goo blog サービス終了のお知らせ 

島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

飯盛散策-横津の石槨

2015-10-26 17:26:10 | 歴史・史跡
諫早市指定史跡「横津の石槨」です。
「よこづのせっかく」と読みます。
え?どれが?

どうやら、コレのようです。
「昭和2年(1927年)、びわ島の海水浴場工事の際に、今からおよそ3000年前の石室墓が発見されました。
 石室には親子と思われる人骨三体があり、一体には石の枕がしてあり、一体には腕に貝輪が装着してあったといわれ、付近からは石斧、石包丁、縄文土器が出土しました。
 遺物などは長崎大学に保管されていましたが、原爆の被害により焼失しました。
 石室の内法は、長さ173cm、最大幅55cm、最小幅32cmで、残存している北側蓋石の下面から床面までの深さは66cmです。
 元々は封土があったものと思われますが、今は石室が露出しています。 諫早市教育委員会」
後ろにもう一枚解説板がありました。

防風林の中に、所謂「下釜石棺群」と呼ばれる史跡があるみたいです。
飯盛町時代には指定史跡になっていたようですが、残念ながら市町村合併の際に市の指定から外されたようです。
飯盛支所で頂いたマップには他にも“上原遺跡”や“下屯山遺跡”、“お茶屋敷の井戸”など、気になるワードが並んでいます。
もう少し町史などを調べた上で改めて訪問しなければならない場所です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飯盛散策-飯盛鬼塚古墳

2015-10-19 13:00:49 | 歴史・史跡
矢岳散策の翌日、諫早市飯盛(いいもり)町に出掛けました。
昨年の秋は諫早市森山町を散策しましたが、今回は島原半島から長崎市へ向う国道251号線の長崎市側により近い町です。
表紙の看板は、251号線沿いにある地元野菜などが買える直売所の駐車場にあったものです。
ウォーキングルートが設定されているようですが、事前の調べでは結構な距離がありそうなので、観察ポイント間は車で移動します。

国道から1本入った、南部農免農道を走っていると標識が見えます。
ありがたいことに駐車スペースがありました。

諫早市指定史跡「飯盛鬼塚古墳」です。
「平成11年度に行われた県営畑地帯南部総合整備事業に伴う発掘調査によって発見されました。
六世紀後半に築造されたと思われる古墳です。
埋葬施設は縦2.1m、横1.4mほどの広さの横穴式石室です。
発見された時にはすでに墳丘は失われていましたが、盛土によっておおわれていたものと思われます。
石室上部の石材も、戦前に特別攻撃艇格納庫の石材として使用されていたために消失し、石室の下部構造のみが残っています。

本来の高さは2.5mほどあったと考えられています。
床面には石が敷き詰められ、副葬品として金環(直径3cmほどの耳飾り)や須恵器・鉄製農具が出土しています。(しまった、それらの出土品がどこかに展示されていないか、聞いてくるのを忘れた!)

古墳のある場所は南に広がる橘湾と天草灘を一望できる高台です。
橘湾沿岸には同時期の古墳は少なく、六世紀代の首長の墓と考えられ、貴重な史跡です。 諫早市教育委員会 平成23年2月」
古墳のある場所から島原半島をのぞむ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高森町紀行-高森殿の杉

2015-03-30 14:02:42 | 歴史・史跡
高森阿蘇神社も御矢石も見たので、高森町観光案内所で紹介された所へ行ってみます。
2ヶ所紹介されましたが、あちこち徘徊していたおかげで時間が無くなってきました。w
南阿蘇で宿を取っていますが、そこまでの道程を考えると、あと1ヶ所しか回れない。
そこで選んだのが「史跡 高森殿の杉」です。

牧場入口のゲートが道を塞いでいますが、案内所の方によると開けて閉めてすれば入って良いとのこと。
遠慮なく行かせてもらいます。
まあ、牧場で働いた経験のある私にはゲートの開け閉めなど躊躇するに値しません。w

後ろを振り返ってみました。
おお、結構登ってきたな。
だいぶ日が傾いてきたな、急がなきゃ。

目的の杉はどうやらこの森の中らしい。
森に入って行くとすぐに目的の杉が見つかりました。
というか、写真の杉がまんま目的物でした。

案内所の方の説明によると、高森城主が逃げる際にここで自害したとかなんとか、どれどれ?
『天正十四年正月二十三日、島津勢との三度の戦いに高森落城し、再起をはかろうと豊後に逃れる途中、追ってに囲まれ城主 高森伊予守惟直・家臣 三森兵庫守能因、虎御前原のこの地で自刃した。
 元々は墓があったが寛永六年に含蔵寺に移された。』
へぇ~高森にもお城があったのか。
それにしてもかなりの巨木だな~この杉。
島原半島にあれば、巨樹・巨木観察会で訪れたのに・・・。

