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島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

河上神社

2014-12-04 11:32:27 | 歴史・史跡
平成新山の初冠雪や初雪があったために1日間が空いてしまいました。
万灯山から見えた山の中腹まで延びる階段の下までやってきました。
大きな建物は神社でした。
上り口に大きな由緒書きがあります。
それによると、この神社は「河上神社」と言います。
旧称は、四面宮(おしめんさん)。
なんと!四面宮の分社でしたか!!
御祭神は、大己貴命(おおなむろのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)。
「元は、水神の闇遊迦神(くらおかみのかみ)・闇御津羽神(くらみつはのかみ)ならびに四面菩薩をお祀りする神仏習合の古社なり。」
長い階段を登り上がると、立派なお社が。

縁起によると、
「正確な創立年号は不祥なれど、奈良時代中期から末期と推定される。往古より鎮座し、森山村(本村・慶師野・田尻・杉谷)の氏神なり。江戸時代中期に境内を整備し、旧鳥居額は若杉春后の書なり。明治期の祭事費用は土橋貞恵翁の寄進を以て充てた。明治四十一年、昭和五十五年にそれぞれ氏子一同の寄進により神殿拝殿等と改修。昭和七年秋の台風で御神木の大杉(樹齢千二百余年の大木)が倒木した。」
よもや、こんな所で今まで学習してきた若杉春后や土橋貞恵の名前が繋がるとは思っていなかった。w
「縁は奇なるもの」とはよく言ったものです。
河上神社からの眺めです。
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慶師野の将棋墓

2014-11-30 10:02:45 | 歴史・史跡
道に迷いながら到着した「慶師野の将棋墓」です。
墓石が将棋の駒の形をしていますし、墓石の下に敷かれている石はもしかして鏡餅?
案内板を読みますと、
「この墓は、江戸時代後期に「川柳の師」と仰がれた中山五平のお墓です。
 五平の川柳の弟子にあたる柳宝庵董来(りゅうほうあんとうらい)により天保三年(1832年)9月11日に建立されました。
 墓石の裏面には、『年八拾七歳にして佛国(あの世)に満入(まんにゅう)せり、俗名 搗餅(とうへい)とて、茲(ここ)に筆を立て一句を手向(たむ)く』と記し、続いて『吹移す風やこめて立つ山家」と董来の一句がしたためてあります。
 五平は、よほどの餅好き、将棋好きの人であったと思われ、墓石の台座は重ね餅形のみかげ石で作られ、その上に将棋盤をのせたもので他に類を見ない珍しい墓であります。
2002年4月3日 諌早市教育委員会」
ああ、言われれば駒と餅の間に将棋盤があるわ。
現代でこそ、故人の好きだったものをモチーフにした珍しい墓石もありますが、江戸の時代からそれを行っている人もいたのですね。
いやあ~時代を先取っているなあ~w
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土橋貞恵墓地

2014-11-25 09:51:47 | 歴史・史跡
昨日、実家へ帰る前に書いた記事です。
今日と明日はお休みで、時津に帰ってきています。

チサンC.Cをあとにして、次にやってきたのは森山東小学校の近くです。
(以前紹介したアベマキは森山西小学校です。今回は森山東小学校です。)
ここには諌早市指定史跡「土橋貞恵(つちはし ていけい)墓地」があります。
諌早市役所の前に2つの頌徳碑がありましたが、「福田渭水(2014年11月15日記事)」と並んでいたのが「土橋貞恵(つちはし ていけい)」です。

案内看板にしたがって坂道を登っていくと、山の中に入っていくようです。
親切に入口には杖も用意してあります。
地図を見る限りはそんなに距離はなさそうなので、カメラ以外ほとんど手ぶらです。
が、すぐに後悔することに。

「この急登、マジか!?」軽い登山じゃないか!
飲み物とタオルを持ってくれば良かった。
そんなこんなで汗だくになりながら、目的の場所に着きました。
「土橋貞恵翁は、安永五年(1776年)諌早市長田に生まれ、幼名を多助と呼び、『多助ぼっさん』の愛称で親しまれる郷土の先覚者であります。
 はじめ多良の金泉寺で読み書きを学び、後に佐賀の諌早屋敷に移り住み下僕(下働きの意味)となりました。何事にもまじめに立ち働いたため信用も厚く、慕われていました。
 その後、長崎の医者 吉松道碩(よしまつ どうせき)の門下に入り医術を学び、文化二年(1805年)森山杉谷の地に『永春』の名で開業しました。自らの生活は常に質素にし、貧しい患者を救い、「医は仁術なり」を地で行く慈善徳行の人でありました。医療で得た財は、石橋を架けたり、道路の改修、溜め池の築造等の社会奉仕にすべてを還元しました。
 後に諌早領主は、数々の善行に報いるため士族に列し「貞恵」の称号を授けました。

 翁自ら設計施工されたという墓所は、三段になった上段が仏の尊像、中段が土橋家の先祖高柳の祖と師匠の墓、

下段が土橋家の家族の墓となっています。

 翁の慈愛は、鳥獣にもおよび水瓶を埋め、なお鳥獣が落ちて水に溺れないよう丸石を入れてあります。
 慶応元年(1865年)5月9日、多くの人に惜しまれながら杉谷の地で没しました。(享年90歳)」
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若杉春后翁居宅跡

2014-11-24 09:46:01 | 歴史・史跡
ぐるっと上井牟田を一周したので、車で近くのゴルフ場「チサンC.C(カントリークラブ)」を目指しました。
次の文化財は、なんとゴルフ場の中にあります。
以前、森山支所を訪れた際に「この文化財を見に行く時は、ゴルフ場の方に申し出て下さい。」と言われていたので、受付にその旨を伝えます。
支配人らしき方が奥から出てきて、案内して下さいました。
というか、この史跡はゴルフ場のコースとコースの間にあって、ゴルフ素人の私には危なくてたどり着けません!
どこから球が飛んでくるのか、誰がショットを打つのか、四方八方注意しなければなりません。
文字通り『弾丸が飛び交う戦場をくぐり抜けるか如く』です。
ようやくの思いで、史跡のある林に飛び込んだのですが(表紙写真)、ここも決して安全地帯ではありません。
足元にはミスショットの球(弾丸)がゴロゴロと転がっています。

諌早市指定史跡「若杉春后(しゅんご)翁(おう)居宅跡」です。
正直、「若杉春后」と言われてもピンときません。(誰?)
「寛延三年(1750年)、佐賀本藩 鍋島宗教(むねのり)の圧政に対して、諌早藩で百姓騒動が起こりました。
※当時、諌早は佐賀藩の領地でした。
 その時、諌早藩を救い、農民を助けた義人 若杉春后翁は、この場所に居宅を構えて農民の指導にあたっておわれました。
 春后は当時すでに71歳の高齢でありましたが、儒者として信望が厚く、よくものの理をわきまえ、意思が強く、知恵がある義理堅い人であったといわれています。
 春后は一揆の指導者として磔上(たくじょう)の露と消えましたが、後に諌早義人、救世主と仰がれ、今日高城神社境内に若杉霊神として祀られています。
 わたくしたちは今日郷土の発展を見るにつけ、祖先の方々がこうまでして時の権力に反抗し、郷土の守護に当たってくださったことに心から感謝と敬意を捧げるとともに、翁居宅の跡を永遠に後世に残したいと思います。
2002年4月3日 諌早市教育委員会」
一体どういった経緯でゴルフ場の真ん中に史跡が残る羽目になったのか皆目見当もつきませんが、とても不思議な場所です。
※これを見た方で、史跡をどうしても訪れたい方は必ず“チサンC.C”に申し出て下さい。
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柏原古墳群

2014-11-23 07:34:27 | 歴史・史跡
話を上井牟田の文化財散策に戻します。
歴代庄屋の墓から一旦集落に戻り、広い田んぼと畑の脇を道なりに進みます。

目に見えてきたのは、柏原団地の入口です。
目指す二つ目の史跡「柏原古墳群」は団地の中にあるようです。
地図を頼りに団地の中へ入っていきますが、どうゆう理由か、この史跡だけ具体的な場所が表示されていません。
「確かこの辺りなんだけどな~?」と、不審な中年男性が団地内を歩き回ります。
「おや?」建物の向こうに見覚えのある看板が見えました。

