水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

「迷説般若心経・178」

2008-01-31 11:05:37 | Weblog



  第十四章(6)
  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

ゲンちゃん(玄奘)は高僧だ。
だからイタズラ坊主だ。
ここでもヒネクレた(優しい)ワナを仕掛けた。
この文節のとらえかたで涅槃が変わる。
それぞれが、どんな涅槃を想像し創造するか?
クスクス笑いながら心経を書いたのだろうなぁ。

ワナは、ほとんどが落ちるように仕掛ける。
そして・・・見事に、ほとんどが落ちた・・・。
でも、これを見破るには知識はいらない。
堅苦しい理屈もいらない。
素直にみれば、判るように書いてある。
「夢想の反対(転倒)などとは遠く離れた境地だぜ」
(つまり、夢想が沢山ある境地だぜ)

だが心経は大般若経という難しいお経のエッセンスだ。
だから、きっと難しい真理が濃く詰まっているに違いない。
そうだ、そうに違いない・・・
そう思った解説者達は、自分や他人の知識をフル稼動して訳す。
そして、見事にワナにはまる・・・。
この世の仕組みは、知識じゃ無ぇ、理屈じゃ無ぇといっているのに・・・。
例えれば、長屋の八っつあんや熊さんに説いているんだぜ。

 
        
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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「迷説般若心経・177」

2008-01-30 10:50:29 | Weblog



  第十四章(5)
  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

「顛倒夢想」の訳し方で意味が正反対になる。
「夢想のような転倒した心」というのが一般的。
ワシは独善でヒネクレているから、
「転倒した夢想」つまり「キマジメな心」と訳す。
「顛倒夢想」を素直に訳せばワシに近いと思うぞ。

涅槃にはどちらが溢れているか?
夢想の無いキマジメな心ばかり?
夢や空想や希望が沢山ある境地?
自由は夢と空想で溢れていると思うぜ。
そして、ブッちゃんは自由の素晴しさを説いている。
「空と無」で・・・。

それにしても夢想の転倒した心という表現はいいなぁ。
夢想の反対の心・・・。
「キマジメ」と直接いうより味がある。
優しさもある。
ワシのように「キマジメ」をからかうのは優しさが足りない。


        
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「迷説般若心経・176」

2008-01-29 10:39:41 | Weblog



  第十四章(4)
  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

誰かが言ってたなぁ。
「生死即涅槃」ついでに「煩悩即菩提」
こっちのほうがワシの性に合っている。
愚かな衆生のワシには合っている。
そして、ブッちゃんはワシ等の為に説いてくれた。

生きていれば、そこは涅槃でもある。
気づくか、気づかないかの違いだ。
特別な修行も精進も必要ない。
魂は自然に柔らかくなる。
何度も生死を繰り返して。

それでも、苦しむのは嫌だろう。
それを観るのも、忍びない。
だからブッちゃんは経を説いた。
涅槃の悦びを少しでも味わえるようにと。
要は本人次第なのだ。
だから、万人に万物に経は活かせる。

        
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「迷説般若心経・175」

2008-01-28 11:20:27 | Weblog



  第十四章(3)
  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

知ったかぶりで解説している人達がいる。
もちろんワシもその中の一人だ。
い、いや、ワシは知ったかぶりじゃない。
最初から独善迷説だといってる。
決して謙遜じゃないぞ。
誇張でも斜に構えたわけでもない。

経を読むのではない。
経を記した人(ゲンちゃん)を感じるのだ。
経を説いた人(ブッちゃん)に共鳴するのだ。
同じ人間だもの、できるさ。
ただし・・・正誤真偽は問わないぜ。

評価としては偉人だろう。
だが優しいオッサンには変わりない。
衆生やケモノや妖怪の苦しみを軽減したいのだ。
難しい屁理屈はいらない。
ならば、誰だって仏陀や玄奘に共鳴できる。
誰もが共鳴できる柔らかさが、偉人という意味なのだ。
一部の頭でっかちが理屈で解説する人達じゃないぜ。
    
       
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「迷説般若心経・174」

2008-01-27 11:34:07 | Weblog



  第十四章(2)
  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

通常訳は間違いだろう。
無理もないのだ。
誰も涅槃に行った事がないのだ。
だから、そんなツマラン訳になる。
夢も希望も無い、涅槃になる。

涅槃は、そんな無味乾燥した境地じゃないだろ。
そんな所には行きたくなくなるから。
自分で行った事も無いのに、決め付ける。
涅槃には恐れも、迷いも、夢想もない。

「無」の意味を勘違いしているからだ。
「何も無い」のが「無」だと思っている。
だから涅槃が無味乾燥の境地になる。
「無い」と訳すと、経が観えなくなる。
心経は「空」と「無」の訳し方で姿を現す。 

