陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

いい人、悪い人

2006-05-31 22:46:05 | weblog
その昔、たまたま衛星放送でアメリカのTVムービーをやっていた。

スティーヴン・キング原作の、たぶん「スタンド」というタイトルだったと思う。
主人公のゲーリー・シニーズは、最初、ガソリンスタンドで働いていたから。
キングものの映像化は、たいてい滑り出しはおもしろくて、途中、あれあれ、ということになって、最後はアメコミみたいなモンスターが出てきて、わたしの生涯の6時間(たいてい連続ものだから、そのくらいになってしまうのだ)を返してくれ! と言いたいものになってしまう。

それでもやはりキングと聞けば、つい見てしまったのは、キングが日本に紹介され始めた頃に読んだ『クージョ』や『シャイニング』や『呪われた町』や『ゴールデン・ボーイ』なんかが圧倒的におもしろくて、あのころのイメージがどうしてもぬぐいきれなかったからだと思う。さすがに今は本は読む気にはなれないけれど。ほんとうに、初期のキングはおもしろかったもんね。

ともかく、「スタンド」の話だ。
記憶だけで書いているので、細かいところがちがっているかもしれない。
ともかく、全世界を疫病が襲い、人がバタバタと死に絶える。ゲーリー・シニーズだけは生き残り、夢のお告げを受けて、ある方向を目指していく。すると同じように、夢に導かれてその場所へ向かう人たちに出会うのだ。そうして集まった人々は、新しい国を作るべく、直接民主制を敷いて、話し合い、自分のできることを持ち寄りながら、「理想の国」を築いていく。

一方、生き残ったのはそういう人ばかりではなかった。「理想の国」の対極にあるような、「悪の帝国」の建国めざして、悪いやつらが続々と集まってくる。その「悪いやつ」というのが、ハーレー・ダビッドソンに乗ってレザー・ジャケットに身を包んだイージーライダーといったところ。もうそのイージー・ライダー軍団を見たあたりでわたしは笑ってしまったのだが、そこでふと思ったのだ。

悪いヤツが集まっても、悪の帝国なんていうものは建国できない。
というのも、悪いヤツは働かないからだ。何かエサをちらつかせて労働させようとしても、なにしろ悪い人間だもの(相田みつを風)、まじめに働くはずがない。
そもそも国が成り立たないのだから、「悪の帝国」にできることといったら、たかが知れているだろう。集まって麻薬をやったり、ものを盗んだり、喧嘩したり、婦女暴行したり、殺し合いをしたり、が、関の山で、たとえばナチスがやったようなことは、絶対にできない。

つまり、「悪の帝国」を築こうと思ったら、ある程度は「善良な人間」、まじめで、勤勉で、働き者で、ただし、命令に背いたり、疑問を持ったり、考えたり、批判したり、という精神を持たない、そんな人間を国民として抱えなければ、国としてそもそも成り立っていかないわけだ。

となると、「理想の国」と「悪の帝国」のちがいはどこか。
どちらも「善良な人間」によって維持される。その「善良な人間」が考えることができるような教育システムが整っていること、さらに、批判が認められていること、そうして、建設的な意見や批判を国の運営に反映させていくシステムが整っていること、ぐらいしか、「理想の国」と「悪の帝国」を隔てるものはないような気がする。


いわゆる「伝記」というジャンルの本がある。外国の自伝や評伝には、たまにとんでもなくおもしろいものがあるのだけれど、日本にはあまりおもしろいものがないような気がする(といっても、わたしがまだ読んでないだけかもしれないので、おもしろい自伝や評伝をごぞんじのかたは教えてください)。
特に、最悪なのが(おもしろくない、という意味で、です)、子供向けの「偉人伝」というやつ。これは子供を本から引き離すということを目指しているとしか思えないぐらい、犯罪的なほど、おもしろくない。
で、こんな本には、あたりさわりのないことしか書いていない。たとえばよく言われるのが、野口英世は一般に思われているほど立派な人間ではなかった、ということなのだけれど、この「一般に思われている」イメージの多くは、子供向けの偉人伝によって、形成されているのにちがいない。とにかく、よくがんばった、よく勉強した、だから偉い人になれました、めでたしめでたし、ってほんまか?

ここで、善い人、悪い人、をもう一度考えてみる。
キングの「スタンド」に出てきた「悪い人」というのは、そのほとんどが、「悪い」というより、「反社会的な人」と言うべきだろう。社会の一員であるという自覚に欠け、あるいは一員であることを積極的にボイコットするような。

であれば、「悪い人」というのは、いったいどんな人なんだろうか?

そもそも、「善い」「悪い」の判断をくだすのは、一体だれなんだろうか?

ここでありがちなのが、「人に迷惑をかける」という「理屈」だ。
けれども、それが「迷惑であるか、迷惑でないか」というのも、一体だれが決められる?

電車で大声でわめく人がいた。

これが赤ん坊なら?
急に激痛に襲われた人なら?
痴漢の被害に遭った人なら?
電車があまりにスピードを出したので、運転手か車掌に警告しようとしている人だったら?
大切な書類をさっきのタクシーのなかに置き忘れて、それをいま思い出したとしたら?
さらに、それがあなたにとって大切な人、愛する人だったら?
見るからに好意を持てなさそうな外見の人だったら?
聞いた「わたし」が睡眠不足でイライラしていたら?
臨時収入があって、太っ腹な気分でいるときだったら?

わたしたちは、自分の、そのときの気分でしか、判断できないのだ。

つまり、「善い人」「悪い人」がいるわけではない。
そうして、「善い人が集まったから理想の国ができる」わけでも、「悪い人が集まったから悪の帝国になる」わけでもない。

池波正太郎は「仕掛け人・藤枝梅安」のシリーズで、繰りかえし、「人間は、いいことをしながら悪いことをする、悪いことをしながら、いいことをする」と書いていた(これも記憶だけで書いているのでちがうかもしれない)けれど、「いいこと」「悪いこと」があらかじめ決まっているわけではない。できれば自分にも、周囲にも良い結果となればいいなあ、と思いながら、さまざまなことを考えても、結果としてどちらに転ぶかは、保証のかぎりではないのだ。それでも、考えないよりは、考えた方が、あきらかに悪くなる可能性を潰すことはできるのではあるまいか。

結局言えること。
善い人、悪い人、なんているわけではない。
え、それでもあの人は良い人だと思う人がいる?
それは、あなたにとって都合が「良い」人か、そうでなかったら、それはたぶんその人が「好きだから」なんじゃないかな。

たぶん明日には昨日まで連載していた「わたしが会ったミュージシャンたち」アップできると思います。
それじゃ、また。

この話、したっけ ~わたしが出会ったミュージシャンたち その3.

2006-05-30 22:31:31 | weblog
3.ピアノ・ウーマン

高校生になったばかりの頃、姉に連れられて「ピアノパブ」というところに行ったことがある。
姉の知り合いが出るから、ということで、わたしも連れられて行ったのだけれど、なぜ高校生であるわたしを同伴に選んだのか、何か理由があったような気がするのだけれど、いまはもうすっかり忘れてしまった。ともかく、タータンチェックの巻きスカートをはいていたら、そんな子供っぽいカッコはやめてよ、補導されるから、と文句を言われて着替えさせられた。くれぐれも遅くならないようにね、駅についたら電話するのよ、とやかましく言う母親を後にして、電車に乗る。

とにかくパブであるから、夜なのである。
確か、わたしたちが店に着いたのは、平日の八時前ぐらいではなかったか。
店の一角にグランドピアノがあり、リズムボックスがリズムをきざんでいた。髪の長い女性がピアノを弾きながら歌っている。店の中はざわざわしていて、すでにいる客たちは、あまり真剣に聞いている様子ではなかった。

席に通されるときに姉は挨拶し、その女の人はすこしうなずいて応えてくれた。
席に着いて、若いお兄さんがオーダーを取りに来て、一緒にリクエストカードを渡してくれた。「聞きたい曲、リクエストしてね」と言われたので、わたしは「ピアノと合わせて歌える曲」として真っ先に思いついた Queen の "Nevermore" を書いた。オレンジジュースを注文しようとしたのだが、姉は勝手にカカオフィズか何かを注文し、運ばれてくると、アンタ、水でも飲んでなさい、といって、わたしの分も取り上げてしまったのだった。

やがて、わたしのリクエストした"Nevermore"のイントロが聞こえてきた。レコードに合わせてときどき自分も一緒に弾いていたわたしは、なんだ、そんなにうまくないじゃん、と失礼なことをちょっと思った。やがて歌が始まった。フレディ・マーキュリーの声とは似ても似つかぬ、静かな、淡々とした歌い方だった。もともとが一分少々の大変短い曲は、当たり前だけれどコーラスもなく、静かなままあっという間に終わった。なんだかきれいな水が流れていったみたいだ、とわたしは思った。こういうのも、アリなんだ。

それから、キャロル・キングとか、ロバータ・フラックの“優しく歌って”とか、そんなふうな曲をいくつか歌うと、今度は客の女性がユーミンか何かを歌う伴奏をする。本を引っ張り出して弾くそういう曲は、いかにも慣れていなさそうで、ミスタッチも多かった。それでもピアノをバックに歌えるお客さんは、うれしそうだった。

なんとなく所在なくなって、わたしは鞄から鉛筆を取り出して、ペーパーナプキンに、ピアノを弾いているその女の人の横顔をスケッチした。少しもつれた細い髪の毛、小さな顎からつづく細い喉。

やがてピアノからは“酒と薔薇の日々”が流れてきて、「次のステージは九時からです」と言い、その回が終わると、その人は飲み物の入ったグラスを持って、わたしたちの席にやってきた。「こんにちは」とわたしに挨拶してくれて、わたしたちはしばらく話をした。もっぱらその人がわたしに、クイーンが好きなの? とか、ほかにはだれを聴くの? といったことを聞いてくれたような気がする。やがてわたしの落書きに目を留めると、「わぁ、すごーい、ジョニ・ミッチェルの歌みたい。これ、もらっていい?」と言う。端の湿ったペーパーナプキンに描いた落書きのようなスケッチに意外な反応が返ってきて、わたしはちょっと驚いた。この人は本気なんだろうか、それともお愛想でそんなことを言っているのだろうか。「もしこんなものでいいのなら、もっとちゃんとした紙に描きますけど」とわたしが言うと、「歌の中にね、“紙のコースターにあなたの顔を描いた”っていうのがあるの。それみたいだから、すごくうれしかったの」と教えてくれた。わたしがその「ジョニ・ミッチェル」を知らなかったためにそのことを言うと、「つぎのときに歌ってあげる。わたしが一番好きな人なの」と教えてくれた。

つぎのステージでその人は、ジョニ・ミッチェルの曲を数曲歌ったように思う。
どれも、初めて聴く曲ばかりだったのだけれど、不思議なメロディラインの、その人の細い、張りのない声にはよく合っていた。英語の歌詞が何を言っているのかはわからなくて、どの曲がそれなのかもわからなかったけれど、その人の歌は語りかけてくるようで、ああ、何を言っているかわかったら、と思ったのだった。
歌う、というよりも、メロディに乗せて語るような。けれど、そんな歌い方にもかかわらず、不思議なくらい、素直な声だったし、ピアノの音だった。この人が「うれしい」と言ったら、ほんとうに「うれしい」んだ。だから、たぶん、わたしの落書きのようなスケッチでも、うれしかったんだ、と思った。

それから次のお客さん、少し年配の女性、おそらく多少声楽か何かを習った経験のありそうな人が、“サン・トワ・マミー”を熱唱した。朗々と声を張り、マイクをハウリングさせながら歌うのに、覚束なげなピアノが、何か痛々しいような感じさえした。

その日はそのステージの途中で帰ったように思う。それでも、姉にせがんで、もう一回だけ見に行った。それ以上は母親が許してくれなかったのだ。
その人は、レコード会社に所属している、と言った。
「○○を知ってる? あの人と同じ会社なの。来年の春には、レコードを出すのよ。そうしたらよろしくね」

その来年になると、わたしはレコードの新譜情報に目を走らせて、その人の名前をいつも探したけれど、春になり、春が過ぎて夏になっても、その人の名前は見つからなかった。
そのかわり、わたしはその"A Case of You"が入っている、ジョニ・ミッチェルの"Blue"というアルバムを繰りかえし聴いた。

ジョニ・ミッチェルも同じように、声を張らずに、話をするように歌うシンガーだった。それでもその人の声は、ジョニ・ミッチェルともちがう、癖のない、なんともいえない素直な響きがあった。その素直さは、決してプロのミュージシャンとして成功していくことを助けてはくれないだろう、と思わせるような。

その人の名前を検索子にかけてみたけれど、ヒットすることはなかった。
本名かどうかもわからないし、また違う名前で、いまも音楽活動を続けているのかもしれない。
できるものなら、あのきれいな水が流れていくような"Nevermore"をもう一度聴いてみたいような気がする。

(この項終わり)

この話、したっけ ~わたしが出会ったミュージシャンたち その2.

2006-05-29 22:31:22 | weblog
2.タイコの達人

中学に入って、ブラスバンド部に入部した。何か新しいことがやりたかったのだが、それほど肺活量も必要なそうなフルートを始めたのである(じき、とんでもない間違いだったことに気がつくが)。

演奏の中心は高校生で、かつて人数がもっと多くて華やかだったころは、中学の一年、二年はもっぱらパート練習だけだったらしいが、わたしが入ったころには、女の子が多い木管楽器はそれなりに頭数は揃っていたものの、金管は人手不足で、打楽器は余ったパートから交替で人を出すような具合だった。

ただし、対外的な活動こそ、ずいぶん小規模になってはいたけれど、学内的には新入生歓迎だの文化祭だの、なんのかんのと演奏する機会も多く、学内的には花形の部のひとつだった。なかでも、秋の運動会は、入場行進の演奏や校歌、応援歌から優勝旗授与の「見よ 勇者は帰る」まで、さまざまな演奏を一手に引き受けていたのだ。

パートの割り振りが始まった。フルートはそんなに人数はいらない、行進曲のドンドンいうだけの単調な大太鼓なぞ、一年で十分、ということで、わたしが大太鼓にまわされることになった。もうひとり、シンバルは、そのとき口内炎で楽器が吹けなかった副部長がやることになった。そうして、打楽器隊のリーダーは、それまで顔を見たこともない柳原先輩という人に依頼することになったのだ。

柳原さんは、高三で、部は引退していたのだけれど、大学は推薦ですでに決まっており、大学生のお兄さんと一緒にバンドでドラムを叩いているという話だった。
いざ、運動会の練習が始まって、柳原さんが来て、わたしはすっかり驚いてしまった。
髪は背中まで垂らし、口ヒゲははやしているし、ガリガリに痩せて、レザー・パンツをはいているし、おまけに近くへ行くとタバコ臭い。13歳のわたしからすれば、まったくの大人で、口をきくのも怖かった。

この人と一緒にやるのか、とドキドキしていたら、一緒になどやらないのだった。
まず、バチの持ち方から始まって、叩き方に入る。
これが大変だった。「一点」で「タイコの面に垂直に落とす」を延々とやらされたのである。
「落とす」
「はいっ」ドンッ。
「駄目、もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「駄目駄目、面でベタッと落ちてる。もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「手首を使うな、肘から落とす。もう一回」
「はいっ」ドンッ。
「当たった瞬間に引く」
「はいっ」ドンッ。
「一点で」
「はいっ」ドンッ。
「速く」
「はいっ」ドンッ。
「駄目、肘に力が入ってる。力は入れない」
「はいっ」ドンッ。

たぶん、最初の三日間は、リズムも何もなく、ひたすら「落とす」「はいっ」ドンッ、をやっていたような気がする。渡された譜面が四分音符ばっかりで、ドンドン叩けばいいんだな、と思っていたわたしは、まさかこんな羽目になるとは夢にも思わなかった。

そこからやっと音を消すときの左手の使い方、音を止めるときの叩きかたを教わって、そうなると全体練習が始まるのだった。

ところが柳原さんは、全体の音を聞くな、自分のスネアに合わせろ、という。

ブラスバンドに入って最初に感じたのは、自分の吹く楽器の音が、ほかの楽器と合わさって音楽を作っていくことの楽しさだった。それまでピアノで自分の音だけを聞いていたわたしには、新鮮な感動だったのだ。

それを聞くな、と言われて、わたしはびっくりした。柳原さんは、全体の音に引きずられている、自分の叩くスネアにだけついてこい、というのだ。リズムセクションというのはそういうものだ、と。

当時、ブラスバンドで花形だったのは、もちろん第一トランペットだったのだけれど、全体の音を決めていたのは、トロンボーンだった。トロンボーンを吹いていたのは南さんという人で、やたらに濃い眉から「赤鬼」と呼ばれていたのだけれど(下級生も「赤鬼先輩」と呼んでいた)、ものすごく音量のある、時にバリバリと音を割るほど大きな音を出して吹く人がいたのだ。
ちょうどわたしの真後ろがこの赤鬼先輩で、段に立つと、ちょうどベルのところがわたしの頭の上にくる。そうでなくても大音量の赤鬼先輩は、野外だからいっそう張り切って、ここぞとばかりに吹きまくるのである。わたしが全体に引きずられる、というより、指揮者の部長も含めて、全体が赤鬼先輩のトロンボーンに引きずられていたのだった。

ところがそれを聞くなという。
そう思って聞くと、柳原さんのスネアのリズムは、微妙にちがうのだ。トロンボーンのリズムが少し後ろへ重心が残る感じなのに対して、まさにその瞬間、という感じがする。加えて、陰気な外見とは裏腹の、芯は固いけれど華やかな音なのだった。
メトロノームに合わせるのには慣れていた。けれども、メトロノームではなく、人の音に合わせる。これはずいぶん感じがちがった。
それでもメトロノームに合わせても楽しくもなんともなかったけれど、人に合わせる、まさに自分のリズムが相手のリズムと一致する、その瞬間は、ひとりでピアノを弾いているときには決して得られない快感があった。
だからわたしは、確かにトロンボーンとは微妙にちがうリズムを、音の洪水の中からかきわけるようにして拾い上げ、ついていこうとした。
なにしろ、ちょっとでもずれると、その瞬間、後ろを振り返って、キッ、とにらまれる。単調な四分音符の連続のはずが、異様にスリリングなのだった。

一方、副部長のシンバルは、これまでにも柳原さんとのマッチングは経験済みだったらしく、ステディで、譜面にある強弱記号やアクセントに正確で、正確なだけに心地の良い音を出している。となると、パーカッション隊のハーモニーを乱す可能性があるとしたら、わたししかいないのだ。練習といっても毎回、冷や汗を流しながらやってたのだった。

確か、行進曲を四曲、あとはなにやかやと、全体で十曲ほど練習したのだと思う。
運動会の当日がどうだったか、いまではもうまったく覚えていない。
ただ、あっという間に終わって、大太鼓を部室に持って帰ろうとしたら、柳原さんが代わりにかついでくれて、わたしはスネアをそっと持って帰ったのを覚えているくらいだ。

もうひとつ覚えているのは、運動会が終わってから数日後、学内で柳原さんと偶然出くわしたことがあった。頭を下げて挨拶したら、照れくさそうな顔で顎を引いて応えてくれたのだけれど、通り過ぎたあと、一緒にいたほかの上級生がうわーっと冷やかしの声をあげていたのが聞こえた。
一ヶ月、放課後は毎日一緒にいたのに、私語を交わすこともなかった。
下の名前も知らないままだった。
それでも、リズムはメトロノームとはちがうのだ、生きた人間によって作り出されるのだ、そうして、そのリズムは、伝わっていくと、人の内側に同じリズムを生み出していくのだ、ということをわたしはそのときに初めて知ったのだった。
太鼓はアフリカでは昔、伝達の手段だったという。確かに、わたしはそのときに、音楽というのはコミュニケーションなのだ、ということを知ったように思う。

柳原さんがいまどうしているのか、いわゆるミュージシャンになったのかどうか、わたしは知らない。それでも、わたしのなかでは高校の上級生ではなくて、ひとりのミュージシャンだ。

(この項つづく)

この話、したっけ ~わたしが出会ったミュージシャンたち

2006-05-28 22:03:14 | weblog
その1.ピアノの先生

三歳からピアノを始めたわたしは、幼児教室を経て、五歳になるころには個人レッスンを受けるようになっていた。小さい頃から本人の意思とは無関係に習い事を始めた人間にありがちなことだけれど、その当時、ピアノの練習を音楽と思ったことがない。

レッスンを受けていた先生は、なにしろおっかない先生で、特に手の形にうるさかった。なにしろこちらは小さい子供なのである。大人と同じサイズの鍵盤を弾こうと思えば、すぐに指はいっぱいにひろがり、手は平らになる。平らになっても、すぐに基本のポジションに戻さず、指を伸ばしたままで弾いていたりすると、竹のモノサシでピシャッと叩かれた。
メトロノームのカッチ、カッチという音に合わせて弾く。ちょっとでもずれると、またピシャッ。
ミスタッチをすると、そこでおしまい。そこから曲の先へは行かせてもらえない。
そのかわり、その箇所の練習を、レッスンの残りの時間、延々と繰り返させられる。
これは屈辱だった。たとえ五歳でも、屈辱は感じるのだ。自分のふがいなさが悔しく、涙が出た。それでも先生はやめさせてくれない。
そのころのことで一番良く覚えているのは、涙と一緒に垂れてくる鼻水を舐めながら弾いていたことではあるまいか。涙と鼻水がどちらもしょっぱい味がする、というのも、おそらくピアノ教室で知ったにちがいない。

それでも、レッスンが終わって、毎日練習して、少しずつ指が動くようになっていく。速くも弾けるし、和音も弾ける。ジャンプもできる。最初はとつとつとした運指でも、練習を重ねていくうちに、どこまでも思い通りに動かせるようになっていく。そうなると、練習というプロセス自体が喜びになっていく。

土曜日、学校が終わるとお昼を食べて、簡単にさらってから、電車に乗ってピアノ教室に向かう。少し早めに着いて、そこに置いてあったマンガを読んで前の生徒のレッスンが終わるのを待つ。なによりもその時間が楽しくて、わたしはこのとき読んでいた『ドカベン』で、野球のルールを覚えたような気がする。特にピアノを弾く男の子がセカンドを守るというのがうれしくて、かなり大きくなるまでセカンドを守る野手が、野球では一番好きだった。

厳しいレッスンが終わると、ホッとしながらまた駅へ向かう。駅前の小さな駄菓子屋で、30円のアイスを買って、ベンチに座って食べ、それから電車に乗って帰る。
おそらくマンガとアイス、あと、一駅でもひとりで電車に乗るということが楽しくて、わたしは毎週通っていたのだった。もちろんそれは音楽とは無縁の世界だし、自分が「音楽」をやっている、とも思わなかっただろう。指のトレーニングの延長で、それでも、できないことができるようになっていく喜びを、わたしはピアノを弾くことを通して知っていったのだ。

自分がやっているものが、「音楽」と繋がっていくものなのだ、と、初めて気がついたのは、もう少し後のことだ。
あるとき、教わっていた先生の個人リサイタルに花束を持っていく役に選ばれたのだ。

そのために、パフスリーヴで胸元に花の刺繍がある、ウエストをリボンで結わえる白いワンピースを新調してもらい、それに合わせた白いエナメルの靴が、なんだか急にお姉さんになったみたいでうれしかった。

試着した時を除けば、その日初めて袖を通したワンピースと靴を身につけたわたしは、会場に着くとすぐ、楽屋にいる先生に会いに行った。裾が床まで届くサテンのロングドレスを着た先生は、髪も結ってお化粧も濃く、ふだんとはちがう人のようだった。それから用意された花束を抱えて舞台の袖に用意されたパイプ椅子に座って、段幕の隙間から舞台を見る。

スポットライトを浴びて、先生はピアノの前に座った。指が、鍵盤に触れた瞬間、ピアノというのはこういう音がする楽器なのだ、と、全身に水を浴びたように思った。

わたしが弾いていたのはピアノではなかった。
指がどれだけ速く鍵盤の上を転がっていっても、それがどれほどメトロノームに合っていても、楽譜の通りでも、先生の音とは決定的にちがう。
おそらく、これが音楽というものなのだ、と。

拍手の音に、はっと我に返った。両手にじっとりと汗をかいて、花束をくるんだセロファンがべとべとしていた。あわてて真新しいワンピースのお腹のあたりで両手をぬぐって、花束を持ち直して、舞台に持っていった。お辞儀をして、花束を渡して、ああ、わたしはすばらしい先生に教わっているのだ、と、拍手を浴びながら、誇らしい気持ちでいっぱいだった。

それから練習にいっそう熱が入ったかというと、全然そんなことはない。それどころか、その後間もなく、あれほど練習しろとやかましかった母親が、手のひらを返したように受験、受験と言い出して、勉強に差し支えるからピアノも受験が終わるまで休みなさい、と言ったときも、やれやれ、これであの練習から解放されるかと思うと、ホッとしたぐらいだ。

中学に入ってから、もういちどピアノのレッスンを再開してはどうか、と言われたけれど、もうピアノはいいや、と思ったのだった。
その先生のところにまで行こうと思えば、それからどれだけ涙と鼻水を流さなければならないか、なんとなくわかっていたのかもしれない。

(この項つづく)

サイト更新しました

2006-05-27 21:55:15 | weblog
先日までここで連載していた「月明かりの道」、手を入れてサイトにアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/