史跡を表す看板です。
ここが「柏原古墳群」に間違いなさそうです。
「昭和56年12月、長崎県教育庁文化課の分布調査により柏原住宅北側に隣接する山林から7基の横穴式石室古墳と3基の積石塚が発見されました。
 現存する3基の古墳(横穴式石室)からは、勾玉・首飾り・鏡などが多く出土したと伝えられています。
 古墳はいずれも規模が小さく、群集していることなどから6~7世紀頃の豪族の墓と推測されます。」(諌早市の文化財より)
もっと近くで看板や、できれば古墳自体を見たかったのですが、

・・・登れない。
看板さえ何を書かれているのか、この距離では読むことも出来ませんでした。
(何のために看板建てた?)
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上井牟田の歴代庄屋の墓

2014-11-21 13:15:37 | 歴史・史跡
昨日の「唐比展望公園」へ行った日とは、また別の日に井牟田周辺の文化財を散策しに行きました。
この日は天気が非常に良かったです。
以前から「井牟田の集落」と紹介していましたが、よく調べてみると井牟田は上(かみ)と下(しも)の二つに分れている事が分かりました。
今回散策したのは上井牟田の集落で、農業研修所に車を停めさせていただいて歩き回ってきました。

案内に従って、坂道を登っていきます。
(表紙写真)
諌早市指定の史跡「上井牟田の歴代庄屋の墓」です。
「上井牟田は、島原から長崎へ通じる交通の要衝です。この地には仏禄寺(ぶつろくじ)や蓮光寺(れんこうじ)など複数のお寺が存在していたことからも多くの人が住み、栄えた所でありました。
 その頃、この地を治めていた庄屋の古い墓石(江戸中期から後期までのもの)が残され、歴史の古さを示しています。
 このように庄屋11人の墓を並べて建ててあるのは全国的にも珍しく貴重な遺跡と言えます。
2002年4月3日 諌早市教育委員会」

流石に庄屋さんのお墓がある場所です。
眺めが良く、上井牟田を見渡すことができます。
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陣野家墓地

2014-11-16 13:32:04 | 歴史・史跡
諌早市の指定史跡「陣野家墓地」を探しに行きました。
地図で示されたあたりに案内板がありました。
それには「この史跡は、お寺の裏側にあります。右側石段をご利用ください。」と書いてある。
え?お寺の裏?(お寺はすでに廃寺になっているようでした。)
寺の裏に入っていけそうなスペースはないぞ?
それに右側石段?
石段どころか右は民家だぞ?
?ばかりだ。
一度この入口から離れて右へ右へ歩いて行ったが、それらしきものは何も見当たらない。
丁度人がいたので聞いてみたが、「分からんもんね~」の一言で教えてくれない。
もう一度探して見つからなかったら諦めるか、と戻って民家の庭を突っ切ってみた。

あった!が・・・これを登れってか!?
崩れかかった石段を注意して登ると解説板があった。
以下、解説板より(解説にあわせて写真を入れ込んでみました。)

この高台から見下ろす水田地帯は、かつては有明海の一部であり、天然の良港として船の出入りも多かったと伝えられています。
江戸時代にこの地を治めていた諌早藩は財政状態が貧弱であったので、その対策として干拓事業を積極的に進めました。
森山地方の干拓に先鞭をつけたのが有力な士族であった初代陣野甚右衛門徳昌(じんうえもん のりまさ)であります。代々陣野家では先祖の意を継ぎ、耕地の拡大(約15.6ha)に尽くしてきました。
寛文十三年(1673年)に万灯籠(まんとうごもり)の完成を期に弁財天を、それから26年後の宝永六年(1709年)に父母並びに祖父のご恩に報いるため、六喩庵(ろくゆあん)

と三重宝塔を

第三代陣野与四右衛門信秀(よしうえもん のぶひで)の手によって建立されました。
2002年4月3日 諌早市教育委員会

文章中の万灯籠がよく分かりませんが、一番最後の写真の一番左に写っているものだろうか?
弁財天は、一番最後の写真の右に写っている小さな社の中にいるようです。
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唐比水晶観音

