水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷説般若心経・116」

2007-11-30 13:35:53 | Weblog



  第十章(4)
  無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽

「正しい道を歩きなさい」
なんて無茶はブッちゃんは言わない。
正しさなんて判らないモノ達を抱きしめてくれる。
正しさなんてこだわらない。
その代り「道は自分で歩けるんだぜ」
と教えてくれている。

無明だっていいんだ。
心配するなよ。
たまにの「無明」だけじゃないぜ。
最後まで「無明」だとしても大丈夫だぁ。
闇の中にいたって、誰かが包んでくれるぜ。

菩薩だか如来だか神様だか知らねぇけどな、
条件無しで、愛おしんでくれるぜ。
正しいモノを贔屓にするわけ無ぇだろ。
バカなモノほど可愛いけどな。
無明の中にいるモノほど、ちょっとは贔屓するぜ。
 
       
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・115」

2007-11-29 22:50:05 | Weblog




  第十章(3)
  無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽

迷いや閉塞感の「無明」だ。
そんなのは、日常生活で普通に起こる。
闇の中で迷いながら、アチコチぶつかりながら生きている。
それも含めて、生活する、暮らす、という事だと思う。
それだけでは苦しい、淋しい、辛い。
苦しむ為に生きているわけじゃない。

「無明」を否定しても解決しない。
現実(生活)的ではないからだ。
無明から脱却しなさい、なんていうのは寝言だ。
そんな事を真顔でいう宗教家は詐欺師か(厚顔)無知だ。
「無明」を抱きしめる。
それをブッちゃん(仏陀)は「慈悲」と言ったのだ。

だから「無無明」は肯定の言葉だ。
「無明」に「こだわるなよ」と言った。
更に「無明」も愉しめるぜ、と言った。
バカ(無明)は可愛いと思える心。
それが仏教の真ん中にある「慈悲」だと思うぜ。
 
       
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「迷説般若心経・114」

2007-11-28 12:29:12 | Weblog




  第十章(2)
  無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽

「無明」とは、暗闇にいる状態。
迷いや閉塞状態。
「真智」が「明かり・光」とされる。
だが、人の状態で「真智」は無理だろうなぁ。
「真智」だと思い込む事はあるだろうが、
よく観れば、判断力が無いから「人」でいるのだ。

宗教組織は「真・智」を売り物にする。
誰も判断出来ないモノを売り物にする。
だから「真・智」だらけの、多数の宗教組織が存在する。
しかも・・・お互いに仲が悪い・・・。
詐欺かどうかは微妙だが、極めて近い、と、思うぜ。

「無明を無くせばいいのだ」
なんていうのは、無責任極まりない言葉だ。
「全てを愛しなさい」
こういうのも、無責任極まりない言葉だ。
そんな事が言われて出来るのなら「人間」やってないぜ。
 
 
       
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「迷説般若心経・113」

2007-11-27 11:33:06 | Weblog



  第十章(1)
  無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽

またまたメンドウな仏教用語の説明だ。
一応、これを説明しないとなぁ・・・。
第八章で「六根」と「六境」があった。
第九章では「六識」を加えて「十八界」だった。
今回は「十二因縁(縁起)」という決まり言葉だ。

「無明」から始まり「老死」までの十二の出来事。
それらは必ず順番に繋がっている。
だから「無明」と最後の「老死」まではセットだ。
原始仏教の根本的な観察力から生まれた用語だ。
この洞察力も冥想という方法があったからこそだ。

人の煩悩の縁起の順番でもある。
動物や妖怪にも、まぁ当てはまるだろう。
だけど「十二因縁」を知らなければ何の事やら分からん。
八っつぁん、熊さん、タヌキやキツネには分からん。
文字では仕方なく「十二因縁」を書いたけど、
ブッちゃんが話した言葉は違うだろうなぁ。

 
       
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「迷説般若心経・112」

2007-11-26 15:44:01 | Weblog



  第九章(12)
  無眼界乃至無意識界 

もう一つの訳。
「生きているってのはよ、
いろいろ見て、聞いて、味わって、感じて、思ってるんだ。
実際は、心がどう思うかで、見方や感じ方が違う。
つい、受身で生きているけどな、変える事が出来るんだぜ。
なにも苦しむ為に生きてるわけじゃねぇんだ。

楽になるには『コツ』ってのがあるんだ。
苦しみを無くすだけじゃねぇ。
更に愉しめるんだぜ。
見る、聞くなどは受身だけど、
思う、は自分で自由に出来るんだ。
その『コツ』が、こだわらない事だ。

