その昔、たまたま衛星放送でアメリカのTVムービーをやっていた。
スティーヴン・キング原作の、たぶん「スタンド」というタイトルだったと思う。
主人公のゲーリー・シニーズは、最初、ガソリンスタンドで働いていたから。
キングものの映像化は、たいてい滑り出しはおもしろくて、途中、あれあれ、ということになって、最後はアメコミみたいなモンスターが出てきて、わたしの生涯の6時間(たいてい連続ものだから、そのくらいになってしまうのだ)を返してくれ! と言いたいものになってしまう。
それでもやはりキングと聞けば、つい見てしまったのは、キングが日本に紹介され始めた頃に読んだ『クージョ』や『シャイニング』や『呪われた町』や『ゴールデン・ボーイ』なんかが圧倒的におもしろくて、あのころのイメージがどうしてもぬぐいきれなかったからだと思う。さすがに今は本は読む気にはなれないけれど。ほんとうに、初期のキングはおもしろかったもんね。
ともかく、「スタンド」の話だ。
記憶だけで書いているので、細かいところがちがっているかもしれない。
ともかく、全世界を疫病が襲い、人がバタバタと死に絶える。ゲーリー・シニーズだけは生き残り、夢のお告げを受けて、ある方向を目指していく。すると同じように、夢に導かれてその場所へ向かう人たちに出会うのだ。そうして集まった人々は、新しい国を作るべく、直接民主制を敷いて、話し合い、自分のできることを持ち寄りながら、「理想の国」を築いていく。
一方、生き残ったのはそういう人ばかりではなかった。「理想の国」の対極にあるような、「悪の帝国」の建国めざして、悪いやつらが続々と集まってくる。その「悪いやつ」というのが、ハーレー・ダビッドソンに乗ってレザー・ジャケットに身を包んだイージーライダーといったところ。もうそのイージー・ライダー軍団を見たあたりでわたしは笑ってしまったのだが、そこでふと思ったのだ。
悪いヤツが集まっても、悪の帝国なんていうものは建国できない。
というのも、悪いヤツは働かないからだ。何かエサをちらつかせて労働させようとしても、なにしろ悪い人間だもの(相田みつを風)、まじめに働くはずがない。
そもそも国が成り立たないのだから、「悪の帝国」にできることといったら、たかが知れているだろう。集まって麻薬をやったり、ものを盗んだり、喧嘩したり、婦女暴行したり、殺し合いをしたり、が、関の山で、たとえばナチスがやったようなことは、絶対にできない。
つまり、「悪の帝国」を築こうと思ったら、ある程度は「善良な人間」、まじめで、勤勉で、働き者で、ただし、命令に背いたり、疑問を持ったり、考えたり、批判したり、という精神を持たない、そんな人間を国民として抱えなければ、国としてそもそも成り立っていかないわけだ。
となると、「理想の国」と「悪の帝国」のちがいはどこか。
どちらも「善良な人間」によって維持される。その「善良な人間」が考えることができるような教育システムが整っていること、さらに、批判が認められていること、そうして、建設的な意見や批判を国の運営に反映させていくシステムが整っていること、ぐらいしか、「理想の国」と「悪の帝国」を隔てるものはないような気がする。
いわゆる「伝記」というジャンルの本がある。外国の自伝や評伝には、たまにとんでもなくおもしろいものがあるのだけれど、日本にはあまりおもしろいものがないような気がする(といっても、わたしがまだ読んでないだけかもしれないので、おもしろい自伝や評伝をごぞんじのかたは教えてください)。
特に、最悪なのが(おもしろくない、という意味で、です)、子供向けの「偉人伝」というやつ。これは子供を本から引き離すということを目指しているとしか思えないぐらい、犯罪的なほど、おもしろくない。
で、こんな本には、あたりさわりのないことしか書いていない。たとえばよく言われるのが、野口英世は一般に思われているほど立派な人間ではなかった、ということなのだけれど、この「一般に思われている」イメージの多くは、子供向けの偉人伝によって、形成されているのにちがいない。とにかく、よくがんばった、よく勉強した、だから偉い人になれました、めでたしめでたし、ってほんまか?
ここで、善い人、悪い人、をもう一度考えてみる。
キングの「スタンド」に出てきた「悪い人」というのは、そのほとんどが、「悪い」というより、「反社会的な人」と言うべきだろう。社会の一員であるという自覚に欠け、あるいは一員であることを積極的にボイコットするような。
であれば、「悪い人」というのは、いったいどんな人なんだろうか?
