今、ワシの住む山の中は山菜が真っ盛りだ。
ワシの幸せな時期の一つだ。
ワシは山菜が大好きだ。
オッパイのでけぇネ~チャンよりも・・・。
(注1:一応サービスで書いてますが、
実際は巨乳、貧乳の差別はありません。
何だっていいんだ。健康が一番だぁ)
子供の頃は山菜のどこか美味いのかわからなかった。
あれは、ある意味オトナの味だしなぁ。
それでも、その時期には他に食べるモノがない。
(注1:ワシの家は由緒正しい貧乏人の系統です・・・)
仕方無く、口に入れていたのだと思う。
子供の頃の記憶は体や心の深くに染み込む。
年代が遅くなるほど、浅くなる。
(注2:強弱と深浅を区別してね・・・)
深みのある味の場合は、幾年経っても甦る。
甦る時には、懐かしさを連れて来る。
子供の頃。
更に遡って、赤ちゃんの頃。
(更に胎児の頃もアリだね)
我々は「幸せ」だった。
「幸せ」を染み込ませていた。
「幸せ」は理屈では語れない。
深く染み込んだ、味のようなモノ。
だから、いつでも甦ることが出来る。
誰でも、子供や赤ちゃんの時期があった。
誰でも、幸せを甦らすことが出来る。
生きていることは、
幸せになれるという意味だ。
仕方なく、強制的に覚えたモノ。
甦ってみると、解る事がある。
大切だったんだ。
幸せだったんだ。
ラッキーだったんだ。
住む土地から採れるモノは、
体と心に大きな意味を持つ。
マハトマ・ガンディーも指摘していたが、
「調和」を観るようになると解る。
採れる時期は短い。
その時期に食べる意味は大きい。
「食」を分析学で語ると、
最も肝心な意味が解らなくなるようだなぁ。
(本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間・氣功療法院」