陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

闇を探す その3.

2006-03-30 22:32:26 | 
『おじいさんのランプ』で巳之助が予見したように、明治時代の末期には徐々に電燈が一般家庭にも入ってくる。

明治四十三年(1910)から翌年まで雑誌に連載された森鴎外の『青年』には、この入って間もない頃の電燈をめぐるいくつかの描写がある。

Y県から東京の一高に進学した小泉純一の下宿には、電燈が引いてある。(引用は青空文庫)

 純一はこんな事を考えながら歩いていて、あぶなく柏屋の門口を通り過ぎようとした。幸に内から声を掛けられたので、気が附いて戸口を這入って、腰を掛けたり立ったりした二三人の男が、帳場の番頭と話をしている、物騒がしい店を通り抜けて、自分の部屋の障子を明けた。女中がひとり背後から駈け抜けて、電燈の鍵を捩った。)

「電燈の鍵」というのは、各部屋ごとにスイッチなどない時代に「キーソケット」というものがあって、そこに鍵を差し込んで、点滅を行っていたのである。
あるいはこんな描写もある。

 こんな事を思って、暫く前から勝手の方でがたがた物音のしているのを、気にも留めずにいると、天井の真中に手繰り上げてある電燈が突然消えた。それと同時に、もう外は明るくなっていると見えて、欄間から青白い光が幾筋かの細かい線になってさし込んでいる。

「天井の真中に手繰り上げてある電燈」とは、当時の電燈が暗かったために、本などを読むときは手元を明るくするためにコードをのばしていた。そうして、それが「突然消えた」のは、事故や落雷による停電ではなく、明け方になると、発電所で発電機を停止していたのである。日本では大正時代まで、電燈線は夜だけ送電していたという(以上参考文献:照明文化研究会編『あかりのフォークロア』)。

鴎外自身の家に電燈を引くようになったのは、正確には不明だが、この作品が発表された前年の明治四十二年頃、さらに、夏目鏡子の『漱石の思ひ出』によると、「電燈は贅沢」といって許してくれなかった漱石が、大阪の湯川病院に入院中に、鏡子夫人の一存で、明治四十四年に引いた、とある。

けれどもそのころ一般に用いられていたのは、まだまだ中心は石油ランプだった。
だが、こうして明治の夜は次第に明るくなってくる。

(この項つづく)