陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ウィリアム・ゴーイェン「白い雄鶏」 その8.

2013-03-21 22:25:22 | 翻訳

その8.


 翌朝、まだ早い時刻に、白い雄鶏は華々しいときの声をあげた。老人は、マーシーが雄鶏に向かって金切り声をあげ、威嚇するように窓から何かを投げつけるのを聞いた。息子のワトソンの方は、ちっとも気にしていないようだ。いつだってマーシーなのだ。だが、雄鶏の鳴き声は続いた。老人は寒気がして、ベッドの中で身を震わせた。もう眠れそうにはなかった。


 雨のそぼ降る、灰色にけぶる寒い日だった。八時頃までには、ひどい土砂降りになっていた。サミュエルズ夫人は一向に気にせず、朝食の皿を片付けた。老人に向かって、電話がかかってきたら全部おじいちゃんが出て、あたしは町に出かけてるって伝えてくださいよ、と言った。それから窓辺にどんと腰を据えた。手にはひもをにぎっている。

 老人はたいそう静かにしていた。車いすに乗って移動するときも、できるだけそっとし、騒ぎを怖れて息を潜め、咳さえしないようにしていた。家の中はどこも、どの部屋も、薄暗く陰鬱で、恐ろしげな気配、血のにおいと、いよいよこれで一切のけりがつく、という空気がたちこめている。老人は息もできないほどの恐怖にとらわれ、ぜいぜいとあえぐばかりで、重苦しい気持ちですわっていた。自分の息の根を止めるために忍び寄ってくる足音が聞こえるような気がする。それとも重いドアの内に自分を閉じこめ、永遠に自分を閉め出してしまうひもを持った手か。だが、老人はマーシーから目を離すつもりはなかった。戸口の側に座り込み、半ば身を隠して、マーシーを覗き見た。鷹のように監視したのだ。

 サミュエルズ夫人は有頂天になって待ちかまえていた。全身が、罠の入り口を留めてあるひもを解きほどきたくてうずうずしている。まだそのときが来ていないことがわかっていても、がまんできそうにないのだ。ときどき、自分の手首や指が、し損じるのではないかと不安になって、ひもを持つ手を変えてみるのだった。

なにしろ夫人の手は、いまはひとときの猶予があたえられている心臓めがけて、容易に刃を突き立てるか、あるいは頭蓋骨に雪崩のような力をこめて、金槌をふるうかの任務が委ねられているのだ。その手は、心の教えの下で、たくみに、しかも無慈悲に殺戮することを学んだ。心は、徹底して教え込んだ。自らの代行者である手や、舌や、目に対して、今度はおまえたちの番だ、と命令を下したのである。

 老人は、夫人の体がびくっとして、引き締まるのを見た。巨大なネコのような構えで監視している。老人はひどくいやな気持ちで、窓から眺めていた。しのつく雨の中の一羽の鳥だ。しばらくして、イヌが庭を横切ったので、サミュエルズ夫人は体をもたげ、考えた。何かがこっちに来ている。その時が来た。

 そのとき、老人は、かすかに何かが鳴るような音が聞こえたように思った。小さな鈴か、薄いガラスがチリンとぶつかったような音だ。そうして何か秘密の声が彼の心に語りかけた。その時が来た。老人はサミュエルズ夫人の方を見た。力の強い、大きな獣、確信を持ち、ひるむことなく待ちかまえている獣だ。白い雄鶏は草を踏んでやってきた。

 雄鶏は一面、雨でぐっしょりと濡れたのしずくを含んで濡れた草の上を歩いていた。歩くたびにキュッ、キュッと音が鳴り、うらぶれ、ぼろぼろの羽の上で雨粒が光る。だがそんなときでさえ、雄鶏は勇気の輝きといったものがみなぎっていた。確かにやせこけて薄汚くはある。だがその内には何か卓越したものがあった。

なんといっても雄鶏の矜持は、物乞いの世界で、独立独歩、みすぼらしいままでいるところにあった。あらゆる生きものは、光を失い、孤独となる時が来ることを知る。かつては光に満ち、仲間たちと群れていたのに。なぜなら生きものたちは、歳を取って活気を失うにせよ、うらぶれ優雅さを失うにせよ、ひとりぼっちになって愛を失うにせよ、自分の最後の場所を見つけなければならない、という方向に変わっていくものだからだ。そうして、その理解の段階もまた、変わっていく。だが、あらゆる生きものは、痛みであれ、分別であれ、絶望であれ、それぞれの段階に応じてかならす持っているのであって、決してまったくない、という段階はないのだ。白い雄鶏は草の上をやってきていた。

 老人の車いすは、ゆっくり、音もなく、サミュエルズ夫人の方へ動いたので、床板一枚、音をたてることもなかった。そこで夫人は、老人が移動していることも、まったく気がつかなかった。白い雄鶏は罠に向かって歩いていた。一歩、また一歩と近づいていた。開いた扉の向こうに、乾いた場所があり、麦粒がまき散らしてある。雄鶏はまっすぐそちらに向かった。突然、目の前に天国が現れたのだ。暖かく乾いた、麦粒のある天国。


(この項つづく)



ウィリアム・ゴーイェン「白い雄鶏」 その7.

2013-03-15 00:11:18 | 翻訳
その7.

 夕暮れ時、一時間ほどワトソン・サミュエルズはガレージの積み上げた木材の間を、穴を掘ろうとするオポッサムのように這い回っていた。サミュエルズ夫人は何度か、何をしようとしているの? と窓から訪ねた。ついでに身振り手振りで、木材の後ろの棚に保管している果物のびんに気をつけるよう示した。だが、その作業のあいだに、ちょうどそのとき夫人は夕食のために揚げ物をしていたのだが、ガラスが割れる音が聞こえてきた。広口瓶が割れてあたり一面に散らばったにちがいない。夫人は夫に毒づいた。

 とうとうワトソンが入ってきた。庭で何かたいそうなことを成し遂げたような顔をしている。みんなで夕食を食べた。まるですばらしいデザートが出てくるかのように、何か特別なことを待ちかまえている気配がただよっている。

「ちょっと外へ出て、俺が作ったなかなかいい罠を見せてやろう」ワトソンは言った。「あれなら何だって捕まえられる」

老人はそれまでずっと黙りこくり、いつものように年寄りらしい淋しげなようす、何か心の痛むことを思い出しているかのような顔つきで食べていたが、罠で鶏を捕まえでもしたら、こいつらは大喜びするにちがいない、と思っていた。

「あの鶏を殺すつもりかい? ワトソン」と老人はたずねた。

「マーシーの頭がおかしくならないようにするには、それしか方法がないんだ」

「捕まえたら、うちの鶏たちと一緒に庭で飼ってやるわけにはいかんか」と、相手の情に訴えた。「あの白い雄鶏は、別にほかのやつをつついたりはせんだろう」

「父さん、うちで飼えないころはわかるだろう。ともかく、あいつはきっと何か病気を持っているにちがいない」

「気持ちの悪い脚をしてたわ。見たんだから」と夫人が割って入った。

「きっと、うちの元気なひよこに病気をうつすのがオチだ」とワトソンも同意した。「あんな老いぼれの宿無しは、役立たずで迷惑なんだから、首をひねってうっちゃっとけばいいのさ」

 夕食を食べ終えると、サミュエルズ夫妻は罠のようすを見に、あわただしく出て行った。老人は窓辺に寄っていくと、カーテン越しに外を見やった。月明かりの下で、罠がどんな具合になっているか確かめた。小さな黒っぽい箱のようなもので、一方が開いて、何か近づきたくなるようなもの、ずっと探している必要なもの、食べ物とか、望んでも決して手に入らないようなものが、一番奥で見つけてくれるのを待っているらしい。

