放浪の旅に出る」
あらゆるモノは、技術能力や知識経験も含まれる。
これが貧乏道(富道)の実践方法だ。
道(タオ)は・・・険しく、遠い・・・。
だから、面白い!


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貧乏道・6

2005-05-30 18:55:19 | Weblog

持たなくても使えればいい。
昔はそういう地球だった。
海も川も山も権利など無かった。
人間が勝手に主張する権利など無かった。
持たないから、全てが使い合っていた。

今、自由に住めない。
自由に使えない、使わせない。
そこは国のモノ!
ここは私の土地!
それは組合員のモノ!
それは県有地!

勝手に踊ってはいけない。
勝手に歌ってはいけない。
勝手に話してもいけない。
勝手に居てはいけない。

縄文の昔、
昼にとった魚や山菜をもちより、
焚き火を囲んで踊ったり歌ったり。
誰も、何も持ってはいなかったが、
とても自由で豊かな時代だった。
決して取り過ぎることもなかった。
お互い様だもの。

それから・・・
沢山の日々を費やして、
沢山の戦いを繰り返して、
沢山の頭のいい人達が練り上げて
なんて貧しい国を創り上げたのだろう。

何も持たない貧乏な時代。
とても豊かな時代だった。
沢山のモノや権利を持つ現代。
いろいろなモノを持つようになったが、
「智慧」だけ持たなかったようだ。

権利は義務とセットになる。
○○しなくてはならない。
国を守るため、自分を守るため、
(他)人を殺さなくては、いけない。
もう、そこまで、来ている。
持つ、為に、他を、殺す時代。

何も持たない時代にも、一つだけ法はあった。
自分の為に、
他を殺しては(犯・侵しては)
いけない。
どちらの生き方を選ぶ?

権利を作ると、自他の調和は壊れる。
調和は内から外に漂うモノだ。
権利は求心力だが、調和は遠心力だ。
貧乏道は愛(遠心力)の道かもしれない。
(と独善的結論になる・・・)


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貧乏道・5

2005-05-29 19:01:39 | Weblog

故御師匠様の人生は波乱だった。
社会的な財産を大きく持っていた時もあった。
そして騙し取られて、返済に汲々した時もあった。
金はもちろん、会社も信用も無くした。
とても惨めだと思ったそうだ。
もう、あんな惨めな思いはしたくない。

通常は、だから頑張って再建しようとする。
ところが御師匠様だから変わっている。
「持つから、無くすと惨めになる」
その後、自分の財産を持たない生き方に変えた。
土地・家・貯金通帳など、最後まで持たなかった。
目に見える自分の財産は放棄した生き方をした。

「金は回って活きるモノ」
だから貯金はしない。
「土地は地球のモノ」
「家は住むモノで持つモノじゃない」
実にシンプルだった。
そして、幸せだった。

「貧乏は無所有である」
肉体がある限り欲望がある。
生きる為の欲がある。
心は肉体に左右させられる。
だから心にも欲望が生まれる。

「生命」は欲の刺激が無いと続かない。
最低限の欲が「生命」を支える。
メシが食いたい。眠りたい。○○したい。
その為には住む所、着るモノ、食べるモノが必要だ。
必要だが・・・持たなくても活用できる。

無所有でも「生命」は続くのだ。
「欲」は「所有」と直結してないのだ。
貧乏道は無所有であるが、
無欲ではない。

ワシは金もオナゴ(これはウソ)も才能も欲しいが、
自分のモノにしようとは思わない。
この世にある何一つ、自分のモノに出来るとも思わない。
そのくらいのは知っている。
自分のモノにしなくても使えれば充分だろう。
必要な時だけ使いたいから欲しいのだ。

ホピ族かナヴァホ族か忘れたが、ある酋長の言葉がある。
「地球の上で生まれ地球の上で一生を生きる生物に、
自分のモノと主張することが出来るだろうか?」
無法者のアメリカ住人が土地の権利を主張した返事だ。
「貧して、貧ならず」が貧乏道だが、
富裕を目指し、富裕の米国はとても貧しい。