アンブローズ・ビアスの作品としては、芥川との関係で言及されるほかには、日本ではそれほど有名ではないのだけれど、アメリカではゴーストストーリーとして有名なものです。

考えてみれば、季節外れ、夏にやれば良かったかなとも思うんですが、まぁ始めちゃったものは仕方がない。少し季節外れの幽霊話、どうかお暇なときにでも、また読んでみてください。

ということで、それじゃまた。

ペーパーナイフの話

2006-05-26 22:28:00 | weblog
(※すいません。今日、ちょっと忙しくて時間がなかったので、サイトの更新は明日になります。今日はつなぎの話です)

これといって贅沢なものは持っていないわたしだけれど、持っているもののなかで、一番使っていて贅沢な気分を味わえるものが、ペーパーナイフだ。かなり前の誕生日に、プレゼントとしてもらったゾーリンゲンのペーパーナイフで、ふだんは皮のキャップをかぶせて、ペン立てに突っ込んである。

最近、私信を受け取ることもまれになって、もっぱら切るのは、第三種郵便、ダイレクトメールはたいてい封も切らず屑かごに直行するのだけれど、クレジットカードの請求書や、電話料金や携帯料金の請求書、届いた雑誌の封といったところだろうか。それでも、30cmほどの長さの、ある程度、重さがあることが心地よいペーパーナイフを手にとって、封筒の隙間に刃先を差し入れ、すっと切り開く。

ペーパーナイフが紙、それも、少し厚手のクラフト紙や画用紙を切っていくときの感触というのは、独特なものだ。カッターナイフを使うと、切れ味が良すぎるために、逆に折り目に沿ってまっすぐ切ることがむずかしい。切り開くのではなく、カッターの方が、紙を勝手に切りに行ってしまうのだ。かといって、定規などを使うと、こんどは切れ味が悪すぎて、力も必要になるし、途中で皺が寄って止まってしまったり、のこぎりの刃のように切れ端が波形になったりして、これまた具合が悪い。ペーパーナイフを使ったときの「気持ちよさ」というのは、ペーパーナイフにしかないものなのだ。

以前、翻訳の『ネコマネドリの巣の上で』を訳していたとき、憎きバロウズ夫人の殺害計画を胸に秘めたマーティン氏が、バロウズ夫人宅で凶器を物色する場面で、ペーパーナイフに目が止まる、ということがあった。

これを訳しながら、わたしも机の前にあるペーパーナイフを手にとって見たのだが、とてもではないけれど、凶器の候補にすらあがりそうもない、先の丸いものだ。どうやったってこれで人間を刺すことはおろか、かすり傷ひとつ負わせることはむずかしいだろう。それとも、もっと他の、凶器にもなりうるほどのごついペーパーナイフもあるのだろうか。それでは日常の扱いにはずいぶん危なっかしいような気もする。

昔の本は袋とじになっていて、それを一ページずつペーパーナイフで切り開きながら読んでいたらしい。おそらくそれは、紙の悪いペーパーバックなどではない、厚手の質のいい紙の本だろう。それはそれで手間ではあっても、たいそう贅沢な気持ちが味わえたことと思う。その時期、本を読む喜びの何割かは、間違いなく、切り開きながら読む、という動作にあったことだろう。

袋とじといって思い出すのは、ビル・バリンジャーのミステリ『歯と爪』だ。これはわたしが小学生の頃から本屋の棚に並んでいたもので、アガサ・クリスティーやエド・マクベインを一冊ずつ読んでいくのを楽しみにしていたわたしは、この本の存在は、早いうちから知っていた。書棚から抜くと、文庫本の後半五分の一ぐらいのところから、確か青い紙でくるんである。そうして帯には意外な結末が待っている、途中でやめることができたら、代金はお返しします、と書いてあるのだ。そんな演出をしなければならない本に、一抹のうさんくささを覚えたわたしは、何が書いてあるのだろう、そんなにおもしろいんだろうか、と思いながらも、結局は読まないままになっている。この文章を書くために検索してみたところ、当時の本の多くが品切れ状態になっているのに、この本は、アマゾンでもまだ取り扱っているらしい。やはり演出が効いたのか、あるいはほんとうにおもしろいのか。

ただ、記憶によると、青い紙はありふれた色つきの西洋紙だったように思う。ペーパーナイフで開いてみても、そんなに気持ちよくはないような気がする。だから、「袋とじをペーパーナイフを使って」開けるために、長い命脈を保っているこの本を購入しようとは思わない。

もしどなたか読んだ方がいらっしゃったら、感想、教えてください。


ということで、ほんとに明日はアップしますから、またヨロシク。

それじゃ、また。

「事実」ってなんだろう

2006-05-25 22:32:29 | weblog
一昨日までここで連載していた「月明かりの道」、いま推敲しているのだけれど、確かに芥川龍之介の『藪の中』と、いくつかの類似点を指摘することができる。

ともかく、今日はそんな話がしたいのではなくて。
「事実」というのはなんだろうか、という話。

その昔、こんなことがあった。

授業のあと、とあるクラスメイトからこんな話を聞いた。

彼女(仮に、ミナコとでもしておこう)はとある小劇団の俳優が好きで、ずっと追っかけのようなことをしていた。その彼から手紙が来て、今度ある公演のチラシが入っていたらしい。手紙には、ヨロシク、とあったので、彼女はいさんでチケットを買って、ついでに新しく服も買って、花束を持って見に行った。

その俳優は喜んでくれて、公演が終わると打ち上げがあるから、そこにおいでよ、と耳打ちしてくれたらしい。
だから、彼女はその場所である居酒屋に行って、一緒に楽しいひとときを過ごした、というものだった。

後日、別の人間から、その話を、まったく別の角度から聞いた。

その子は例の小劇団の劇団員に友だちがいる関係で、チケットの販売を手伝ったり、公演のときは椅子を並べたり会場の設営をしたり、という位置にいるらしかった。

その彼女(こちらはレイコとでもしておこう)は、ミナコのことを口をきわめて悪く言った。
ミナコは手紙をもらった、って言ってたけど? とわたしが言うと、だって彼って××(某新興宗教団体)だから、選挙のときとか、ファンの子みんなに、「今度の選挙、よろしく」ってハガキ出してるのよ、ファンの子も、たいていはそれを知ってて、○○クン、ってしょうがないわね、って言いながらもチケットを買ってるわけ。だけどミナコったらさ、それを真に受けてて、バカじゃない?