「片方がどん詰まりの箱ってわけだ」と老人はひとりごとを言った。「ばねじかけで閉じこめられるように作ってあるんだろう」

月の光の下では、罠はまがまがしいものに見えた。罠が落とす影は、実際よりも大きく、開いた入り口は飲みこもうと開けた大きな口のようだ。老人は、自分の息子と嫁が罠のまわりを動いているのを見ていた。息子はどうやって捕まえるのか、この牢獄に入るが早いか、ひもが解けてギロチンのような扉がすばやく降りてくる、と、いかにも楽しげに示している。そうやって白い雄鶏が入ったところで閉めてしまう、そうやってそこで自分の首がひねられるのを待つのだ、と。老人はサミュエルズ夫人が夜のライオンのように、残忍で強そうに見えるのが恐ろしかった。おまけに息子の狡猾なこと。老人の耳にはふたりの会話は聞こえず、動作が見えるだけだった。だが、サミュエルズ夫人が仕掛けを動かそうとしてひもを引っ張り、手を離したときに、扉が即座にがたんと落ちたのは聞こえた。そのとき、老人にはふたりがどれほどすばやく殺すことができるのか、どれほどそれがたくみかがわかった。もはや自分はこの家では安全ではいられない、雄鶏のつぎは、まちがいなく自分が罠にかかるのだ……。



(この項つづく)




ウィリアム・ゴーイェン 「白い雄鶏」 その6.

2013-03-11 22:14:47 | 翻訳
その6.

 その日の午後はずっと、サミュエルズ老人の車いすの大きな車輪が、部屋から部屋へと動き回っていた。サミュエルズ夫人は、頭の毛をひきむしってしまうかもしれない、こんな音ばっかり聞かされてたら、ほんとに頭がおかしくなるわ、と思った。

雄鶏の鳴くコケコッコーという声が、この一週間というもの、頭の中でずっとうるさく響いていたように、車いすのキイキイいう音が頭の中をぐるぐる回っている。今度は老人が咳き込み始めた。あたかも喉の奥につかえているものを取り出そうとしているかのように、老人は咳をしている。とうとう小さな手が届いて、それを引っ張り出したらしく、咳は止まった。老人はぺっと痰を吐く。車いすの足乗せのところに置いてあって、どこに行くにも一緒の缶の中に。

「あの白い雄鶏と変わらないじゃない」とサミュエルズ夫人はひとりごとを言うと、なんとか一眠りしようとした。「ああ、もう、どうにかなりそうだ」

ちょうど眠りに落ちようとしたそのとき、老人のいる正面の寝室から、ぜいぜいと喉を鳴らすおぞましい音が聞こえてきた。サミュエルズ夫人が駈けよっていくと、老人が真っ青な顔であえいでいる。

「咳のせいで喉がつまって……水を頼む、早く」息も絶え絶えにそう言った。

台所の水道まで走るサミュエルズ夫人の脳裏には、あの白い雄鶏の姿が浮かんでいた。鶏小屋で、仰向けになって息絶えていた白い雄鶏。痩せた黄色い脚を宙に突き出し、かぎ爪は力なく丸まって、しおれた花のようだった。「もしおじいちゃんが死んだら」と考えた。「もしおじいちゃんが、窒息して死んでしまったら」

 水を老人の喉に少しずつ注ぎながら、サミュエルズ夫人は、老人の呼吸が、まるでわめき声であるかのように、こうやって自分がしばらく喉を押さえつけていれば、わめくのを止めさせることができるとでもいうかのように、半ばやけになって、まるまるとした手に力を込めた。老人の意識はもうろうとし、呼吸もとぎれがちになる。

サミュエルズ夫人は、老人を車いすから担ぎ上げ、ベッドに運んだ。横たわった老人の体はねじれ、ぐったりとしていた。サミュエルズ夫人は電話のところへ行って、夫のワトソンを呼び出した。

「おじいちゃんの調子が悪いの。意識がないし。あと、迷いニワトリを捕まえて、鶏小屋に入れておいたから、帰ったらつぶしてちょうだい」と夫に言った。「早く帰ってきて。もう大変なのよ」

 マーシーは胸の内で、すでに臨終の儀式を執り行いながら、老人の部屋に入っていった。ところがそこで目の当たりにしたのは、肝をつぶすような光景だった。老人は死ぬどころか、ベッドにすわって、カブ畑でつかまったウサギのように、用心深い表情を浮かべていたのだ。