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貧乏道・4

2005-05-28 19:10:15 | Weblog

「借金も財産の内」
この真意を知らなかった頃。
ワシが貧乏道を歩く前の事だ。
財産があるほうがいい、と思っていた。
固定概念というヤツだ。

財産があっても困らんだろう。
金は多くても邪魔にならんだろう。
うん、そうだよね。
常識のように思い込んでいた。

財産でトラブルのは人間性の問題だと思っていた。
人間を深く観ることが出来なかった頃だ。
(今も深く観れるわけでもないがなぁ・・・。
深く広く複雑さがあるのは知っている。
人も人以外も、その関係も影響も単純じゃない)

ワシは平気で借金をしていた。
つまり、財産を増やしたわけだ。
あの頃、貧乏道をキチンと歩んでいれば、
今の何とも言えない苦労は無かった。
「れば・たら」は何の解決にもならんなぁ・・・。

心や体の病は何とでもなる。
何とかするのがワシの天職だ。
病を消すことは出来る。
体と心の健康を導くのは仕事(ライフワーク)だ。

しかし、金の問題を消すのは苦手だった。
財産関係はワシの不得意分野(世界)なのだ。
健康を深く観ていくと、経済の中に健康はない。
「経済の健康」というのは誰かが勝手に作った造語だ。
健康は幸せに直結しているからだ。
(ここの話は解らない人には解らないよね・・・)

財産はモロモロを重くする。
財産を無くすのは結構大変なのだ。
騙し取られれば、財産が無くなるわけじゃない。
ワシは意識の中の話をしているのだ。
道とは意識の話なんだぜ。

現実の借金は銀行との交渉が付物だ。
返済に余裕の無い者に銀行は冷酷だ。
これはそういう目に会っている人には解るだろう。
銀行員は心に痛手を負わせる事に長けている。
心を傷つけるのを得意としている。
(ヤクザも実際の暴力より心を傷つける)

借金をする側のミスだ。
それはその通りだ。
ワシは銀行の理不尽を責めているのじゃない。
そういうモノだという事実を書いている。
銀行に借金をするのが、愚かなのだ。
予定は狂うものなのだ。
銀行に借りる側が間違っている。
必要な時は、貰ってしまおう・・・。

強い者(金持ち)には弱い。
強い者に弱い者達は、弱い者には残虐になる。
哀しい心の仕組みだ。
政治・行政・経済が強い側に傾くと、国は亡びる。
弱い側に優しくなり、未来は開ける。
(注:これは独善雑記です。ワシらしくなく、今日は感情入り)


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貧乏道・3

2005-05-27 18:17:15 | Weblog

貧乏道は捨離行と似ている。
命は求心力で守る。
求心力は「我」から出る。
この肉体世界は「我」が無いと死んでしまうのだ。
「我」を無くすと、この世にいる意味を失う。

「我」は求心力で成り立っている。
「調和」は遠心力で成り立っている。
この世は多種多様な万物があるのだ。
自他が存在できるのは「調和」があるからだ。

求心力は遠心力とのバランスで保たれる。
求める力が強いと、本体を壊してしまう。
出会う「他」にも大きな迷惑をする。
つまり「我」を無くしては生きられないが、
主張しすぎると「自」を壊し「他」を不調にする。

ブッちゃん(仏陀)の指摘した「中道」
正道だと訳すから難しくなる。
難しい道は大抵間違うものだ。
未熟な人間が歩くんだぜ。
「いいかげん」と訳せば間違いは少ない。
ブッちゃんは難しい事は言わない。

この世はヒネクレて創られている。
求めると得られる。
求め続けると失う。
それが「正しさ」でも「幸せ」でも同じだ。

だが「我」がある限り求めてしまう。
哀しい人の性というものだ。
哀しいモノは抱きしめてやるのが自然だ。
だから「我」は嫌うでなく、可愛がるモノだ。

この世はヒネクレている。
嫌うと大きくなる「我」だが、
可愛がると小さくなってしまう。
結構・・・テレ屋さんだ・・・。
「強い我」は自立できないが、
「小さい我」なら自立できる。
「自立は共生の自覚」だからだ。