2014-11-03 15:39:11 | 歴史・史跡
国道251号線を歩いて唐比湿原まで帰ってきました。
以前から気になっていましたが、なかなか足がのびなかった「水晶観音」に行ってみることにしました。
バス停にもなっていますし(表紙写真)、旧温泉軽便鉄道が走っていた頃は駅にもなっていました。

やはり案内板は真っ白です。
唐比権現と同じように諌早市のホームページで探しましたが、諌早市の文化財に指定されているのは「唐比のくり舟」で水晶観音ではないらしい。
「唐比のくり舟」は唐比温泉センターの敷地内に保存されているらしく、以前温泉に入りに行った際はまったく気づかなかった。
これらにまつわる面白そうな逸話を見つけましたが、「唐比のくり舟」の時に取っておきましょう。

どうやら元はお寺だったようだが、今は廃業しているらしい。
鐘つき堂はあるが、鐘は無く、物置のように使われている。
お寺さんだったら声を掛けるところだが、一般の方の平穏な日常を壊したくはない。
数枚の写真だけ撮影して、黙って立ち去ることにしました。
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唐比権現石塔群

2014-11-02 15:02:34 | 歴史・史跡
お堂の横に石塔が並んでいました。
これが「唐比権現石塔群」かな?(写真を撮影した時には説明文が読めなかったため確証がありませんでした。)
諌早市指定の有形文化財になります。
同じく、諌早市のホームページから。
「森山町を代表する中世の石塔群で、当地の開墾中に出土したものです。
 五輪塔と宝篋印塔が三基あります。大部分は1500年代から江戸時代初期の1600年代半ば頃にかけてのものですが、なかには室町時代前半(1400年代前半から中葉)の宝篋印塔の笠と相輪も確認されます。これらの石塔群は基本的に墓塔ですが、どういった人物に関係したものか等は具体的に分かりません。おそらく当地の有力者によって建塔されたと思われます。中世の地域史を研究するうえで貴重な資料です。」
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唐比権現

2014-11-02 14:02:30 | 歴史・史跡
(今回も写真枚数が多いので、写真サイズを小さくしています。)
九州自然歩道を唐比から井牟田口まで歩いた際に見つけた史跡などを紹介します。
唐比湿原の縁を歩いていると、道の途中に標を見つけました。(表紙写真)
歴史・史跡・遺物には目がありませんから、立ち寄ってみることにしました。

両サイドの家に番犬が飼われているので、うるさく吠えかかられながらたどり着きました。
ここが唐比権現堂です。
いつもなら解説板を読んで紹介するのですが・・・。

日に焼けて文字が真っ白になっています。
ひとっつも分かりません。
(諌早市の文化財を管理している部署の方が読んでいましたら、早速の修繕をお願いします。)
なんだかよく分からないので、お堂の横の窓からのぞき込みました。

立派な認定書が飾られていますが、やっぱり分かりません。

島原に帰ってきてから調べました。
以下、諌早市のホームページからの引用です。
「唐比権現の神像と仏像」(市指定有形文化財)
 唐比権現像は、像高52cm、総高(台座含)65cm、背面に「肥前高来郡諌早唐比村」、「奉寄進熊野大権現」、「天和三年(1683年)癸亥二月」などの銘文があります。
 薬師如来像は、像高44cm、総高(台座含)56cm、江戸時代の作です。
 男神像二躯は、随身像と思われ、右膝を立てる男神像は像高27cmで江戸時代の作、左膝を立てる男神像は像高26cmで体つきが柔らかいことから、他の三躯に比べ年代は古いと考えられ、室町時代末期の作の可能性があります。
 唐比権現像の銘文から、江戸時代初期にはすでに熊野信仰が根付いていたことがうかがえ、室町時代の作と考えられる男神像より、その信仰は中世まで遡る可能性があります。また薬師如来は熊野速玉神の本地仏で、神仏習合のあらわれとして重要です。
 四躯の神像と仏像ともにクスを丸彫りにした素朴な一木造りであり、中世末期から近世初期の当地の民間信仰をうかがうことができます。
・・・お堂の中に神像と仏像があったのか。
コメント (8)
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