そもそも、「善い」「悪い」の判断をくだすのは、一体だれなんだろうか?
ここでありがちなのが、「人に迷惑をかける」という「理屈」だ。
けれども、それが「迷惑であるか、迷惑でないか」というのも、一体だれが決められる?
電車で大声でわめく人がいた。
これが赤ん坊なら?
急に激痛に襲われた人なら?
痴漢の被害に遭った人なら?
電車があまりにスピードを出したので、運転手か車掌に警告しようとしている人だったら?
大切な書類をさっきのタクシーのなかに置き忘れて、それをいま思い出したとしたら?
さらに、それがあなたにとって大切な人、愛する人だったら?
見るからに好意を持てなさそうな外見の人だったら?
聞いた「わたし」が睡眠不足でイライラしていたら?
臨時収入があって、太っ腹な気分でいるときだったら?
わたしたちは、自分の、そのときの気分でしか、判断できないのだ。
つまり、「善い人」「悪い人」がいるわけではない。
そうして、「善い人が集まったから理想の国ができる」わけでも、「悪い人が集まったから悪の帝国になる」わけでもない。
池波正太郎は「仕掛け人・藤枝梅安」のシリーズで、繰りかえし、「人間は、いいことをしながら悪いことをする、悪いことをしながら、いいことをする」と書いていた(これも記憶だけで書いているのでちがうかもしれない)けれど、「いいこと」「悪いこと」があらかじめ決まっているわけではない。できれば自分にも、周囲にも良い結果となればいいなあ、と思いながら、さまざまなことを考えても、結果としてどちらに転ぶかは、保証のかぎりではないのだ。それでも、考えないよりは、考えた方が、あきらかに悪くなる可能性を潰すことはできるのではあるまいか。
結局言えること。
善い人、悪い人、なんているわけではない。
え、それでもあの人は良い人だと思う人がいる?
それは、あなたにとって都合が「良い」人か、そうでなかったら、それはたぶんその人が「好きだから」なんじゃないかな。
たぶん明日には昨日まで連載していた「わたしが会ったミュージシャンたち」アップできると思います。
それじゃ、また。
スティーヴン・キング原作の、たぶん「スタンド」というタイトルだったと思う。
主人公のゲーリー・シニーズは、最初、ガソリンスタンドで働いていたから。
キングものの映像化は、たいてい滑り出しはおもしろくて、途中、あれあれ、ということになって、最後はアメコミみたいなモンスターが出てきて、わたしの生涯の6時間(たいてい連続ものだから、そのくらいになってしまうのだ)を返してくれ! と言いたいものになってしまう。
それでもやはりキングと聞けば、つい見てしまったのは、キングが日本に紹介され始めた頃に読んだ『クージョ』や『シャイニング』や『呪われた町』や『ゴールデン・ボーイ』なんかが圧倒的におもしろくて、あのころのイメージがどうしてもぬぐいきれなかったからだと思う。さすがに今は本は読む気にはなれないけれど。ほんとうに、初期のキングはおもしろかったもんね。
ともかく、「スタンド」の話だ。
記憶だけで書いているので、細かいところがちがっているかもしれない。
ともかく、全世界を疫病が襲い、人がバタバタと死に絶える。ゲーリー・シニーズだけは生き残り、夢のお告げを受けて、ある方向を目指していく。すると同じように、夢に導かれてその場所へ向かう人たちに出会うのだ。そうして集まった人々は、新しい国を作るべく、直接民主制を敷いて、話し合い、自分のできることを持ち寄りながら、「理想の国」を築いていく。
一方、生き残ったのはそういう人ばかりではなかった。「理想の国」の対極にあるような、「悪の帝国」の建国めざして、悪いやつらが続々と集まってくる。その「悪いやつ」というのが、ハーレー・ダビッドソンに乗ってレザー・ジャケットに身を包んだイージーライダーといったところ。もうそのイージー・ライダー軍団を見たあたりでわたしは笑ってしまったのだが、そこでふと思ったのだ。
悪いヤツが集まっても、悪の帝国なんていうものは建国できない。
というのも、悪いヤツは働かないからだ。何かエサをちらつかせて労働させようとしても、なにしろ悪い人間だもの(相田みつを風)、まじめに働くはずがない。
そもそも国が成り立たないのだから、「悪の帝国」にできることといったら、たかが知れているだろう。集まって麻薬をやったり、ものを盗んだり、喧嘩したり、婦女暴行したり、殺し合いをしたり、が、関の山で、たとえばナチスがやったようなことは、絶対にできない。