求め、得たモノは捨ててこそ、役に立つ。
捨てる、離れる行を「捨離行」というが、
自分の霊性を高める為じゃない。
そんな事にとらわれる限り、無駄な時を過ごすだけだ。
自他の調和(幸せ)だから捨てるだけだ。

一度得ればいいじゃない。
一度味わえばいいじゃない。
捨てれば軽くなる仕組みだ。
離せば自他が観える仕組みだ。

貧乏道は自他が喜ぶ方法を示している。
というわけで、早速、現金などはワシに送ろう。
捨てれば幸せになれるのだ。
(こう言う宗教組織が世の中には多い。
もちろん、ワシも遠慮なく便乗するぞ~)
大丈夫!ワシが不幸の種(現金)は引き受けるから。


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貧乏道・2

2005-05-26 20:56:29 | Weblog

ワシには兄も姉もいる。
社会的にマトモな兄もそうでない兄もいる。
もちろん魂の兄弟姉妹もいるが、
その話は怪しく、妖しくなるのでここではしない。

「貧乏道は社会から落ちこぼれる事を旨とせよ」
家訓というものは誰かが守るものでもある。
貧乏道宗家某亜流水上一族末裔のワシだけじゃなく、
幸いにして姉も貧乏道を歩み、世間から外れた。
未だ芽の出ない陶芸家として生きている。
(ワシよりも社会的認知度は高い・・・)

姉は同世代の女性達の悩みや迷いの受け皿になっている。
(ヒマだからだ、などと指摘してはいけない・・・)
同世代は女性の更年期の真っ最中だ。
それぞれ、様々な原因や理由があるようだ。
人と人を同じように比べて論じる事はできない。

その姉と貧乏道について話す事がある。
「貧乏の御蔭でこうしていられる。感謝だわ。」
ある意味、健康で幸せな今の状態を言ったものだ。
女性の更年期なんて係わっているヒマがない。
独身で貧乏だもの・・・。

(一緒にいる老母も貧乏ではボケていられない。
母は社会的常識が確りある性格なので、
息子や娘を安心して見ることができない。
我家では痴呆になる要素さえないのだ
貧乏道を歩む子達は、親不孝であり、親孝行なのだ)

世間から外れる、ということは、
世間的な視線も受け付けないということだ。
世間的には惨めな状況に見られようとも関係ない。
世間を気にしながらでは、幸せを得るのは難しい。
貧乏道は幸せの一方法なのだ。

どんな道もある程度進むと、見方が変わる。
世間的に外れているから評価は気にしないが、
世間の見方が近頃変わってきているようだ。
貧乏な我家を羨ましがる人達が増えてきている。
ワシや姉を羨ましがる言葉が増えてきている。

世間は・・・間違っている。
つくづく、そう思う。
世間が羨ましがるのは、
ワシや姉を取り巻く「幸せ」が欲しいからだ。
その欲しがる姿勢を最初に手放すのが貧乏道なのだ。

「幸せ」であろうと「幸運」であろうと、
「生きがい」であろうと「健康」であろうと、
自分のモノにする事から離れて貧乏になれるのだ。
お金や財産を捨てれば幸せになれるわけではない。
貧乏道はシンプルであるが、難しいのだ。

その姉やワシの一致した意見がある。
「もう、貧乏にも飽きたねぇ~」
棚からぼた餅と抹茶とケーキと珈琲を待っている。
といって、貧乏道から外れたわけではない。
努力して、ケーキと珈琲を買うつもりがないのだ。
(そ、それって、単なるナマケモノじゃん・・・)


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貧乏道・1

2005-05-25 19:14:53 | Weblog

我家は貧乏だ。
由緒正しい貧乏の家系だ。
ワシは伝統を重んじる。
先祖様から受け継いだモノは、
次世代にキチンと渡す義務がある。

この世は流転している。
諸行は無常であり、万物は時と共に移ろぐ。
ワシは確固たる信念の持ち主である。
人の数十倍の努力家でもある。
しかし・・・
いつまでも貧乏を貫く事は難しいのかもしれない。

