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島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

金浜天満神社

2016-02-11 13:27:28 | 歴史・史跡
時を遡る事、2012年5月26日。
その日は宮崎先生をおむかえして、「巨樹・巨木観察会~千々石・小浜編~」を行っていた。
観察会も終盤、小浜町金浜(かなはま)にあるアコウの巨木を観察して、バスへ戻る途上に撮影したものが表紙の写真です。
私は皆さんの最後尾を歩きながら、(赤い矢印の下)山の中腹に見えた鳥居が気になっていた。
『いづれ訪れよう』と思いながらも、なかなか機会に恵まれずにいた。

ということで(どういう事だ?)、行ってみました!
えっちらおっちら(古い表現だ)、坂道を登って鳥居の場所までたどり着きました。

神額には「天満神社」と書かれてあります。
鳥居から本殿まではこれまたきつい傾斜の階段を登ります。

これが本殿です。
本殿の右に造営の記念碑がありました。
「天満神社は金浜地区の産土神(うぶすながみ)として、大切に守り伝えられてきました。(略)
氏子一同知恵を出し合い、協力して社殿の造営が相成った。」

本殿の左には産土神の石碑が、

右には先の造営記念碑と、新しくなる前のものと思われる神額がありました。
そして、振り返ってみると、

絶景かな絶景かな(笑)
やはり神様は見晴らしの良い場所から私達の生活を見守ってくれているんですね。
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森山町散策番外編-鳥島神社

2016-01-16 12:29:59 | 歴史・史跡
前回の散策時には見つけられなかった「鳥島神社」ですが、今回はある程度のあたりをつけています。
前回はかなり近くまで接近していたようですが、時間切れで帰仙せざるを得ませんでした。
山の中程を通る道からさらに一本登り上がった所にありました。(表紙写真)
元々は村境にあったそうですが、転々と移転を繰り返し、昭和二十一年に現在の場所に定まりました。

右の石柱に「献 昭和二十一年七月」の銘があります。
正面には使われなくなってどれくらい経ったのか、土俵に覆いが被せてあります。
考えると昔はそこここで相撲が取られていたんですね。
そりゃあ強い力士も出たんでしょうが、今は海外の力士ばかり活躍が目立ちます。

左には八大龍王の祠があります。
最初に書いたように昔は鳥島神社は村境にあって、右と左で祀っている神様が違ったようです。(参考図書のうろ覚えw)
そして、丁度真ん中が村境になっていたそうです。(右に祀ってあったのが何かは覚えていません。)
ここも町の文化財としては記載されていましたが、諫早市と合併する際に市の文化財としては落選したようです。
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森山町散策番外編-堂閣観音

2016-01-15 13:00:25 | 歴史・史跡
最近、冬らしい気候になりましたね。
遠くに見える多良岳では山頂付近は雪が降っているように見えます。
再びやって来ました「森山町」。
前回見つからなかった「鳥島神社」と「堅心道固禅定門板碑」を探しに来ました。
それと、以前諌早市役所森山支所で頂いた「森山町 文化財マップ」にその他の文化財として掲載されている「堂閣観音(どうかくかんのん)」を探しに来ました。
「堂閣観音」は、地図上ではどうやら河上神社(2014年12月4日記事)の近くらしい。
今回は公園の近くの駐車場に車を置かせてもらって歩きました。

雰囲気のある社を見つけました。
どうやらコレらしい。
中を覗き込んでビックリしました!