「わしは大丈夫じゃよ、マーシー。心配ご無用。わしは体も動かない年寄りじゃが、おまえもそう簡単には殺したりはできなかったようだな」ときっぱりと言った。

 サミュエルズ夫人は魔法で体の動きを封じられたようになり、言葉もなかった。老人の部屋の窓から外を見ると、まるで復活劇を見るように、白い雄鶏が繁った葉の間を歩いている。驚きのあまり、気を失いそうだった。なにもかもが急に幽霊屋敷じみてきた。あたしのまわりじゃ、死んだかと思ったら、生き返ることになったの? こんなにおっかないことばっかり起こっちゃ、いったい何を、誰を、信じたらいいの。

 気が遠くなりそうな呪文をかけられたせいで、息ができない、と思ったちょうどそのとき、ワトソンが家に戻ってきた。妻は、催眠術にでもかけられたような、取り乱した顔をしている。老人が亡くなったかどうかを聞く代わりに、ワトソンは「おまえはああ言ってたが、うちの鶏小屋には、迷いニワトリなんかはいなかったぞ。いま見てきたところだが」と当たり障りのないことを言った。

それから老人のようすを見て、老人がすっかり元気で、意識もはっきりしていることがわかると、ワトソンは当惑して、忙しいおれをかついだのか、と言った。

「この家はおかしいの」マーシーはおびえながら言った。「あんただって一生のうち一度くらいは何かしてくれたっていいじゃない」

夫を奥の部屋に連れて行った。ここであたしはあんたが帰ってくる前に、ぞっとするような、わけのわからないものを見たんだから、と。ワトソンはいつも穏やかで口数の少ない男だったが、このときもこう言った。「わかったわかった。やることはひとつだな。わなをしかけよう。それから殺せばいい。おれにまかせておけ。おまえはちょっと落ち着けよ」それから老人の部屋へ行き、老人が元気であることを確かめてから、話し始めた。



(この項つづく)




ウィリアム・ゴーイェン「白い雄鶏」 その5.

2013-03-05 22:46:51 | 翻訳

その5.

 窓辺にいたサミュエルズ老人には、何か恐ろしいことが起ころうとしているのがわかっていた。黙ったまま、身じろぎもせずに見守った。サミュエルズ夫人のでっぷりした体が植え込みの陰でしゃがんで、雄鶏に飛びかかろうとしている。

不意に、サミュエルズ夫人は巨体を揺らして雄鶏に飛びかかった。金切り声で「おまえなんか死んでしまえばいいんだ!」と叫んで、つかまえたのだ。

雄鶏は抵抗もせず、クゥと一声鳴いただけで、そのままぐったりと身を預けた。サミュエルズ夫人は雄鶏を持ったまま、鶏小屋に走っていき、金網のところで脚を止めた。だが、そこに投げ入れる前に、力強い両手の指を首に巻きつけ、歯を食いしばって、一瞬、息を止め、ときの声を上げるその部分に力をこめた。あたかも、もろい小さな笛を砕こうとするかのように。それから金網越しに雄鶏を放り投げた。白い雄鶏は仰向けに落ちた。ぼろぼろで、うつろな目をし、黄色い脚は宙に突き出されたままだ。動かない蹴爪は、握りしめたこぶしのように固く結ばれて、かすかにふるえている。

サミュエルズ家で飼っている、立派な金色の雄鶏がやってきて、こいつは何だろう、と眺めた。俺のすみかにやってきたこいつは。そうして、どうも死んでいるらしいな、と考えたようだ。白い雄鶏の体にぴょんと飛び乗ると、自分のしっかりした蹴爪を、死んでいるのを確かめるかのように、力ない羽毛に食い込ませた。大事にされ、よく太った雌鶏たちが、そのまわりを囲んでいる。別に驚いたわけではないけれど、いささか興味はある、といったふうの、ニワトリ特有の優雅で無頓着なようすで見つめていた。

