陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ「ビザンチン風オムレツ」

2008-05-31 23:19:20 | 翻訳
今日からサキの短編「ビザンチン風オムレツ」の翻訳をやっていきます。
原文はhttp://haytom.us/showarticle.php?id=64で読むことができます。



ビザンチン風オムレツ(The Byzantine Omelete)

(前編)

 ソフィー・チャトル=モンクハイムは思想信条に基づいて社会主義者となり、婚姻に基づいてチャトル=モンクハイム家の一員となった。この富裕な一族の一員たる夫君は、彼の親族が名だたる財産家に数えられるのと同様に大金持ちだったのである。ソフィーは富の分配ということに関しては、きわめて進歩的かつ明快な見解を持っていた。つまり、自分もまた裕福であるのは、喜ばしくも偶然の成り行きに過ぎない、と。社交界の集まりでも、フェビアン協会の会議で、資本主義の害悪を猛烈に批判しているときでも、あらゆる不平等と不正が渦巻いているにせよ、この体制が自分の生きているあいだは持ちこたえるだろうという安心感を手放したことはなかった。他人に繰りかえし説いている大いなる幸福が、仮に将来実現したとしても、自分はそのころにはもはや生きていまいと思えることは、中年の社会改革主義者にとって大きな慰めなのである。

 ある春の夕刻、ほどなく夕食の時間になろうかという頃合いだった。ソフィーは鏡とメイドにはさまれて静かに腰をおろし、広く流行しているスタイルを巧みに反映した髪型に結ってもらっているところだった。あたりは平安に、努力と忍耐を重ねてやっと望みをかなえ、到達した地平がやはり望ましいものだった、とわかった人の平安である。シリア国王が賓客としてこの屋敷にお越しになることが決まり、しかもまさにいま、お着きになったところで、ほどなくダイニングルームの食卓の席に着かれようとしておられるのだ。正しき社会主義者のひとりとして、ソフィーは社会的差別は認めないし、王位などという概念を軽蔑していたが、現実にこうした人為的位階というものが存在している以上、高貴なる階級の高貴なる実例を、自分の屋敷で開かれるパーティに加えるということは、うれしいことであり、かつまた望ましいことでもあることに変わりはない。罪を憎んで人を憎まぬほどに寛容なる精神のもちぬしであったのだ――ほとんど知ることもないシリア国王に暖かい個人的な親愛の情を抱いているわけではなかったが、とはいえシリア国王としていらっしゃってくださるのだからこれほどありがたいことはない。なぜありがたいかを聞かれても答えようがなかったが、誰もそんな説明は求めなかったし、多くの女主人たちは彼女を大いにうらやんだ。

「特別に腕によりをかけてちょうだい、リチャードスン」満ち足りた調子でメイドに言った。「とびきりきれいにしておかなくてはね。みんながとびきりのところを見せなきゃならなくてよ」

 メイドは何も答えなかったが、懸命なまなざしや、たくみな指さばきを見れば、彼女がとびきりのところを見せようとしているのはあきらかだった。

 ドアをノックする音が聞こえた。落ち着いた音だが、無視されることがあろうとは毛頭思っていない者の居丈高な音だった。

「誰だか見てきてちょうだい」ソフィーが言った。「ワインのことかしらね」

 リチャードスンはドアの向こうの姿を見せない誰かとあわただしく言葉を交わした。やがて戻ってくると、それまでのしゃきっとした態度はどこへやら、うってかわって物憂げな様子になっている。

「どうしたの?」ソフィーは尋ねた。

「奥様、屋敷の召使い一同『職場放棄』をすることになりました」

「なんですって?」ソフィーは叫んだ。「ストライキをやるっていうの?」

「そうでございます、奥様」リチャードスンはつけ加えた。「ガスペアが問題なのでございます」

「ガスペア?」いぶかしげにソフィーは言った。「臨時のシェフね! オムレツの専門家!」

「そうでございます、奥様。ガスペアはオムレツの専門家になる前、従僕をしておりましたが、二年前、グリムフォード卿のお屋敷で一斉ストライキが行われたときにスト破りをした一員だったのでございます。召使いはみな奥様がガスペアをお雇いになったことがわかってすぐに、抗議の意をこめて『職場放棄』を断行することに決定いたしました。奥様に対しては不満はございませんが、ガスペアを即時解雇を要求しております」

(この項つづく)

サキ「平和的なおもちゃ」後編

2008-05-30 22:36:33 | 翻訳
(後編)


 ハーヴェイは書斎に引っ込むと、三、四十分のあいだ、小学校で使えるような歴史書の編纂は可能だろうかと考えていた。戦闘や虐殺、血なまぐさい陰謀や変死にはっきりとしたかたちでは触れないですませるのだ。ヨーク朝やランカスター朝、あるいはナポレオンの時代など、どう考えてもきわめてむずかしいだろうし、三十年戦争にまったくふれないとすると、歴史に穴を開けてしまうことになる。それでも、もしあの影響を受けやすい年頃に、子供たちがスペインの無敵艦隊やワーテルローの戦いにかまけるかわりに、更紗模様を考案するならば、多くのものが得られるにちがいなかろうに。