この後、宿まで走り、一泊して翌日熊本城を観光しました。
さて、一年間拙い文章にお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。
まだ来年度も続けていく予定ではありますが、勤務地が島原から雲仙へ変わります。
環境の変化によってどの程度の影響を受けるのか、まったくの未知数です。
落ち着くまでは更新できないかも知れません。(4月1日にすぐ更新するかも知れません。w)
その場合は再開するまで気長にお待ち頂ければと存じます。
別れではないので、「またな。」と言っておきます。(スタンド・バイ・ミーみたいw)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高森町紀行-御矢石

2015-03-30 10:44:11 | 歴史・史跡
高森阿蘇神社へ向かう途中、またしても史跡の標柱を見つけた。
ただ軽1台しか通れない細い道だったので、高森阿蘇神社の駐車場に車を置いて、歩いて向かった。
「史跡 御矢石」
左右に鳥居やお地蔵さんがいらっしゃるが・・・。
『高森阿蘇神社北方にあり、阿蘇神話によると阿蘇大明神宮居を定めんと矢を放たれ、その矢が当たった大石に矢尻の跡があり、雨降っても水溜まらずと伝えられている。
 この地を御矢村といい、高森阿蘇神社を一名(?)、矢村社という。』
先程、高森阿蘇神社で読んできた由緒と一致します。
すると、後ろの石が矢尻の跡が残っている大石?

恐れ多くて、確認はしませんでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高森町紀行-高森阿蘇神社

2015-03-29 14:47:38 | 歴史・史跡
高森観光案内所から高森湧水トンネル公園まで行く間に「高森阿蘇神社」への矢印を見つけていた。
観光案内所で紹介された所ではなかったが、折角なので行ってみることにした。
軽1台しか通れない幅の道だが、カーブミラーなどがしっかりと整備されているので湧水トンネルよりは行きやすい。w

ちゃんと駐車場もある。

駐車場には何故か阿修羅像がある。
阿修羅だよな?腕何本もあるし。

御祭神は、健磐龍命(たけいわたつのみこと)。
「元、この神祠は神社の裏山の中腹にあったと言う。蓬莱山の神の信仰に起こるものであろう。
この社は矢村社(やむらしゃ)または矢村大明神と称しており、現在の名は明治以降のことである。
矢村社と称する由緒は、『健磐龍命 阿蘇国に降り国土開発の時、住むべき宮居を定めんと阿蘇山上に登り南北に向かって卜矢を放つ。その一矢は今の一の宮町(宮地)なる十二の宮の地に落ち、一矢は南なるこの所の大石に当たり、これ今の御矢村の石にして寸余にわたる矢じりの跡を残すという。
ここに一社を建て神矢を納めて矢村社と称す。
その矢 朽ち果てたるにより新に神像を奉安してこれに替え鎮祭す。』とある。」
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高森町紀行-穿戸羅漢山

2015-03-25 11:07:55 | 歴史・史跡
高森町で検索していると、長野県の高森町を探していました。
熊本県の高森町を散策しています。
高森自然公園をうろついていると、またしても史跡の標柱を見つけた。
「有形建造物 穿戸羅漢山(入口)」と書いてあるが、建物らしきものは見当たらない。
漢字も読めないが、何故こんな所に建っているのか、皆目見当もつかない。
こんな時こそネット検索だ。w
漢字の読み方は「うげどらかんやま」と読むそうだ。
ハイキングコースの一つらしく、登っただの歩いただの記述が出てくるが、どんな史跡なのかさっぱり分からない。
どうやら山の中に洞窟があって、その中に釈迦如来や観音様、十六羅漢像などがあるらしい。
ならばそういった物を文化財指定している筈だが、山全体を有形建造物で指定している。
山を人造する筈もなし・・?
謂われも何も、謎だらけの史跡でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

片足鳥居

2015-03-15 10:39:08 | 歴史・史跡
時を少し遡りまして、2月の話しです。
前々から目星を付けていた金浜断層に沿って通った道を歩いてみることにしました。
「金浜断層」の名前で知られるジオサイトは、小浜町の海沿いにある金浜地区で見られます。

雲仙温泉街を後にします。
国道57号線に沿って小浜方面へ歩いて向かいます。

暫くは閑静な森の中を進む道です。
雲仙札の原地区近くになると、「片足鳥居」があります。

最初から片足だったわけではなく、温泉神社が四面宮と呼ばれていた頃の第一鳥居だそうだ。
文政十年(1827年)に当時の北有馬村の八木与一兵衛氏がご先祖の供養のために建てました。
慶応二年(1866年)の地震で崩壊したと考えられ、道路工事の際に片足を発見し、再建しました。
昔、雲仙が霊山だった頃は女人禁制で、女性はこれより先へは入れなかったと言います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幻の廊下橋復元プロジェクト

2015-02-16 14:27:45 | 歴史・史跡
今だけしか更新できない情報をアップします。
危うく掲載し忘れるところでした。
現在、島原市内では「島原城下ひなめぐり」が開催されています。
5年前に私もスタンプラリーに参加して雛あられをもらいました。
今年はスタンプラリーは無いようですが、別の目玉企画があります。
それが「幻の廊下橋復元プロジェクト」です。
表紙の写真をご覧頂くと、見事に二の丸と本丸を繋ぐ廊下橋が復活しております!
今現在観光施設化してしまった島原城では本丸まで車の乗り入れが出来ます(有料)が、往時は軍事施設であったお城にそんな道がある筈ありません。
いくつもの虎口(こぐち※4/29記事参照)や門で区切られ、なかなか本丸までたどり着けない造りになっています。
この廊下橋も、そんな本丸に敵を通さないための工夫です。
実質、本丸への通路はこの廊下橋唯一です。
万一敵に攻め込まれた場合は、焼き落としてしまえば敵は手も足も出ません。
もうちょっと近くから撮影しました。

