陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ウィリアム・ゴーイェン「白い雄鶏」 その3.

2013-02-24 23:22:29 | 翻訳
その3.

 ようやくマーシーは雄鶏目がけて石を投げた。それに驚いた雄鶏は、おびえた声をあげて飛び上がると、植え込みを越えて空き地へ降りた。サミュエルズ夫人はふみにじられたパンジーの花壇に駈けより、茎についた土を払って、なんとか元に戻そうとした。

もはや夫人の心の中では、ただの雄鶏ではなくなっていた。想像力は豊かだったし、もともとニワトリというものがいささか怖かったのである。それがいまでは、あの白い雄鶏は夫人の脳裏では、恐怖が実体化されたものとなっていた。というのも、あの雄鶏はどうやっても追い払うことができず、まさに不死身と思えたからだった。

あいつは何かに守られてる。なんだか、捕まえることができるのならやってみろ、って、挑発しているみたいだ。あいつに窓から靴をぶつけたって、はむかってきたりしないで、あたしに向かってぎょっとするような鳴き声をあげる。明け方、あたしがベッドでぬくぬくとまどろんでるときには、火事だ! とか、どこかで何かが爆発したような声を出すし。

 お昼近く、洗濯ロープの前に立ったサミュエルズ夫人は、生け垣の向こうでドラン夫人が長い指をひらひらさせながら、チョウのような洗濯ばさみで洗濯物を留めているのに気がついた。

「うちのパンジーの花壇にいつもやってくる雄鶏、おたくのでしょう? ドランの奥さん」とマーシーは大きな声できいた。

「あら、マーシー、きっとそうだわ」とドラン夫人が答えた。

「クリスマスに食べようと思って、うちで二羽、飼ってたのよ。それがカゴを破って近所に逃げ出したのよ。うちのカールは簡単にあきらめちゃって。そこらへんの農夫みたいに、ニワトリを追いかけ回すことなんてしたくない、なんて言うのよ」

「あのね、雄鶏がうちにきて、荒らされるのがイヤなのよ。あたしが捕まえたら、返した方がいいかしら?」

「とんでもない。もしあんたが捕まえてくれたら、もう好きなようにしてくれていいわ。もうあんなニワトリ、いらないもの。もう一羽がどこへ行っちゃったか、神のみぞ知る、ね」

それからドラン夫人は、たらいから柔らかなよそ行きのガウンを取り出して広げると、洗濯ロープに肩の所で留めて、あたかも夫人の人型が着ているかのように、つり下げた。

サミュエルズ夫人は、この人ったら相も変わらず、万事において無頓着な人だわね、と思った。前にもクリスタルの盛り皿をネコが割ったのに、気にもしないで修繕してたっけ。

それを思うと、白い雄鶏に対する気持ちは、いよいよ凶暴なものになっていった。ようするにあの雄鶏は、やってしまっていいってことなんだわ、と、物干し場から戻りながら、自分に言い聞かせたのである。

首をひねってやる。ぐるぐるまわして、完全に首根っこを引っこ抜いてやるんだ――もしあたしたちがあいつを捕まえられたなら。やってやるんだ。あいつをつかまえて、檻の中に放り込んでやる。閉じこめるんだ、ワトソンが仕事から帰ってくるまで。帰ってきたら、閉じこめてやる。ワトソンがやってくれるだろう。あたしじゃなくて。

勝手口に着くころには、サミュエルズ夫人の決心はもうすっかり固まっていた。白い雄鶏をだましてやろう。そうやってつかまえて、それからワトソンが帰ってくるのを待つ。あいつの首をひねるのを。もしワトソンがほんとに、あたしのためにやってくれる勇気をふりしぼってくれたなら。



(この項つづく)



ウィリアム・ゴーイェン「白い雄鶏」 その2.

2013-02-22 23:41:40 | 翻訳

その2.