 そろそろ時間だ、と考えた。子供部屋に行って、彼らがあの平和的なおもちゃでどのように遊んでいるか見てやろう。ドアの前に建つと、エリックが命令を下している声が聞こえてきた。バーティも合間合間にアイデアを出して協力している。

「そいつはルイ十四世だ」エリックが言っていた。「膝丈の半ズボンをはいてる、叔父さんが日曜学校をこしらえた人だっていったやつ。ちっともルイ十四世っぽくないんだけど、仕方ない」

「もうちょっとしたら、絵の具を使って、紫の上着にしてやろうよ」とバーティが言った。

「そりゃいいな、それにヒールを赤くしてやろう。それはマダム・ド・マントノン、おじさんがミセス・ヘマンズって言ってたやつ。マダム・ド・マントノンはルイに、今度の遠征には行かないでくれ、って頼んだんだけど、ルイは聞く耳を持たなかったんだ。遠征にはサクス元帥を同行させたから、ぼくらも千人の兵隊を連れて行ったことにしよう。合い言葉は“Qui vive?(誰だ)”に対して答えは“L'etat c'est moi(朕は国家なり)”だ――ルイ十四世のお気に入りのせりふだったんだぜ。真夜中、マンチェスターに上陸して、ジャコバイトの共謀者が要塞の鍵を渡すんだ」

 ハーヴェイがドアの隙間からそっとのぞいてみると、市営集塵庫は、穴がいくつも開けられて、空想上の大砲の砲口が出せるようにしてあり、いまやマンチェスターの主要防衛拠点となっていた。ジョン・スチュアート・ミルは赤インクに浸されて、どうやらサクス元帥の代理となっているらしい。

「ルイは自分の軍隊にYWCAを包囲して、大勢の人を拿捕するように命令を出すんだ。『ひとたびルーヴルに帰れば、女たちはみな余のものじゃ』ってルイが叫ぶんだ。ミセス・ヘマンズにもう一度来てもらって、そこの女のひとりにしなくちゃ。その女は言うんだ。『決してそんなことはさせません』って。そう言って、サクス元帥の心臓を刺す」

「すごく血が出るよね」バーティが叫び、YWCAの正面に気前よく赤インクをぶちまけた。

「兵隊たちが殺到して、元帥を殺したことで、最高に残虐な復讐をする。百人の女が殺される」――ここでバーティが赤インクの残りを信仰厚い建物にぶっかけた――「そして生き残った五百人はフランス船に連行されるんだ。“わしは元帥を失った”ってルイは言う。“だが、徒手では帰らぬぞ”」

 ハーヴェイはそっと子供部屋を離れて、姉のところへ行った。

「エリナー」彼は言った。「実験は……」

「どう?」

「失敗だ。始めるのが遅すぎた」



The End

サキ「平和的なおもちゃ」中編

2008-05-29 22:40:11 | 翻訳
(中編)

 イースターの土曜日、ハーヴェイ・ボウプは大きくな、いかにもいいものが入っていそうな赤い段ボールの箱の包みを、期待で目を輝かせている甥っ子たちの前で解いた。

「叔父さんはね、あなたたちに最新型のおもちゃを持ってきてくれたのよ」エリナーがもったいをつけてそう言ったので、子供たちはてんでに、ぼくはアルバニア軍だと思うな、きっとソマリアのラクダ部隊だよ、と固唾を呑んで待ち受けた。エリックは後者の偶然を期待していた。「馬に乗ったアラブ人が入ってるんだ」とささやく。「アルバニア軍はカッコいい軍服を着てるし、朝から晩まで戦闘を続ける。おまけに夜だって、月さえ出れば戦うんだ。だけど国土が岩だらけだから、騎兵はいない」

 蓋を開いたとき、最初に目に飛び込んできたのは、カサカサ音をたてる大量の紙くずの詰め物だった。とびきりおもしろいおもちゃはいつだってここから始まるのだ。ハーヴェイはてっぺんの詰め物を押しのけると、四角い、これといった特徴もない建物を取り出した。

「要塞だ!」バーティが歓声をあげた。

「ちがうさ、アルバニアのムプレトの宮殿だよ」エリックは言ったが、「ムプレト」などという珍しい称号を知っているのが得意でしょうがないらしい。「窓がないだろ、これは外部から王族に対して発砲できないようになってるんだ」

「これは市営の集塵庫だよ」ハーヴェイはあわてて言った。「町のガラクタやごみをここに集めておくんだ。そこらに転がしておくと、町の人の健康が損なわれるだろう?」

 おそろしいまでの沈黙のさなか、ハーヴェイが取り出したのは、小さな鉛の人形で、黒い服を着た男である。
「これは名だたる文民、ジョン・スチュワート・ミルだ。彼は政治経済学の大家だよ」

「なんで?」バーティが聞いた。

「たぶん、彼がそうなろうと思ったんだろう。政治経済学は有益な学問だと思ったんだよ」

 バーティは意味深長なうなり声をあげたが、そこには“たで食う虫も好きずきだからな”という彼の感想がこめられていた。

 さらに四角い建物が出てきたが、今度は窓も煙突もついている。

「キリスト教女子青年会(YWCA)のマンチェスター支部の模型だ」とハーヴェイが言った。

「そこにはライオンがいる?」エリックが希望を託すように聞いた。ローマ古代史を読んでいたので、キリスト教徒がいるようなところであれば、ライオンが数頭いても理にかなっているだろうと思ったのである。

