水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

今年・締め

2005-12-31 20:52:42 | Weblog

故御師匠様の言葉。
「神を信じ、人を愛す」
意味が解るのは何段階もある。
深さに感応し、一段上がる。

ワシは御師匠様達と同じように、
宗教(組織)は必要無いと思っている。
だが宗教心は最も大切かもしれない。
故御師匠様は「神」という言葉を使った。
宗教は関係ない「神」だ。

宗教(組織)は信じない。
人間の組織だからだ。
人間は故意や無意識や無知で間違う。
人は信じる対象ではない。
(だから疑う対象でもない)

人は愚かの塊なのだ。
だから・・・可愛い存在だ。
人は間違うからこそ、愛する存在だ。
神は完璧だから、愛さなくてもいい。
向こう(神が)ワシ等を愛してくれている。
ただ・・・信じるだけでいい。

ワシは病み人を相手に仕事をしている。
ある意味、病(闇)は愚かの象徴だ。
氣功時、ワシのチッポケは心は隅にいる。
ワシのヒネクレた小さな心は動けない。
そして・・・人が可愛いと思える。
氣功時、ワシは強制的に慈悲の波動に包まれる。

ヒマとはいえ10年以上もしているのだ。
ワシも影響を受ける。
毎度毎度、慈悲と付き合うのだ。
「人を愛す」という感覚が解る。
ワシの心が変ったわけじゃないぜ。
ワシは相変わらず小さなヒネクレた心だ。

ワシは独善でスケベで無知で傲慢だ。
だが、氣功時は心が動けない。
動いても・・・上手く心が乗れない・・・。
上辺だけの独善やスケベでしか振舞えない。
不満足なのだが、不平は無いのだ。

「人を愛す」なんてワシらしくない。
だが、そう思うし、行ってしまう。
病み人に対して、素直にそう思える。
ワシ・・・頭が変になったのかもしれない。
元々気まぐれタイプだ。

「神を信じ」も素直にそう思える。
ますます「神を信じ」になってきた。
ワシは神様にタメ口をきくが、平伏もしている。
神様にモンクは言わないぜ。

ワシと縁の有った人。
新たに縁を結んだ人。
これから縁を結ぶ予定の人。
ありがとうございます。
これからも至らないワシを宜しくお願いします。

ワシは皆さんを愛してます。


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今年・4

2005-12-30 21:40:18 | Weblog

ワシの基本姿勢。
ワシのズボラな性格。
ワシの身の程知らずの望み。
この世の仕組みの教え。
全て一つに含まれていた。

幸運の女神像の仕組み。
(深い)病からの回復の仕組み。
出会い(縁)の仕組み。
ヒーリングの仕組み。
全てが同じ仕組みだった。

神様は・・・最高の存在だ。
最高だから・・・シンプルだ。
シンプルだから・・・深い。
深いから・・・優しい。

多種多様との出会い。
多種多様との出会い方。
多種多様との出会う姿勢。
全てに無駄が無く、遊が有る。

10年経って、やっと解った。
解ったと思う・・・。
多分・・・半分は解ったんじゃないかな?
解っただけじゃ、何の役にも立たない。
歩いた分だけ景色が変る。

全ては、これから先だ。
全ては、今にあり、未来にある。
全ては、歩き方と歩く道にある。
到達点は気にしなくていい。
向かっていれば充分だぜ。

「幸運の女神を愛人に」
ワシの戯言は間違ってなかった。
幸せを自分の力で掴むなんて傲慢だ。
多くの女神様達が集まって「幸運」となる。
多くの縁が集まって、生かせてくれる。

回復も同じだ。
多くの縁。
多くの条件。
多くの愛と慈悲(優しさ)。
そして遊と裕。

大丈夫だぁ。
多分・・・何とかなるから。

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今年・3

2005-12-29 23:26:56 | Weblog

ワシは勘違いしていた。
10年続ければ、ワシのような者でも何とかなる。
少しは知られたりするかも・・・。
バカでも要領を覚えるのかも・・・。
そう勘違いしていた。

そうではない。
少しづつ努力や経験が実を結ぶのではない。
こっちの世界ではそんなの関係無いのだ。
通常の社会通念が通じないのだ。
ワシのバカな言葉が当っていたのだ。
「幸運の女神」「棚からぼた餅」

目の前の「縁」。
肩の力を抜いて、全力。
命懸け、は例えじゃない。
だが、力が入っては活かせない。
この仕事は冗談半分で歩くものだ。
真剣だからこそ、冗談半分だ。