でさ、当日、ミナコが来てさ、ピンクハウスよ、もう全身、びらびらの。ちっとも似合ってないのに。
花束渡して、写真撮ってもらって、それで満足すりゃいいのに、打ち上げにまで押し掛けてくるのよ。ど厚かましいったらありゃしない。

このとき、わたしは同じできごとでも、見る位置が違えば、まったく違う出来事に見えるのだな、とつくづく感心したのだった。

「事実」というのは、いったいどこからどこまでを指すのだろう?

・○月×日、劇団△△が公演を行った。
・ミナコがピンクハウスの洋服を着て、花束を抱えて見に行った。
・公演後の打ち上げに、ミナコも参加した。

けれども、わたしたちは普通、自分が遭遇した出来事を、このような形で考えない。
おそらく、ミナコにとっては、彼女がわたしに話してくれたのが、彼女にとっての「事実」であるし、レイコにとっては(「ど厚かましい」という感想はさておくとしても)関係者でもないのに打ち上げに参加したファンがいた、というのが「事実」なのだろう。

そうして、このどちらがより「真相」(というものが仮にどこかにあるとして)に近いのかは、誰も知ることができないのだ。

たとえばこのあと、ミナコがこの俳優と、仮にボーイフレンドガールフレンドの関係になったとする。あるいは結婚したとする。すると、わたしは、ああ、やはりこの俳優はミナコのことを特別に考えていたのだ、と思い、レイコの「ど厚かましい」は、意地悪な物の見方だな、と考えるだろう。

あるいは逆に、ミナコのほかにもこの俳優から「手紙」をもらった、という女の子の話を聞いたりすれば、ミナコの「思いこみ」だと考え、レイコの言った「打ち上げに押し掛け」た、と考えるだろう。

「事実」というのは、「それが誰が見たものか」によって影響を受けるだけでなく、過去のある時点で起こったことのはずなのに、その後に影響を受けるのだ。

さらに、こうも考える。
わたしがこの「事実」に関して、このようにとらえることができるのも、ひとえに、芥川龍之介の言葉を借りれば「藪の外」にいるからだ。

わたしがミナコやレイコと同じように、現場に立ち会っていれば、おそらくはミナコとも、レイコとも異なる「事実」を目撃するはずだ。そうして、それがわたしにとっての「真相」となり、「藪の外」にいるときのように、「どちらの話が真相に近いのだろう」と考えることはない。つまり、わたしの「事実」が「真実」になってしまうからだ。

あるいは、わたしはミナコとも、レイコとも、ほぼ等距離といっていい立場にあった。特にどちらと仲がいい、という関係でもなかったために、どちらかの話を、これはほんとうだろうか、とか、嫉妬みたいな感情があるのではないか、とか、自分自身の判断を交えずに聞くことができた。これがもし等距離でなければ、ずいぶんまた受ける印象も変わってくるだろう。

こう考えると、「何がほんとうのことなのか」「何が事実なのか」というのは、きわめて不確かで、曖昧なもの、さまざまな要素のからみあったもの、と言うしかなくなってくる。さらに、「真相は『藪の中』だなぁ」という客観性を維持できるのは、「藪の外」にいるときだけなのだ。

わたしたちは自分が遭遇した出来事、目の当たりにしたものを「事実」と、つい考えてしまいがちなのだけれど、「事実」というもののあやふやさ、当てにならなさ、ということは、頭の隅に留めておいたほうがいいのだと思う。

さて、明日にはアップできると思いますので、またのぞいてみてくださいね。

それじゃまた。

アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 最終回

2006-05-23 22:30:54 | 翻訳
その6.霊媒ベイロールズの口を借りての故ジュリア・ヘットマンの語り(後編)

 かつては女であったものが、本筋とは関係のないあれやこれやを申し上げるのを、どうかお許しください。このような不十分な方法でわたしたちに耳を傾けようとするあなたがたには、おわかりにはならないでしょう。あなたがたがお尋ねのことは、的はずれにも、知る術のない、また知ってはならないことなのです。わたしたちにわかっていること、明かすことのできることのほとんどは、あなたがたにとっては意味を成さないものです。意志疎通を行おうと思えば、わたしたちの言葉のなかのほんのごく一部、あなたがたが実際に使うことができる言葉を使い、頼りない知性を通すことしかできません。あなたがたはわたしたちのことを、別の世界の住人であると考えていらっしゃる。いいえ、そうではなく、わたしたちが知っているのは、あなたがたと同じ世界にほかなりません。ここには陽の光もなく、暖かくもなく、音楽も、笑い声も、鳥のさえずりも、ただひとりの話し相手さえいませんが。ああ、神様、幽霊であるということは、すっかり変わってしまった世界で身を潜め、震えながら、不安と絶望の餌食となって生きるということは、なんということなのでしょう。

 いいえ、わたしは怖れのあまりに死んだのではありません。「それ」は、踵を返して去っていったのです。階段を駆け下りていく足音が聞こえ、まるで「それ」が突然の恐怖に襲われたようだ、とわたしは思いました。それから、わたしは助けを呼ぼうと起きあがりました。震える手でドアノブに手をかけたかかけないか、というとき、ああ、神様、「それ」が戻ってくる音が聞こえてきたのです。階段をのぼってくる足音は、すばやく重い、大きなものでした。家を揺るがすほどの足取りだったのです。わたしは部屋の隅に逃げ出し蹲りました。祈ろうとしました。いとしい夫の名も呼ぼうとしたのです。そのとき、扉が開くのが聞こえました。しばらく何も感じることができずにいたのですが、はっと我に返ったときには、喉をつかまれて、締め上げられ――背後からしかかってくるものに向かって、無意識のうちにわたしの腕が弱々しくばたばたと抵抗していたようです――やがて自分の舌が歯のあいだから飛び出すのを感じました。そうしてその瞬間、わたしはこちらの世界に移ってきたのです。

 いいえ、それがどういうことなのか、わたしにはわかりません。死に臨んでわたしたちが理解できることは、それ以前に知っていたことを後になって思い出したものであるに過ぎません。命ということについて、わたしたちは多くを知りましたけれども、そのいかなる局面に対しても、新しい光を投げかけるものではないのです。わたしたちに読むことができるのは、記憶のなかに書き込まれているものなのです。ここでも真理の高みに立ってあやふやな世界の混乱した光景を俯瞰することなどできはしません。わたしたちは未だ、旧約聖書の言う「死の影の谷」の住人であることには変わりなく、寂しい場所に身を潜めて、茨や灌木の隙間から、狂い、悪意に満ちた住人たちのようすをこっそりと見ているのです。徐々に色あせていく過去のことについて、どうして新しく知ることができましょう。

 ある夜の出来事をお話ししましょう。わたしたちにもいつが夜であるかはわかります。というのも、あなたがたが家に戻り、わたしたちは自分の隠れている場所から思い切って外に出て、以前の家のまわりを歩いたり、窓からのぞいたり、あなたがたが眠っていれば入っていって、その寝顔を見つめることさえできるからです。わたしは無惨にもいまの姿に変えられてしまった住まいのあたりを、長いことさまよっていました。わたしたちが愛する、あるいは憎むだれかがいるあいだ、わたしたちはそうするものなのです。わたしはずっと自分の姿を現す方法、わたしがずっと存在していることや深い愛、あるいはまた深く心を痛めていることを、夫や息子に伝える方法を探してきましたが、未だに見つかっていません。夫や息子は眠っていても、必ず目を覚ましてしまうし、起きているときには、わたしが必死の思いで近づこうとすると、わたしに向けるのは、生者が死者に向ける恐怖に満ちたまなざし――わたしが求めるのとは似ても似つかぬものであるため、わたしの心は震え上がってしまうのでした。

 その夜、恐れながらもふたりを探していたわたしは、どうしてもうまく見つけることができずにいました。家のなかにもおりませんし、月明かりが照らす芝生にもいません。というのも、太陽はわたしたちには永遠に手の届かぬものとなっているのですが、月であれば満月であっても三日月であっても、わたしたちにも残されています。 夜に輝き、ときに昼にも姿を現していますが、生前のように、昇り沈むのを繰りかえしているのです。

 わたしは芝生のあたりを離れて、白い光の照らす静かな道を、あてどない、悲しい心のまま歩いていました。突然、愛しい夫の悲鳴が聞こえ、息子が安心させ、引き留めようとする声がします。ふたりは木立の影のすぐそばに立っていました――近くに、こんなにも近くに! ふたりの顔はわたしの方を向いていました。年かさの男の目は、わたしの目にすえられていました。彼は、彼には、わたしが見えたのです――とうとうわたしが見えたのです。そのことに気がつくと、恐怖心はおそろしい夢のように、かき消えてしまいました。死の呪文が解けたのです。愛が掟など、うち砕いてしまったのです! 喜びのあまり、狂ったようにわたしは叫びました。そうしたにちがいありません。「あの人は気がついた、わたしを見た、きっとわかってくれるわ!」それからわたしは自分をなんとか抑えながら、笑みを浮かべて、美しい表情を装いながら、あの人の腕の中に身を捧げようと、愛の言葉を語ろうと、そうしてわたしの息子の手を取って、生者と死者に引き裂かれたあいだをもいちどつなぎとめるための言葉を語ろうと、歩み寄っていったのです。

 ああ、それなのに! 夫の顔は怖れのあまりに蒼白になり、目は狩り立てられた獣のようでした。わたしが進むと、夫は後ずさりし、とうとう踵を返して森の中へ走り込んでいってしまったのでした――いずこへか、わたしの知りようのないところへ。

 わたしのかわいそうな息子は二重の孤独のなかに置き去りにされ、わたしは未だにそばにいることを伝えられずにいます。やがて彼もこちらの「見えない者の世界」に移ってくるでしょうし、そうなると、わたしからは永遠に失われてしまうでしょう。


The End

アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 その5.

2006-05-22 22:32:55 | 翻訳
III. 霊媒ベイロールズの口を借りての故ジュリア・ヘットマンの語り


 わたしは早目にやすむことにして、ほどなく穏やかな眠りについたのですが、なんとも言いようのない胸騒ぎに襲われて目が覚めたのです。かつての、前世の毎日では、そういうことはよくあることでした。それがなんら実体のないものだということも、わたしはよく納得していたのですが、そのときばかりは、消えることがないのでした。夫のジョエル・ハットマンはその晩、家にいませんでした。召使いたちは屋敷の別のところで寝ています。けれどもそういうことは別に特別な事態ではありませんでした。これまで一度もそんなふうに不安になったことはなかったのです。なのにその一種異様な不安感は、どんどん強まって耐え難いものになっていき、そこを離れたくないという気持ちを抑えて、ベッドに半身を起こすと、ベッドサイドのランプに灯をともしました。わたしの予想に反して、明るくなってもちっとも不安は去りません。反対に、危険を増すように感じたのです。ドアの下から外に漏れた光のために、外に潜む禍々しいものが、わたしがいることを知ってしまうかもしれない、と思ったのです。未だ現身の方々、頭をよぎる恐怖感に押しつぶされそうになったことのある方なら、夜の邪悪なものから、闇の中で身を守ろうとすることが、どれほどおそろしいことか、おわかりでしょう。灯をともすのは、姿なき敵のすぐそばに、自分から飛び込んでいくことにほかならない、絶望的な戦略なのです。

 ランプを消したわたしは、上掛けを頭からすっぽりかぶって、震えながら静かに、悲鳴を上げることもできず、祈ることも忘れていたのでした。こうした哀れなありさまのまま、あなた方の言う何時間も、横になっていました。――わたしのいる世界では、時間というもの、時間という概念そのものが存在しないのです。

 ついに、「それ」がやってきました。階段を上る、忍びやかな、聞いたこともない足音が聞こえたのです! 自分の足下が見えないかのような、ゆっくりとした、ためらいがちな、覚束なげな足取りでした。混乱したわたしの頭には、、その音がなおさら恐ろしく感じられます。近づいてくる目も心も持たぬひたすらな悪意には、慈悲を乞うても無駄であるからです。廊下のランプはつけたままにしておいたはず、「それ」が手探りで進んでくるのは、「それ」が夜の怪物である証拠だとさえ思いました。確かにこれは愚かな考えで、さっき自分が灯りをつけたことを恐れたことと食い違います。けれど、わたしに一体なにができたでしょう。恐れる心は脳とは関係がありません。愚かしいものなのです。恐怖心が見るおぞましい光景と、恐怖心がささやきかける小心な助言は、それぞれにばらばらなのです。わたしたちはそのことをよく知っている。恐怖の王国に移ってきて、かつて生きていた場所のなかにある永遠のうす暗がりをさまよい歩くわたしたち、自分自身にも、お互い同士でも見えない姿にもかかわらず、寂しい、ひとけのないところへ身を隠すわたしたちには。愛する者たちと言葉を交わすことを熱望しながら、口を利くこともできない、そうして彼らがわたしたちを怖がるように、わたしたちも彼らを恐れます。それでも、掟がゆるめられるときがあり、不可能なことができることがある。愛の力、あるいは憎しみの、永遠不滅の力によって、わたしたちはその魔法を解くのです――わたしたちの姿が、告げたい相手、あるいは慰めてあげたい、懲らしめてやりたい相手に見える。相手から見て、わたしたちがどのような姿をしているのか、わたしたちにはわかりません。ただ、言えるのは、わたしたちがどれほど慰めたい相手であろうが、愛され、心を通わせたいと心底願っている相手さえ、わたしたちを見て恐れるのです。

(明日最終回)

アンブローズ・ビアス 「月明かりの道」 その4.