「ライオンはいない」ハーヴェイは答えた。「ここにもうひとり文民がいる。ロバート・レイクスだ。日曜学校の創設者だよ。この模型は市営の洗濯場だ。この小さな丸っこいものは衛生的なパン工場で焼いたパンだよ。この鉛の人形は衛生検査官で、こっちは地方議員、こっちは地方自治体の職員だ」

「その人、何するの」うんざりしたようにエリックが聞いた。

「自分の部署に関連した仕事をやるんだ」ハーヴェイが答えた。「この溝のある箱は投票箱だよ。選挙のときは投票用紙をこの中に入れる」

「ほかのときには何を入れるの?」バーティが聞いた。

「何も入れない。あと、これはいろんな仕事道具だ。手押し車に鍬、それにたぶんこの何本もあるのは、ホップをはわせる支柱なんだろうなあ。これはミツバチの巣箱の模型、こっちのは換気扇だ、下水施設の換気をするんだな。市営の集塵庫がもうひとつ出てきたと思うだろう、だが、こっちは美術学校と公営図書館の模型だ。この小さな鉛の人形は、ミセス・ヘマンズ、女流詩人だよ。こっちはローランド・ヒル、ペニー郵便制の創設者だ。そうしてこれがサー・ジョン・ハーシェル。高名な天文学者だ」

「で、ぼくらはこの民間人の人形で遊ぶの?」エリックが聞いた。

「もちろん。これは全部おもちゃだからね。遊ぶためにある」

「だけど、どうやって?」

 これはなかなかの難題だった。「このなかのふたりにイギリス議会の議席を争わせたらどうだろう」とハーヴェイは言った。「選挙をして……」

「腐ったタマゴをぶつけたり、乱闘して、大勢の人が頭を割られるんだね!」エリックが歓声をあげた。

「それから、みんな鼻血を出したり、酔っぱらったりもするんだ」バーティがそれに合わせた。ホガース(※イギリスの風刺画家)の絵を注意深く見ていたのである。

「そういうのではないんだ」ハーヴェイは訂正した。「そういうのとは全然ちがう。投票用紙を投票箱に入れて、市長がそれを数える――そして、どちらが多く得票したか発表する。ふたりの候補者は、市長に向かって、議長を務めてくれたことのお礼を言ってから、お互いに対しては、気持ちの良い、不正のないやり方で行われた選挙戦だった、と言って、お互い相手に対する敬意を表明して別れるんだ。すごく楽しいゲームだし、おまえたちも遊んでごらん。ぼくが子供のころにはこんなおもちゃはなかったよ」

「いまはそれで遊ばない」エリックは、叔父が見せた熱意のかけらさえ見せずに言った。「たぶん、休暇中の宿題をやった方がいいと思うんだ。今度は歴史だよ。フランスのブルボン王朝についていろんなこと勉強しなきゃ」

「ブルボン王朝ぁ」ハーヴェイの声は不満の意がにじんでいた。

「ルイ十四世のことを調べるんだ」エリックは続けた。「ぼくはもう主要な戦闘の名前は全部覚えたよ」

 断じてこういう事態はいけない。「もちろん彼の在位中にも戦闘はいくつかあっただろう。でも、おそらくその文章は、かなり大げさに書いてあるだろうな。当時、ニュースなんてものは、信頼できるようなものではなかったし、そもそも従軍記者なんてものがいなかったんだからね。だから将軍だろうが隊長だろうが、自分たちが関わったちょっとした小競り合いを、天下分け目の戦闘の規模まで大げさに言うんだ。ルイは確かに有名だった。だが、風景式庭園の設計者としてだな。ヴェルサイユの設計は実際たいしたもので、ヨーロッパ中にそっくりなものができるほど、高く評価されたんだ」

「デュ・バリー夫人(※ルイ十五世の愛妾)のこと知ってる?」エリックが聞いた。「この人も首をちょん切られたんじゃなかったっけ?」

「この人も庭造りを愛した人だった」ハーヴェイはそう言って逃げを打った。「実際、有名なデュ・バリーという種類のバラは、この人の名前を取ったんだ。ところで、おまえたち、いまはちょっと遊んで、勉強はもうちょっとあとにしたらどうかな」


(人気のない「平和的なおもちゃ」はどうなるのか。それは明日明らかに!)

サキ「平和的なおもちゃ」前編

2008-05-28 22:35:48 | 翻訳
サキのつぎの短編は "The Toys of Peace" です。
原文はhttp://haytom.us/showarticle.php?id=85で読むことができます。



平和的なおもちゃ(前編)


「ハーヴェイ」エリナー・ボウプは弟にロンドンの三月十九日付の朝刊の切り抜きを渡した。「ねえ、ちょっとこれを読んでみて、子供のおもちゃについてのところ。これ、影響と教育についてのわたしたちの考えを、そのまま実践してるわよ」

