お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

精進料理の意味を考える その2

2008年01月21日 | 仏教
 きょうは、父の四七日にお参りに行ってきました 
 先週は寺の行事で行けませんでしたから・・・行ける時は、お参りしたいと思いまして・・・
 
 実家は、四十九日、精進することなど、考えも及ばない 仏教の篤信者からご覧になったら、あきれるフツーの家族でございます・・・

 私は今まで、寺族(じぞく:住職家族)の立場での、葬式しか経験がありませんでした。(もちろん、嫁に来るまでは「寺のモン」じゃなかったのですが、祖父母の葬儀時は、まだ学生でしたし、段取りなどノータッチでしたから・・・)

 今回、初めて、葬祭場で行われる「一般家庭の遺族としての葬儀」で、葬儀社の方と関わったわけです。
 
 精進料理に関して申しますと、

 葬儀社の方が、提携仕出し店のメニューを広げて、「通夜の食事はこの中から、葬儀のお斎はこの中から、人数分選んでください」と言われる。

 通夜・葬儀のメニューは、さすがに精進料理でした。お寿司も「にぎり」じゃなく、精進の巻きずし、いなり寿司、お新香巻など。 葬儀前のお斎メニューも精進弁当でした。(このあたりのことは、葬儀社の方も心得ておられました)

 問題は、葬儀後、初七日のお勤めまで(何しろ年末でしたから、親戚も私も本当の初七日にお参りできないってことで)していただいた後の食事メニューが、もはや精進料理ではない

 「エッ 精進のメニューはないのですか」と私。
 「この辺りでは皆さん、葬儀の後は、精進落としをなさいますので、このメニュー(肉魚を使った料理)となります」と葬儀社。
 「いや、この辺りは、皆さん、そうなさるのかもしれませんが、ウチは、精進にしたいので、すみませんが、こちら(通夜・葬儀用メニューを指して)にしていただけませんか
 と、言うやりとりが、ありました。

 私が仕切ったので、結果、実家の家族は、少なくとも葬儀を終えた夜までは、精進料理をいただいた。
 
 でも、仏事に疎く、突然の家族の死去で混乱している遺族にとって、料理だけに関しても、たぶん葬儀社の言うがまま・・・

 「この辺りでは、皆さん、通夜ふるまいで、(活きのいいネタの)にぎり寿司や、(カツやハムの入った)サンドイッチをお出しになります」と言われれば、何の疑問もなく、そうするだろうと思います。(特に私の実家なんぞは・・・

 では「浄土真宗の者にとって、精進料理をどう考えるか」については、次回・・・続く・・・

 
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精進料理の意味を考える

2008年01月20日 | 仏教
 昨日は不在の住職に代わり、午前中、2軒のお参りに
 夕方からは、組内の坊守(ぼうもり:お寺の奥さん)研修会で川久保のH寺さんへ。
 組相談員の三溝のH寺ご住職さんをご講師として研修会。

 昨日は、テーマとして、「浄土真宗の者にとって、精進料理をどう考えるか?」

 現在の食文化としての「精進料理」は、禅宗によるところが大きい。
 
 堂々と肉食妻帯・・・つまり、家庭を持ち、魚、肉も口にされた親鸞聖人であるなら、わが宗派において精進料理をどう考えるのか? という問いを投げかけてくださいました。

 特別、結論を出して、「こうあるべき」「これが正解」というようなものでなく、各寺坊守が、自由に感想なり、意見なりを述べ、共に考えるという研修会。

 これは、お寺に生まれ育たれた方(もしくは、仏教の篤信家庭に育たれた方)と、私のように名ばかりの真宗門徒(全く何~にもわかっちゃいない)の家からお寺に嫁いだ者 の 受け取り方が異なって、当然なんだけど、おもしろい

 お寺、もしくは昔ながらの浄土真宗篤信家庭では、先日ご紹介したように、御正忌報恩講の期間中は、精進料理にする。
 また、家族の祥月命日や、家族が亡くなった時は、四十九日間、精進料理で過ごす。それを当然、当たり前だと受けとっている。

 私はお寺に嫁に来て、初めて、「そういうものなんだ・・・」とその習慣を素直に受け入れた。

 それでも、嫁いで数年で、義母が亡くなった時、義父が四十九日間、精進料理にすると言うのを、まだ若い私は、「トホホ・・・なんちゅう面倒くさいことを」(精進料理は食材が限られる上、手がかかる)と思ったものでした。

 一方、普通(「普通」という言い方もおかしいですが、「一応仏教徒?だけれど、仏教に疎い」家庭の方が圧倒的多数だと思うので・・・)の家庭では、宗祖の命日はおろか、身内の祥月命日も、あるいは身内が亡くなっても・・・精進料理にしようなんて考えは、頭にすら浮かばない・・・私の実家がまさにそうなんですよ。

 続く・・・

 

 

 

  

 
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道路工事

2008年01月19日 | 行事・案内
年明け、7日から始まったウチの山門前、市道の拡幅工事

 現在、護岸工事中のようです。

 きょうは、工事がお休みで、日中も東側から通行可能です。(今のところ、工事車両がない時、つまり、夕方から早朝は通行できます)

 
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聖典

2008年01月18日 | 行事・案内
 左は、「日常勤行聖典」 右は、「真宗勤行集」
 
 いずれも浄土真宗で日常、おつとめ(勤行:ごんぎょう)の時に用いる 聖典(経本)です。

 左は、ややオレンジがかった赤で、ザラザラした表紙  
 右は、赤でツルツルした表紙

 発行元が異なるのみで、どちらも同じ浄土真宗本願寺派の聖典です。

 お寺の法要にお参りする時の必需品です。
 この聖典どちらかと 念珠と 門徒式章(首からかける「下がり藤」の紋章がついた輪袈裟のようなもの) を持参すれば、パーフェクト 
 
 この2冊の聖典、作法や仏教讃歌の掲載の仕方と、経文の字の大きさと、経文掲載のページが違うのと・・・若干の違いがあります。

 私個人的には、大きな字の「日常勤行聖典」が好きなのですが、きょうは、住職の指示で、本願寺佐賀会館に行き、「真宗勤行集」を30冊購入してきました。(古い傷んだ聖典と入れ替えです。)

 本願寺佐賀会館には、ウチの巡番報恩講ポスターも持参し、廊下に掲示をお願いしてまいりました
 法要に向けて、あれこれと準備・雑用が増えてきました・・・

 


 
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寄り添う心

2008年01月17日 | 仏教
 阪神淡路大震災から13年になるのですね。

 あの日の朝、テレビで、上空(ヘリコプター)からの映像を見て、息をのみました。神戸は壊滅状態だ・・・と。

 本山の御正忌報恩講が終わった翌朝のことでしたから、知人のHさんは、本山参拝の後、淡路島観光に行っておられ、しばらく連絡がとれなかったご家族が心配されていたことを思い出します。ご本人はご無事でしたが・・・

 今朝の朝刊に、ご高齢被災者の苦悩にふれた記事がありました。
 年老いて、身体の痛みや不自由に耐えつつ、ご自分の身体のことで精一杯なのに、思いがけない震災で自分の家族を、家を失うことは、諸行無常とは言え、あまりにつらく、受け入れがたいことだと思います。

 若いときの苦労は人生の糧になる、立ちなおることもできる
 でも、体力・気力の衰えているお年寄りに「さあ、立ち上がって明るく、頑張って生きよ」と励ますのは、ちょっと酷なことに思える。

 ただ、ただ、その方の悲しみに寄り添うことしかできない・・・と思う。
 
 そして、その究極の「寄り添う心」
 いつも私に寄り添い、共に泣き、共に悲しみ、やさしく肩を抱いて、やさしく励ましてくださるのが、仏さまなんだと思う

 私の悲しみ、生きる辛さに、「つらいね でも大丈夫だよ」と寄り添ってくださる仏のこころが「大悲」(大きな慈悲の心)なのであろうと味わっております。

 
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Webで

2008年01月16日 | 行事・案内
 昨日、きょうは、本願寺のWebテレビ中継で本山の「御正忌報恩講」を拝見(参拝?)しておりました。

 途中、人がみえたり、電話がかかってきたりで、ゆっくり参拝・・・とはいきませんが、自宅にいながら、本山の法要を拝見できるとは、何と便利な恵まれたこと

 ご満座の最後に、総務のM師がご挨拶されておられましたが、

 今年の年末には、平成11年より工事中であった御影堂が完成するそうです。

 現在は境内が、あちこち工事中で通路がややこしくなっていますし、御影堂が使えないので、阿弥陀堂を「総御堂」として諸行事が勤修されてきましたが、来年の御正忌報恩講は、改築された新しい御影堂でおつとめされるそうですよ。

 本願寺は拝観料もありませんので、京都観光の折りは、お気軽にお立ち寄り(お参り)くださいませ。

 ちなみに京都駅のすぐ北にあるのは、東本願寺のほうで、西本願寺は駅の西北・堀川通りにございます。駅から徒歩15分くらいです。


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女房と畳は・・・

2008年01月15日 | 行事・案内
 昔から「女房と畳は新しい方がいい」と言われているようですが・・・

 昨日御正忌報恩講を終えた法専寺では、きょうから本堂の畳替えが始まりました。(3月の大法要の準備の一つです)