2006-05-21 22:09:48 | 翻訳
その4.キャスパー・グラタンの手記(後編)


 人は自分の誕生の記憶を持たない――ただ、人から聞かされるだけだ。けれども、わたしの場合は異なっていた。あらゆる器官の働きも能力も、十分に備わり、開発された状態で人生が始まっていた。それ以前の生活というものは、まるで他人事のような気がする。記憶のようでもあり夢のようでもある、おぼつかない幻があるだけだ。最初に意識したことは、自分が心身ともに成熟した人間であること、そうして、その意識を驚くこともなく、さしていぶかることもなく受け入れたのだ。気がつけば、森のなかを、ただ、ぼろぼろの格好で、靴擦れのできた足で、言葉にできないほど疲れ切り、空腹を抱えて歩いていた。一軒の農家に行き当たり、立ち寄って、食べ物を乞うと、名前を尋ねられ、それに答えたのちに恵んでくれた。だれもが名前を持っていることを知らなかったにもかかわらず、やはり知っていたのだ。ひどく恥じ入りながらもわたしはそこを辞去して、やがて夜になり、わたしは森で身を横たえて眠った。

 次の日、大きな町に脚を踏み入れたのだが、その名前はここで記すつもりはない。まさに終わりを告げようとする生涯に起こったことどもをこれ以上詳しく話すこともしない。いついかなるときも、いかなる場所でも、過ちを犯したことからくる罪の意識、犯罪者ゆえの恐怖感に苛まれるおのが身を抱えての、放浪の生涯だったのだ。ともあれ、短い物語にまとめてみよう。

 かつてわたしは都市の近郊で、裕福な農園主として暮らしていたはずだ。妻である女性を、深く愛しつつ、同時に猜疑にとりつかれてもいた。しばしば浮かぶまぼろしを信じれば、子供がひとりいた。行く末の頼もしい、立派な体躯の若者だ。だがその姿はいつも曖昧で、はっきりしないばかりか、ときにまったくその像さえ結ばない。

 ある不幸な夕べ、わたしはあの事実と作り話がないまぜになった読み物でおなじみの低俗な手段を講じて、妻の貞淑さを試してみようと思い立ったのだ。街へ出かけ、妻には明日の昼まで帰れないだろう、と告げた。だが、夜の明ける前に帰宅して家の裏手に回り、鍵がかかったように見えるけれど、その実かからないように、こっそりと細工しておいた戸口から入ろうとした。近くまで来たとき、ドアが開き閉じる忍びやかな音が聞こえ、男が闇に消えていく姿を見たのだ。わき上がる殺意を胸に、男を追ったが、あいにく誰かもまったくわからぬまま、姿はかき消えてしまった。いまだにあれが人影であったかどうかさえ、わたしには判然としないときがある。

 嫉妬と怒りに我を忘れて、侮辱された男の憤怒で目がくらみ、獣と化して、家に入り階段を駆け上がると、妻の寝室のドアをめざした。そこも閉ざされていたけれど、そこの鍵にも裏戸と同じ細工をしておいたので、入るのは簡単だった。中は闇だったが、じき妻のベッドの傍らに立ったのだった。両手で探ったが、そこに妻はいない。

「一階にいるのだ」とわたしは思った。「わたしが入ってきたことに怯えて、暗い廊下に逃げ出したにちがいない」

 妻を捜そうと部屋を後にしたが、向きを誤ってしまった――そうしてちょうどそのとき! わたしの足が当たったのが、部屋の隅に蹲る妻だったのだ。悲鳴をあげさせまいと、妻の首に咄嗟に手をかけ、もがく身体を両膝で押さえつけた。闇の中で、とがめも叱責もしないまま、わたしは妻を窒息死させてしまったのだった!

 そこで夢は終わる。わたしは夢を過去形で語ったけれど、現在形のほうがぴったりくるような気がする、というのもこの凄惨な場面は繰りかえし意識によみがえり、再現されているからだ。何度も何度も、わたしは計画を練り、やったことを確認せざるをえず、過ちを正す。そうしてすべてが空白になる。やがて雨が薄汚れた窓ガラスを叩き、また別の時は、薄い服の上に雪が降り積もる。馬車がガタガタと通るうらぶれた街で、わたしは賤しい仕事に就き、貧しい暮らしを送っている。陽が照っていたことなど、わたしにはもう思い出せない。鳥は羽ばたいているかもしれないが、そのさえずりは聞こえない。

 もうひとつの夢は、それとはちがう夜の光景だ。月明かりの道の木陰に、わたしが立っている。もうひとり誰かがいるが、誰だかはよくわからない。大きな建物の影の中で、白い布がひらひらしている。次の瞬間、女が道の真ん中、わたしの目前に立つ――殺された妻だ! その顔は生ける者のそれではない。妻はとがめるでもなく、憎むでも、にらみつけるでもなく、ただわたしを認めて、じっと目をそらさない。この恐ろしい亡霊に向き合ったわたしは、畏れおののき、後ずさる――そう、こうして書いているこのときさえ、わたしは恐怖におののいているのだ。もはや筆跡を保っていることさえできそうにない……そう、この字がそうだ――

 わたしは落ち着きを取り戻した、だが、もはや語ることもない。出来事は始まったところで終わる――暗闇と猜疑の中で。

 そう、いまのわたしは自分を取り戻している。「魂の司令官」でいられる。けれどもこれは執行猶予ではない。償いの新たな局面なのだ。罪の贖いは、その苦しみの度合いは同じであっても、さまざまなありようが存在する。ひとつの変異としてあるのが、まったきの静寂といえよう。結局、どうであっても終身刑であることに変わりはない。「生きながらえるために地獄へ墜ちる」――これは愚かな刑罰だ。罪人は懲罰の期間は自分で選ぶ。今日、わたしの刑期は満了する。

 皆のもと、わたしとは無縁であった平安がもたらされんことを!

(この項つづく)