そして何とかこなしていく。
そもそもこの道に入った動機。
変わる瞬間の笑顔が見たい。
素直な気持ちになれた時、
「縁」が活きる。

最初から仕組まれた「縁」がある。
前世とか過去世とかいう人もいる。
それが有るのか無いのか、
ワシには判断出来ない。
だが、仕組まれた「縁」はある。

その中の幾人かがパーツを持っている。
そして・・・渡してくれる。
嬉しいぜ。
まだまだ女神像は完成しない。
だが、嬉しいぜ。

パーツを持って来てくれているクライアント。
彼(女)等が全て女神様だと思える。
だから全て大切で愛おしい。
ワシの仕事に対する基本姿勢。
神様はそれを教えてくれてもいる。

誰がパーツを持っているのか判らない。
だから会う人全員女神様・・・。
(オトコでもかぁ?)
会う人全員大切で愛おしく・・・。
綺麗事に聞こえるが、氣功時は難しくないのだ。

神様はメンドクサガリ屋だ。
だから一石何十鳥ものやり方をする。
かなり・・・やり手だ。


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今年・2

2005-12-28 22:39:42 | Weblog

神様はヒネクレている。
ワシの要求は「幸運の女神を愛人に」だった。
ところが面白がって採用したくせに素直じゃない。
幾つもの仕掛けを作って実現させてくれた。
まぁ、神様相手にモンクは言わないが・・・。

だが神様はいいかげんだが優しい。
よくみると仕掛けというより仕組みだ。
この世の仕組みと同じ仕組み。
ホログラフィーの仕組みと同じだ。
一部も全部も同じ仕組みで出来ている。

神様は(見えない)女神像を用意してくれた。
もちろん幸運の女神像だ。
ただし・・・組み立て式だ。
幾つものパーツがある。
そのパーツは用意してくれない。

ここが神様の真に優しいところだ。
パーツは自分で集めるのだ。
何やらRPGのようだ・・・。
(注:ロールプレイングゲームといって、
幾つものオーブを集める、とかあるのだ。
詳しくは子供に聞いてくれ)

ワシの場合はクライアントが持っている。
クライアント全員が持っているわけではない。
クライアントの誰かが持っているのだ。
そのクライアントに出会うには・・・。
ワシが自然体になった時・・・。

よけいな考えや計算があっては会えない。
会えるかもしれないが、判らない。
相手が接触して来ない。
天に任せると・・・会えるようだ。

もちろん出会っただけでは貰えない。
ワシの本来の仕事が出来て、初めて貰える。
相手が満足して喜んでくれて、仕事となる。
すると、見えないパーツが手に入るのだ。
ナマケモノのワシでも否応無しに仕事する。

最初は判らなかった。
パーツを貰っていた事に気づかなかった。
10年経って、何の事か解り始めた。
そういうふうになっていたのかぁ・・・。

ワシは商売を止めて入った道だ。
だが食べていけない。
それでも10年経てば・・・。
故御師匠様の根拠無い言葉だけが頼り・・・。
それが・・・この事だったとは!

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今年・1

2005-12-27 21:37:07 | Weblog

ワシはラッキーだ。
プロとして仕事はマトモだと思う。
だが経営はいいかげんで根性無し。
経営的な努力は嫌いで無計画。

経営は商才が(ある程度は最低)必要だ。
自慢じゃないが、ワシは商才が特に劣っている。
職人系仕事の質の高低と経営は別なのだ。
自営業としては素人のままなのだ。

それでも仕事は続けてきた。
だってライフワークだもんね。
するとラッキーは向こうから来た。
神様は平等じゃないし評価もしない。
だけど、気まぐれではある。

だからワシもラッキーを貰える事もある。
善人も悪人も関係ない。
神様はそんな事は気にしないのだ。
贔屓するとすれば・・・
明るいタイプは好きなようだ・・・。

楽観タイプといえば聞こえがいいが、
何でもすぐ忘れるアホ・・・。
人間社会ではほとんど評価されない。
だけど神様はそういうタイプに微笑む。
神様は物好きだなぁ・・・。
神様は人間じゃないからなぁ・・・

ラッキーはいろいろな形で現れる。
ワシは女神様の形が好みだ。
「幸運の女神よ、愛人になれ!」
どうせなら遠慮しないで要求しよう。
ダメ元なのだ。
神様相手に遠慮は意味が無い。