あきらめて、貧乏から抜けてしまおうか。
何度も脱落しかけた。
世の人と同じように、金持ちになってしまおうか。
世間と同じモノを目指すなら、きっと楽に違いない。
そう幾度も心がくじけそうになる。

アクマの囁きは続く。
子供達の口を借りて。
「とうちゃん、勉強机が欲しい」
本妻の口を借りて。
「アナタ、明日のお米が無いわ」
二号さんの口を借りて。
「陽平さん~、プラズマテレビ、買って~」

地球の資源は限られている。
皆が裕福になれば、地球は滅びる。
わかってくれ。
ワシは地球の未来を背負っているのだ。

妻よ子よ二号よ三号よ。
ワシは一人の社会人の前に、
行者として生きている。
辛い思い、苦しい思いを常に持っていたいのだ。
「神よ、我に七難八苦を与えたまえ!」

妻よ子よ二号よ三号よ四号よ。
(何気に、愛人が、ふ、増えてる・・・)
ワシは一人の社会人の前に、
妖しい、奇妙なオッサンとして生きている。
愉しく、嬉しく、気持ちよく生きている。
「神よ、我に悦楽歓喜を与えたまえ!」

ワシは貧乏道宗家某亜流水上一族の末裔。
貧乏道の真髄がある。
「貧して貧ならず」
道は遠い。

これでも由緒正しいのか、というツッコミはタブーだ。
どんな血統も詳しく調べるのは礼儀に反する。
人間だもの、生きている間にはイロイロあるのだ。
つい、手やその他が出てしまうこともあるのだ。
だから、血統を本気で重んじる人は滑稽でもあるが、
それが人間の可愛らしさというものだ。


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山菜・2

2005-05-24 16:26:53 | Weblog

こごみ・ぜんまい・わらび・うど
さんしょ・たらの芽・あけびの芽
山ウリ・山ふき・かたくり・こしあぶら
うう・・・ヨダレが出そうになる。

合わせて、野のモノも採れる。
ふきのとう・つくし・野ふき・あさづき・ののひろ
更にワシの家のモノも採れる。
作っているとはいえ、ほぼ天然状態だ。
わさび・たけのこ
これが幸せでなくて、どうする?

ワシには今年89歳になる母様がいる。
ワシが今のような立場になったキッカケは、
母親の持病を美童(ワシ)の頃から見てきたからだ。
原因不明、治療法無し。
誰も何とかできないのなら、ワシが何とかする。

おぉ、なんと健気な美童だったのだろう・・・。
しかし、心は反動する。
ついに少々特殊な医療氣功師になり、何とかしたが、
健気は胡散霧消し、氣功時以外はナマケモノになった。
ついでに美童は怪しいオッサンになった。
時は「空ろ氣」なんだ・・・。

その御母堂が言った。
(一応、ここまで生きている事実に注目ね)
「山菜は人が手を加えないから素晴らしい」
何気なく言った言葉だからこそ含むモノがある。
ワシは(ヒマだから)考えた。

ワシは「生命」を土台にし、
「調和」を方法として仕事をしている。
ワシが山菜に魅かれる理由。
年とったからだ、では淋しすぎる。
何とか屁理屈を見つけたかった・・・。

人が手を加える自然もあるが、
人が手を加えない自然とは違う。
加えない自然は「大調和」で創られる。
そうなのだ。
山菜は「調和」で育ったモノだ。

時期もある。
春。
生命が疼き、発生する季節。
生命力というのは、流動する力だ。
残っている力じゃない。

春の山菜は「生命力」と「調和」の恵みだ。
ワシが魅かれないはずがない。
理屈なく、生命が美しいと感じるように、
理屈なく、春の山菜は美味しいのだ。


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山菜・1

2005-05-23 19:45:43 | Weblog

今、ワシの住む山の中は山菜が真っ盛りだ。
ワシの幸せな時期の一つだ。
ワシは山菜が大好きだ。
オッパイのでけぇネ~チャンよりも・・・。
(注1:一応サービスで書いてますが、
実際は巨乳、貧乳の差別はありません。
何だっていいんだ。健康が一番だぁ)

