陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

今日は翻訳はお休みです

2006-03-21 21:56:05 | weblog
翻訳のつづきを楽しみにしてくださってるみなさん、ごめんなさい。いまさっき帰ってきたので、今日の翻訳はお休みです。

今日はお彼岸の中日でした。
春のお彼岸というと思い出すのが、折口信夫の『死者の書』です。

南家の郎女が遠く二上山に自分を差し招く人の姿を見て、屋敷を出たのがこの日でした。
春分の日、西の山に日が沈む。そこに姿を現すのが大津皇子の姿をとった阿弥陀仏。

いいお天気だったので、一日のちょうど半分が過ぎたとき、真西に沈む夕日を見ていたら、何かが見えても不思議はないような気がしました。
何も見えなかったけれど、薄闇の中、両手を合わせたような白木蓮のつぼみが、ずいぶんあちこちで見ることができました。
もう春なんですね。

それじゃ、また。
明日からまた翻訳のつづきです。

ジョン・チーヴァー 「とんでもないラジオ」 3.

2006-03-20 22:26:09 | 翻訳
その3.

 その晩、ジムはひどく疲れて家に帰り、風呂に入って着替えをすませてから、リビングに入ってアイリーンのそばに来た。ちょうどラジオをつけたとき、女中が夕食の準備ができたことを言いに来たので、つけっぱなしのままアイリーンと一緒に食卓に着いた。

 ジムはジムで、疲れすぎていて愛想良く振る舞うことも苦痛らしく、アイリーンも料理などたいして気にもかけていなかったために、意識は食べているものからさまよい始め、キャンドルにこびりついている磨き粉に意識が向かい、やがてほかの部屋から聞こえてくる音楽に向かった。ショパンのプレリュードが数分間流れていたが、いきなり男の声が割りこんできたのでひどく驚いた。「いいかげんにしてくれよ、キャシー」と、その声が言った。「おれが家に帰ってくると、なんだっていつもピアノを弾かなきゃならないんだ」音楽は唐突に終わった。「いましか弾けないのよ」女性の声が答えた。「一日中会社にいたんだもの」「それはこっちだって同じだ」男の声が続けてアップライト・ピアノについてなにやら口汚くののしると、バタン、とドアを閉める音がした。情熱的でもの悲しい音楽がふたたび始まる。

「いまの、聞いた?」アイリーンがたずねた。

「何を?」ジムはデザートを食べている。

「ラジオよ。音楽の最中に、男の人が何か言ってたでしょ? 汚い言葉遣いで」

「たぶんドラマだろう」

「ドラマなんかじゃないわ」

 ふたりは食卓を立つと、コーヒーを持ってリビングに戻った。アイリーンは、ほかの局に変えてみて、と頼んだ。ジムがツマミを回す。「おれの靴下止めを知らないか?」男の声がした。「あたしのボタン、留めてよ」女の声が答える。「おれの靴下止めは?」「あたしのボタンを留めちゃってよ、そしたら見つけてあげるから」ジムはちがう局に変えた。「灰皿にリンゴの芯を捨てるのをやめてもらえないだろうか」男の声がした。「臭いがいやなんだ」

「変だな」ジムが言った。

「でしょ?」

ジムはもういちどつまみを回した。「“コロマンデル海岸に、初物カボチャが実る場所”」イギリス訛りの女の声がした。「“森のまんなかに、ヨンギー・ボンギー・ボーが住んでいた。二つの古い椅子と、半分になったロウソク、取っ手のとれた古いマグカップ……”」

「なんてこと!」アイリーンが大声を出した。「スウィニーの乳母だわ」

“ヨンギー・ボンギー・ボーがこの世で持っている物は、これでおしまい”

「ラジオを消して」アイリーンが言った。「たぶん向こうもこっちの声が聞こえてるはずよ」ジムはスイッチを切った。「いまちっちゃな子に絵本を読んでやってるのよ。17のB。アームストロングの奥さんとは、公園で話したばかり。奥さんの声ならよく知ってるもの。このアパートのほかの人たちの声を聞いてるんだわ」

「そんなことはあり得ない」ジムが言った。

「それでも、あれはスウィニーの乳母だった」アイリーンは興奮していた。「声だってよく知ってるんだもの。向こうにこっちの声が聞こえてるのかしら」

ジムはスイッチを入れた。最初は遠くから、それから、近くへ近くへ、まるで風に運ばれてくるように、まちがいなくスウィニーの乳母のアクセントが聞こえてきた。「“レディ・ジングリィ、レディ・ジングリィ、かぼちゃが実るところに座っている。こっちへ来て嫁になってはくれんかね? ヨンギー・ボンギー・ボーはそう言った……”」

ジムはラジオに顔を近づけ、大きな声でスピーカーに向かって「もしもし」と言った。

「“ひとりで暮らすのはあきあきだ、この海岸は荒れ果てるし、石ころだらけ、いまの暮らしはうんざりだ。こっちへ来てお嫁さんになってくれりゃ、おれの生活も落ち着くのに……”」

「向こうには聞こえてないみたいね。ほかの局も聞いてみましょう」

 ジムが別の局に合わせると、リビングにカクテル・パーディの喧噪、それもたけなわを過ぎたあたりの感じがあふれだしてきた。誰かがピアノを弾きながら“ザ・ホイッフェンプーフ・ソング”を歌っていて、ピアノの周りを熱っぽく楽しげな声が取り囲んでいた。「サンドイッチをもっと食べてよ」と、甲高い女の声がする。笑いさざめく声や皿か何かが床に落ちて割れる音が響く。

「フラーさんのお宅だと思うわ、11-Eの。フラーさんのお宅ではお昼からパーティらしいから。酒屋で会ったのよ。これってすごいわね? ほかにも聞いてみましょう。18-Cの人たちが入らないかしら」

(この項つづく)

ジョン・チーヴァー 「とんでもないラジオ」 2.

2006-03-19 22:38:50 | 翻訳
その2.

 女中が子供たちに夕食を食べさせ、風呂に入るのを見てやっているうちに、アイリーンは音量を絞ってラジオをつけて、自分がよく知っていて、気に入ってもいるモーツァルトの五重奏曲を聴こうと腰を下ろした。新しいラジオは、古いものよりはるかにクリアな音質だ。音質こそ何よりも大切なのだから、キャビネットなんてソファの後ろに隠してしまえばいい、と思う。だが、このラジオとの妥協が成立したのもつかの間、雑音が混ざり始めた。爆弾の導火線に火がついているような、ジリジリいう音が、弦の奏でる響きに加わってきたのだ。なんだか音楽の向こうから不気味な海の音が聞こえるみたい。アイリーンはダイヤルやスイッチをことごとく試してみたが、雑音はいっこうに弱まらない。がっかりし、途方に暮れながら腰を下ろしたが、それでもなんとかメロディの流れだけでも追いかけようとした。

アパートのエレベーター・シャフトがリビングの奥を通っているのだが、エレベーターの昇降音で電波障害の正体がわかった。エレベーターのケーブルが、ぶうんと唸ったり、ドアが開閉するときの音が、ラジオのスピーカーからも聞こえてくるのだ。ラジオというのは、電流の影響を受けやすい、ということに思い当たってみると、モーツァルトのなかから、電話のベルが鳴る音や、ダイヤルを回す音、掃除機の呻く音などを、聞き取ることができるようになった。もっと注意して聞けば、呼び鈴も、エレベーターのベルも、電気カミソリも、ウェアリング社のミキサーも、聞き分けられる。そうした音が、自分のまわりのアパートのさまざまな場所から拾い集められ、スピーカーを通じて聞こえてくるのだ。この高性能かつ醜い機械は、騒音に対してまで見当違いの感度の良さを発揮するから、自分が習熟できる限界を超えている、そう思ったアイリーンは、スイッチを切って、子供部屋に様子を見に行った。

 その晩、帰宅したジム・ウェストコットも、自信たっぷりにラジオのところへおもむくと、いろいろなボタンをいじってみた。そうしてアイリーンと同様の成り行きとなったのだった。ジムが選んだ局では男が何かしゃべっていたが、その声は、遙か彼方から一瞬にして大音声で突撃してきて、部屋全体を揺るがした。ボリュームを絞って、声を小さくする。そうすると、一分かそこらで、例の干渉音が聞こえ出した。電話のベルとドアベルの音に、エレベーターの扉がきしる音や、料理関係の電化製品が唸る音が一緒になってはいってくる。音の正体も、アイリーンがもっと早い時間につけてみたときとは異なっていた。電気カミソリのプラグは抜いてあり、掃除機はクロゼットの中、日の落ちた街を満たすリズムの変化は、電波音にも反映されていた。ジムもツマミをいじったが、雑音を取り除くことはできなかったために、スイッチを切ると、朝になったらこいつを売りつけた連中を電話でどやしつけてやるからな、と妻に向かって言った。

 翌日の午後、昼食会をすませたアイリーンがアパートに戻ってみると、女中が、人が来て、ラジオを修理して帰った、と告げた。帽子も毛皮のコートも取らずにリビングに行って、さっそくスイッチを入れてみる。スピーカーから《ミズーリ・ワルツ》のレコードが流れてきた。夏になるたび出かけていた場所で、ときどき湖をわたって聞こえてきた、旧型蓄音機の、貧相で音の荒れた音楽を思い出す。そんなレコードをかけるわけを聞きたくて、ワルツが終わるまで待ったのだが、説明などなかった。音楽が終わると静まりかえり、やがて、もういちど同じ傷だらけのレコードが繰り返される。ダイアルを回すと、カフカス地方の民族音楽が飛びこんできた――土の上をはだしで踏みならす音や、飾りのコインがじゃらじゃら鳴る音――、その向こうにベルが鳴る音や、声がいくつも入り交じる音も聞こえた。やがて子供たちが学校から帰ってきて、アイリーンもラジオを消して、子供部屋に行った。

(この項つづく)

ジョン・チーヴァー 「とんでもないラジオ」

2006-03-18 22:31:15 | 翻訳
今日からジョン・チーヴァーの短編『とんでもないラジオ』の翻訳をやっていきます。
舞台はアメリカの1940年代。人々の娯楽の中心が、まだラジオだったころの話です。

原文はhttp://www.randomhouse.ca/catalog/display.pperl?isbn=9780394500874&view=excerptで読むことができます。

* * *


とんでもないラジオ ジョン・チーヴァー


 ジムとアイリーンのウェストコット夫妻は、収入といい、その地位を得るための頑張り具合といい、社会的評価といい、大学の同窓会報に載っている統計表のまずは中程にあたるような夫婦である。小さな子供がふたりいて、結婚して九年、ニューヨークのサットン・プレイスの近くにあるアパートメントの十二階に住み、年平均10、3回、映画館に足を運び、いつかは郊外のウェストチェスターに家を持ちたいと考えている。

アイリーン・ウェストコットは、人当たりの良い、十人並みだがふんわりとした茶色い髪、広くなめらかな皺のひとつも刻まれていない額のもちぬし、寒い時期にはミンクに見えるように染めてある、イタチの毛皮のコートを着る。ジム・ウェストコットはどう考えても実際の年齢より若く見えるとはいえないが、少なくとも老け込んだ印象はない。白髪混じりの髪を短く刈り込み、アンドーバー時代(※マサチューセッツ州アンドーバーにある名門私立高校を指す)の同級生が着ていたような服を着て、物腰はきまじめで熱っぽく、ときどき鈍いふりをする。夫妻が友人や同窓生、隣人とただひとつ異なる点は、ふたりともクラシック音楽が趣味であることだ。ふたりは足繁く演奏会に通い――他人に言うことはめったになかったが――、ラジオで音楽を聴きながら、長い時間を過ごした。

 ふたりの持っているラジオは古い機械で、扱いにくく、いつ調子が悪くなるか見当もつかない、もはや修理のしようもない代物だった。ふたりともラジオのメカニズムについてはまったくわけがわからず――というか、ほかの身の回りの電化製品についても同様だったのだが――、調子が悪くなると、ジムはいつもラジオをおさめたキャビネットの横を叩く。ときにはそれで直ることもあったのだ。ある日曜日の午後、シューベルトの四重奏曲の真っ最中に、音楽が小さくなりやがて完全に消えてしまった。ジムが何度叩いても、うんともすんともいわない。シューベルトはそれっきり、永久に消えてしまった。アイリーンに、新しいラジオを買ってやる、と約束し、月曜日に仕事から帰ったとき、買ったぞ、と告げた。どんなラジオだとも説明はしなかったが、届いたらきっとたまげるぞ、と言うのだった。

 翌日の午後、勝手口からラジオが運ばれてきた。女中と雑役夫の手を借りて木枠をとりはずしてリビングに持っていく。いきなりそのゴムの木でできた巨大なキャビネットの形の醜さに、アイリーンはショックを受けた。アイリーン自慢のリビング、家具を選ぶのも色を決めるのも、服を買うのと同じくらい念入りに選んできたのだが、いまこうして見てみると、新しいラジオは、自分の大切な品々のなかに暴力的に押し入ってきたように思えたのだ。おまけに計器パネルにいくつもならんだダイヤルやスイッチの数にも面食らい、ひとつずつよく確かめてから、プラグを壁のコンセントに差し込んで、ラジオをつけた。

 ダイアルをまがまがしい緑色の光が照らし、ピアノ五重奏曲の音色が遠くのほうから聞こえてきた。遠くのほう、と思ったのはほんの一瞬、力の限り増幅された音の洪水が、光よりも速くアイリーンをねじ伏せて、アパートの部屋一杯を満たし、テーブルの上に置いてあった瀬戸物の置物が床に落ちた。ラジオに駆け寄って、ボリュームを落とす。みにくいゴムの木のキャビネットに蛇のように潜む、凶暴なエネルギーに不吉な思いがした。そこで子供たちが学校から帰ってきたので、公園に連れて行ってやる。もういちどラジオのところに行ったのは、午後も遅くなってからだった。

(この項つづく)

サイト更新しました

2006-03-17 22:54:36 | weblog
先日まで当ブログで連載していた「いっしょにゴハン」、加筆してサイトにアップしました。
またお暇なときにでも遊びに来てください。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/

そもそも今村仁司『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書)を読んでいて、「所有」や「贈与」についていろいろ考えているうちに、「食べる」ということが本のなかでどんなふうに描かれていたんだろう、と思うようになりました。

いろんな本のいろんな食べる場面を見ながら、そうして自分の「食べる」経験を思い出していった。それも漠然と「食べた」経験ではなく、「異文化」と会うことによって、逆に自分のことが見えてくる、そんな角度で書けないかな、と思ったわけです。

あれやこれや読んで、考えて、いざ書くときは、できるだけ、シンプルに。
モットーはこれなんですが、実情は、考えがシンプル、書くことはごちゃごちゃ、というあたりかも……。

いつも読んでくださってありがとうございます。
また新しいことをやっていきます。
それじゃ、また。

ひとと会う話

2006-03-16 22:51:35 | weblog
「出会い」という言葉は、無色透明な言葉ではない。

試しに「出会い」をGoogleで検索してみると、延々と「出会い系」サイトが続いていく。「出会い系」という奇妙な用語も、Web上では確固たる地位を確立しているらしい。

「出会い系」というものが一体どんなものなのかまったく知らないのだけれど、少なくともこの言葉は、「出会い」という言葉の持つ独特なニュアンスに寄りかかったものであるように思う。

「あれは重大な出会いだった」
「運命的な出会いだったのではないか」
「貴重な出会いを大切に」
「彼との出会いがわたしの運命を決めた」

こんなふうに「出会い」という言葉は、「重大」だの「運命」だの「貴重」だのという言葉とやたら親和性が高い。

「巡り会い」というと、そこにたどりつくまでいろいろあって、紆余曲折の後、という感じだけれど、「出会い」というと、運命がいきなり人をばたんと引き合わせたようなニュアンスだ。
つまり、この「出会い」という言葉そのものが、すでに物語を内包している、とも言えるのかもしれない。
そうして、この物語が行き着く先は、重大で貴重で運命なのだから、大切にしなくては、という結論だ。そこから「一期一会」などという言葉も出てくる。

「出会い」によって導かれる人、というのは、すでに「あるべき関係でとらえられた人」ということになる。そこですでに一種の類型化がなされているのだ。

「彼との出会いによってわたしが得たものは」

と書き始めた文章は、それにつづくのが「たいやき」であってはならないのである(いや、ふと思いついたもので)。

言葉による類型化、というのは、逆に、個々の具体的なものを、そのカテゴリーの中にからめとっていく。

たとえば「血液型占い」がお遊びであるうちはいいけれど、それが問題になってくるのは、その人が、たとえば「B型」ということによって、「いわゆるB型」に類型化されてしまうことだ。
同じように、その人を「優しい人」と言ってしまうことは、そういうカテゴリーに押し込めてしまうことであり、「優しい」なんていう抽象的な言葉は、その人のいかなる側面も説明しない。逆に、わたしたちの理解を遠ざける。

「出会い」という言葉で類型化したくないひとに会ったとする。
そういうのを、なんと呼んだらいいんだろう。

シモーヌ・ヴェーユは『ヴェーユの哲学講義』のなかでこんなふうに言っている。

 人がふつうに考えているのとは反対に、《人間は、一般的なものから個別的なものへと高まっていくものなのです。》…

 子供たちに観察することを覚えさせたり、抽象的なものから具体的なものへ移行させたりするには、感情に訴えなければなりません。
物が抽象から抜け出して具体の中へ移行するのは、もっぱら感情のおかげです。

《このように、人がふつう考えているのとは反対に、個々の物について観想するということは、人間を高めることであり、人間を動物から区別することでもあります。》
(『ヴェーユの哲学講義』渡辺一民・川村孝則訳 ちくま学芸文庫)


わたしたちは、一般的にものを見ることに慣れてしまっている。それで、わかったつもりになっている。そうではない見方というのは、逆に、意識的に学んでいかなければならないのだ。どうやって? それは、個々のものや人を見ることによって。

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すいません。ちょっと更新が間に合わなかったので、ネタがないところで文章書いたら、こんなのになってしまいました。
明日はには「一緒にゴハン」の更新、できると思います。
それじゃ、また。

この話、したっけ ~いっしょにゴハン その4.~

2006-03-15 21:57:20 | weblog
4.今日もゴハンを

小学校の低学年ぐらいまで、家での食事の時間は苦痛だった。
あわただしい朝は、まだごまかしがきく。
けれども、夜はそうはいかない。
もうずいぶん箸を動かしたような気がするのに、茶碗の中もお皿の上も、ちっとも減っていない。なのに、おなかはもういっぱい。胸のあたりまで、飲み込んだものが溜まっていて、これ以上、一口だって食べられそうにない。
案の定、いつものように母親の叱責が始まる。

ごはん粒を一粒ずつ数えるみたいな食べ方はやめなさい。
まるで毒でも食べさせてるみたい。
そんなに食べたくないのなら、食べなくていい。
あなたが鶏なら食べる、って言ったから、あなたのためにわざわざ作ってあげたのに。

いま、自分で食事を作る側になってみると、常時三品から四品を出していた母が、毎日どれほどの手間と労力をかけていたか、非常によくわかる。

誰でも自分のやったことに対しては、評価がほしくなる。
専業主婦である母親にとっての評価というのは、おいしそうに食べる家族の表情であり、「ごちそうさま」の声だったのだろう。

そのころだって、わたしは漠然とそうしたことは理解していたのだ。
それでもやはり、食べることは苦痛だった。
ほかにも食べられない仲間のいる給食より、家の晩ご飯のほうがきつかった。

それでも、十代になったころから、身体も少しずつ大きくなって、なんとか食べられるようにはなった。それでも、とっさに自分が食べなければいけない量を目算し、食べきれるかどうか判断する、という癖は、長いこと抜けなかった。


高校二年のとき、交換留学生となってアメリカにホームステイした。
そこの家には、成人して家を離れた子供のほかに、ふたりの子供と、血のつながりのない養子がひとりいた。

最初に着いたときの歓迎の食事は、スパゲティ・ボロネーゼと豆のサラダとパンだった。
それからあとも、このメニューは、人を招ぶときにはやたらと登場した。スパゲティとパンだと、食べる人数が少々前後しても対応できるし、ミートソースのほうは、余れば冷凍しておけばいい。そういう融通のきく料理だったのである。
ともかくアメリカの食事はまずい、という話をさんざん聞かされていたわたしは、おいしいことに驚いた。

食事の後片づけは、子供の仕事。一番下で八歳のテリに教えてもらいながら、軽く下洗いした食器を皿洗い機に入れるやりかたを覚えた(いっそ手で洗った方が早いように思えたのだけれど)。
そこの家では、ひとりがどれだけ食べなければならない、という決まった量があるわけではないし、連絡さえしておけば、食事をしなくても、あるいは、ダイエットしてるから、と、食べなくても、逆に、急に友だちを招んでもいいのだった。
たいていは豆が入ったボールやパイレックスに入った煮込み料理がテーブルの中央にどさっと置いてあり、めいめいがそれを取って食べる。

ホストマザーの一緒に買い物についていったとき、「何か食べてみたいものはある?」と聞かれた。
わたしは「TVディナーが食べたい」と言ってみた。

本にはよく出てくるテレビ・ディナーというもの、冷凍食品なのだが、三品ほどがひとつのトレーにのって、レンジでチンするというもの。おそらくアメリカではいやになるほど食べることになるにちがいない、と思っていたのだが、そこの家ではいっさい出てこないのだった。

するとホストマザーは、「あんな食べ物は、レイジーで教養のないシングルの男性が、それこそテレビを見ながら食べるものであって、ちゃんとした人間が食べるものじゃないのよ」と、指を振って言うのだ。それでも、わたしは本で読んで、日本では食べることができないから、なんとしても一度食べてみたいのだ、あと、中華料理のテイクアウトも(これは、紙の箱に入った焼きそばを食べる、という感覚が新鮮で、おもしろかった)。

そういうわけで、テレビ・ディナーを買ってもらい、その日の夕食はそれを食べた。
なんというか、アメリカのファスト・フードには、どれも共通するにおいと味があるのだけれど、まさにそのエッセンスともいうべきにおいと味で、それでもわたしは実際に試すことができて、たいそう満足だった。
「どう?」と聞かれて、もちろん普段の食事のほうがずっとおいしいけれど、アメリカ文化を体験できて良かった、と答えると、そこの家の末っ子が「ぼく、いつもこんな晩ご飯がいいなぁ、ミートローフやポークビーンズばっかりで、家のご飯はダサイ」みたいなことを言ったのだ。だれそれんちはカップヌードルが晩ご飯なんだ、そういうのにしようよ。

このとき、つくづく、子供というのは自分の家しか知らないものなのだ、と思ったのだった。わたしがそうだったように、自分のいるその小さな世界がすべてなのだ。


ときどき、毎日、代わり映えしないゴハンを作ることにウンザリすることがある。
作ることが義務になってきたな、と思うと、外で食べることにする。
そうしてまた、作る気力を取り戻す。皿を洗う気力も、魚焼きのグリルを洗う気力も。

食事の用意をして、食べて、また後かたづけをして。
これは、来る日も来る日も続く。

変なことを言うようだけれど、徳川家康が言ったとされる「人の一生は重き荷を負うて、遠き路を行くが如し」というのがあるのだけれど、ほんとうに家康がそんなことを考えていたとしたら、なんだかつまらないおじさんだな、と思う。

負荷をかけてジョギングしてる人だっているわけだ。なんでそんなことができるか? それは、なによりもそうすることが楽しいからだろう。トレーニングして、心肺機能をあげて、速く、あるいは遠くまで走れるようになるのは、すごく楽しいことなんじゃないんだろうか。

「重き荷」を背負って歩いていたら、足腰だって強くなる。そのうちにその荷物は重くなくなる。そしたらもっと重いものを持ってみる。それってつらいことなんだろうか。
義務だとしたら、それはつらいことだろう。
けれど、毎日続くことを楽しめたら、そうして、そこから興味を引き出すことができたら。
そうして、単調な毎日の向こうに、先へつながっていく何かを見つけることができたら。

たぶん、それが毎日の生活っていうことなんだ、とわたしは思う。

(この項終わり)

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※「ものを食べる話」「「読むこと」を考える」、どちらも加筆してアップしました。またお暇なときにでも、見に行ってみてください。

この話、したっけ ~いっしょにゴハン その3.~

2006-03-13 22:26:54 | weblog
ご飯なんて、大学へ入るまで、家庭科の調理実習以外では、炊いたことがなかった。
もちろん、ほかの料理など、なにをかいわんや、である。

お菓子なら、ごくたまに作ったことはあるけれど、それ以外のことでお勝手に立つのを、母は決して喜ばなかった。ほかに自分の部屋を持たなかった母の、そこはささやかなプライヴェート空間だったのかもしれない。

大学に入って、寮生活が決まった。けれどもそこは小規模な寮で、賄いがついていない。寮生は台所で自炊する。

アンタなんかに自炊ができるわけがない、学食で三食すませちゃいなさい、と母は言っていたが、なんのかんのと出費が続き、あっというまに三食外食なんていうことができる状態ではなくなった。

炊飯器を買うお金もない。商店街のはずれにある金物屋で、小ぶりの鍋をふたつ買って、ひとつで米を炊き、もうひとつでおかずを作ることにした。

鍋でご飯を炊く、というのは、経験がないので、本屋で料理の本を探した。ところが鍋でご飯を炊く方法、なんて、どこにも載っていない。
鍋で炊く、というのは、一種の飯盒炊さんのようなものだ、と頭を切り換え、アウトドア関連の棚に行ってみた。
沸騰したら、火を弱めて十五分、それからひっくりかえして、蒸らす、とある。ガスならともかく、野外の焚き火で火を弱めるなんて、そんなに簡単なことではないだろうに、と思ったのだが、幸い、わたしはほんとうに飯盒炊さんをするわけではないので、弱火にして十五分、ということだけ、覚えて帰る。ひっくり返して蒸らす、は鍋の場合関係ないので、本にあったように、十分ほど、そのまま蒸らそう。

一緒に米と、とりあえず豆腐と醤油、あじのひらきも買って帰る。
米をしゃっ、しゃっとといで、米の上にそっと置いた手のひらがみずにかぶるくらいの水加減。よくしたもので、せっぱ詰まると、あんなにキライだった家庭科の、これだけは結構好きだった調理実習の記憶がよみがえってくる。しばらく水につけて、炊き始める。沸騰したら弱火で十五分(何かの景品の共有タイマーが、冷蔵庫にマグネットで貼りつけてあった)、それから蒸らす。

あじのひらきもガスレンジで焼く。何度もひっくり返したので、できあがったころはずいぶんぼろぼろになっていたが、それでもなんとか焼けた。豆腐の一丁というのは、ずいぶん量があるのだな、ということも、始めて知った。こんどはだしのもとと味噌も買ってこよう。

そんな具合で、初めての自炊は、われながらほれぼれとするできばえだった。

ところが、そのうちさまざまな不具合が起きるようになった。

まずなによりも、ひとりで食べる量というのはしれている。豆腐にしても、野菜にしても、魚にしても、なかなか「一人前」という量は売っていない。それを使い切るためには、毎日料理し、使い切るという工夫をしなくてはならない。なによりも、いったん自炊を始めたら、それを毎日続けなくては、かえって不経済なことになる。

それが一般的な原則であるとしたら、他方で、わたしの個人的な問題もあった。

実は、ふっと意識が離れるのだ(遠のくわけではない。その点は大丈夫)。

単純作業をしていると、次第に意識はいま、自分がやっていることからさまよい始め、読んでいる本のことや今日あったできごとから連想の枝が四方八方に伸び始め、あっというまに頭の中はジャングルさながらになり、気がつくと自分がターザンのごとく、木から木へ飛び移っている。そういえば、そのことはあの本にあったんだっけ、と思うと、矢も立てもたまらず、自分の部屋にかけあがり、すっかり鍋のことは忘れてしまう。
それでどれほど鍋の底を真っ黒に焦げ付かせてしまっただろう。

煙が出てるよ……と、ほかの部屋にいた寮生が驚いて台所にかけこむと、タイマーがやかましく鳴り、鍋から煙がもうもうと出る中、こんろの前の床にすわりこんで本を読んでいるわたしを発見する、などということも、しばしばあるのだった。
焦げ付かせた鍋は、水につけて、翌日、焦げをこそげおとせばどうにかなるけれど、食べられなくなったおかずやご飯は、痛手だった。何度か失敗を繰り返した後、結局、あっという間にできるもの、料理するとしたら、ごく単純なものを作るだけ、というあたりに落ち着いたような気がする。

なんとか毎日の自炊にも慣れ、涼しい風が吹き始めたころだった。
高校のころ英語を習っていた先生が、観光がてら、わたしの様子を見てみたい、という連絡を受けたのだ。それも前日である。明日にはそちらに着く、というのだ。

わたしは大慌てで掃除し、翌日、駅に出迎えに行った。
どこかでお茶でも、と思っていたのだが、とにかくわたしのところへ行きたい、という。
休むのは、そこで十分です、とウィンクまでされてしまった。

とにかくコーヒーでもいれようと思っていると、先生は「お茶がいいです」という。
お茶、と言われて、困った。普段飲むお茶は、缶入りのウーロン茶くらい、当時のわたしには、お茶を入れて飲む、という習慣がなかったのだ。
それでも、確か春先に生協で安い煎茶を買った記憶がある。悪くならないように、冷凍庫に入れて置いて、そのまま忘れていたはずだ。

あわてて冷凍庫の奥をさがしてみると、ほかの寮生のシーフードミックスやらアイスクリームやらのそこに、わたしの名字をマジックで書いた煎茶が出てきた。

お湯を沸かし、共同の食器棚から、湯飲みと急須を取り出す。適当におちゃっぱを入れ、煮立ったお湯をそのままどぼどぼと注いだ。それをお盆にのせて、部屋に戻る。
買って置いた洋なしのタルトと一緒に、そのお茶を出した。急須から湯飲みに注ぐとき、いろんなところから垂れて、ひどくきまりが悪かった。
飲んだお茶の、まずかったこと。
タルトは「これはおいしいですね」と喜んでもらえたのだけれど。

わたしが教わった英語の先生は、日本人男性と結婚して、滞日期間も四半世紀に及ぶ。外国人向けの茶道も師範だかなんだかで、自宅には、小さな茶室まで持っている、という人だったのだ。
その人に、わたしは薄黄色の絵の具を溶かしたようなお茶を出してしまったのだった。味も、なんだかそんな味だった(もっとも絵の具を溶かした水は飲んだことはないけれど)。

そのときのことを思い返すと、未だにもうしわけない気持ちでいっぱいになる。

それから一念発起して、お茶の入れ方を本で調べ、自分でいろいろ工夫しながら入れてみるようになったのだ。
もちろん安い番茶には番茶なりの入れ方がある。
高い玉露には、それにふさわしい入れ方が。
そう、わたしは人生で必要なことのほとんどは、本を読んで学んだ。
ただ、そのきっかけは、そんなふうに、情けないものであることが多いのだけれど。

(この項、明日最終回。だけど、たぶんオチはない)

この話、したっけ ~いっしょにゴハン その2.~

2006-03-12 22:22:00 | weblog
2.病気のゴハン

ちょっと風邪っぽい、寝込むほど悪くはなっておらず、このままぐらいの状態で、うまくやり過ごせないかなというとき、わたしが作るのが、「風邪退治スープ」。

ショウガとネギとニンニクと干し桜エビをごま油で炒め、スープを作る。スープといっても、ふだんは水を入れて、コンソメのキューブを放り込むだけだ。中に入れる具は、ダイコン、あれば冬瓜、そしてエビ。
ご飯が食べられるぐらい食欲があれば、ご飯にかけて食べる。ご飯が食べにくいときは、スープだけ。とにかく暖まる。

このスープを教えてくれたのは、黄さん(仮名)だ。ほんとうは、たぶん、お酢や香辛料が大量に入っていて、もっと酸っぱくて辛かった。でも、どうやっても味が決まらないので、わたしが作るときは、日本人によるアレンジバージョンにする。

黄さんは、中国人留学生だった。
朝、五時ごろ起きたわたしが階下に降りていくと、ちょうど湯葉屋さんにバイトに行こうとする黄さんに会うのだった。
「おはようございます」
「イッテキマスネ」
という挨拶を、毎朝のように交わした。

あるとき、横断歩道の手前で信号待ちをしているときに、耳慣れない言葉で楽しそうに会話をしているふたりの女性がいた。
見ると、黄さんだ。見たこともないような、明るい、屈託のない顔で、手振りを交えながら楽しそうに会話をしている。わたしの知っている黄さん、表情の乏しい、いつも固い顔の黄さんが、こんな顔をすることもあるのだ、と思った。

あるとき、普段より早く目が覚めて、台所でお茶を入れた。階段をおりてきた黄さんに、マグカップを渡して、玄関先のあがりがまちに腰を下ろして、一緒にお茶を飲んだ。

黄さんはほかにもいくつもバイトをかけもちしていて、ほとんど寮にもいない。なかなか話す機会もなかっただ。
年も五歳ほど上で、寮生の集まりでもあまり自分から話すこともない人だった。
わたしもあまり自分から話すほうではないので、会話といってもたいして続くわけではない。湯葉屋さんでは何をしているの、とか、日本には慣れた? とか、そうしたことを聞いたぐらいだ。
それでも、それ以来、ときどき黄さんと一緒に、朝、お茶を飲んだ。
黄さんは、パン屋でもらってきたようなパンの耳に、砂糖を少しのせて食べていた。わたしにもそれをすすめてくれる。ふだん、そのままの形で口にすることもない砂糖の細かな粒を、そのまま口に入れると、純粋な甘さが口いっぱいに拡がった。

黄さんはほとんど寮で食事をすることもなかったのだが、あるとき、めずらしく台所で料理をしていた。ショウガとネギとニンニクを大量に刻んでいる。
「何を作るの?」と聞いたら、スーパーの袋から餃子の皮を見せてくれた。
留学生同士の集まりがあるのだという。

わたしはそのときちょうど風邪をひいていて、ひどい咳をしていた。お粥でも作ろうと思っていたのだ。
「風邪ですか。よくないです」
そういって、黄さんが作ってくれたのが、そのスープだった。
正式な名前は、聞いたけれど中国語だったのでよくわからなかった。

黄さんが寮にいたのは半年にも満たない間で、そのうち、もっと便利な別の寮に移っていった。気がつけば、ロクに挨拶もなく、トラックで荷物を運び出していなくなった黄さんのことを、必ずしも良く思う寮生ばかりではなかった。出際に、ちょっと揉め事もあったらしい。ただ、わたしはそんな事情は何も知らなかった。

黄さんは、中国に戻ったら、共産党員になりたい、と言っていた。
「中国人、みんな共産党員になりたいです」と。
黄さんは、共産党員になっただろうか。
湯葉の作り方を、いまも覚えているだろうか。

黄さんが教えてくれたスープは、形を変えて、わたしのレパートリーになっている。

(この項つづく)

この話、したっけ ~いっしょにゴハン その1.~

2006-03-11 22:34:47 | weblog
1.修道院での食事

小学校三年の夏休みのことだった。
当時「飼育係」だったわたしは、一週間ほど、鶏小屋の掃除をしに行かなければならなかった。

鶏小屋があるのは、校舎のはずれ、ニセアカシアが繁る、昼間でも薄暗い木陰だった。
白いペンキが塗ってある小屋は、高さが二メートル強、幅が三メートルほど、奥行きが一メートルぐらいではなかったかと思う。上下で区切られ、上にはチャボが三羽、下にはウサギが二羽いた。どちらも金網を開けて、フンを箒で掃き出し、水を換え、エサをやるのだが、おとなしいウサギはともかく、チャボたちが暴れて逃げ出さないよう、ひとりないしはふたりが箒で押さえている隙に、ほかの人間が内部の掃除をするのだった。

三羽のチャボは、一羽は白く、一羽は黒いぶちがあり、もう一羽は茶色いオスだった。このオスが気が荒い。十年ほど前に掃除をしていたときに、眼をつつかれて失明した、という悪名がとどろいていたのだが、いま考えてみると、そのチャボが十歳以上とは考えにくく、チャボの寿命がどのくらいかは知らないけれど、おそらくよくある学校の「伝説」のようなものだったのだと思う。それにしても、確かにそのチャボは、生徒たちを威嚇するように黄色い眼でにらみつけ、くぁっ、くぁっ、くぁっ、と、猛々しい声をあげるのだった。

学期期間中の、掃除当番も多いときなら問題はなかったのだが、夏休み、当番はたったふたりである。わたしのパートナーはえっちゃんという子で、ふたりとも小柄なほう。チャボたちがいる上の階の床は、わたしたちの胸よりも高い位置にある。簡単な下を終わると、ふたりで胸をドキドキさせながら、ナンバー錠を開け、金網を開いた。えっちゃんが押さえ、わたしが掃き出すのだが、なかなか高い位置は箒がうまくつかえない。もたもたしているうちにえっちゃんが、きゃっ、と悲鳴をあげて、箒を放り出し、しりもちをついてしまった。例の茶色いチャボが、バタバタッと飛び上がったのである。あっ、と思ったときには、外へ飛び出していた。わたしも怖くて身がすくみ、箒を前に出して押さえることなどできなかったのだ。

外へ飛び出したチャボは、とっ、とっ、と走っていく。わたしはとりあえずバタンと金網を閉め、残った二羽が逃げ出さないようにして、それから、えっちゃんとふたりで、なんとかチャボを追いかけていった。

チャボは広い世界に出られた喜びを満喫するかのように、校舎とは反対側の方向へ走って行く。
ところがわたしもえっちゃんも、そのチャボをつかまえるのが怖いのである。とりあえずわたしは箒をもって走ってはいたが、どう考えてもそれで取り押さえられるはずはなかった。

なおもチャボは走り、とうとう同じ敷地にある修道院の裏庭に入っていった。そこがどうやら気に入ったらしく、地面をついばんでいる。
修道院の礼拝所には、何度か入ったことはあったが、普段シスターたちが生活している裏口のほうにはまわったことがなかった。それでも、なんとか助けを借りようと、裏口をノックした。

シスターのうち、何人かは顔見知りだった。フランス語の授業が週に一度あったのだが、それを教えてくれるのが、外国人のシスターだったのだ(どうでもいいけれど、わたしはこの時期に習ったフランス語など、何一つ覚えていない。いわゆる「早期教育」というものが、どれほどクソの役にも立たないものであるか、身をもって知っているのだ)。

わたしは二年生のときに教わった、東ドイツ出身のシスターが好きだった。余談になってしまうのだが、あるときこの人が、小さい頃に両親と別れ、叔父さんにつれられ、弟と一緒に、貨車に隠れて西ベルリンへ亡命した、という話を教えてくれた。白黒の東ドイツの写真と一緒に聞かせてもらったその話はおそろしく、後に「東ドイツ」と聞くと、そのときに見たモノクロの、ひどく暗い写真を思い出す。ところがわたしときたら、当時『アンネの日記』を読んだばかりで、そのシスターに、ヒトラーは西ドイツにいたんですか、それとも東ドイツにいたんですか、と聞いたのだ。西にも、東にもいました、と答えてくれたのだけれど、どんな思いでその質問を聞いたのだろう、と思うと、当時の自分をひっぱたいてやりたくなる。

ともかく、修道院の裏口から出てきたのは、見たこともない、小柄な中年の日本人だった。チャボが逃げて、つかまえられないんです、と言ったら、それは大変、いまお料理をしてるからちょっと待ってね、と、いったん引っ込むと、ふたたび出てきて、チャボはどこ? とわたしたちに聞いた。あそこです、と指さす。すると、その日本人シスターは、そうっと後ろから近寄って、ぱっと両腕で抱えたのだ。その鮮やかな手際を、わたしはいまでもはっきり覚えている。

しっかりと両手で押さえられて身動きできないチャボは、右や左をキョトキョトと見まわすばかりで、そうしていると、ちっとも猛々しく見えないのが不思議だった。ともかく、シスターのおかげで、無事に鶏小屋に戻すこともできたのだった。

ありがとうございました、とお礼を言ったあと、どうした流れでそうなったのかよく覚えてないのだけれど、わたしとえっちゃんはそのあと、修道院でお昼をごちそうしてもらうことになったのだ。裏口から中に入り、机に食器を並べたりするのを手伝った。見たこともないシスターたちがたくさん入ってきて、ここにはこんなに人が暮らしているのか、とびっくりした。ひどく年寄りの、腰が曲がった外国人のシスターもいた。夏用の薄いグレーのベールをつけたシスターたちが、木のテーブルを囲んだ。

今日はお客様にお祈りをしてもらいましょう、とシスターに言われて、わたしたちは、普段教室で給食を食べる前にしている「日々の糧をお与え下さってありがとうございます」といった内容のお祈りを、いつもどおりに暗唱した。「父と子と精霊の御名によりてアーメン」と十字を切ったところで、ほかのシスターたちが「アーメン」と唱和する。教室とはちがう、大人の声がいくつも響くのが、普段とはずいぶんちがうと思った。
修道院での食事は、確か、豆とキャベツが入っている味の薄いスープとバターロールだった。あなたたちが食べてる給食のように、おいしくはないでしょう? と聞かれて、そんなことありません、こっちのほうがずっとおいしいです、と答えたら、みんなが笑っていた。

それから後も、礼拝所のほうには何度か入ったけれど、奥の方には行ったことがない。チャボをうまくつかまえたシスターにも、もう会うことはなかった。

豆とキャベツのスープは、いまでもときどき作る。タマネギと米をひとつかみ入れて、リゾットのようにすることもある。鶏肉(チャボではないが)を少し入れるとボリュームも出るし、味も濃厚になる。でも、シンプルな、ごく薄いスープが一番好きなのは、やはりこのときの食事の記憶が残っているせいだろうか。

(この項続く)

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