10年以上もアホな事を言ってる。
すると神様も苦笑する。
「わかった、わかった。ユニークだから採用!」
神様はこういう性格だ。

最近になり幸運の女神が少しづつ現れた。
ワシの予想と少し違っていたが。
神様は幸運の女神像にしたようだ。
しかも多くのパーツに分けていた。


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価値・9

2005-12-26 22:33:29 | Weblog

実は最高最強最大の等価。
それが「感謝」というヤツだ。
だがコイツは素直に出てこない。
何かを持っていると難しいのだ。

心は・・・かなり・・・ズルイ。
表面では何とでもなる。
本人もその気になれる。
だが心の底は・・・複雑・・・。
心の底までは意思が通じないのだ。

表面、あるいはある程度までの「感謝」。
社会にある「感謝」のほとんどはこの深さだ。
何を言ってもしょうがないじゃないか。
「感謝」はコントロールできる相手じゃない。
「感謝しなさい」なんて言うのは無茶な要求だぜ。
(表面の感謝なら出来るけど・・・)

ところが「貧しい人達」は「感謝」が出来るのだ。
真の感謝が出来る特別贔屓された人達だ。
神様(グレちゃん)は平等じゃないぜ。
平等なんてチンケな意識は無いのだ。
贔屓されたけりゃ貧しくなればいい。
マザーテレサはその事を知っていたのだ。

病み人への治療や介護は時には影響を受ける。
病み(闇)を受け取って治療となる場合がある。
「真の感謝」の力。
それは神様(が贔屓した)の力だぜ。
闇の影響から守る力となる。

マザーテレサは計算して行動したわけじゃない。
素直に、実に素直に行動しただけだ。
だが・・・ワシはズルイオトコだ。
知っているから利用する。
利用というより活用する。
ワシを守る力として活用している。

ワシもこういう仕事だ。
相手も様々だ。
中には治療費を払えない人もいる。
内緒だが・・・ワシは大歓迎だ。
だからプロとして続けていられる。

ワシもセルフヒーリングは欠かさない。
だが・・・いいかげんなワシだ。
きっと・・・手抜きに違いない。
そこを補ってくれているのだ。

ありがとうございます。


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価値・8

2005-12-25 20:46:42 | Weblog

現代の日本人は特に価値を値段に頼っている。
見えないモノを受け止める感性が鈍っている。
それはしょうがないかもしれない。
徐々に感性を高めればいいや。
感性は「幸せ」と深い係わりがある。

だが品物と同じ感覚で価値を扱ったら間違いだ。
支払いは「安く」したい。
それは見える品物を購入する場合の意識だ。
見えないモノとの係わりに持ち込んでは間違う。
係わる意味が無くなる事さえある。

病からの回復。
お金次第という意味ではない。
金額にこだわっているのは病い人なのだ。
本来は治療するのに金額は関係無い。
回復への価値を決めるのは病い人側なのだ。

では本当に貧しい人はどうか?
インドでは何も無いストリートピープルがいる。
道に病で倒れている人がいる。
故マザーテレサは無償で何十年も係わった。
多くの人達が身体と心を回復していった。
お金も払わずに、払えずに。

再びキリちゃん(イエス)の言葉を引用しよう。
「貧しい者はラッキーだぜぃ。
幸せの鍵を握っているんだからなぁ」
見えるモノは何も持ってない。
だから見えないモノを精一杯活用する。
ここに幸せへの鍵がある。

治療や介護するマザーテレサファミリー。
彼女達も何も持たない人達だ。
全財産が着替えとそれを洗濯するバケツのみ。
介護や治療された貧しい人達。
何をもって等価して支払うか。

治療は病み人側も等価のモノを交換して成り立つ。
これは金持ちも貧乏人も同じだ。
この世のシステムだからしょうがない。
モンクはグレちゃん(創造主)に言ってくれ。
ワシは何のギモンもモンクもない。

お金で支払う人が圧倒的に多いだろう。
だがインドの貧しき人達は「感謝」で支払った。
「(真の)感謝」は双方に影響し合う力が働く。
ワシは(ラッキーなことに)この大きな力を知った。


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価値・7

2005-12-24 22:16:45 | Weblog

病がある。
病からの回復がある。
回復の価値がある。
回復の依頼は対価を支払う。
通常はお金で支払う。

対価はお金でなくてもいい。
モノや行為でもいい。
だが等価として支払うから回復がある。
支払いを値切ったら・・・。

何も等価以上に支払う事はない。
もちろん支払ってもかまわない。
それは好みの問題だ。
だが等価以下に値切るのはマズイぞ。
回復が値切られてしまう。

ワシも最初は解らなかった。
無償で治療するのはいい事だと思っていた。
浅い病なら、それでもいい。
ところが深い(複雑な)病は回復しない。
その関係が観えていなかった・・・。