 きょうは、内陣(本堂奥の一段上がった所)の左余間の畳が新しくなりました。

 う~ん、全然色が違う 青々して、美しい
 新しい畳は、気持ちいいですね。

 畳は入れ替わりましたが、古びて相当くたびれた女房は、そのままです。

 厚かましい「老害」と加齢臭をまき散らしさぬよう気をつけながら、古い良き味わいを醸してゆけたらいいなあと思っておりますが・・・さて
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入仏式

2008年01月15日 | 仏教
 今朝はご門徒さんM氏宅の入仏式にお参りさせていただきました。

 「入仏式」とは、入仏慶讃法要 
 新しくお仏壇を買われたり、あるいは、仏壇の修理が終わったり、または、新しくご本尊を迎えたりする時に勤める法要です。

 ご家族と共に、仏事をつとめ、お茶をいただいている時、定年間もないご主人が仏教や教団について、いろいろ質問してくださいました。
 
 ご自身も仏教関係の本を読まれておられるようです。
 未熟者の私なりに、一生懸命お答え、仏教の味わいをお話させていただきました。

 お仏間の居間のこたつで、サッシから暖かく、やわらかく差し込む日差しを受けながら、静かに仏教談義。
 本当に有り難いひとときでした。

 
 さて、本山では、きょうは親鸞聖人祥月命日の前日・大逮夜です。今夜は通夜(夜通し)布教が行われます。

 ちなみに、義母(前坊守)はきょうが誕生日でした。かわいそうなことに生涯一度もこの日に誕生祝いをしてもらうことは、なかったのでありました・・・
 
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2008年01月14日 | 仏教
 本日、法専寺の御正忌報恩講を終えました。
 数日前まで、3月下旬並みの暖かさだったのが、きょうは、また気温が下がり、冷たい風の一日でした。
 
 そんな寒い中、また、連休の諸行事でご多用の中、たくさんの方に連日お参りいただきました。ありがとうございました 

 昨日お話の当番を終えた私は、きょうは、もうすっかりリラックスモード。
 住職の御絵伝(ごえでん:親鸞聖人のご生涯を絵で表した4福の掛け軸)解説をボーッと聞いておりました。

 聖人の伝記の中に「夢のお告げによって・・・」ということが出てきます。

 これは、今流行のあやしげなスピリチュアルブームの感覚で受けとられると間違えるのですが、

 聖人が、人生において大変悩まれている時に、夢で解決ヒントを得られ、行動されたってことだと私は思っています。

 これは、聖人のような真摯な求道の悩み(夢に出てくるほど)であって、私のような凡人は、悩んだとしても、その後の人生の指針とするような夢は見ないです

 私が煮詰まっている時に見る夢は、決まって何かの「時間に間に合わない」夢。

 あるいは、夢の中でまで法務や寺行事の接待をこなしていて、朝、目が覚めるとドッと疲れが・・・といった何の解決もヒントもない、どうでもいい夢。

 お寺で生活していたって、阿弥陀様を歓び讃えるような殊勝な夢は一度も見たことがない という、よくよく(欲欲?)の凡夫であります。

 よかった そんな凡夫を救う阿弥陀様がいてくださって 南無阿弥陀仏
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歎異抄講話

2008年01月13日 | 仏教
法専寺の御正忌報恩講2日目、昨日に続いて、きょうも40~50名の方にお参りいただきました。40~50代の方も多数お参りいただき、うれしかった
 
 昨日は叔父が法話。きょうは私の当番で、拙い法話を聞いていただきありがとうございました。

 前座(前半のお話)は、「巡番報恩講を より楽しむための 本堂のお荘厳(しょうごん:お仏壇のお飾り)や 作法 などの説明。

 後座(休憩をはさんで後のお話)では、浄土真宗の「信心」とはどういうことなのか  如来(仏) とは 何なのか  ということについて、私なりにお話させていただきました。

 その中でご紹介したのが、藤田徹文先生の歎異抄講話の3冊 

 「歎異抄講話Ⅱ いのちの出遇い」法蔵館 p121

 仏教は「今ここに居る、この身」の問題なのです。(略)

 この身を問題にしないで、どちらの仏さまを拝んでおいた方がご利益が多いか、どこの神さまがいいかと、何か物を買うのに、どちらの店が安いか、どちらのサービスがいいかと言うのと同じような考えで宗教をみているのです。(略)
 そこでは自分というものがまったく問題になっていない。(略)
 一心というのは、わが身というものが問題になって初めて言えることです。

 自分を問題にして・・・自分を知るということが、仏を知るということなのですね。

 きょうは、そういうことから、お話をさせていただきました。
 
 明日3日目は、住職が「御絵伝」のお話をさせていただきます。
 引き続きお聴聞ください
 

 
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