 一方、老人はどうかというと、自分の世話をしているマーシーをこまらせよう、マーシーのやり方に仕返しをしてやろう、と考えたうえで、実際にいやらしい顔をしていたり、わざと悪意をみせつけようとしていたのかどうかは、なんともいえなかった。確かに若い頃は――男というものがそうであるように――荒かった。いつだって飲んだくれていたし、酒場に入り浸り、ばくちに興じ、何かと困ったことになっていた。だがそれも、若くて血気盛んだったからだ。

とはいえ老人の顔には悪童を思わせるような皺が走っており、そのせいで表情はいたずらっぽく見えることもあれば、どこか深いところに、比類がないほどの優しさが秘められているようにも見えたのだった。

老人はマーシーのやっていることに、こっそりとまぎれこむ癖があった。ちょうどゾウムシがいつのまにか食べ物を入れた箱の中にまぎれこみ、中でもぞもぞと動き回っているように。また、マーシーに逆らうふうもあり、マーシーはいたるところでそれを感じた。老人はマーシーにつきまとい、悩ませてくるのだった。

食器棚にかがんでものを探していると、不意に背後から影がさしてくる。ああ、おじいちゃんにちがいない、そこにいるんだ、まるで幽霊みたいにあたしの脇腹にさわって、あたしを飛び上がらせて、悲鳴を上げさせようとしてるんだ。振り向くと、老人がすわっており、フクロウのような顔で、にやりと笑いかけてくるのだった。

もしかしたらおじいちゃんは、毎日、退屈なもんだから、なにか起こらないか、って思ってるのかもしれない。それとも自分の息子であるうちの人とあたしが、部屋でケンカしたことを覚えてるのかも。だってあの人はおじいちゃんを養老院には入れない、つまり、あたしもこの家も、おじいちゃんから解放してはくれない、って言うんだもの。

「あんたは一日中仕事で、あたしみたいにおじいちゃんと一緒にいるわけじゃないでしょ」とマーシーはよく愚痴をこぼした。

「おまけにあんたはおじいちゃんとずっといられるようなひとじゃないし」

そんなあれこれにくわえて、迷い鶏が一日の大半、しかも早朝からマーシーを悩ませる、とあっては、もはやマーシー・サミュエルズの手に負えることではなかった。家の内外で厄介ごとを抱えていたのである。

 ある朝、ミセス・サミュエルズが台所の窓から外に目を遣り、最初に見つけたのが、みすぼらしい鶏が白い体ですまして歩いている姿だった。見た瞬間、マーシーは、あのやかましい、おまけに花を掘り散らかした雄鶏だ、とわかった。それからすべてが始まったのだ。真っ先に、怒りに赤く染まった顔を窓から突き出し、唇をとがらせて、激しくシューッ! と脅した。白い雄鶏が気取った仕草で軽く跳ぶと、炎のような色のとさかは鋭く空を切り、一瞬ぱっとはためいた。それから元気いっぱいに咲き乱れるパンジーの花壇をつつき始める。とさかは両方で結わえた女の子の髪のように、ぴょこぴょこと揺れていた。

ミセス・サミュエルズの両手は、流しいっぱいになった朝食の皿のおかげでびしょぬれだったが、手をふくのもそこそこに、残りはエプロンでぬぐいながら、いそいで勝手口から飛び出した。今度こそあいつをつかまえてやる。つかまえたなら、あんなやつ、ひねりつぶしてやる。荒っぽい動作でドアから出ると、階段を下り、シュー! シュー! くたばれ、くたばれ! と毒づきながら、ものすごい勢いでパンジーの花壇に向かった。

庭にいる生きものにとっては、マーシー・サミュエルズの姿はとてつもなく恐ろしいものだったにちがいない。髪を振り乱し、息を荒げているせいで胸は大きく上下し、手を振り回していたのだから。