記録によると、長さ十二間(約21.6m)、幅二間半(約4.5m)の瓦屋根がついた廊下橋だったようです。
丁度、橋が架けやすいように本丸と二の丸の高さが合っています。
今現在はこの廊下橋はありませんので、写真の下に写っているように行き来するには階段を上り下りしなくてはなりません。
そして、本丸側には「枡形(ますがた)」と言われる巨石があります。
これは鏡石とも呼ばれ、城主の権威を見せつけるために入れたとも謂われています。
廊下橋を裏から見ると、こんなになっています。

遠くから見ると、かなり本物っぽく見えるのですが、実物は本物そっくりの看板です。
地元の森岳商店街プロジェクトチームが作成しました。
「島原城下ひなめぐり」は3月8日まで開催していますが、復元プロジェクトは2月20日までです。
お近くの方は一見の価値がありますので、是非島原城まで足を運んでください。
また、島原城内の古野梅苑も見てきましたが、まだ咲き始めという所でした。
今から見頃を向かえそうなので、こちらもご一緒にどうぞ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南串山満明寺

2014-12-28 10:05:51 | 歴史・史跡
あまり訪れない場所なので、散策してみることにしました。
まず目を引くのは、集落の高台にそそり立つ寺院です。

温泉山一乗院満明寺です。
「おん・せん・やま」と書いて「うん・ぜん・ざん」と読みます。
雲仙の温泉街の真ん中にある満明寺と同じです。
(・・・ここまで書いて気づきましたが、私はあまりこのブログで雲仙の温泉街についてアップしていないんだよなあ~。)
元々は、山の上にある満明寺が本家だったのですが、現在では南串山のこちらの満明寺が本坊になっています。
『河童の手のミイラがある』とか聞いた事がありますが、深く掘り下げていくとブログ程度じゃあ済まなくなるので、今回はスルーします。
どうしても気になる方は、「温泉山・満明寺」で検索して下さい。
さて、集落を歩いていると、人が通り抜けられる小道を見つけました。
そこをするするっと通ると、

漁港に抜けました。
京泊港西の地名であっているのかな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐比のくり舟

2014-12-11 11:29:22 | 歴史・史跡
森山町内にある「諌早市の文化財」で、唯一残った「唐比のくり舟」。
所蔵している「唐比温泉センター」が閉館で、見学する方法を失っていました。
後日、諌早市役所へ電話をして確認してみました。
すると、「施設の横から入って見学して良いですよ」との答えが。
・・・建物の中じゃなかったんだ。(完全に私の勘違いでした。)
そこで数日後に再び唐比温泉センターを訪れました。

センターの入口横に階段がついています。
この階段を登れば良いとのことでした。

登るとすぐ目の前に水槽があります。
この水槽の中に『くり舟』が保存されています。

おそらく大変もろくなっているので、空気中に出せないのでしょう。
水の浮力によって現状を維持しているのでしょう。
近くに解説板もありますが、日に焼けて下半分が真っ白になって読めません。
「昭和49年(1974年)1月、唐比西名塔ノ本の水田の排水工事で出土したものです。
 一本の巨木を刳り貫いて作ったもので、横断面は丸みの付いた『U』の字形をしています。
 このくり舟に密接した出土品はなく、製作・使用の年代を推定することは困難です。
 その昔、この辺りは沼沢であり、この地帯がまだ稲作水田として使用されなかった頃、内陸部の湖沼などで運搬用として用いられたものであろうと推定されます。
 『水晶観音縁起』によれば、「平安時代の朱雀天皇の頃・天暦十年(956年)、この地の領主 渡辺四郎五郎渡の姫虎御前が、館の隅にあった楠の木を伐って作らせたくり舟で乳母と舟遊びをしていた。
 すると、突然舟がくるくると回り始めて沈んでしまい、乳母は助かったが姫と舟は見つからなかった。
 それから五百年後、西日本一帯が大干ばつとなり、万物が枯れ果てた。
 時の後柏原天皇の夢枕に水晶の観音様が現れ、唐比の池に祈願すれば必ず降雨があると告げた。
 天皇は諌早の領主に池の竜神に祈願するよう命じると、大雨が降り、田畑の作物も生き返った。
 その時、池の底から一隻のくり舟が浮かび上がり、中には光り輝く水晶観音が座っていた。
 観音は補陀(ほだ)という地に祀られた。」(諌早市の文化財と解説板より)
ということなのですが、前回訪れたように水晶観音が祀られたお寺さんは廃業されています。(2014年11月3日「唐比水晶観音」記事参照)
これで森山町の文化財はコンプリートです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする