水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「母のこと・98」

2011-10-31 18:59:41 | Weblog



休日は優雅にアチコチ出かけているわけじゃない。
貧窮生活で、時々夜アルバイトをしていた。
週に3日くらいだったけど。
近くの町工場で何かに貼り付けるメタルの加工だった。
寮仲間が交代で、幾人かずつで行ってたのだ。
今の言葉だと、ワークシェアだな。
門限というのもあったが、男寮で守るヤツはいない。

東京が珍しい田舎の育ちだ。
ある日、上野動物園に行った。
すると、隣に本で見た顔があった。
なだ いなだ氏だ。
フランス人の奥様とハーフの子供と。

文字中毒系の私は、節操なく本を読む。
高校三年生の時、北杜夫氏の「ドクトルマンボウ航海記」を読んだ。
ある意味、衝撃だった。
安保闘争で、生真面目な人生論の真っ最中だ。
ギラギラ、ギスギスしていた社会下だ。
こういう生き方があるのだ・・・
人生や社会から外れる系統に魅かれるキッカケかもしれない。

その北氏(斉藤茂吉の子であり、先日死去された)。
精神科医であり、医学博士でもある芥川賞作家だ。
その後輩の精神科医であり、やはり作家のなだ いなだ氏も好きだった。
その人が、隣にいたのだ。
東京は、有名人がいるんだなぁ・・・

        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・97」

2011-10-30 18:37:03 | Weblog



自分が痩せた事など何とも思っていなかった。
ある日、池袋の東口広場に野外ステージが建っていた。
多くの人が適当に聞き入っていた。
フォークシンガー達の、唄の市という名前らしい。
私もコンクリートに座って聞いていた。

やけに背の高いオンナがギターを持って上がった。
観客と半ばケンカのようなやり取りをしていた。
オンナではなく、髪が長いオトコだった・・・
そして歌いだした。
僕の髪が~肩まで伸びて~
吉田拓郎を、初めて生でみて、聞いた。
東京って、レコードやラジオで聞く歌手と会えるんだぁ・・・
(同時にいた泉谷しげるや、なぎらけんいちは憶えていない・・・)

この頃は、オトコの長髪が流行っていたのだ。
流行っていたからだけの理由ではないが、私も長髪だった。
東京の二年間、一度も散髪屋にはいかなかった。
自分で適当に切っていただけだったのだ。
私の髪は、肩よりも上だったが・・・

        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・96」

2011-10-29 19:43:54 | Weblog

今日の独善つぶやき・・・

今日も東京品川に治療。
いい青空だった。
東京駅、新幹線は混んでいた。
少し早い帰りも結構混んでいた。
場所、時間により相乗り治療できるかも
そういえば、東京駅待合室で治療した事もあったなぁ


「母のこと・96」

私は山の中の田舎の貧乏育ちだった。
毎日の米も途切れるような家庭だった。
アレコレ好き嫌いを言える環境ではなかった。
だが、寮の食事は実に不味かった。
この私が、時には、とても食べられないほど。

お金は歯科医から振り込まれる。
卒業したら10年勤めるという約束だ。
学費、寮費を払うと、残りは2万弱だった。
服や日用品など買えば、ほとんど無い。
外食は寮食が無い日だけの分だ。
そして、一年後に10キロ痩せた。
(58キロが48キロになった)

一度実家に帰った時、あまりの変貌に母は驚いた。
寮の食事の不味さを言うと、顔を曇らせた。
今なら誤魔化せたが、その時は母の心情まで考えなかった。
大層心を痛めたのだろう。
その後、たまに、保存食とお金が届くようになった。
懸命にパートで働いたお金だ。
だが、まだまだ私は都会の刺激で、その有り難さにマヒしていた。


        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・95」

2011-10-28 18:31:56 | Weblog



見方と観方。
一回体験すれば、あとは応用だけだ。
絵だけじゃない。
書、写真、彫刻と広がる。
観えないモノも沢山あるが、見るだけじゃないと知った。
やっと、芸術といわれるモノの一片に触れられるようになった。

観方がわかると見方が変わる。
芸術は見えないモノを意識的に濃くしてあるだけだ。
どんなモノにも見えないモノがある。
もちろん、人にもある。
すると、人の見方が変わる。

美人だけじゃ、ツマラぬオナゴなんだ。
ハンサムなんて、ツマラぬヤツが多い。
先生といわれる人種は、下種がほとんど。
誤解されるタイプに、輝くモノが観えたりする。
見分けるには、素直が大きな要素となる。

        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・94」

2011-10-27 19:19:25 | Weblog



ルノワールの絵の前に立った。
照明が薄暗く、目よりも高い位置にあった。
何だ、これは!
絵から、何かが流れ出し、その部屋に漂っていた。
何だ、何だ、これは、どうしてだ!

今なら解る。
だが、当時は何だかわからなかった。
心臓がドキドキしていた。
ドキドキしていたが、温かい何かだとはわかる。
不安になるドキドキではない。
未知のモノに出会ったドキドキだ。

何だ、何だ?
わからないまま、翌日も行った。
更に翌日も行った。
更に更に翌日も行った。

本物の絵って、こういうのか。
絵は、見るのではなく、感じるモノなのか。
私の目が、やっと開き始めた。
モノは、見るのではなく、感じるのか!
衝撃のルノワールだった。

        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・93」

2011-10-26 21:08:03 | Weblog


今日の独善つぶやき・・・

私の文体に大きな影響を与えた北杜夫氏。
お悔やみ申し上げます。
ドクトルマンボウは私にとって、大きな転機でした。
その後、やはり北氏に影響された畑正憲氏。
昨年亡くなられた、井上ひさし氏などの文体に影響されています。


「母のこと・93」

君の絵は自由がある。
自由に操ることもできる。
実にいい。

実にいい、で褒められている事はわかる。
だが、何を褒められているのか解らない。
でも、目からウロコが落ちた。
そんな風に言われた事が無かった。
単純に下手だと思っていたのだ。
だから、下手のままで仕方ないと思って描いた。

その画家の先生が教えてくれた。
今、池袋の西武百貨店でルノワール展をしています。
本物を見るのは、とても大きな感性を目覚めさすでしょう。
こんな機会は、是非行くべきです。

有名な画家の絵など見たことが無かった。
ルノワールの名前は知っていた。
同じ名前の喫茶店が、アチコチにあったからだ。
池袋はすぐ近くだ。
とにかく、出かけてみた。

1971年 西武百貨店 ルノワール展
衝撃だった・・・
(今回調べたら「田舎のダンス」だったという。
女性一人の全身姿のような印象が・・・
違うのかなぁ・・・)


        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・92」

2011-10-25 18:29:49 | Weblog



通常の概念は越えられる。
大きく広く観れば、越えていない事柄は少ない。
通常の概念内しか観られない人が多いだけだ。
つまり・・・奇跡は日常茶飯なのだ。
ということが、後に解る。
今の天職(氣功)に出会ってからは、当たり前にある。
まぁ、この話は別なところで・・・
ということで、私の色弱は仕事に関しては問題なくなった。

1971年。
何もかも初めてのモノに出会う東京だった。

色弱の私は、小学生の頃から写生が苦手だった。
何しろ、どの色を使ってもピンとこないのだから。
まして、新緑や紅葉など大の苦手だ。
で、苦肉の策。
川と大空を大きく描いて、山は少しだけ・・・
だから授業の美術には苦手意識しかなかった。
デッサンで、モノを見る力を養うのが目的だったが。
(後に歯の形状などを描くことになる)

私のデッサンは下手だった。
下手は自覚していた。
先生は近くの家政大学から出張してきた。
確か、パリから戻ってきたばかりとか・・・
その先生から絵に関して初めて褒められる言葉があった。
この言葉から私の絵に対する観方が変わった。
絵の観方を知った。

        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・91」

2011-10-24 18:49:04 | Weblog



そうなのか。
私は特別枠なのか。
ちなみに、試験結果は二番目だった。
かなり、上手くいったほうだ。
実力ではない。
私は山勘が効く方なのだ。

通常、茶色に赤と茶色に緑が混じった色の区別はつかない。
黄色に赤と黄色に緑が混じるとわからない。
紅葉の始めは、どれが変わったのか判らない。
私を好きになってくれても、私は気づかない・・・
私は、色弱なのだ。

二年間の結果。
人の能力はあなどれない、と池波正太郎氏が書いていた。
私も自分を含め、人の能力の可能性は想像以上にあると思う。
歯に関してなら、微妙な色合い、形、バランス見抜けるようになった。
例えテレビ越しでも、ある程度はわかる。
プロ側になると、技の前に見抜く能力が土台なのだ。

        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・90」

2011-10-23 20:11:24 | Weblog



高専入学は制限された。
最初から入学出来ない規定だった。
この専門学校も同じだった。
だが、この3年間で変わってきた。
社会が諸々を見直していた。

アンポ闘争をキッカケに、いろいろ変えようとしていた。
デモ抗争、ストライキ等の是非はともかくとして。
当時は、自他を見直す空気があった。
これでいいのか?
学校も企業も改革を意識していた。
ある意味、マジメな時代だったのだ。

私もマジメだった。
今はマジメが良いとは思わないが、当時は良いと思っていた。
真剣が誠実だと思い込んでいた。
真剣は結構迷惑だ、なんて思いもしなかった・・・
やわらかさ、全てを明るくする鍵などと思いもしなかった。

        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「母のこと・89」

2011-10-22 19:09:01 | Weblog



後から考えてみた。
叔母が姉である母の思いをくんで、半分仕組んでいたのかも。
能天気な私なら、御し易いと。
事実、私は言うなりになった。
試験まで2ヶ月程の切羽詰まった時期だ。
歯科医の先生は、兄が某歯科大の教授だった。
落ちても付属の技工専門校に手を打っていた。
どう転んでも、私は技工士になるようにしてあった。

そして、1971年になった。
受験し、どういうわけか合格した。
学校に附随している寮に入る事になった。
手続きしていると、学校長から呼ばれた。
私は、特別に入学されたらしい。

微妙な色を扱う専門職でもある。
程度の強い色盲はもちろん不可。
私のような色弱も不可だった。
だが、時代は諸々の開放を求めていた。
学校も、特別な試しとして私を入れた。
学校側も、使えるのか判らないのだ。
長い歴史の中で、私は初ケースだった。

        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。
治療・若返り・悩み相談受付中。日本中出張します)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする