水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「母のこと・128」

2011-11-30 19:37:08 | Weblog



私の実家は大きな古い家だった。
(父方)祖母が半分売ってしまった。
それでも50坪(二階含め)ある。
だが、きちんとした台所やトイレは無かった。
売ったお金で改造しなかったのだ。

不便な暮らしで育ったのだ。
母はもっと辛かったと思う。
小さくてもいいから、きちんとした家をプレゼントしよう。
身体の弱い母が元気でいるうちに。
そう思ったのは、私が25歳の時だった。
幸い仕事は忙しく、私は特に欲しいモノもなかった。

山岳会で知り合った人が銀行関係だった。
金の事なら相談してくれ。
その言葉に乗った。
今と違って、日本中景気がいい。
銀行は借り手を探していた。
歯科医院勤めの私に、簡単に貸してくれた。
利息は(今と比べるととても)高かったが、初めての借金をした。
以後、借金は生涯の連れ合いになる・・・


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「母のこと・127」

2011-11-29 21:04:55 | Weblog



結果的には山岳会と同じだ。
膝の靭帯が無いから、長時間の正座が出来なくなった。
薄茶の20分くらいは大丈夫でも、濃茶となると無理だった。
ある程度の段階までは習ったが、中途半端で終わってしまった。
自分としても残念だった。

ずっと後、故御師匠様と出会って、氣功師の身体にされた。
気が付くと、正座ができるようになっていた。
2時間くらいは平気になった。
もちろん、私が靭帯が無いとは誰も気づかない。
だが、靭帯が再生したわけではない。
この氣功は理屈に合わない出来事が山ほどあるのだ。

職人仲間連中グループ。
山岳会グループ。
茶道のグループ。
職場も人数が増え、7人のグループになった。
一応、私がスタッフリーダーだ。
一応、職場としての飲み会やミニ旅行もした。
忘年会などは、どうしても重なってしまったり・・・


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「母のこと・126」

2011-11-28 19:20:53 | Weblog



今なら何となくわかる。
顔スタイル性格はともかく、私は若いオトコだった。
しかも従順(相手はかなり年上の主婦だもの・・・)。
酒も冗談も付き合うから、可愛がられたようだ。
私も熟女人妻は、気を使わず楽だった。

そうか。
その頃があったからか。
私は熟女(できれば)人妻が好みなのだ。
若ぇオナゴは苦手なほうだ。
まぁ、職人とか熟女とかは一緒にいて楽だった。

母は、本格的な茶道を習っていなかった。
抹茶とその雰囲気は好きだったようだ。
だから、私が茶道をすることを喜んだ。
ハチャメチャなB型で、型通りをしない私だ。
だが、基礎を習うのは当然だと思っている。
背筋のまっすぐな先生との茶道の稽古は気に入っていた。


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「母のこと・125」

2011-11-27 18:01:42 | Weblog



熟年主婦グループとの付き合い。
お茶の先生は、当時60歳は超えていたと思う。
私とは40歳くらいの差があった。
私は週一回の夜の稽古だった。
次第に主婦達の名前と顔がわかってきた。
私はとにかく、人の名前や顔を憶えるのが苦手。

おそらく、一番若くても10歳以上年上。
20歳、30歳以上年上のグループだ。
しかも男は私一人だけだった。
お茶の先生は、最後まで男性を仕上げたい、と言っていた。
いわゆる師範というところまでなのかな。

稽古が終わってから、主婦達に誘われる。
すぐ近くが温泉街だ。
当時は活気があった。
飲み屋さんも沢山あった。
私は当時から、年上も年下もあまり気にしない性格だった。



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「母のこと・124」

2011-11-26 18:19:13 | Weblog



仕事は益々忙しくなっていた。
歯科医の先生は、気を使って時々飲みにも誘ってくれた。
普段行けない値段の高いところだ。
芸者さんなどが、そばに付いたりして・・・
それでも、時間をやりくりして、いろいろと付き合った。

その他、東京のセミナーにも出席した。
精神世界を彷徨ってもいたのだ。
少しの時間があれば、本を読み、また下手な文章を書いた。
連休は、一人旅をした。

当時の私の考え方。
誰とでも付き合う。
誘われたら、断らない。
生きている間に知り合いになれるなら、誰でも仲良く。
無理してでも八方美人に(美人じゃないけど・・・)

今の私とは違う考え方だった。
まぁ、体力、スタミナがあったからなぁ・・・
知りたいこと、してみたいこと、行って見たい所。
全てチャレンジしてみる。
そんな考え方であり、行動でもあった。


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「母のこと・123」

2011-11-25 18:37:35 | Weblog



地元の谷川岳連峰や尾瀬系の燧ヶ岳、至仏山。
近くの新潟県側の苗場山、神楽。
そして北・南アルプス連峰。
数年間だったが、登山は経験財産となった。

ラリーにしろ、登山にしろ危険は付きものだ。
だが、母は一切口出しをしなかった。
今の私の息子(二十歳)も少しずつ山に親しんでいる。
いろいろな思いはあるが、私も口出しはしないでいる。
ただ見守る方が気持ちが深いと知っているから。
もちろん、相談されれば乗る。

年下の仲間連中と、年上のグループ。
もう一つ、別のグループにも関係する。
茶道だ。
裏千家を習いだした。
そこには、主婦グループがいた。


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「母のこと・122」

2011-11-24 20:16:32 | Weblog



ラリーのグループは私より4・5歳年上だ。
私は一番年下に近い。
基本的にドライバーではないから、気は楽だった。
また、瞬時のナビゲーターが少ないので重宝された。
下りダートで車が滑りながら曲がるのも、怖くなかった。

やがて、計算は自動でできる計算機が普及する。
各クラス分けや、細かい条件がつくようになる。
大らかなラリー大会から、シビアなオフィシャルになる。
金をかけた車が圧倒的に強いレースになった頃、手をひいた。

その後、地元山岳会に入る。
どこかスリルを求めていたわけでもないが・・・
ここでも、全て私より年上の人達との付き合いだった。
夢中になるほどではないが、山に惹かれたのは間違いない。
やがてスキーが原因で膝の半月板の手術をする。
その時には前十字靭帯が吸収されて失ってしまっていた。
その後は、山岳会としての山登りは無理になって辞めた。


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「母のこと・121」

2011-11-23 20:27:26 | Weblog



仕事もプライベートも充実していた。
すると、面白いもので更に意欲がわく。
別な事に手を出してしまうのだ。
いつもの仲間連中とは別の人達との付き合い。

一つは、ラリーチームのナビゲーター。
当時の群馬県は山岳ラリーの中心だったのだ。
未舗装の山道が沢山あり、夜間はほとんど人がいない。
当時は真夜中のレースだ。
およそ400キロから500キロ。
計算は、円盤計算尺(知らないだろうなぁ)でした。
やがて、計算機のメーター(高い)が使われるようになった。
未だ、電卓などない頃だ。

アンダーガードとロールバー。
四点式シートベルトとヘルメット。
ダートラリーだから、横転は珍しくなかった。
山道だから、皆で横転車を道脇に除けてレースを続けた。
SS(スペシャルステージ)というメチャクチャもあった。
区間でかかった秒数全てが減点だ。
とにかく速く走る為の区間だ。
今では、決して許可してくれない内容だった。


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「母のこと・120」

2011-11-22 18:48:49 | Weblog



暖かくなると、よく川辺でテントを張って酒盛りをした。
釣りが得意の連中は、魚をサカナにしてくれた。
もちろん、山や川にゴミを捨てるような事はない。
ゴミを捨てるようなのは、人間のクズだと日頃言っていた。
地位や金や世間的な評判はどうでもいいが、クズにはなるな。
当時から比べると、現代はクズがものすごく多いようだ。
私は立派でもマトモでも普通でもないが、クズにはなれない。
ゴミを自然界に捨てて平気でいられるほど強心臓ではない。

私も仲間も基本的に硬派の側だ。
有体に言えば、異性と上手く付き合えないタイプだ。
異性と面倒な付き合いをするくらいなら、仲間とバカ話をした方がいい。
それでも、モノ好きなオナゴもいた。
仲間連中には、オナゴも数人加わっていた。
顔を出す総人数は職場仲間を入れれば、30人に近くなっていた。

こうなると、何をするにしてもある程度の規模になる。
何処に行くにしても、定員で車5・6台になる。
小さな店なら貸しきり状態になる。
仕事は遅くまでギッシリだったが、毎日は面白かった。
また、休みの日はいつも予定が詰まっていた。


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「母のこと・119」

2011-11-21 21:18:34 | Weblog



今の私は、ほどんど酒を飲まない。
飲みたいとも思わない。
断るのが面倒だから、通常は飲めない事にしてある。
だが、当時の私はコミュニケーションは酒だと思っていた。
だから、酒に関しては最低限の常識を仲間に約束させた。

酒を飲んだら、車は運転しない。
いつも、酒を飲めない仲間が常に運転手役になっている。
運転手役は皆に頼られる事で存在位置を示した。
もちろん、運転手役に余分な料金はかけさせない。
こうして酒を飲むときは、送迎付きなのだ。

深酒をしても、次の日に仕事を休まない。
休むようなら、仲間と認めない。
誰からも仕事で一人前と認められるようにだ。
基本的に楽しいバカ話の酒の場にする。
無理して付き合わない。
自分を管理できて、一人前だと認める。


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