水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

B・2・5

2006-01-31 22:11:34 | Weblog


友人も幻想なら、友人の愛も幻想ね。
走れメロスは幻想のお話よ。
治ちゃん、友達が欲しかったのね。
太宰なんてダザイぜ、なんて相手にされなかったのね。

 えっ、アタシもそんなダジャレじゃ相手にされない? 
フン!これでもダンナがいるのよ。
オヤジギャグはダンナの悪影響なのよ。

 友人が幻想だからって、別に虚無的ではないわよ。
よく聞いてね。
友人は特別に条件をつけて存在する関係じゃないのよ。
人間関係のベースになるのが友人なのよ。
そこに遺伝子条件が付いて肉親になったり、
魂契約に基づく夫婦や、性条件が伴う恋人になったりするのよ。

早い話が、知り合いは皆友人なのよ。
縁の濃い関係を親友と呼ぶことがあるけど、
同じ人間ならば特に友人という言葉で囲わなくてもいいのよ。
えっ、さみしい? そうなのよ。
人は、「さみしさ」から幻想を創ったのよ。
友人という幻想もその一つよ。

 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日常と非日常・2

2006-01-30 21:17:11 | Weblog


「日常」は日々の暮らしだ。
そして・・・ほとんど固定概念で作られている。
「日常」は「生命」を使う。
肉体は時間と共に老化する。
(ある期間までは成長という)

「生命」を使うが、活性も起こる。
消耗と活性を繰り返しているのが「日常」だ。
消耗や活性の変化幅は少ない。
全体的には、穏やかに生命(身体)は老化する。

「日常」において時間は一方向へ一定速度で流れている。
(例外があったり、細かくは一定でないが無視しよう)
「日常」は、この世(物質界)の基本となっている。
基本を受け入れ、大切に扱わないと「意味」も無くなる。
この世に存在する意味は「日常」の中にある。

「日常」があるなら「非日常」もある。
基本があるなら、例外もある。
「例外の存在理由」
それは「基本の補助」だ。

「非日常の存在理由」も然り。
「日常の補助」なのだ。
精神世界スキスキ人間は、ここを理解していない。
「非日常」は「日常」の為にあるのだぜ。
「非日常」を追いかけるのは・・・アホだ。

「日常」が基本。
だが「日常」しか見ない、知らないのもなぁ・・・。
この世を半分しか見ないと同じだ。
固定概念は視野も意識も狭く浅くするだけだ。
「日常を活かす」ことが「生活」なのだぜ。
「生命を活かす」ことが「生活」なのだぜ。

 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日常と非日常・1

2006-01-29 20:08:20 | Weblog


ワシの仕事は「生命力の活性」の手伝い。
結果として、身体や心の病からの回復が起こる。
つまり「生命力の活性」の研究も仕事だ。
そして解った事を応用する。
応用していただく。

「生命力の活性」は幾つも用意されている。
「生命即神」
生命の活性はこの世の仕組み(神の企み)でもある。
意たる所に活性の仕掛けがあるのだ。

この世は・・・優しい仕掛けで満ちている。
ワシは、そう思う。
この世の仕組みは優しさで創られている。
「辛い、苦しい」のは仕組みではない。
それは人間側が作りだしたモノだ。
この世は、苦しみを減少する仕掛け。
あるいは消滅する仕掛けを用意してある。

「生命力の活性」
多種多様の苦しみからの解放。
神様はシンプルだが、深いぜ。
そして・・・優しいぜ。

ドジでノロマでオマケにスケベなカメ。
それでも10年以上も天職として歩いている。
「生命力の活性」を常に意識して歩いている。
だから幾つもの活性の方法がある事を知った。

誰でも、どんな状況からでも方法が用意されている。
その中の一つを新たに発見した。
い、いや・・・以前から知っていた。
ただ応用範囲が狭かったのだ。

今回知った方法の一つ。
それが「日常と非日常」の関係だ。
何故「日常」と「非日常」があるのか?
解ければ・・・優しさの仕掛けだと知る。
あらゆる仕掛けは、
「生命」の(活性の)為に用意されている。

 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

B・2・4

2006-01-28 23:15:17 | Weblog

 友人愛

 その前に「友人」って何?

 「鏡よ鏡、友人の定義は?」
 「どうせワイなんて可愛くないワイ」
 「あっ、薄ら寒い、いいえ、面白いダジャレ。
ねぇ、機嫌を直してよ。後で磨いてあげるから」

 「友人なんて幻想や」
 「アンタね~。友達いないでしょ」
 「だから、もともと友人は幻想なんや」
 「本気で答えているの?」
 「本気や」

 実はアタシもそう思っていたのよ。
でも友人、友達、親友、友よ、なんて言葉は、社会では優等生の単語でしょ。
優秀だと認知されているモノを否定するのは、結構風当たりが強いものなのよ。

アタシ、強い風は好きじゃないのよ。
肌は荒れるし髪は乱れるから。
でも鏡のせいにすればOKよね。
非難は鏡に、美男はアタシに。

えっ、ダンナ? ダンナは現実よ。
美男美女は幻想の世界。
一緒にしちゃうからゴタゴタが起きるのよ。
 

 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

R・2・2

2006-01-27 20:05:43 | Weblog


ブ:「トマトを入れて~♪、オリーブオイルを混ぜる~♪」
 仏陀は即席の歌を歌いながら料理する。
実に・・・軽い・・・。
だが声は結構いい。
歌う時は高い声になるようだ。
笑いながら、実に愉しそうだ。

ブ:「トマトとオリーブさえ入れりゃ~、イタリアンの出来上がり~♪」
 仏陀の歌を聞いていたキリストが、ダジャレから歌に変った。
実に・・・軽い・・・。
しかも声も音程もかなり・・・酷い・・・。

キ:「ホワイトソースをかけりゃ~♪、フランス料理になるよ~♪」
ゲ:「キリちゃん・・・ダジャレも歌も才能無いやんけ」
キ:「それでも好きなら~♪、歌ってるのが幸せってもんさ~♪」
ゲ:「上手い下手は関係ないのやね。歌えば幸せは集まるもんやね」

ブ:「ゲシュはんも~♪、歌ってみれば~♪」
ゲ:「オッサン三人が~♪、即席の歌~♪、笑って歌う~♪」
 透き通った低音が響く。
ゲシュナムは本格的な声楽家のようだ。
仏陀もキリストも一瞬聞きほれた。
そして、微笑んだ。
 

 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

H・2・3

2006-01-26 21:00:08 | Weblog


  癒しエネルギー

 私はエネルギーという言葉を用いるのに抵抗があります。
何だか解らないのに科学的な言葉のような気がして、何となく判ったような錯覚をするからです。

 でも使うにはとても便利なのも事実です。
もともと見えない世界の説明は曖昧なのです。
曖昧でしか説明できない部分が多すぎるのです。
イメージでとらえてもらうより仕方ない事が多いのです。

 「癒し」が心や体を変化させるのは事実です。
方向が「回復」や「還元」である事も事実です。
では、何が作用して変化を起こさせるのでしょうか?

 目に見えない何らかの力をエネルギーという言葉で代用させるなら、この場合は「癒しエネルギー」として説明していきましょう。

 エネルギーというとどうしても力学的に想像してしまいますが、「パワー」と「情報」を兼ね備えた見えないモノとして下さい。
「パワー」だけにしてしまうと、質の変化を説明できなくなるのです。

 エネルギーの中に「情報」というと、何となく違和感を持つかもしれませんが、ほとんどの「パワー」に情報は含まれているのです。
作った人・使う人の「思い」も情報なのです。

 ここでは「祈り・願い」などと「浄化」も情報として扱っていきます。
 

 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

H・2・2

2006-01-25 19:36:10 | Weblog


  「場」と「方法」 

 「癒し効果」を、もう少し注意深く観てみましょう。

 「癒し効果」の場合、特定の区切られた「場(空間)」に起こる場合と、特定の「方法」による場合があります。

 「特定の場」には「自然界の場」と「人工の場」があります。

 修験道などで昔から霊場といわれた御滝場や岩洞などは、体や心が安定する特殊な効果の「場」でした。
昔からある神社の境内が清浄なのも、そういった自然の場を人間が利用し、後で社を築いたわけです。

 人工的に「癒しの空間」を作り出す場合も、水晶などの天然の物質を多用しています。
人工的な物質からも効果がありますが、その仕組みや大元には自然の仕組みと天然物質を応用しているわけです。

 「特定の方法」にも「(天然)物を用いた方法」と「生物(人間)が媒体となる方法」があります。
どちらも「自然界のエネルギー的なもの」を活用しているといっていいでしょう。

 人間が媒体の場合、自らが中継器的になるのと、発生器的になるのとの違いがありますが、いずれも何らかのエネルギー的なものを活用するのに違いはありません。
もちろん量や強さや周波数はそれぞれ違います。

 「場」でも「方法」でも活用しているエネルギーの種類があります。
中継にしても発生にしても発生源の違いもあります。
発生源が違えば、その量や質も当然違ってくるわけです。

 その癒しエネルギーの種類を「天・地・人」と私は分けてみましたが、生命が多重構造になっているのなら、発生源の違いにより生命の各層に作用する種類も違うわけです。
単純にどちらが強いとか適しているとか決められません。


 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

H・2・1

2006-01-24 21:52:19 | Weblog


  癒しの構造

  癒し効果・癒し行為

 「癒し」という言葉で表現するものには「癒し効果」と「癒し行為」があります。
この二つの混同が癒しの曖昧さを助長しています。
だからヒーリングという言葉の使い方も混同されたまま使われています。

 例えば森林の中にいると「癒し効果」がありますが、森林が「癒し行為」をしているわけではありません。
ラベンダー畑にいると「癒し効果」はありますが、移動して来たのは人間の方で、ラベンダーが積極的に人間を癒しているわけではありません。

 森林やラベンダーはただ「ある」だけで、ヒーリングを行っているわけではありません。
でも森林やラベンダーが「癒し効果」を発揮する事を知った上で、意図的に行ったならば、それはヒーリングといっていいでしょう。

 ヒーリングは「癒し効果を意図して利用する」
あるいは、「癒し効果を行う(創りだす)」場合に使う言葉だと思います。

 注意すべきことは、「意図して癒し効果を利用」しますが、「意図して治療効果を利用」しているわけではないのです。
ここの履き違えは多いし、また大きな問題点となります。

(注 森林もラベンダーも全員に癒し効果があるわけではありません。
本人の状況で逆効果となる場合もあります。何らかの刺激による場合は、厳密には「癒し」と分けるべきでしょう)

 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

H・5・1

2006-01-23 21:12:13 | Weblog


  治療と癒しへの道 ①

 私が治療の道を歩き始めた動機に、母親の病気がありました。
検査しても異常が出ませんから原因不明です。
顔面や頭部に痛みがあるから三叉神経痛といわれました。
病気名でなく病状名です。
痛みを抑える方法として神経ブロックなどがあるそうですが、治癒するわけではありません。

 痛みがあるのは常時ですが、時に、全く痛まない時があります。
一日痛まない日もあります。
そんな時の母親の顔は別人のように晴れやかな笑顔で、肌もツヤがあります。

 人は変わる。苦しみから離れると、気持ちよく変わる。
その変わった姿は周りも嬉しくさせる。
嬉しさや幸せは伝染するものだ、と知りました。

 後に、お師匠様となる故初代中川雅仁氏の治療風景で、多くの病み人がたちまち笑顔になり、人が変わる姿を見ることができました。
その変わる瞬間に立ち会うと、私の気持ちが躍動するのです。

 「こういう場面に出会いたい」
 「こういう場面にかかわりたい」

 当時四十歳を過ぎていたのですが、どうしてもお師匠様のような治療師になりたいと思いました。
後先も考えず、そこからまっしぐらにお師匠様を追いかけました。

 しかし、追いかけ始めて十ヶ月後、お師匠様は倒れるのです。
 そして、三ヶ月後に復帰し、更に半年後、次の世界に旅立ちました。
 必要だから次の世界に行ったのでしょう。次のステージが用意されたから、そこでまた活躍するのでしょう。
それは理屈でも感覚的にも納得できるのです。

 でも、残って治療や教えを受けたい人達が沢山いたのも事実です。
 故お師匠様のような人は多いようです。
優れた治療者ほど早く倒れる傾向があります。
その運命はその人が運びますから半分納得するのですが、半分は間違いがあるのではないか、とも思っています。

 どんなに優れた人でも、所詮人です。間違いも勘違いもあると思っています。
その一つが「ヒーリングの仕組み」だと思っています。
優れているからこそ見落とす仕組みです。

 私の方が至らないのは充分承知していますが、優れていないからこそ気づく事もあるようです。
ヒーリング能力の高さと、ヒーリングの仕組みを理解する事は別だと思っています。

 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

H・1・3

2006-01-22 23:59:26 | Weblog


 「治療」ではない「癒し」

 治療を目的としての行為は「治療」の世界ですが、やすらぎを目的にした行為は「癒し」の世界です。
「治療」を意識していませんから、「癒し」は「治療」ではないのです。
結果として、不都合部分の回復や修正や治癒が起こっても、あるいは起こらなくても「癒し」としての行為に変わりがありません。

 「治療」は結果を重視します。
しかし「癒し」は結果を目的としていません。
「癒し」はその過程の「やすらぎ・やわらぎ」が目的といえるでしょう。
この「やすらぎ・やわらぎ」は言葉の柔らかいイメージと違い、とても強く巨大な影響をもたらします。

 影響の範囲も個人だけではなく、人類、生物、地球といった広がりを秘めています。
「癒し」を穏やかな治療類似行為と同等に考えていたら大きな間違いです。
「治療」とは全く別の仕組みです。
最初から別世界の行為として理解していただきたいと思っています。

 「癒し」と「治療」との混同は大きな間違いを引き起こす危険性さえあるのですから、曖昧のまま野放しでは、癒し行為をする人(ヒーラー)と治療行為をする人(ドクターや他の施術者)と受ける人(クライアント)の三者が迷惑になってしまいます。

 その逆に、お互いの立場を認め合い、協力し合えば、クライアントの病状回復、病気予防、健康増進や維持などに相乗効果となって貢献できるでしょう。

 「癒し」を理解し活用するならば、今の医療における問題点を多方面にわたって解決するだけでなく、国としても地球全体としても住みやすい明るい未来の道標になるのです。

 「癒し」も「治療」も人が幸せになる為の智慧として存在しているものです。


 
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする