水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷説般若心経・238」

2008-03-31 21:15:51 | Weblog



  第十九章(5)
  般若心経

般若(パーニャ)の意味のおさらいだ。
宇宙の智恵でも仏智でも神智でもいい。
だがここまで書いてきて(書かされてきて)ワシ的な訳がある。
それは「生命の智恵」が般若には相応しいと思う。

生命といっても肉体的な生命だけではない。
生きる事(生き方)。
存在している事。
個人に限れば意識や精神、魂まで含めた「生命」だ。
個を離れれば「地球全体の生命」でもある。

般若ってのは、個人的な心の智恵じゃない。
もっと全体的、全的、統合的な智恵なのだ。
小さな個人の心に限定しては、もったいない。
個人の心の経は、般若心経の一部でしかない。

                           
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・237」

2008-03-30 19:24:26 | Weblog



  第十九章(4)
  般若心経

芸は自他を助ける。
そして他に楽しんでいただける。
そして自を愉しむ事ができる。
無芸では経にならない。

最後の「般若心経」の文字。
決して無芸ではない。
ゲンちゃんのような高僧は共通の癖がある。
自他を愉しくする。
それは、生きる事を愉しんでいるからだ。

たった四文字の最終文字。
ここに、自他を愉しくする仕掛けがある。
貴重な最後を飾る文字だ。
これを訳さずに、何とする。

 
                          
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「迷説般若心経・236」

2008-03-29 23:30:41 | Weblog



  第十九章(3)
  般若心経

呪は心経の最大の要だ。
心経は要だらけだが、呪が最大の効果になる。
実際に苦を縮小や消滅させるのが効果だ。
実際に生きるのが愉しくなるのが効果だ。

理屈の部分は無駄ではないが、効果は薄い。
空や無は屁に近い・・・。
屁も大切だし、苦を縮小させる。
音だけなら、結構笑える(楽しめる)。
だけど・・・立派な理屈は・・・臭い・・・。

理屈で終わらないのが般若心経の素晴しさだ。
行としての呪(真言)がある。
実際に唱えて効果がでるのだ。
その呪の後に四文字。
しかも「般若心経」では繰り返しの文字だ。
通常なら・・・芸が無い。

 
                          
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「迷説般若心経・235」

2008-03-28 22:09:37 | Weblog



  第十九章(2)
  般若心経

何故、最後に「般若心経」と入れたのか?
題字に「摩詞般若波羅蜜多心経」と丁寧に書いたのだ。
蛇足にしてはシンプルだ。
それに、心経に蛇足は付けない。

呪の後に、たった四文字。
こういう事をするから、般若心経は謎めいている。
「空」や「無」の意味など、これに比べれば可愛いものだ。
ほとんどの訳者も素通りする。
だが、大般若経のエッセンスだ。
素通りできないだろう。

無駄はしない。
仕掛けはする。
イタズラもする。
せっかく仕掛けたイタズラなら、
何とか引っかかってやらにゃ~。
知らん振りは失礼だろう。

                          
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「迷説般若心経・234」

2008-03-27 22:44:48 | Weblog



  第十九章(1)
  般若心経

最後に「般若心経」の文字がある。
通常なら、題名と同じ文字を最後に書く事は無い。
まして極限に文字を切り詰めて表した心経だ。
無駄な文字は無い。

心経は一つの単語にも多くの意味を込めてある。
深く広く多種な意味がある。
読み手の力量で多段階の意味に気づく。
そういう仕組みの心経だ。

最後の「般若心経」の文字も仕掛けがある。
書き手のゲンちゃん(玄奘)は高僧だ。
猿や豚や河童を連れて天竺まで行った僧だ。
天竺という亜空間まで行く事ができる僧だ。
きっと・・・ヒョウキンに違いない。
(高僧=ヒョウキンなのだ)

                        
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「迷説般若心経・233」

2008-03-26 22:06:55 | Weblog



  第十八章(14)
  羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶

ワシ的訳。
「唱えれば、心が消えて、行く、行く。
唱えれば、魂鎮まり、来る、来る。
何かを超えて、何処かに行く。
何かを超えて、何処からか来る。

唱えれば、全てを超えて行く事が出来る。
唱えれば、全てを超えて、やって来る。
サトリは、その時叶うだろう。
全ては、その時に成就する。

般若の心経は、この呪に集約される。
何も心配はいらない。
何も苦労はいらない。
修行も精進も関係無しに
誰でも成就を成す事ができる」

 
                       
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「迷説般若心経・232」

2008-03-25 19:20:40 | Weblog



  第十八章(13)
  羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶

ボォディ スヴァーハ
ボォディ(菩提)はサトリのこと。
ナイスボディは「サトリを活かす」・・・
ウソだっちゃ・・・。

スヴァーハは成就する(した)。
あるいは、到達する(した)。
あるいは、完了!
ボォディスヴァーハは「サトリ完了!」
つ、つまらん・・・

だから呪の訳はつまらないのだ。
呪は唱える事(行)で効果がある。
訳を考える(知)のは、蛇足にもならない。
まぁ、趣味の世界だ。


                       
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「迷説般若心経・231」

2008-03-24 21:06:56 | Weblog



  第十八章(12)
  羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶

パーラサンガティー
何もかも、超えて行く(来る)。
全てを超えて行く(来る)。
時間も空間も意識も超えて行く(来る)。
何でもアリだ。
そして、何にもナシだ。

精進する、というレベルじゃない。
コツコツ努力する、という道じゃない。
ブッちゃんは努力しても到達しない、と気づいたのだ。
何もかも超えるには、別の要素がいる。
精進や修行では、無理なのだ。
精進や修行にこだわれば、尚更無理だ。

パーラサンガティーとは、そういう意味だ。
誰でも行けるけど、こだわったら無理だ。
誰にでも来るけど、下手に意識しては無理だ。
手放せば、何かがやって来る。
全て手放せば、全てを超えてしまう。

                       
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「迷説般若心経・230」

2008-03-23 22:02:52 | Weblog



  第十八章(11)
  羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶

パーラガティー 
「行く・来る」の先にある状態。
更に行く、更に来る。
超イク、超来る・・・。
次元を超えて、行く。
次元を超えて、来る。

何処まで行くのかなぁ・・・
何処から来るのかなぁ・・・
何かを超えて、何処かへ行く。
何かを超えて、何処からか来る。

それが、涅槃という状態。
あるいは、サトリという状態かもしれない。
涅槃もサトリもなったことが無いから、想像だが。
生死即涅槃、だが、何かを超えて自覚できるらしい。
                      
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「迷説般若心経・229」

2008-03-22 18:59:42 | Weblog

 第十八章(10)
 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧婆訶

ガティー ガティー
同じ単語を二度唱えている。
リズムや語呂がいいからではない。
完成された呪だ。
当然意味がある(呪に意味はない、ってば・・・)

「行く、行く」という意味がある。
「行く」と「来る」も深くは同じだ。
「来る、来る」「行く、来る」とも訳せる。
遥か遠く、涅槃まで行く。
涅槃が自分の内に来る。
どちらも同じ意味になる。

下ネタでも同じ言葉がある。
「イク(行く)」と「カミング(来る)」が同じだ。
とても高尚な話と下ネタはカブるのだ。
だから、下ネタを話さない立派な人は信用おけない。

                      
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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