「全国平和競技会の見解によれば」と切り抜きは言う。「我が国の少年層に兵士連隊や砲兵隊、『ドレッドノート型戦艦』の小艦隊のおもちゃを与えることには、極めて重大な難点がある。評議会としても、少年たちが本能的に闘いや武器を好むことは認める……だが、彼らの原始的な本能を涵養し、あまつさえそれを恒常的資質として植え付ける必要はない。児童福祉博覧会が三週間に渡りオリンピアで開催されるが、平和評議会は「平和的なおもちゃ」を展示することで、保護者に向けて、それに代わるものを提案したいと考えている。ハーグの平和宮の彩色像を取り囲むのは、ミニチュアの兵隊ではなく、ミニチュアの文官であり、銃の代わりに農具や工作機器である……。玩具生産者もこの展示から示唆を受けることを期待する。玩具店の店頭でもその成果が披露されんことを。」

「確かにこの考えは興味深いし、まちがいなく善意から来たものだろうね」ハーヴェイは言った。「でも、実効性があるかどうか……」

「やってみましょうよ」姉は最後まで言わせなかった。「あなた、イースターには家に来て、子供たちにおもちゃをプレゼントしてくれるでしょう? 新しい実験を始めるには願ってもないチャンスじゃない。おもちゃ屋に行っておもちゃでも模型でも、もっと平和的視点をもった、民間人の生活を体現するようなものを買ってきてよ。もちろん子供たちにはそのおもちゃのことを説明して、この新しい考え方に興味をちゃんと持つようにしてやってちょうだい。スーザン叔母さんがあの子たちに送ってくれた『アドリアノープルの闘い』の模型は、悲しいことに説明するまでもなかったのよ。軍服だろうが軍旗だろうが、敵味方の司令官の名前まで知ってるの。ある日なんか、きわめつけの悪い言葉を使ってるのが聞こえてきたのね、あの子たちったらそれをブルガリア語の命令だなんていうのよ。もちろん、そうかもしれないけどね、とにかくわたしはそのおもちゃを取り上げることにしたわ。だから、あなたがイースターに贈ってくれるプレゼントが、子供たちの心に新しい感情と方向付けを与えてくれるのを、すごく期待してるのよ。エリックはまだ十一歳にもならないし、バーティときたらたった九歳と半よ、あの子たち、ほんとに影響を受けやすい年代なの」

「原始的な本能は一応、考慮しておかなくちゃ」ハーヴェイは、どうかな、という顔で言った。「それに遺伝的な傾向もある。あの子たちの大伯父にあたるひとりは、インケルマンの戦いに参加して、それはそれは残虐な振る舞いをしたんだよ、確か。それにひいじいさんにあたる人は、1832年の選挙法改正条例が通貨したとき、近所のホイッグ党員の温室をぶちこわして歩いたんだ。まあ、姉さんの言うとおり、あの子たちが影響を受けやすい年頃であることにはまちがいない。とりあえずやってみるよ」


(平和的なおもちゃは功を奏するか。明日につづく)

サキ「シャルツ=メッテルクルーメ式教授法」後編

2008-05-27 22:23:14 | 翻訳
(後編)

* * *

「あなたたち、こんなところで何をしているの?」翌朝、ミセス・クォーバールは、階段のてっぺんに陰気な顔をしてすわりこんでいるアイリーンと、後ろの出窓にオオカミの毛皮をかぶって腰かけて、おもしろくなさそうな顔をしている妹のヴァイオラを見つけて聞いた。

「わたしたち、歴史の授業を受けてるの」と思いもよらない答えが返ってきた。

「わたしがローマっていうことになってるの。で、あそこにいるヴァイオラは、メスのオオカミなのよ。っていってもほんとのオオカミじゃなくて、ローマ人があがめたオオカミの銅像なの――なんであがめたのか忘れちゃったけど。でね、クロードとウィルフリッドはみすぼらしい女の人を探しに行ったの」

「みすぼらしい女の人ですって?」

「そうよ。お兄ちゃんたちはその人たちを連れてこなくちゃならないの。いやだ、って言ったんだけどね、ホープ先生がパパのファイブズ(※イギリスの寄宿学校で行われたスカッシュに似た球技)のバットを持ってきて、行かなきゃこれで九発お尻をひっぱたいてやるわよ、って言ったから、行かなきゃならなくなったのよ」

 怒鳴り声が庭の方から聞こえたので、ミセス・クォーバールは大慌てでかけつけた。この瞬間にも恐ろしい体罰が加えられているのかもしれない、と思うといてもたってもいられなかったのである。

だが、大声でわめいているのは、おもに門番小屋の小さな女の子ふたりで、その子たちを家の方向に引きずったり押し立てたりしているのは、はあはあ言いながら髪を振り乱したクロードとウィルフリッドなのである。あまつさえ捕らえられた少女たちの弟が、効果的とは言えないまでも、攻撃の手をゆるめないために、ふたりの任務はさらに困難の度を増している。

家庭教師はファイブスのバットを手に持ったまま、石の手すりに平然たる面もちで腰をおろし、戦場の女神のごとく一場を冷静かつ公平無私に仕切っていた。

「かあぁぁちゃんに言いつけてやるぅぅ」と怒りに満ちたコーラスが門番小屋の子供たちによって繰りかえされるが、門番のおかみさんは、耳が遠いため、目下洗濯に余念がない。不安そうなまなざしを小屋に注いでから(善良なるおかみさんは、ある種の難聴者に特権として与えられている、きわめて好戦的な資質のもちぬしであったのだ)ミセス・クォーバールは、人質と格闘している息子たちを救助に駆けつけた。