ところが雄鶏の方は、一向にあわてるようすもなかった。もう一度、軽くすばやくジャンプすると、空中に張り出したアンテナのようなくちばしで空を切り、しっかりと立った。黄色い蹴爪をタコのように広げて紫色のパンジーの花を踏みしだき、あたかもネコがネズミを押さえつけているかのように、地面にはりつけにしていた。それから鐘を鳴らすかのような、澄んだ音楽的なときの声を――ミセス・サミュエルズからすれば、この世のうちで何よりもおぞましい音を――ぼさぼさの喉をふりしぼってあげたのである。

 一羽のみすぼらしい雄鶏だった。スズメのようにやせこけ、白い羽は抜け落ち、つやなどかけらもない。とさかこそは立派だったが、色は悪く、たるみ、皺くちゃの手袋のように目に垂れ下がっていた。きっとあちこちの庭から追い立てられて、逃げてきたにちがいない。そうしているうちに羽は抜け落ち、疲れ果て、行き当たりばったりに見つけて、何であれ口に入れる物も、体に肉をつけるにはとても足りなかったのだろう。こいつは食べてもまずそうだ、と、鶏を追いかけまわしながらミセス・サミュエルズは思った。肉なんてちっともついてりゃしないんだから。

いずれにせよこの雄鶏は、食用の鶏ではなく、彼女を苦しめるためにハデスに遣わされた悪夢の中の雄鶏なのだ。にもかかわらず、こんなにも生き生きとしている。すばやく、荒々しく、強い。


(この項つづく)



ウィリアム・ゴーイェン「白い雄鶏」

2013-02-21 23:38:57 | 翻訳
今日からしばらくWilliam Goyenの短篇「The White Rooster」を訳していきます。Goyenの邦訳をまだ見たことはないので、なんと発音したらいいかよくわからないのですが、とりあえず「ゴーイェン」と書いておきます。

日本では有名ではないんですが、アメリカの短篇のアンソロジーにはこの作品はよく入っています。
がんばって休まないように毎日訳していこうと思うので、しばらくおつきあいのほど。

一日の分量は少ないので、まとめて読みたい方は10日か2週間後くらいに来てみてください。
原文は
http://www.unz.org/Pub/Horizon-1949mar-00180
で読むことができます。


* * *

The White Rooster(「白い雄鶏」)

by William Goyen



その1.



 サミュエルズ夫人の毎日には、頭がどうにかなりそうなほど悩まされている厄介ごとがふたつもあった。まずなによりも、いまではもう二年にもなるのだがサミュエルズ家のご老体のことだ。ほんとうならもうとっくにあの世に行っているはずなのに、相も変わらず車いすに乗って家の周りをぐるぐる回っている。

老人がサミュエルズ夫妻の下に身を寄せ、一緒に暮らすようになった最初の年は、健康状態も申し分なく、明らかに長寿を祝えそうだった。ところが二年目の半ば、急に痩せ衰えたかと思うと、咳をするようになったのだ。サミュエルズ夫人と夫のワトソンは、月曜日に、今週いっぱいはもたないかもしれない、と心配し、無事土曜日を迎えて、ああ、今週も乗り切れた、と胸をなで下ろすような日々が何週にもわたって続いた。だが、結局のところは死ぬこともなく、車いすに乗って動き回っている。

 もうひとつ、最近ではマーシー・サミュエルズのいらいらが高じて、度を失うまでに悩まされていることがあった。マーシーの部屋の窓の外に、白い雄鶏が迷い込んできて、日なが一日、ときの声をあげるのだ。最悪なのは、その開始が朝まだきより始まるということだった。

誰もその雄鶏が、どこの家で飼われている鶏なのかは知らなかった。だが、現にその雄鶏はサミュエルズ家の庭からてこでも動こうとしないのだ。しかも近隣一帯の雄鶏に向かってたかだかと時を作り、また近隣の雄鶏たちも唱和してそれに応える。けたたましい声だけでも十分なのに、そのうえ頭に来ることには、その雄鶏はサミュエルズ夫人が植えたパンジーの花壇を掘り返すのである。