    
       
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「迷説般若心経・173」

2008-01-26 22:22:02 | Weblog



  第十四章(1)
  遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃

一般訳は
「顛倒した夢想妄想から遠く離れ、涅槃の境地に辿り着く」
などという直訳が多いようだ。
そんな境地はツマランだろうなぁ。
少なくてもワシはツマラン。

夢想も妄想も無いような人とは付き合いたくない。
ロボトミー手術して理想郷を作ろうとした物語があった。
バカな感情が無く、マジメなロボットのような人々の国。
夢は見ない。
空想はしない。
ワシなら、そんな人とは付き合いたくない。

ブッちゃんもゲンちゃんも、そんな人とは違う。
夢想空想妄想大好き人間だろう。
イタズラ坊主だぜ。
夢想だらけだ。
明るい未来を夢想して経を説いているんだ。
キマジメな修行に明け暮れると、幸せにはなれない。
夢想や空想や妄想が適当にあってこそ、愉しい人生だぜ。  

    
       
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「迷説般若心経・172」

2008-01-25 11:25:07 | Weblog

  

  第十三章(12)
  心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖

「心や身体の不都合にとらわれるなよ。
といって、無視していいわけ無ぇだろ。
それぞれ可愛がれよな。
それが養生ってことだ。

養生を意識し行うと、楽になるぜ。
不都合が有っても治せばいいんだ。
すると、恐怖が必要以上にならない。
恐怖が有っても、大丈夫になるのさ。

まぁ、適当な大きさで恐怖を感じられる。
これは、結構大切なんだぜ。
恐れも知らないと、ロクなモノになれ無ぇ。
人間もケモノも妖怪も、適当に恐怖が必要さ。
必要以上は、いら無ぇけどな。
まぁ、般若ってのは、暮らすのが楽になるコツだ。」
 
                   
       
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「迷説般若心経・171」

2008-01-24 11:11:22 | Weblog

  

  第十三章(11)
  心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖

ワシ的訳。
「(前章からの続き・般若というのは)
心の悩みや迷い、心のダメージが有っても大丈夫だ。
その事に固定しなければ、勝手に変わる。
いろいろが有って当たり前だ。
だが、心は変化しやすいんだぜ。
一々思い出して、こだわらなけりゃ変わるぜ。

身体の病や怪我も有る。
必ずといっていいほど、降りかかる。
だが、それでも大丈夫だ。
回復したり、軽減したりするコツがある。
身体も常に変わっているのが事実だぜ。
しかも回復方向に変わっているんだぜ。

生きているってのは、必ず回復に向かっているんだ。
回復を邪魔しているのは、自分の固定概念なんだよ。
変化している事を認めろよなぁ。
不都合があるのを認める。
同じく、回復している事も認める。
要は、常の変化を認めるって事だ。
それが、こだわらない、イイカゲンって事だ。
それが、般若って事だ。」

 
                   
       
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「迷説般若心経・170」

2008-01-23 10:48:51 | Weblog

  

  第十三章(10)
  心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖

「恐れ」も見直してみよう。
生きる事は恐れが付随する。
生命は必ず尽きる。
何時、何処で、如何なる理由でかは判らない。
誰にも判らない。
だから「恐れ」は必ず付随する。

「恐れ」の表面には無智がある。
勘違いもある。
だが底には、この世の仕組みがある。
仕組みの奥深さを感じるのだ。
「恐れ」は「畏れ」になる。
恐れる事は、単純に不都合なモノじゃない。

ブッちゃんは、その事を含めて「有」を使った。
恐れを知らない生物は、必ず自滅する。
自滅だけじゃない。
他の生物の迷惑となるのだ。
この世は多種多様なモノと共存共生で成り立つ。
恐れを無くしては、この世にいる意味が無くなるのだ。 

                   
       
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「迷説般若心経・169」

2008-01-22 10:55:28 | Weblog

   

  第十三章(9)
  心無罫礙 無罫礙故 無有恐怖

この世の出来事を全て肯定する。
その上で、歩き方のコツを教えてくれる。
それが説法ってことだろう。
理屈や机上論や正真論では、実際は役にたたない。

心の乱れ、病、恐れ、を有ると認めて先に進める。
それらは「無いのだ!」などと力説しても解決できない。
「実相界では幻だ」などと、この世で言っても意味が無い。
この世は、舞台上なんだぜ。
本名や本当の姿を明かすのは、マヌケだぜ。

~しなければならない、のではない。
~してはならない、のでもない。
何でもアリなのだ。
その上で、実生活として、歩き方を教えてくれているのだ。
心経は、正しさの理屈じゃないんだぜ。                    
       
(過去のプログは本館 「氣の空間・氣功療法院」です。)
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