「ウィルフリッド! クロード! すぐにその子たちを離しなさい! ホープ先生、これはいったいどういうことなんですの?」

「古代ローマ史です。サビニ女の略奪をご存じじゃございません? 子供たちが歴史を自分で体験することによって理解するのがシャルツ=メッテルクルーメ式教授法なんです。記憶に刻みつけられますからね。当然のことながら、あなたの結構なお節介のおかげで、ご子息がサビニ女たちは最終的には逃亡したのだと一生誤って理解したとしても、わたしの責任ではありません」

「あなたは大変聡明で、現代的な方なんでしょう、ホープ先生」ミセス・クォーバールは厳しい口調で言った。「でも、つぎの汽車でここを出ていってくださるようお願いします。あなたの荷物は到着次第、そちらに送りますから」

「どこへ落ち着くことになるかなるかわかるまで、数日はかかると思います」首になった家庭教師は言った。「電報で住所をお知らせしますから、それまで荷物を預かっておいてください。トランクがふたつか三つと、ゴルフクラブが数本、あとヒョウの子が一頭いるだけですから」

「ヒョウの子ですって!」ミセス・クォーバールは喉の奥で妙な声を出した。この途方もない女は出ていったあとさえ、困惑の余波を残していく運命にあるのか。

「もうね、子供とは言えなくなってきてるんです、おとなになりかけ、と言った方がいいのかしら。毎日ニワトリ一羽、日曜日にはウサギ、それがいつものエサです。生の牛肉をやると気が荒くなってしまって。ああ、わたしのために車のご用意はしていただかなくて結構です。散歩しながら行ってみたいんです」

 そうしてレディ・カーロッタは元気良くクォーバール家の地平から去っていったのだった。

 本物のホープ先生が登場して(到着予定の日を一日間違えていたのである)、その善良な女性が未だ経験したことのないほどの騒動に直面することとなった。クォーバール一家がまんまと一杯食わされたことはどう考えても明らかだったが、それがわかって、みんながほっとしたことも事実である。

「ずいぶん大変な目に遭ったんでしょうね、カーロッタ?」彼女を招待した家の女主人が、やっと到着した客に向かってそう言った。「汽車に乗り遅れて、見ず知らずの場所で一泊しなきゃならなかっただなんて」

「あら、そんなことなかったわ」とレディ・カーロッタは言った。「ちっとも大変な目になんて遭ってないのよ――わたしはね」


The End


この話の背景にはローマの建国伝説があります。(※参照王政ローマ
アイリーンがやっているのはローマ神マルスを待つ巫女のシルウィアで、ヴァイオラがやっているのは、ロムルスとレムを育てるオオカミ(笑)なんでしょうね。
ロムルスとレム、ではなく、クロードとウィルフリッドは、サビニ女の略奪を実演させられている。

You Tube でこれのドラマ化を見ることができます。「サビニ女」はメイドになっちゃってますが。とってもイギリスらしい英語の発音を聞くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=e2G0U0VUI9g


関係ないんですがYou Tubeのこのページを開くと、横にニルヴァーナの"About A Girl"のMTVのアンプラグドの映像がアップしてあって、その昔、何度も何度もこれを見たことを思い出しました。この曲もよく聴いた。カート・コバーン、このときはまだ生きてたんだよなあ……。

サキ「シャルツ=メッテルクルーメ式教授法」中編

2008-05-26 22:14:12 | 翻訳
(中編)

「フランス語に関しましてはね、もちろん週の何日かは、お食事のあいだフランス語で会話していただきたいんですの」

「週の四日はフランス語で、あとの三日はロシア語を使うつもりでおります」

「ロシア語ですって? おやまあ、ホープ先生、宅ではだれもロシア語を話しませんし、わかりませんわ」

「そのくらいのことはわたしにとってはなんでもありません」レディ・カーロッタは冷たく言い放った。

 ミセス・クォーバールは、口語表現でいうところの「とっちめられた」状態に陥ったのである。 なにしろ、世間によくいる中途半端に自信がある連中のひとりだったので、相手が正面切って反論してこない限りは、断固たる独裁者ぶりを発揮することもできた。 だがほんのちょっとでも予想外の抵抗を見せられるだけで、それからさきは脅しに屈し、弁解がましい態度になってしまうのである。新しい家庭教師が、買ったばかりの大型の高級車を前にしても、いっこうに驚くそぶりも見せず、感心したようなことを言うでもない。それどころか、つい先頃売り出された新車の話を持ち出して、その性能の良さなどをそれとなく口にするのを聞いてしまえば、女主人らしいところを見せようとする思惑など、すっかりうちのめされ、見る影もなくしおれてしまった。おそらく夫人の心情は、古代の戦乱の日々、だれよりも大きな戦闘用の象に乗って戦場に繰りだしてみれば、平原は投石器や槍を投げてくる連中が待ちかまえていて、おめおめと退却を余儀なくされた将軍の心情そのものだっただろう。

 夕食の席では、たいがい妻の言葉を繰りかえし、道徳意識に加勢する夫が応援してくれていたにもかかわらず、ミセス・クォーバールは自分が失った陣地を少しも取りもどすことはできなかった。家庭教師はまったく好きなだけワインを飲んだばかりか、各種ヴィンテージ・ワインの蘊蓄を延々と披露して、クォーバール夫妻はその道に詳しいふりすらもできなかったのである。以前の家庭教師ときたら、ワインを話題にしようにも知識などほとんどなく、主人に対する敬意だけでなく、おそらくそれが本心でもあったのだろう、水で結構です、と言っていたものだったが。今度の家庭教師ときたら、ワイン醸造所の紹介まで始める始末である。ミセス・クォーバールは話題をもうすこし当たり障りのない方向へ持っていこうとした。

「わたくしたち、あなたのことでは聖堂参事のティープ様から立派な推薦状をいただいたんですのよ。参事様はすばらしい方ですから」

「浴びるように酒を飲んで、奥様を殴ることさえしなかったら、なかなか愛すべき性質をお持ちの方なんですけどね」と家庭教師はこともなげに言った。

「おやおや、ホープ先生ったら! あなた話をずいぶん大げさにしていますよ」クォーバール夫妻が声をそろえて叫んだ。

「公平を期すなら、確かに挑発と受けとられても仕方のない行為はあったでしょうね」と作り話の名人は続けた。「ミセス・ティープほど、いっしょにブリッジをやっていらいらさせられる人は見たことがありませんから。最初の手を出すときも、宣言するときも、あの人が一緒だと、パートナーはずいぶん残忍な手を見逃さなきゃならなくなってしまうんですもの。おまけに日曜日のお昼に家にあったたった一本の炭酸水を、ひとりでまるごと飲んでしまうような人なんですものね。日曜のお昼だと、もう新しいのを買いに行くこともできやしないじゃありませんか、なのにほかの人の楽しみなんて目じゃないんですから、そういうところをちょっと見逃す気にはなれませんでした。わたしが判断を早まったふうに思われるかもしれませんが、わたしがあのお屋敷をおいとますることにしたのは、実はそのソーダの一件があったからなんです」

「その話はまたの機会にしましょう」ミセス・クォーバールはあわてて言った。

「そのことにはもう二度とふれるつもりはありません」家庭教師はいやにきっぱりとそう言った。

ミスター・クォーバールは、会話を適切な方向へと導くべく、明日、最初はいったい何を教えるつもりかと尋ねた。

「最初は歴史です」家庭教師は伝えた。

「ほう、歴史ですか」したり顔で続ける。「子供たちに歴史を教えるには、彼らに自分が学んでいることに興味を抱くよう、心がけてください。実際に生きていた男たちや女たちの人生の物語として教え込んでいただきたいのです」

「そういうことはわたくしからお話しておきました」ミセス・クォーバールが割って入った。

「わたしは歴史をシャルツ=メッテルクルーメ式教授法で教えています」家庭教師は威厳にあふれる口調で言った。

「それは結構」聞き手二人は、ここは名前だけでも知っているふりをした方が利口だと思ったのであろう、そう答えた。

* * *

(今日は疲れたのでここまで。「シャルツ=メッテルクルーメ式教授法」とはどんなものなのか、は、明日あきらかになります。)

サキ「シャルツ=メッテルクルーメ式教授法」前編

2008-05-25 22:53:15 | 翻訳
今日からサキの短編をいくつか訳していきます。
今日は「シャルツ=メッテルクルーメ式教授法」の前編です。
原文はhttp://haytom.us/showarticle.php?id=57で読むことができます。


The Schartz-Metterklume Method 
シャルツ=メッテルクルーメ式教授法


(前編)

 レディ・カーロッタは街道沿いの小さな駅に降り立って、なんのおもしろみもなさそうなホームを行ったり来たりしながら、汽車がまた機嫌を直して先へ進む気になるまでの暇つぶしをしていた。すると、向こうの街道で、一頭の馬が相当量を遙かに超える積荷を相手に格闘しているのが見えた。御者はというと、日々のたつきを立てる助けとなっているはずの生き物に対して、憎悪を抱く手合いのようである。レディ・カーロッタは即座に街道へおもむくと、格闘の形勢を一変させた。

知人のなかには、虐待された動物になりかわって、口出しはおよしなさい、と口うるさくお説教を始める輩もいるにはいた。そうした口出しなど「あなたには何の関係もないないんだから」というわけである。ただ一度、彼女がその不干渉主義を実行したことがあるのだが、それは不干渉主義者のなかでも雄弁で名高い人物が、イノシシに追いかけられて、小さくたいそう居心地の悪いサンザシの繁みのなかに、三時間近く籠城する羽目になったときのことである。そのあいだレディ・カーロッタは柵の向こうで描きかけの水彩画のスケッチを続け、イノシシとイノシシの虜囚のあいだに割って入ることは拒否したのだった。レディ・カーロッタが、最終的に助け出された婦人との友情を失ったことは、きわめて残念なことであった。

今回は、 汽車に乗り遅れただけですんだ。汽車は今回の道中で初めて焦りの色を見せたかと思うと、彼女抜きで走り去ってしまったのだ。レディ・カーロッタは哲学者のような無関心さでもって、見捨てられたことを受け止めた。友人であれ、親族であれ、本人の姿もないのに荷物だけが届くような事態には、すっかり慣れっこになっていたからである。

レディ・カーロッタは自分を待つ人びとに、自分は「ホカノキシャニテ」と、あやふやで当たり障りのない電報を打った。このあとどうすべきか考える前に、着飾って堂々たる物腰の女性に相対する羽目になったのである。相手はどうやら胸の内で、彼女の身なりや外見を調べ上げるのに余念がない様子である。

「あなた、ミス・ホープでいらっしゃるわね、わたくしとここで待ち合わせした家庭教師の方でしょ」不意に現れたその人物は、いかなる反論も許さない調子でそう言った。

「だったらいいんですけどね」レディ・カーロッタは自らの危険もかえりみず、反論もしないで独り言のようにそう言った。

「わたくし、ミセス・クォーバールです」その夫人は続けた。「それで、あら、あなたのお荷物はどこ?」

「行方不明になってしまったんです」家庭教師と決めつけられたレディ・カーロッタは、不在者がつねに責めを負う、という人生の黄金律に基づいて答えた――事実に基づくならば、荷物の側になんら落ち度がなかったことは言うまでもない。

「荷物のことで、いまちょうど電報を打ったところだったんです」と付け足して、多少なりとも真実に近づけておいた。

「まったく鉄道会社の不注意なことといったら」とミセス・クォーバールは言った。「ひどい話だわね。だけどあなた、今夜は家のメイドのものを借りたらいいわ」そう言うと、先に立って車の方へ歩いていった。

クォーバール邸へ車で向かう途中、レディ・カーロッタは、自分に押しつけられることになった教え子の性質を、入念に聞かされることになった。それによると、クロードとウィルフレッドは繊細で感じやすい子供で、アイリーンは芸術的な気質を持ったたいそう優秀な子供、ヴァイオラはなんとかかんとかの面で、二十世紀のこの階級にありがちなタイプの子供たちによく見られるようなタイプではない子供だということである。

「わたくしは子供たちを教えていただければいいと思っているのではございませんの」ミセス・クォーバールは言う。「そうではなく、学ぶことに興味を持たせていただきたいんですのよ。たとえば歴史の授業でしたら、実在した男性や女性の人生の物語として子供たちが感じられるよう教えてやってほしいのです。単に名前や出来事の年代を覚えるというだけでなくね」

(この項つづく)

捜し物はなんですか

2008-05-24 23:16:40 | weblog
電車から降りるときに、切符が見あたらない、というのは厄介なことだ。何度かそういう経験をして、なるべく入れる場所を決めておくようにしているのだが、ついうっかりそこ以外の場所に入れてしまったらもう大変だ。いくつもあるポケットを順番に探し、そこからかばんのポケットや財布のなかを探し、それでも見つからなければ、かばんの中身をいちいち改めなくてはならない。薄っぺらい切符だから、本のあいだにでもはさまってしまうと、見つけるのは一大事なのである。

それでもどうしても見つからない、となると、仕方がない。改札で「すいません、切符を落としてしまったんですが」と駅員さんに頭をさげる。
「どこからですか」
「××からです」
「いくらでした?」
「△△円でした」
「今回は結構ですので、つぎからは気をつけてください」
たいていこういう問答になって、すいませんでした、と頭を下げて、改札を出る。

このときに払うつもりで財布を手に持っているのだが、実際にお金を払ったことはない。自分でもときどき財布をにぎっているのは、単にポーズのような気がしないではないのだが、実際に請求されたら、もしかしたらちょっとムッとしてしまうかもしれない。もちろん悪いのはなくしてしまった自分なのだが。

ところが家に帰ると、あれほど探して見つからなかった切符が、胸ポケットのポケット側(身ごろではないほう)の裏地にぴったりとはりついていたりして、ひょいと見つかるのである。決して意外なところから出てきたりはしないのだ。考えてみれば、そんなに突飛な場所に入れるはずがないのだから、それも当たり前のことなのだが。

探しているときというのは、ものは見つからないものだ、としみじみ思う瞬間である。なんで探していないとき、こんなに簡単に見つかるのだろう。

本のなかでも「あれはどこにあったか」と探しているときは、なかなか見つからなかったりする。
逆に、何を調べるわけでもない、でも、何かが見つかるんじゃないか、と思ってぱらぱらめくっているときというのは、たいてい、ああ、わたしはこれを探していたんだ、ということが、向こうの方から見つかるように思うこともある。

このまえ、啄木について何か書こうと思ったのも、そんな感じだった。
何か書こう、と思って、ばくぜんと本の背表紙を見ているときに、ひょいと見つかったものだった。

なにかひとつでも、気持ちにひっかかるものがあったら、と思います。
更新情報も書きました。

http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/index.html


サイト更新しました

2008-05-23 22:37:11 | weblog
以前ここに連載していた石川啄木にまつわるあれやこれやを加筆・修正して「啄木と言葉のふるさと」としてアップしました。

明日あたりにちょっと書き足すかもしれませんが、まあとりあえず今日はここまで、ということで。更新情報は明日書きます。
興味のある方は、またそのうち見てみてください。

今日は急に暑くなっちゃいましたよね。どうも季節の変わり目というのは急に来るみたいです。どうかみなさまお元気で。
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バンドエイドの箱に入ったサビオ

2008-05-22 22:17:53 | weblog
「サビオ持ってない?」と聞かれて、何のことかわからなかったことがある。「バンドエイド」のことだと知って、驚いた。のちに、「カットバン」と呼ぶ人がいることも知った。

ものの名前には、「もっともふさわしい呼び名」というものがある。たとえば小銭入れのなかの十円玉を、「貨幣」と呼ぶこともできるし、「硬貨」と呼ぶこともできる。「銅貨」と呼んでも「コイン」と呼んでもいいし、「金属の物体」とも呼べるし、「茶色い円盤」と呼んでも差し支えない。だが、「十円」というのが「真の名称」であるとだれもが感じているにちがいない。

なぜ十円玉の真の名称が「十円」であって、「1965年製造の十円」ではないのか。
子どもの頃、お菓子を買うという行為をするときに、「その飴玉は10円だよ」と駄菓子屋のおばさんから要求されたのは、「10円」なのであって、決して「1965年製造の10円」などではなかったのです。私たちは売買という行為の文脈の中で覚えたこの「10円」という名前を真なる名称である、と感じているのです。
 このように私たちが習得してきた基本的な言葉にはどれも何らかの行為や動作が伴っています。
(青木克仁『認知意味論の哲学』大学教育出版)

わたしたちがそれまで知らなかったものに出会う。それが何であるか、わたしたちは行為や動作として理解しながら、同時にそのものの名前を覚えていく。そのときの名前が「真の名称」ということになるのだ。

小さな頃、転んでケガをしたり、指を切ったりしたときに貼ってもらった「行為や動作と結びついた」救急絆創膏は、「バンドエイド」だった。だからわたしにとっては「バンドエイド」が「真の名称」なのだが、「サビオ」と呼ぶ人にとっては、「サビオ」こそが「真の名称」なのだろう。そうしてもはや実際に貼るのがバンドエイドであっても、その人がケガをして貼るのは「サビオ」なのである。

以前にも引用したことのある小田嶋隆のこの文章

貧困とは昼食にボンカレーを食べるような生活のことで、貧乏というのは、ボンカレーをうまいと思ってしまう感覚のことである。ついでに言えば、中流意識とは、ボンカレーを恥じて、ボンカレーゴールドを買おうとする意志のことだ。
(小田嶋隆『我が心はICにあらず』光文社文庫)

これに出てくる「ボンカレー」も、「レトルトカレー」でも「ククレカレー」でもいいのだが、やはりここでぴったりくるお湯で温めてご飯にかける「あれ」の「真の名称」は「ボンカレー」なのだろう。

そういえば「モス・バーガーのマックシェイクはおいしい」という不思議な言い方を聞いたこともある。その人にとって、あの「シェイク」は「マックシェイク」が「真の名称」で、たとえモス・バーガー(これはハンバーガーを指すのではなく店の名前)で販売されている「シェイク」であっても「マックシェイク」なのだろう。

さて、これはわたしだけなのかどうなのかよくわからないのだが、わたしはそれまで知らなかった人を「あれは~さんよ」と教えてもらったら、そのときの「~さん」という呼び名が「真の名称」となってしまう。

たとえばそれが「山田さん」だったら、その人はそれ以降もずっとわたしのなかでは「山田さん」だし、「じゅんちゃん」と聞いたら、ずっと「じゅんちゃん」のままだ。ドリーム・シアターのボーカルは「ラブリエさん」と教えてもらったので、以来ずっと「ジェイムズ・ラブリエ」ではなく「ラブリエさん」だし、一度などはある人を「××のババア」という呼び名で聞いてしまったので、その人を話題にしなければならないときは頭の中に浮かぶ「××のババア」を、いちいち「××さん」と翻訳し直して口にしていたのでえらく疲れてしまった。だが、そのあともやはり、わたしにとってその人は、「××のババア」で在り続けたのだった。

とはいえ、こうした呼び名というのは、聞いたのはたった一度きりなのである。反復する行為や動作として、理解しつつ覚えていった名前ではない。だから、実は、変更しようと思えば、その気にさえなるならば、簡単なのである。実際、「コバヤシさん」と聞いたように思った人が「コバシさん」だった、というようなことだってあったし、教えてくれた人が、間違えていたこともあった。そういうときは、漢字の読み間違いや英単語の発音のまちがいなど、一度訂正されたら、二度とその間違いは繰りかえさないように、情報はきちんと更新されていくのだ。

わたしのなかで情報が更新されることはなかった、というのは、おそらくそういう呼び方をしてはいけない、という強い意志が生まれなかったからにちがいない。「××のババア」は、実際「××のババア」と呼ぶにふさわしい、と言ったら言い過ぎかな、少なくともわたしにとっては「××のババア」とでも密かに呼びたくなる人だったのだから。「ラブリエさん」を「ラブリエさん」と呼びつづけているのも、おそらくはそうしたい意志がどこかに働いているにちがいない。


いま、以前ブログでちょっと書いた石川啄木の話を書き直していて、「真の名称」を使おうと思って書きかけていたのだが、どうもうまく入らなくて、多少内容を変えてこちらに使い回した。もしかしたら、また上の引用の部分は、本文に復活させるかもしれないので、そのときは似たようなものをまた読ませてしまうことになるかもしれない。

いつもいつもすいません。
だがここは同じようなもの、似たり寄ったりなものを何度も何度も読ませてしまうブログなのである。あきらめておつきあいのほど。
ともかく石川啄木の話はうまくいけば明日、更新できるかもしれません(ちょっと及び腰)。