子供の頃は山菜のどこか美味いのかわからなかった。
あれは、ある意味オトナの味だしなぁ。
それでも、その時期には他に食べるモノがない。
(注1:ワシの家は由緒正しい貧乏人の系統です・・・)
仕方無く、口に入れていたのだと思う。

子供の頃の記憶は体や心の深くに染み込む。
年代が遅くなるほど、浅くなる。
(注2:強弱と深浅を区別してね・・・)
深みのある味の場合は、幾年経っても甦る。
甦る時には、懐かしさを連れて来る。

子供の頃。
更に遡って、赤ちゃんの頃。
(更に胎児の頃もアリだね)
我々は「幸せ」だった。
「幸せ」を染み込ませていた。

「幸せ」は理屈では語れない。
深く染み込んだ、味のようなモノ。
だから、いつでも甦ることが出来る。
誰でも、子供や赤ちゃんの時期があった。
誰でも、幸せを甦らすことが出来る。

生きていることは、
幸せになれるという意味だ。

仕方なく、強制的に覚えたモノ。
甦ってみると、解る事がある。
大切だったんだ。
幸せだったんだ。
ラッキーだったんだ。

住む土地から採れるモノは、
体と心に大きな意味を持つ。
マハトマ・ガンディーも指摘していたが、
「調和」を観るようになると解る。

採れる時期は短い。
その時期に食べる意味は大きい。
「食」を分析学で語ると、
最も肝心な意味が解らなくなるようだなぁ。


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佐渡先生・8

2005-05-22 22:18:38 | Weblog

佐渡先生は自然体だ。
自然体を「本能の赴くまま」と訳すと間違う。
自然は調和で成り立っている。
自分勝手でも他人任せでもない。
「自他の調和」が自然体というものだ。

この世は、自と他が混同、混合している。
だから調和度が増すほど、息が楽になる。
自然体は、自他が楽になる生き方だ。
自他の区別や摩擦や決り事は、
「ゆるやか」なほど、楽に生きられる。

とはいえ、人間は未完成品だ。
硬かったり、柔らかかったりして触れ合う。
(遠慮なく、意味深に受け取ってくれ)
「やわらぎ」というのは柔らかいことじゃない。
硬かったり、柔らかかったり、自由に出来ることだ。

だから、佐渡先生も時々は硬いセリフもある。
「百里の道を行くときは、九十九里をもって半ばとせよ」
もう少しで着ける、という時に言った言葉だ。
優しいなぁ・・・佐渡先生は・・・。

ワシはもっと冷たい。
「百里目に着いたら、百里だ」
到着しないと着かない。
当たり前なんだけど、当たり前が通用しないのが常識だ。
到着地が見えた(と思い込んでいる場合が多い)だけで、
アレコレ着いた感想を話す評論家が多い。

他人の感想をそのまま話す人も多い。
まぁ、それもいいけど・・・空っぽすぎないかぁ?
せっかく自分があるのに、もったいなくないかぁ?
完成されたエラソウな意見もいいけど、
未完成でもその人の言葉が魅力あると思うがなぁ。

佐渡先生や故御師匠様は独自だった。
個性溢れる言葉が素敵だった。
ワシは10以上年たった今でも活き活きと思い出す。
10年以上かかって、意味が光りだす。
生きている言葉は、素敵だ。
ワシも言葉に生命を吹き込んで書いている。
(上手くいく時もたまにはある・・・)

「個性」は生きている証拠だ。
ワシが佐渡先生や故御師匠様に惹かれたのは、
「個性」があり「自然体」だったからだな。
個性だけでは、アクになる。
自然体(調和)と合体で魅力となる。

さて、これから、何処まで近づけるか・・・
ワシは
佐渡先生のように、故御師匠様のように、
いいかげんで節操の無い人になりたい。

地球の未来を続ける為に出航したヤマトだ。
何とか間に合いそうに帰ってきた。
その時の沖田艦長の最後の言葉がある。
「佐渡先生・・・ありがとう」  


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