ま、眩しい!!
黄金の聖観音様がいらっしゃいました。
帰りに森山図書館で調べましたが、貸出不可の書籍だった為、内容がうろ覚えです。
「仏像は木彫の聖観音の立像で約1m程です。
当初、西側背後の傾斜面堂閣といわれる地にありましたが、現在地に移されました。
仏像は木彫のため損傷がひどく、昭和43年7月に補修されています。
仏殿の内側には天保四年十一月に土橋貞恵が施主となって再建が行われた銘があります。
由緒記によれば、現在の仏像は3代目で、元禄十五年八月江副権右衛門等が再興したと考えられています。」
現在でも地域の住民が手入れしているのでしょうね。
社の内外が綺麗に清掃されていました。
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熊野神社(中山ダム近く)

2016-01-12 13:26:34 | 歴史・史跡
お寺さんは「~寺」と個々の名前があるから良いが、神社は分社していたりして同じ名前のものがあちこちに多くあるので、どう言分ければ良いのか頭を悩ませる。
今回見つけた「熊野神社」も時津町の中山ダム近くにあるのだが、調べてみると時津町内でも最低3つの「熊野神社」があるらしい。(調べられないだけでもっとあるかも)
便宜上「熊野神社(中山ダム近く)」と、仮にしておく。
本当ならば中山ダムの紹介をしたかったのだが、中山ダム公園で鬼火焚き(?)が行われていたので遠慮した。(後日また撮影しに行きたいと思う。)
「もとは、子々川(ししがわ)村鎮守として寛永十三年(1636年)建立の熊野大権現であった。
 本地は釈迦如来で木立像の彩色であったが、その仏像は今はない。
 幕末の大村藩は、勤王と佐幕で対立し、騒然としていた。(うわっ幕末苦手><)
 里人は、勤王の志しあった12代藩主 大村純煕(すみひろ)公の武運長久・息災・延命と里人の安全を願い、難儀を消除するため、明治元年(1868年)十二月、建速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)・速玉之男命(はやたまのおのみこと)・事解之男命(ことさかのおのみこと)の御霊を迎え、再建したようである。」時津町教育委員会

本殿の脇に相撲を奉納するための土俵とさらに上へ登る道があった。
上に何があるのか気になるので、登ってみます。

神額には「山乃神」と書かれてある。
おー山の神様か~。
今年一年登山会で色々な山に登る事になりそうなので、安全を祈願してきました。
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茶屋(本陣)跡

2016-01-09 12:00:31 | 歴史・史跡
島原半島のものではありません。
実家に帰省していた時に撮影してきました。(なかなかブログのネタを集めに行く事が出来ないもので。)

私個人的に時津の有名なものを3つ挙げろと言われた時に「鯖くさらかし岩、茶屋、時津まんじゅう」を挙げると思います。
時津まんじゅうは食べ物ですし、農産物などは巨峰が有名だったりもしますが、子供の頃の認識はそんなものでした。
鯖くさらかし岩は、2015年1月23日の記事で紹介済みです。
残った「茶屋(本陣)跡」をご紹介します。
現在時津町のメインストリートとなっている国道206号線は後の時代に出来たもので、一本裏に入った狭い道が長崎から大村湾へ抜ける時津街道として昔は栄えていました。
その街道の脇にこの「茶屋」は建っています。(時津町役場のすぐ近くです。)
「時津は船待ちの港として神功皇后外征ゆかりの伝説を持つ古い港町です。
 殊に元亀二年(1571年)長崎開港後には長崎奉行、学者、文人の往来をはじめ、中国・オランダ交易品の上方、関西方面送りなど大変栄えたところです。その本陣として寛永十年(1633年)市場南に建立されたのが茶屋(本陣)のはじまりです。
 その後茶屋(本陣)は我国の外交内政の激動期すなわち徳川幕末に近い文化十四年(1817年)大村藩主の命によって高谷正蔵が旧時津街道に沿うこの地に建てて諸大名、幕府役人の休憩、宿泊にあてたところです。」時津町教育委員会
うろ覚えで確証はないが、確か“門”はその当時のまま残されているとかで、平成七年に町の指定文化財になっています。
小学生の時に地元を学習する時間が今でもあると思うのですが、「鯖くさらかし岩」と「茶屋」だけは絶対に出てきていました。
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小野の六地蔵石幢群六基(のうちの一基)