雄鶏がやってきて、サミュエルズ夫人を悩ませるようになってからというもの、夫人は一日中のほとんどの時間を、雄鶏を花壇から追い払ったり、あたりかまわず物を投げつけたりして過ごすようになった。だが相変わらず雄鶏は、夫人の部屋の窓の下で、首をたかだかともたげて、けたたましい声を上げるのだった。それが一週間も続くと夫人は、頭がもうどうにかなりそう、と友だち何人にもに電話や街角や庭先でこぼした。

 あんた、これまでいろんな問題にたたられてきたんだろうけど、いまが一番ついてない時期なのよ、と誰もがそう言った。確かにマーシー・サミュエルズのように社交的で活発な女が、家にいて、車いすに縛りつけられている義父の世話をしなければならないというのは腹立たしいことだった。夫のワトソンは、ひどい厄介をかけているのが実の父親であるというのに、実際のところ、何の助けにもなってくれなかった。まるでネズミのようにちっぽけな男だ。緩慢だが辛抱強く、ちょっとやそっとのことで腹を立てることもない。あのひとはあたしの生活が苦労の連続だなんて、気がついたこともないにちがいないわ、とマーシーは思っていた。

 たとえば、かまどの前に立っていると、老人が近くにいようものなら、くんくん鼻を鳴らしながら、その鍋にはいったい何が入っとるんじゃ、と聞かなかったためしがない。女たちを何人か家に呼べば、かならず車いすに乗って出たり入ったりし始める。女たちが町で起こったあれやこれやの内緒話や、ほかの女たちや相手の話に気の利いたことや意地悪なひとことを言い合ったり、自分の抱えている問題をしゃべったりしているあいだに、弱っているくせに入ってこようとするのだ。

マーシーはよく夫のワトソンに、おじいちゃんのおしゃべりはどうしてもやめさせられない、車いすでうろつきまわるのも、あたしの邪魔をするのも、どうにもできないわ、とこぼした。事実、マーシーは忙しかった。流しで洗い物をしたり、ほうきで掃いたりするために部屋を急いで横切ろうとしているときになると、老人は玄関やどこかのドアから飛びだしてきて、やたらとなれなれしく笑ったり、ブーブー言ったりしながら目の前を横切るのである。ぎょっとしたマーシーは、悲鳴を上げながら太い足首で飛び上がってしまう。というのも、神経質なたちだったし、頭の中はさまざまなことでいっぱいだったからだ。

老人の世話をする仕事にくわえて、いろんなことをしでかすせいで、マーシーはよく、おじいちゃんがちょっとは落ち着いてくれたらいいのに、と思うのだった。まるで後をついてまわる悪霊のように、老人はマーシーのいるところ、どこにでもあらわれた。事実、老人にはしばしばぎょっとさせられた。まるで正気をなくしているようにも、自分を取り殺そうとしているかのように思えたからだ。


(この項つづく)



無人島からの手紙

2013-02-05 23:08:43 | weblog
『人魚とビスケット』という小説がある。

なんとなくロマンティックなタイトルでしょう?
原題は、"Sea-Wyf and Biscuit"、一般的な「人魚」を表す "mermaid" ではなく、 "sea-wyf" というめずらしい単語が使ってある。この語はオックスフォードにも載っていないのだが、本文中に「古い船乗りの言葉でマーメイドのことだ」と出てくるので、英語を母語とする人にとっても耳慣れない、どことなく神秘的な言葉ではあるまいか。

もうひとつの「ビスケット」、おそらくこれは「クッキー」というより、本文の流れからいって「乾パン」のことではないかと思うのだが、ともかく、この「人魚」と「ビスケット」、不思議な取り合わせの小説は、中味は救命ボートで延々と海を漂う「漂流小説」で、さほどロマンティックとはいえないのだが、すべりだしはとてもロマンティックなのである。