金色の雄鶏は、つやのある羽毛を逆立てて、自分がどれほどの価値があり、しかも恐れを知らぬ生きものであるか、と感じながら、記憶の内にある、すばらしい祖先を模して、しばらくポーズを取った。そうして、ハットピンのガラス玉のように赤い目をきらめかせて、侵入者についての説明をしながら、自分こそが疑問の余地なく、ここの主人である、と示したのである。なんてすばらしい雄鶏でしょう、雌鶏たちの顔も誇らしげだった。侵入者を捕らえたのは彼ではなく、サミュエルズ夫人だということも、いささかも彼の武勇を損なうものには映らなかったらしい。

そうしてサミュエルズ夫人も、胸のつかえもすっかり取れて、金網の脇に立って、雌鶏たちが目にしたのと同じ、残忍な誇りに満ちた表情を浮かべて、この光景を眺めていた。それから自分の手から白い羽を払ってさっぱりすると、勝ち誇ったように家に帰っていった。

 サミュエルズ老人が、戸口で待っていた。挑みかかるような顔で言った。「捕まえたのか」

「庭にいるわ。ワトソンが帰ってきてから、始末してもらうつもり。あのならずものが息ができないようにしてやった。鶏小屋でひっくり返ってるから、ひょっとしたら死んでるのかもね。もうあたしの部屋の窓の下で鳴くこともないし、あたしのパンジーの花壇を荒らすこともない。いい? あたしは胸のつかえをひとつ取っただけよ」

「マーシー」老人は穏やかだが、力のこもった声で言った。「あの雄鶏はそんなに簡単に死にゃしない。雄鶏には手出しができない何かがあるのがわからないか? そうやすやすと死ぬことのない生きものがいるってことを知らないのか?」そう言うと、車いすで居間に入っていった。

けれどもサミュエルズ夫人は台所から怒鳴り返した。「あいつらの首をひねってやりゃ、それでしまいよ!」



(この項つづく)

ウィリアム・ゴーイェン「白い雄鶏」 その4.

2013-03-04 23:23:36 | 翻訳
その4.

 二時頃、ちょうどサミュエルズ夫人がひと眠りしているとき、またしても雄鶏の声が裏の方から聞こえてきた。マーシーはベッドから跳ね起きると、窓辺に駈けよった。

「あいつ、つかまえてやる」容赦ない声でそうつぶやいた。

マーシー・サミュエルズは雄鶏をつかまえるためのなかなか良い方法を思いついたので、それでいくことにした。まずそっと生け垣に近よって隠れる。大きな臀部が巨大な花のつぼみのように突き出した。生け垣の植え込みの周りは、華やかで可憐な円を描いてパンジーが植えてある。いずれも紫や黄色の花弁を開き、あたりを明るくしながら風に揺れている。あいつがここへきたら、とマーシーは独り言を言った。あいつが土をほじくりかえし始めたら、とびかかってつかまえてやる。

 植え込みの陰でマーシーは待った。目は、せわしなく動きながらパンジーの花壇に向かってくる白い雄鶏から離さない。雄鶏はあっちこっちと食べられそうなものがあればあたりかまわず、草の中をついばんでいる。まさに飛びかかろうと構えを取ったとき、サミュエルズ夫人は、白い、あの嫌いでたまらない老人の顔が窓からのぞいているのに気がついた。車いすで窓辺へ来てから、庭での戦闘状況を監視し始めたのだ。

ひと目見ただけで、老人は彼女が白い雄鶏をつかまえようとしていることに反対していることがわかった。だが、マーシーは老人を憎んでいたから、何を思っていようが一向に気にならなかった。実のところ、老人と雄鶏は、自分の正気を失わせようという陰謀のために手を組んでいるのではないか、とばくぜんと感じていたのである。一方は家の中で、他方は庭で、自分を苦しめながら。

それに、もし自分が庭の元凶である雄鶏を葬り去ることができたら、家の中での厄介の種である老人の一部をも、ある意味で片付けることになるのではないか、とも感じていた。植え込みのかげにかくれている自分が、やつに飛びかかって、首をひねってやれさえすれば。老人は死ななくていい、ただ家の中を毎日毎日車いすでうろつきまわりながら、あれをしてくれ、これをしてくれと要求したり、彼女のやることなすことに割りこんでくることがなければ。

