ワシには兄も姉もいる。
社会的にマトモな兄もそうでない兄もいる。
もちろん魂の兄弟姉妹もいるが、
その話は怪しく、妖しくなるのでここではしない。
「貧乏道は社会から落ちこぼれる事を旨とせよ」
家訓というものは誰かが守るものでもある。
貧乏道宗家某亜流水上一族末裔のワシだけじゃなく、
幸いにして姉も貧乏道を歩み、世間から外れた。
未だ芽の出ない陶芸家として生きている。
(ワシよりも社会的認知度は高い・・・)
姉は同世代の女性達の悩みや迷いの受け皿になっている。
(ヒマだからだ、などと指摘してはいけない・・・)
同世代は女性の更年期の真っ最中だ。
それぞれ、様々な原因や理由があるようだ。
人と人を同じように比べて論じる事はできない。
その姉と貧乏道について話す事がある。
「貧乏の御蔭でこうしていられる。感謝だわ。」
ある意味、健康で幸せな今の状態を言ったものだ。
女性の更年期なんて係わっているヒマがない。
独身で貧乏だもの・・・。
(一緒にいる老母も貧乏ではボケていられない。
母は社会的常識が確りある性格なので、
息子や娘を安心して見ることができない。
我家では痴呆になる要素さえないのだ
貧乏道を歩む子達は、親不孝であり、親孝行なのだ)
世間から外れる、ということは、
世間的な視線も受け付けないということだ。
世間的には惨めな状況に見られようとも関係ない。
世間を気にしながらでは、幸せを得るのは難しい。
貧乏道は幸せの一方法なのだ。
どんな道もある程度進むと、見方が変わる。
世間的に外れているから評価は気にしないが、
世間の見方が近頃変わってきているようだ。
貧乏な我家を羨ましがる人達が増えてきている。
ワシや姉を羨ましがる言葉が増えてきている。
世間は・・・間違っている。
つくづく、そう思う。
世間が羨ましがるのは、
ワシや姉を取り巻く「幸せ」が欲しいからだ。
その欲しがる姿勢を最初に手放すのが貧乏道なのだ。
「幸せ」であろうと「幸運」であろうと、
「生きがい」であろうと「健康」であろうと、
自分のモノにする事から離れて貧乏になれるのだ。
お金や財産を捨てれば幸せになれるわけではない。
貧乏道はシンプルであるが、難しいのだ。
その姉やワシの一致した意見がある。
「もう、貧乏にも飽きたねぇ~」
棚からぼた餅と抹茶とケーキと珈琲を待っている。
といって、貧乏道から外れたわけではない。
努力して、ケーキと珈琲を買うつもりがないのだ。
(そ、それって、単なるナマケモノじゃん・・・)
(本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間・氣功療法院」