1951年3月7日、イギリスの新聞〈デイリー・テレグラフ〉の個人広告欄に、こんな三行広告が載る。

 人魚へ。とうとう帰り着いた。連絡を待つ。ビスケットより。

このビスケットから人魚への呼びかけは数度にわたって繰り返され、イギリス中の話題になるのだが、実はこの広告、実際に1951年の3月から5月にわたって掲載されたものなのである。現実にはこの広告にどのような背景があったのか定かではないのだが、作家ジェイムズ・スコットはたいそう好奇心をかき立てられ、一編の小説にしたてあげた。

1942年、日本軍の侵攻により、シンガポールが陥落する。その直前に、シンガポールに滞在していたヨーロッパ人は大挙して引き上げるのだが、引き揚げ船のひとつであるサン・フェリックス号が、日本軍の攻撃を受けて沈没してしまう。千人以上いた乗客もほとんどが犠牲となり、たった三人のイギリス人と船のパーサーであり混血の黒人、あわせて四人だけが生き残って、救命ボートでインド洋を漂流するのである。

四人はいつのまにか互いを名前ではなく、ビスケット、ブルドッグ、人魚、ナンバー4と呼び合うようになるのだが、苦しい漂流生活は14週間にも及ぶ。それから最後は殺人あり、どんでん返しあり、で、なかなかおもしろい展開になるのだが、この部分はやはりミステリということもあるので、ネタバレはしないでおこう。興味のある人はぜひご一読を。

ともかく、おもしろい小説なのだが、わたしはどうしても気になってしかたがないことがひとつあるのだ。

このなかに、一通の手紙が出てくる。実際、この手紙は鍵となるのだが、その手紙がどうやってロンドンに住むブルドッグの下に届くのか。

小説では、無人島に郵便箱があった、そうして(どのくらいの頻度かは定かではないけれど)ココナツやウミガメを捕りに来る船が、一緒に回収したのだ、という。そうやって9年の歳月を経て、その手紙が届いた……ということになっているのだが、果たしてそんなことがあるのだろうか。

無人島にポストがある?
そうして、何年かに一度、それを回収に来る?

ほんとうにこんなことがあったのだろうか、と思ってしまうのだが、この部分がフィクションだとしたら、あまりにご都合主義になってしまうので、逆に、ほんとうにそんな郵便船があったと考えたい。

それにしても、なんとも悠長な話である。9年経って届く手紙だなんて、びんに入れて流す手紙と大差ないではないか。

けれども、こうも考えるのだ。昔の人の時間の感覚というのは、そういうものだったのかもしれない、と。

そもそもの発端が、新聞広告なのである。

その昔、子供の頃、社会面の下に「キヨコ 連絡待つ 父」などという広告を見て、さまざまな妄想をかき立てられたようなおぼろげな記憶があるのだが、もしかしたらこれはわたしのものではなく、小説で読んだものだったのかもしれない。ともかく、音信が途絶えた相手に連絡するためには、昔はそんな方法しかなかったのだ。

相手がその新聞を目にするかどうかも定かではないまま。
それこそ、無人島のポストに手紙を投函するのと、どれほどの差があろうか。

けれども、逆に、そうしないではいられないほどの思いの強さというのも感じてしまう。なんとかして相手と連絡したい。その一縷の望みにすがろうとする気持ちは、一縷でしかないとわかっていても、必死のものだったろう。

考えてみれば、いまのわたしたちも、どれほど情報手段が発達しているとはいえ、音信が途絶えて久しい相手と、ふたたび連絡を取ろうと思っても、それほど簡単ではない。人に寄ればググって所属先やtwitterやfacebookなどの個人ページが見つかるケースもあるだろうが、見つからない場合だってあるだろう。

ただ、そうかといって、新聞広告を出すまでにはいたるまい。何年かかっても、どれほど待たなければならないとしても、連絡を待つ。そんな気持ちの強度は、なかなか持ててはいないような気がする。