つまり、「悪の帝国」を築こうと思ったら、ある程度は「善良な人間」、まじめで、勤勉で、働き者で、ただし、命令に背いたり、疑問を持ったり、考えたり、批判したり、という精神を持たない、そんな人間を国民として抱えなければ、国としてそもそも成り立っていかないわけだ。
となると、「理想の国」と「悪の帝国」のちがいはどこか。
どちらも「善良な人間」によって維持される。その「善良な人間」が考えることができるような教育システムが整っていること、さらに、批判が認められていること、そうして、建設的な意見や批判を国の運営に反映させていくシステムが整っていること、ぐらいしか、「理想の国」と「悪の帝国」を隔てるものはないような気がする。
いわゆる「伝記」というジャンルの本がある。外国の自伝や評伝には、たまにとんでもなくおもしろいものがあるのだけれど、日本にはあまりおもしろいものがないような気がする(といっても、わたしがまだ読んでないだけかもしれないので、おもしろい自伝や評伝をごぞんじのかたは教えてください)。
特に、最悪なのが(おもしろくない、という意味で、です)、子供向けの「偉人伝」というやつ。これは子供を本から引き離すということを目指しているとしか思えないぐらい、犯罪的なほど、おもしろくない。
で、こんな本には、あたりさわりのないことしか書いていない。たとえばよく言われるのが、野口英世は一般に思われているほど立派な人間ではなかった、ということなのだけれど、この「一般に思われている」イメージの多くは、子供向けの偉人伝によって、形成されているのにちがいない。とにかく、よくがんばった、よく勉強した、だから偉い人になれました、めでたしめでたし、ってほんまか?
ここで、善い人、悪い人、をもう一度考えてみる。
キングの「スタンド」に出てきた「悪い人」というのは、そのほとんどが、「悪い」というより、「反社会的な人」と言うべきだろう。社会の一員であるという自覚に欠け、あるいは一員であることを積極的にボイコットするような。
であれば、「悪い人」というのは、いったいどんな人なんだろうか?
そもそも、「善い」「悪い」の判断をくだすのは、一体だれなんだろうか?
ここでありがちなのが、「人に迷惑をかける」という「理屈」だ。
けれども、それが「迷惑であるか、迷惑でないか」というのも、一体だれが決められる?
電車で大声でわめく人がいた。
これが赤ん坊なら?
急に激痛に襲われた人なら?
痴漢の被害に遭った人なら?
電車があまりにスピードを出したので、運転手か車掌に警告しようとしている人だったら?
大切な書類をさっきのタクシーのなかに置き忘れて、それをいま思い出したとしたら?
さらに、それがあなたにとって大切な人、愛する人だったら?
見るからに好意を持てなさそうな外見の人だったら?
聞いた「わたし」が睡眠不足でイライラしていたら?
臨時収入があって、太っ腹な気分でいるときだったら?
わたしたちは、自分の、そのときの気分でしか、判断できないのだ。
つまり、「善い人」「悪い人」がいるわけではない。
そうして、「善い人が集まったから理想の国ができる」わけでも、「悪い人が集まったから悪の帝国になる」わけでもない。
池波正太郎は「仕掛け人・藤枝梅安」のシリーズで、繰りかえし、「人間は、いいことをしながら悪いことをする、悪いことをしながら、いいことをする」と書いていた(これも記憶だけで書いているのでちがうかもしれない)けれど、「いいこと」「悪いこと」があらかじめ決まっているわけではない。できれば自分にも、周囲にも良い結果となればいいなあ、と思いながら、さまざまなことを考えても、結果としてどちらに転ぶかは、保証のかぎりではないのだ。それでも、考えないよりは、考えた方が、あきらかに悪くなる可能性を潰すことはできるのではあるまいか。
結局言えること。
善い人、悪い人、なんているわけではない。
え、それでもあの人は良い人だと思う人がいる?
それは、あなたにとって都合が「良い」人か、そうでなかったら、それはたぶんその人が「好きだから」なんじゃないかな。
たぶん明日には昨日まで連載していた「わたしが会ったミュージシャンたち」アップできると思います。
それじゃ、また。