こだわらなけりゃ、いろいろな出来事は面白れぇぜ。
生きている時間は限られているんだ。
いろいろな体験は貴重なんだ。
同じような出来事でも、一つ一つは違う。
少しづつでいいからよ、変えてみようじゃねぇか。
大丈夫だ。
心はイイカゲンだから、変える事が出来るんだぜ」


       
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「迷説般若心経・111」

2007-11-25 21:13:30 | Weblog



  第九章(11)
  無眼界乃至無意識界 

ワシ的訳。
「毎日の暮らしがあるだろ。
見たり、聞いたり、感じたりしているだろ。
嬉しかったり、辛かったりするだろ。
まぁ、辛い方が多く感じるかな。
苦しむ事が多いかなぁ。

嫌なモノは見るな、っていっても無理だよなぁ。
辛い事を感じるな、っていっても感じるよなぁ。
毎日、実際に苦しいもんなぁ。
だけどな、
見た事を引きずる事ぁ、無ぇんだよ。
辛い事を思い出して、苦しみ続けるのは余分だぜ。

つまりな、
見た事や聞いた事や感じた事は無くせねぇけど、
いつまでも、こだわる事は無くせるんだぜ。
苦しむ元ってのは、見た事や感じた事じゃねぇんだ。
いつまでも、こだわった事なんだぜ。
嫌な事があっても、苦しみは無くせるんだぜ。」

       
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「迷説般若心経・110」

2007-11-24 19:22:42 | Weblog



  第九章(10)
  無眼界乃至無意識界 

心経の文字だけ見ると難しそう。
直訳する前の解説も難しそう。
六根や六境や六識。
それらを合わせて十八界。
仏教用語の決まり事だけで難しそう。

だけど、中身は易しく優しい。
話し言葉まで難しかったら仏教の意味が無い。
ブッちゃん(仏陀)の意図した事。
誰にでも、どんなモノにでも救いとなる言葉だった。
だから、難しくしたら、その時点で失格・・・。

心経の大部分は話し言葉だ。
相手は例えれば・・・
落語の長屋横丁の八っつぁんや熊さんだ。
否定の否定は即ち大肯定、などという話はしないぜ。
大丈夫だぁ、何とかなるから。
いつも、そんな言葉が付いてくる。
 
      
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「迷説般若心経・109」

2007-11-23 23:52:51 | Weblog



  第九章(9)
  無眼界乃至無意識界 

「般若波羅蜜多心経」だ。
どの部分をとっても「般若」を顕している。
その「般若」は、誰にでも理解できるモノだ。
そして、誰でも活用できるモノだ。
そうでない理屈など「般若」の名に値しない。

眼界から意識界までの十八界。
「無」を付ける事で「般若」となる。
「こだわるなよ」という訳で「般若」となる。
「愉しめよ」という意味で「般若」となる。

経の文字は実に簡潔だ。
簡潔だからこそ、意味は広く深い。
相手によって、話し方が違う。
表現が違う。
違って、当たり前なのだぜ。
 
      
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「迷説般若心経・108」

2007-11-22 11:02:43 | Weblog



  第九章(8)
  無眼界乃至無意識界 

世界は一つ!
人類、皆家族!
ま、まぁ、観方によっては、そうもいえるなぁ。
観方を変えれば、一つも同じ世界は無い。

親子でも違う。
恋人同士でも違う。
夫婦が違うのは当たり前。
隣の家とは違う。
他の国とは違う。
ネコや鳥とは違う。

違う世界観のモノ達同士。
地球上では一緒に生きている。
生きていくには、智恵が必要。
とはいえ、特別高級な智恵ではない。
誰にでも当てはまり、応用できる智恵だ。
それを「般若」といった。
 
      
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「迷説般若心経・107」

2007-11-21 23:05:17 | Weblog


 

  第九章(7)
  無眼界乃至無意識界 

自分の世界(十八界)の基準で他を判断する。
すると、考えが違う。
行動も違う。
同じはずなのに、何故だ!と思ってしまう。
自分の世界観は確かだと思っている。
だから正しく直さなくては、と思ってしまう。

摩擦が起こる。
衝突が起こる。
争いが起こる。
ここに、苦しみの多くの原因がある。
愚かな争いで、残酷と不幸が生まれる。

自分の世界が不確かだと気づく。
すると、他のモノ達の世界も不確かだと知る。
不確か、と、不確か。
なんだ、同じアイマイな世界の住人かぁ。
ならば、いろいろが違っても当たり前だ。
そこに「思いやり」が生まれる。

      
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