故御師匠様も試した事があった。
難病、奇病の人は経済的にも苦しい。
苦しい人の心が充分感じてしまう。
だから出来る限り安く設定した事があった。

結果は思ったように回復しない。
回復の値段も最適な金額がある事を知った。
病の回復は「双方の思い」の合体波動による。
勝手に安くしては、病い人の為にならないのだ。
ちょっと高いと感じる程度がいいようだ。

意識は安いと「本気」が薄れる癖がある。
複雑な病は「本気」で向かわないと回復しない。
人は「値段」に「価値」の判断をゆだねている。
ここを理解しないと病い人も治療者も迷宮だ。

ワシの尊敬する故関英夫先生からも注意された。
「治療費はキチンといただきなさい。
それは苦しむ病人の為なんだよ」
言われた事を理解するのに数年を要した。

だがワシは不マジメでいいかげんだ。
値切りたいのなら、値切ってもいいと思っている。
その都度、丁寧に解説するのはメンドウだ。
その回復が遅れるだけだ。
いつか気づけばいいや。
「病はいろいろな気づき」を内蔵しているんだぜ。


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価値・6

2005-12-23 22:53:51 | Weblog

見えないモノを畏れ、敬う意識が無くなる。
見えるモノだけで判断する意識となる。
しかも判断材料が値段というお金。
いつしか「価値」を観ずに「値段」を見る。

値段は高い方が「価値」はありそう・・・。
でも自分が係わるなら「安く」手に入れたい。
同じモノなら「安く」ても「価値」は変らない。
安く買えるなら「得」だ。
判断基準、生き方基準は「損得」・・・。

見えるモノで、同じ製品ならいいだろう。
値段が変っても品物が変らないのなら同じだ。
同じ製品なら性能は変らない。
高くても安くても好みの問題だ。

だが見えないモノは違う。
値段が高いのが価値があるとは限らない。
値段と価値は別な次元なのだ。
だが値段に価値を持たせると影響が出る。
ここの説明はメンドウだけど・・・。

見えないモノは受け取り側が主体となる。
受け取り側が影響を左右するのだ。
モノからの能力や性能は変らない。
価値は、そのモノにあるかもしれないが、
価値の影響は、そのモノにあるのではない。
影響は受けて側の価値判断に左右する。

ある絵があった。
値段が1億。
それを100万円まで値引させた。
政治家の顔で・・・。

1億の価値がある絵。
1億の力がある。
絵の力は変らない。
だが100万円で買った政治家。
100分の1しか絵の価値が伝わらない。

政治家は100分の1で買って「得」したと思った。
意識の中に100分の1の価値を作ってしまった。
だから100分の1しか受け取れない。
絵は変らないのに・・・。
お金を値切って価値を台無しにしたのだ。

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価値・5

2005-12-22 21:22:19 | Weblog

日本人は見えないモノを大切にしていた。
大事にとらえていた。
明治維新は多くの概念を変えた。
坂本竜馬などは、意識の解放を目指した。
おおらかな日本をつくりたかった。

たしかに明治で大きく変った。
正誤でなく、大きく変った。
新しく得た意識。
失った意識。

西洋的思考法が急速に入り込んだ。
論理的であり、科学的でもあった。
だが、充分理解はしていなかった。
だから、科学的でないモノを「迷信」とした。
これは失ったモノの大きな一つだ。

それでも日本人に流れる血があった。
見えないモノへの畏れ(尊敬)。
それが敗戦時に転覆した。
アメリカに占領されたからだ。
日本はアメリカの従国となった。
もちろん、現代も従国のままだ。
日本が独立していると勘違いさせたまま。

第二次世界大戦で従国となった日本。
占領国は意識を変える事から始めた。
これは何時でも、何処の戦争でも同じだ。
占領国は現地の意識改革(改悪)から始める。
最近のイラク、アフリカ各地、皆同じだ。

アメリカにとっての日本の脅威。
それは日本にはホンモノを観る力がある。
見えないモノを感じる感性がある。
奴隷がホンモノを判断しては困るのだ。
だから、文化的、科学的という言葉で変えた。
そして・・・今の日本に続いている。

こうして多くの日本人から感性を衰退させた。
見えないモノを「嘘、原始的、迷信」と教えた。
識者といわれる、操り人形を前面に出した。
学校は占領国の言いなりになった。
「民主」の本当の意味を隠して「民主的」を教えた。

それでも、日本人には古(いにしえ)の血が流れていた。
見えないモノを畏れ、敬う血は微かに流れているのだ。
「価値」を見抜く力。
それは、見えないモノを感じる力でもある。

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