 雄鶏はパンジーの花壇に向かって、静かに歩を進めていた。ぼろぼろの羽すらも、どことなく、物乞いをして歩く聖者を思わせる。食べるものには事欠いても、命さえ危うかったとしても、あの頭の中には、確かに何かあるにちがいない。何か不変のものが。

雄鶏は、まるで受難と恐怖とを知っているかのように歩いている。あたかもニワトリの世界からたった一羽、切り離され、慈愛に満ちた手が金色に実った麦を与えてくれる世界からはるか隔たった見知らぬ庭で、自分は貧相な毛虫やコオロギを盗み食いしながら生きているのだ、といわんばかりに。なんであいつはあんなに生き生きしているんだろう。あいつは何を何を知っている?

おそらく、角状突起のかぎ爪を花壇のやわらかな土にめりこませながら、五月の朝の草原を夢見ているのだろう。草に宿った宝石のような朝露や、タンパク質の空で泳ぐ卵の黄身のような朝日が昇っていくのを。彼が引き締まった筋肉質の体と、ほっそりした腿をもつ若鶏であったころ、バラ色の夜明けが彼の丘を目覚めさせ、すがすがしい朝が明け初めていったことを。細かなトリルをかけながら、滝のようにほとばしる鳴き声を出そうと、ソプラノを奏でる細い赤い舌はわななく喉の内で細かくふるえた。

いったいどれほどの喜びを、彼は感じていたのだろうか。言葉のない世界に生きる生きものが。その世界では時をつくったり、羽をバタバタいわせたり、両脚をそろえて駆け回ったりすることで、すべてを語り、賛美を送る。われわれは、生きている、と。

草におおわれた世界に存在するということ、そこではものみな風に吹かれ、しない、ざわざわと音をたてるということ。虫たちの世界はすぐそこにあって、そこではおそろしく小っぽけなハジラミが、極小のルートを歩み、蟻は砂粒ほどの麦のかけらをちっぽけな巣穴に運んでいるということ。

 そうして、その世界にあるという驚き。ニワトリが、その驚きを甘美な歌にして、歌い上げることができるということ。季節を知るように、彼は時を知っていた。時の本質を。夕暮れと夜明けの作用にあわせていたのだ。もしかしたら彼の頭の中では単純に、カーテンが閉じて光を遮ったり、またカーテンが開いてあたりが明るくなったりする、という理解だったのかもしれないが。おそらく彼にわかるのは、ゆっくりと回っているものがあって、時間になると最初の光、小さな、一点の光がひそやかにあらわれる、ということだけなのだろう。けれどもその光が世界を照らすということは、夜が明け、自分を取り巻く世界を開くということも知っている。そうして彼はそれを感じ、時計のように自らが時をつくるのだ。それが彼にとっての夜明けであり、彼は自らの喉で夜明けを感じ、そうして熱狂的にそれを語るのだ。ただひとつの言葉すら知らなくても。

 のみならず、のど元に垂れ下がる血のように赤い肉を身にまとう喜びも知っていた。額を上るとさかは、深紅の星のようにとがって突き出している。雄鶏であるということは、貝殻のように固くてもろいくちばしをもつということであり、そのくちばしは、彼が選んだもの、鶏の餌である、穀物や虫をついばめるような形に作られていた。鳥であることは、羽を持つことであり、羽をバタバタと羽ばたかせることであり、羽づくろいすることだった。その羽を抱えて歩き、広げたりたたんだりすることであり、風に乗ったり、漂ったり、場所から場所へと移動することだった。

 一方、マーシー・サミュエルズは植え込みの陰にいて、じっと待ちかまえていた。待っているあいだに繰り返し、自分の胸の内でつぶやいていたのは、「あいつが死んでくれさえしたら」「自分から死んでしまえばいいのに。どうやってあいつにとびかかって、首をひねってやろうか」ということだ。

雄鶏はパンジーの方にやってくる。尾羽は垂れ下がってぼろぼろだ。あいつがくたばりさえしたら、と思って、マーシーはこぶしを固くにぎった。飛びかかって、年取って皺だらけになった喉をひねって、息の根を止めてやれさえしたら。


(この項つづく)