2015-12-13 13:31:37 | 歴史・史跡
鳥島神社と堅心道固禅定門板碑を探して歩き回っています。
ぐるりと山を迂回した時点で、「こっちには無いかな~」と薄々は感じていましたが、無いという保証もないので探索を続けていました。
急な坂を登り、曲がり角を曲がった所でふいに出会いました。
「小野の六地蔵石幢群六基(のうちの一基)」です。(表紙写真)
なんと、長崎県が指定する有形民俗文化財です。
解説板には括弧書きで(赤碕町)と書いてあります。
いつの間にか森山町を出て、お隣の諫早市赤崎町に入っていたようです。
「天文年間(1532~54年)に逆修(ぎゃくしゅう;生前に自らの極楽往生を願うこと)を目的に建立されました。
建立者は西郷氏一門と思われます。(諫早市を治めていた一族)
竿石(さおいし)や龕(がん;お地蔵さんの部分)が特徴的な形で佐賀型と呼ばれ、この赤崎の一基の他、小野天満宮内に四基、小野町性空寺谷に一基があります。」昭和56年3月27日指定
こういう予定していない出会いが時々起こるので、町歩きは楽しいです。
地図を見ながら目的の物を探すのも、トレジャーハンター(宝探し)みたいで楽しいですよね。
さて、違った町内を探したところで目的の物は見つからないので、戻りますか。w
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千々石史跡散策-阿弥陀寺・古址

2015-11-25 11:04:10 | 歴史・史跡
翌日、朝から千々石史跡散策を再開しました。
この道は田代原から千々石町へ下る道の出口近くです。
「千々石町は昔から雲仙への西登山口であり、温泉山修験の里坊的存在の麓集落でした。
このあたり一帯を地元の人はアミデジと呼んでいますが、これは満明寺大乗院の末寺であったと伝承されている阿弥陀寺の事を指します。
この一帯からは石像や古碑が発掘され、現在五輪塔・宝篋印塔などの寺院関係の供養碑も残存しています。
古址(こし)の背後の丘上(通称上の山;写真右側で写っていません)には無縁塚の碑が建てられています。
これは大正七年、橘家の常葉(とこは)氏が霊を弔い、古址を後世に伝えるために建立したものです。」
平成十年二月 千々石町教育委員会

ようは、山岳信仰の温泉山の麓にあった末寺跡という事でしょう。
発掘された遺物はどこかに展示されているのだろうか?
それとも人目に触れる事無く保管されているのだろうか?
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千々石史跡散策-女人堂跡

2015-11-24 13:53:02 | 歴史・史跡
犬丸古墳発見後、雲仙方向へ向います。
当日は午後から雨予報で、すでに空には雨雲が広がっています。
いつ降り始めてもおかしくない天気に、すぐ帰れるように千々石町から雲仙へ登る道にある史跡を探しに行きました。
一般県道雲仙千々石線(通称;岳線《たけせん》)から一本外れて、岳地区へ向う道を進みます。

「女人堂跡入口」の看板があります。
この道を下っていくと、表紙の「女人堂跡」に着きます。
「女人堂とは、女人禁制における山岳霊場の山麓に設けられた宗教施設で、登山礼拝を許されない女性たちの参籠した御堂です。
昔、温泉山は修験道の山として信仰が深く、満明寺一乗院はその中心でした。
この霊山には千人もの僧が修行に励んでいたといわれています。
口碑によると、ここ千々石町木場名榎殿(えのきどの)は女性の温泉登山の終点の地として制札が建てられ、登山を禁じた地といわれています。
ここに建てられた女人堂に、遠近の女性参詣者がいっぱい参籠し、昼夜読経の声が絶えなかったと伝えられています。
現在、この地には自然石板碑が建っており、板碑中央に大日如来の種子㋐が刻され、その下に妙園、道音の刻字が見られます。」
平成十年二月 千々石町教育委員会
ついに雨が降り始めて、じっくり観察している余裕無く帰りました。
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千々石史跡散策-犬丸古墳跡

2015-11-22 14:00:52 | 歴史・史跡
時間経過が前後します。
大泉寺跡を訪れた後に2、3、千々石町の史跡を巡っているのですが、掲載できる程の情報が集まっていません。
何故それが史跡に指定されたのか、解説してあるものが見つかりません。
そこで現地に解説板のあったものから先にご紹介していきます。
とは言え、今まで紹介していなかった史跡です。
まず場所から分かりません。w
なので、雲仙市千々石庁舎の雲仙市教育委員会へ寄って道を聞いてきたのですが、早速道に迷っています。(表紙写真)
とりあえず、地図を頼りに周辺をうろついてみます。

「あれ(中央に見える看板)じゃないのか?」と疑問を持ちますが、頭の中の地図と一致しません。
そうこうしている内に無人販売所を見つけました。

お、ミニトマトが1袋で100円は安い。
荷物になるのは分かっていましたが、思わず買っちゃいました。
この辺に目指している「犬丸(いぬまる)古墳」がある筈・・・。

なに・・・天野力彌翁頌徳碑? うわっ全然違う。
しかも頌徳碑って、この人が誰かって宿題まで出ちゃったよ!w
一回頭の中の地図をリセットして、迷い道の原点に戻ります。
表紙写真を撮影した場所まで戻ります。
先程は写真の左から歩いてきて、右へ歩いていきました。
今度は写真の手前から歩いてきて、正面まっすぐに歩いていきます。

ああーやっぱり、あの看板の場所だ。
ようやく「犬丸古墳跡」を見つけました。

「現在、古墳の原形はとどめていませんが、往時、この犬丸付近一帯(地名だったのか)は小さな丘陵でした。
それを里人が次々に開拓をなしていた時に、丘陵の中央部に石槨(せっかく;石棺の外枠)が土中深く埋めてあったのを発見しました。
棺は臥棺(がかん)で、長さ五尺、横三尺ほどの大きさで、中から鍔の欠けた太刀一振りと曲玉数個が出土しました。
郷民は大いにこれを敬い、この古墳を郡司かあるいは地方豪族の墓であるとして石碑を立てて「崇徳興仁」と刻み、今も大切に祀っています。
一説によれば、郡司の制度は大化の改新後のことで、犬丸古墳はそれ以前、今から一七〇〇年前頃の古墳ではないか、とも言われています。」平成十年二月 千々石町教育委員会
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千々石史跡散策-大泉寺跡

2015-11-20 15:37:31 | 歴史・史跡
先日の「やまご湧水」のすぐ近くです。
雲仙市指定史跡「大泉寺跡」です。
雲仙市千々石町を走っている国道57号線を“上山頭”の交差点で北に曲がった所にあります。
写真のように看板が建っていますので、見つけやすいです。
数年前に「千々石断層を歩こう!」のイベントで下見の時にすでに発見済みでしたが、当時は歴史・史跡に興味が薄かったので紹介していません。
「野田名下山頭のこの一帯は、小倉名の阿弥陀寺址と同じ(温泉山満明寺の末寺址)と伝えられています。
この大泉寺は16世紀の半ば頃、伊勢信仰を謡いて廻国する伊勢御師の常宿となった寺院と言われています。
この辺りは供養塔や燈礎などが出土し、また寺院の中心部と推定される泉水跡と称するところには明応十年(1501年)銘の十三仏塔の板石が建っています。」 千々石町教育委員会 平成10年11月
雲仙市合併前の解説板です。
今、千々石町の史跡について調べているのですが、このような解説板があるものが少なく、謂れの分かるものが少ないです。
しかもあらかじめ知識がないと、この解説を読んでもよく分かりません。
阿弥陀寺址は後日掲載します。
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